2011年12月31日土曜日

大晦日 - 高校サッカー1回戦

清水商業と清水東といえば、全国でもサッカー強豪校として有名ですが、地元ではそれぞれ清商(きよしょう)、清高(きよこう)と呼ばれるライバル校です。共に多くのJリーガーを育てていますが、清商が、名波、藤田、小野伸二など日本を代表する名選手を生み出しているのに対し、清高は大木、反町、長谷川、相馬などJリーグチームの監督を輩出しているのが特徴です。清高は伝統的に水色か青色単色に襟だけ白のシンプルなデザインですが、清商のユニフォームが青を基調に赤と白を配したトリコロールカラーです。
そのトリコロールカラーが全国大会に11年ぶりに戻ってきました。定年退職となる大滝監督にとって最後の采配となる大会であるとともに、2012年度末で学校再編により閉校となる同校にとって、清水商業の名で全国で戦う最後となるかもしれない大会です。会場は、埼玉スタジアム。第一試合は地元浦和東の登場で、スタジアムは大いに盛り上がりましたが、第二試合は、それを上回る観客数で、サッカーの町清水を改めて実感しました。対戦相手熊本県代表ルーテル学院も清商同様堅守速攻のチーム。両キーパーも好セーブを連発しましたが、ともに攻撃に厚みを欠き、無得点もまま後半ロスタイムに。清商風間を起点としたサイド攻撃から終了間際に清商が決勝点をあげ、辛くも勝利しました。清商主将の風間宏矢は元日本代表の風間八宏氏の次男。前評判通り、先輩の名波を思い起こさせる柔らかなプレースタイルの素晴らしい選手でした。清商のもう一人の注目選手はGKの志村選手。身長168cmというキーパーとしては超小柄。ゴール前、身長のハンディキャップをジャンプ力で補っていましたが、もう少しプレーを見てみたい選手でした。ロスタイムが30秒短かったら、これらの注目選手が一回戦で消えていたかもしれなかったわけです。今大会は、1回戦16試合中6試合がPK戦での決着となりました。いかにも多過ぎます。せめて、40分ハーフの試合形式(準々決勝まで)を45分ハーフに変更することは出来ないでしょうか。この変更により、PK戦という惨酷な決着の付け方の頻度がかなり減ると思うのですが。
思いつくままに書き綴っているうちに、あと1時間で2011年が幕を閉じようとしています。日本にとって、辛く悲しい1年でした。来年はみんながその悲しみを乗り越え、ともに手を携えて日本の未来を拓いていく年になって欲しいと願っています。良いお年をお迎え下さい。

2011年12月25日日曜日

Here Comes The Sun

冬の寒い朝、何故か口ずさんでしまうのが、ビートルズのHere comes the sun。特に憂鬱な時は、冬の弱々しい陽射しを見上げながら、「it's alright」と口ずさむと元気づけられる気がします。この曲は、ジョージの曲です。ジョージといえば、While My Guitar Gently WeepsかSomethingでしょうが、この曲も大好きです。ビートルズ内のゴタゴタに疲れ果てたジョージが、スタジオを抜け出して、親友のエリック・クラプトンの家の庭で日向ぼっこしながら作った曲だと言われています。ちなみに、クラプトンは、ジョージの求めに応じてWhile My Guitar Gently Weepsのレコーディングに参加し、見事にギターを偲び泣かせる名演奏を行っています。また、クラプトンからパティ(ジョージの当時の奥さん)への恋心を告白されたジョージは、「いいよ」とあっさり奥さんを譲ってしまったという不思議な関係でもありました。(ミック。ジャガーやジョン・レノンも「パティ・ボイドに魅かれていた」と語っており、魅惑的な女性だったようです。)
Here Comes The Sunは、アルバムAbbey Roadの収録曲ですが、「It's been a long , cold, lonely winter」とか「I see the ice is slowly melting」といった早春の季節感が日本人の感性に合ったのか、日本だけでシングルカット(写真)されています。
この頃のビートルズはよほど複雑な人間関係だったようで、もともと人づきあいのよいリンゴすら疲れ果てて「静かな海の底で暮らしたい」とOctopus' Garden(同じAbbey Roadに収録)の中で歌っています。もっとも、自らストローで水をブクブクさせて、海の中の効果音を演出するなど、あくまでリンゴらしい明るい曲に仕上がっていますが・・・。
♪ Here comes the sun, doo da doo doo
  Here comes the sun, a
nd I say it's alright
      ..............................
      ..............................
  Sun, sun, sun, here it comes
     Sun, sun, sun, here it comes
今年は、日本にとって悲しく、辛い年でした。でも、見上げるとそこには弱々しくはありますが、暖かさを湛えた陽の光が輝いています。

2011年12月18日日曜日

クラブW杯決勝 - バルサ劇場

至福の時というのは、往々にして速く過ぎ去るように感じるものですが、特に今日はとてつもなく速く感じました。前後半1分ずつというアディショナル・タイムもあまりに短すぎました。まさに冬の一夜の美しすぎる夢。サッカーのゲームとしては一方的過ぎて緊張感に欠けましたが、バルサ劇場は余すところなく堪能することが出来ました。TV観戦とスタジアムでの観戦とでは、それぞれの楽しみ方があります。個々の選手の個人技を見極めようとすれば、TV観戦。スタジアムでの観戦、なかんずく、日産スタジアムでのトラック越しの観戦では、細かいタッチまで追うことは出来ませんし、勿論、スロー再生を見ることは不可能です。一方、たとえ、イニエスタとシャビの判別が難しい距離感の中でも、スタジアム観戦では圧倒的な臨場感を味わうことが出来ます。また、TV観戦では見渡せないオフ・ザ・ボールの動きやピッチ全体のフォーメーションをじっくり楽しめるのがスタジアム観戦です。と思っていましたが、家に戻ってから録画ビデオを再生してみると、バルサに限っては、多少修正せざるをえませんでした。驚くべきことに、かなりの時間、TV画面にバルサの選手が10人収まっているのです。美しい陣形です。斜め30度に綺麗にラインを形成してワンタッチパスを繋ぐ様は、ラグビーのようです。壁パスを多用して切込む様は、まさにバスケットボール。ペナルティエリア内の浮き球のラストパスからのシュートは、ハンドボール。「中央でボールを受けて反転出来ない場合は、パスの出し手に戻して、3m移動してから壁パスをもらい、そのまま30度の角度でサイドに散らせて、スピードアップして縦に10m走って、クロスボールを受ける」このアメフトのようなフォーメーションですが、実は100以上あるバルサのフォーメーションパターンの一つだと言っても、信じて頂けるのではないでしょうか(勿論、想像です)。それほど、何の迷いも淀みもない流れるようなパス回しでした。理想のサッカーがそこに展開されていました。決して、圧倒的な運動量がある訳ではありません。ふらふらと歩いている選手が目立ちます。それでも、的確なポジショニング故にパスが繋がります。そして、ボールを奪われるや、まるで、遊び道具を取り上げられたブルドッグのように猛然と奪い返しに群がり、そのスピードは一変します。ゴール前でも然り。結果として、南米王者相手にボールキープ率70%以上の徹底したゲームコントロール。90分間圧倒され続け、消耗し尽くしたのは、サントスのイレブンだけでなく、6万8千人の観客も同様だったと思います。息も絶え絶えです。ということで、バルサの強さについては、また次回に。この至福の機会を譲って下さったDr.Kに改めて感謝。(写真はシャビの2点目の後喜ぶバルサイレブン)

2011年12月15日木曜日

FIFAクラブW杯準決勝 - 御礼10,000アクセス

クラブW杯準決勝柏vsサントス。柏が万が一勝つとしたら、むしろ早い時間に失点し、サントスに余裕を持たせて時間をつぶしながら、終了間際にセットプレーから追いつき、延長戦を守り切ってPK戦、と考えていましたが、サントスのスーパーゴール3連発がその淡い期待を見事に打ち砕きました。ボール支配率、シュート数で上回りながら、個人技、シュートの精度での大きな差。しかし、臆することなく、自らのサッカーで立ち向かうという絶対に勝つ見込みのない戦法で戦った柏はある意味で立派でした。これを隙を見せることなく、確実に突き放したサントスは、さすがに南米王者。ネイマールの1点目(写真)をはじめとし、サントスの3点はいずれも高い個人技からのスーパーゴール。足の裏を使ったフットサルのようなボールの扱いは新時代のサッカーを感じさせました。また、強く印象に残ったのは、攻撃・守備の両面での的確なポジショニング。味方のパスを正確に予感しての走り込み、相手のパスコースを予測しての守備の位置どり。ゲームを支配するのは、ボールの支配率ではなく、オフ・ザ・ボールの動きであることを思い知らされました。
ところで、ふと気がつくと、ブログのアクセスカウンターが5桁となっていました。10,000アクセス突破はおそらく13日(火)と想像されます。2008年9月15日にブログをオープンしてから3年3ヶ月。1日当たり8名強の方に閲覧頂いた計算になります。有難うございました。厚く御礼申し上げます。アクセス履歴をみると、マレーシア、ロシアから定期的にアクセスがあり、イギリス、ドイツ、ウクライナからも閲覧して頂いているようです。インターネットが如何に世界を小さくしたかを身をもって感じます。
第1回のブログ(クリックで閲覧)は、北京オリンピックでの男子サッカーの惨敗を嘆いて、世界との距離がまだまだ遠く、まずはJリーグから盛り上げてサッカー文化を高めていかなければならないと綴っています。その北京五輪惨敗組の主力だった本田、香川、長友、内田、岡崎、吉田、細貝、安田、森本は今や海外に活躍の場を移し、Jリーグ王者柏が南米王者相手に互角の勝負を挑むまでになっています。世界のトップは逃げ水の様になかなかその距離を縮めさせてくれませんが、この3年間日本のサッカーは着実にレベルアップしている様です。

2011年12月11日日曜日

FIFAクラブW杯準々決勝 - 攻め

FIFAクラブW杯が3年振りにUAEから日本に戻ってきました。開催国出場枠とともに。日本チームは2007年浦和レッズ、2008年ガンバ大阪と2年連続3位の栄冠に輝いたものの、ここ2年は大会出場を逃していました。Jリーグ王者柏レイソルは、中2日、8日間で3試合という厳しい日程にも拘わらず、見事な戦いぶりでした。PK戦での勝利は気迫で勝ち取ったもの。120分走り続けたことに対する、正当な報酬でした。前半は、モンテレイの分厚い攻めに押し込まれ、得意のカウンター攻撃を仕掛けることすら出来ませんでした。逆に攻め上がった守備陣の裏を狙われ、スピードに乗ったカウンターに再三ゴールを脅かされました。柏は体を投げ出しての守備でよく持ちこたえました。普通であれば、ハーフタイムの監督の指示は「よく守った。後半も守備を固めて、カウンターを狙え。必ずチャンスはくる」といったところでしょうが、ネルシーニョ監督は「何をビビっているんだ。もっと押し上げろ」とSBの橋本に怒気を込めた叱責。格上相手にこの無謀とも言える「攻め」の指示が、後半以降柏がゲームを支配し続けることに繋がりました。後半モンテレイの運動量が落ちることを見越しての指示だったとしたら、さすが名監督です。後半12分、わずか3本のパスでスアソにゴールを奪われしまったのは、攻めの姿勢がはらむ已むを得ない代償。それにしても、前半にみせたモンテレイの個人技の高さとスピード溢れる攻撃は、これぞ世界でした。柏もスピードが身上のチームですが、パス選択の速さとカウンター時の押上げの速さにはモンテレイに学ぶべき点が多々ありました。パス選択の速さは、いくつかのシナリオの中から最も可能性の高いオプションを選択する判断の速さに通じ、押上げの速さも、リスクとチャンスを瞬時に計算する判断の速さに通じます。要は、判断の速さ。判断の速さといっても、考える速さではなく、感じる速さ。これは、日頃のJリーグの戦いでチームとしての感覚を研ぎ澄ましていくしかありません。豊富な運動量では恐らく世界水準のJリーグ。次の課題はスピードです。
かつて、世界水準の判断のスピードを有していたJリーグチームがありました。名全盛期のジュビロ磐田。名波を服部、福西、奥、藤田という4人のタレントが囲むいわゆるN-Boxに、前線のゴン、タカが絡む緩急自在な多彩な攻めは華麗そのものでした。2001年第2回クラブW杯。ジュビロ磐田はアジア王者として出場予定でしたが、運営を委託されていたISL社の倒産で中止に。世界がまだまだ遠い時代でしたが、出場していたら、きっとサプライズを惹き起していたのにと今でも悔しく思っています。

2011年12月7日水曜日

Good Morning, Hong Kong

朝が好きです。特に日の出には妙に惹かれます。中学卒業まで新聞配達をしていたせいかもしれません。旅行や出張の旅先では、早く起きて日の出を眺めながら散歩をするのが常となっています。香港の朝(写真上・ブルースリーの銅像越しに九龍から眺望する香港島)は靄っていて日の出を見ることは出来ませんでしたが、ヴィクトリアハーバーのボードウォークをジョギングする人達が行き交い、その中で如何にも自己流の妙な動きの体操をする人達と、この街の独特の雰囲気を感じることができました。The Dock of the Bay(ブログへのリンク)の音楽が似合う風景をもう一つ見つけることが出来ました。
もうひとつの旅先での楽しみは、朝食の美味しいお店を探すこと。前日に目星をつけていたお粥のお店が開店しておらず、暫くうろうろして見つけた丸椅子だけの小さなお店が新源中華麺飯饗応。旅行者が入りそうもない地元の店かと思ったら、店内には英語表示に加えて、日本語表示が。写真下がその中の1枚。「No Photo」となっているのですが、余りに見事なボケぶりに思わずパチリ。「リ」と「ソ」、「テ」と「ラ」、「シ」と「ミ」、「ウ」と「ワ」の間違いは基本ですが、これだけ見事にはずしてくれると、受け狙いの意図的なものを感じます。この応用編が「「えでりンタン麺」(=えびワンタン麺)。最大の難解メニューは「チセサ牛バブ肉煮マみコ飯=Curry Beef Brisket w/Rice」。色々考え、「千切牛バラ肉煮込みご飯」と推理しましたが、ここまでひねりをきかせて来る香港の笑いのセンスに脱帽。世界はユーモアとウィットに満ち溢れています。

2011年12月3日土曜日

宗谷物語

キムタク主演ドラマ「南極大陸」はかなり人気を集めているようですが、そのドラマに出てこない越冬隊秘話。越冬隊員の新婚の妻から越冬中の夫への電報。南極に送る電報代の余りに高さに、妻が考え抜いた究極の3文字電報・・・・「アナタ」。初代南極観測船となった「宗谷」は、数奇な運命を辿った船でした。今回は、インターネット検索で調べた結果を繋げた宗谷物語を。「宗谷」は戦前ソ連からの注文で耐氷型輸送船として日本で建造されましたが、ソ連との契約問題がこじれ、結局、日本帝国海軍が買い上げ、測量などを任務とした特務艦となりました。大戦中は、輸送船としてミッドウェー、ガダルカナルなどの死地に多数の兵士を送り込む役目を負うこととなります。宗谷自身は、友艦の多くが撃沈される中で、南洋で米国潜水艦の攻撃を受け、魚雷が命中したにも拘わらず、幸い不発弾だったり、横須賀で戦艦長門や病院船氷川丸とともにドック入りしていた際、空襲にあい、投下されたガソリンタンクが命中するも、ボイラーに火を入れていなかった為に被害を免れるなどして、無事終戦を迎えました。その為、「奇跡の船」と呼ばれました。
玉砕地への兵士輸送という辛い戦役を終えた宗谷は、終戦後その罪を償うかのように引揚船として活躍し、2万人近い引揚者の命を救いました。その後、日本各地の灯台に物資を運ぶ灯台補給船の任務を与えられ、灯台守の子供達に本やオモチャも運んだことから、海のサンタクロースとも呼ばれました。そんな境遇の宗谷に初代南極観測船の大命が下ったのは、もともと耐氷型輸送船として建造されていたことに加え、2度の被爆を無事に切り抜けた強運が決め手となったと言われています。
宗谷は、計6回の南極観測船としての任務を遂行した後、海上保安庁巡視艇としての通常任務に戻り、1978年、41年間に及ぶ任務を終え、現在はお台場海の科学館前に係留されています。

2011年11月30日水曜日

やっぱり、沢 - INAC対アーセナル

清々しいチームというのがあります。例えば、Jリーグ加入時のジュビロ磐田、オシム時代のJEFユナイテッド千葉、・・・。
アーセナルと震災復興支援チャリティマッチを行ったINAC神戸(写真)は「清々しい」という言葉がピッタリのチームでした。7cm以上も平均身長で差がある相手に対して、臆することなく正面からぶつかり、持ち前のパスサッカーを貫く戦いぶりは男子サッカー以上にサムライの心意気を感じました。そして、後半ロスタイムまで走り抜く精神力とスタミナ。デコイラン(おとりの動き)でさえ全速力というひたむきさには、素直に心を動かされました。高校サッカーの無垢なひたむきさとはまた一味違う、極め抜いたひたむきさとも言うべきもので、精神美すら感じました。
お目当ての川澄ちゃんはなかなかボールに絡めませんでしたが、一瞬のスピードは群を抜いており、さすがでした。ザッと数えただけでも5度の決定機を決め切れなかった大野でしたが、それだけいいポジショニングだったということ。そして、結局は沢です。普段は気配を消して漂っているのですが、攻撃でも守備でも、ここぞという時には必ずボールに絡んできます。男子選手に例えるなら、遠藤と全盛期の藤田を足して2で割らない感じ。また、押し込まれた悪い流れの局面では、自らドリブルで攻め上がり、一瞬にして局面を逆転させてしまいます。ゲームコントロール力(りょく)とも称すべきこの能力は比較する選手を知りません。本当に偉大な選手です。
試合は1-1のドロー。11,005人の観客は、秋空のように爽やかな感動を胸にスコア以上の満足感を抱いて家路についたものと思います。本当にいい試合でした。
ところで、MVPにはDF4人をドリブル突破でかわして先制ゴールをあげたチ・ソヨンが選出され、副賞のトヨタヴィッツを獲得。沢や川澄は既にアウディを貰っていることだし、こちらもいい結末でした。(でも、チ・ソヨン免許持っていなさそう)

2011年11月27日日曜日

Missing Pieces - U-22シリア戦

火曜日に行なわれたアウェーでのバーレーン戦は、実は当初水曜日に予定されていました。しかし、時差ぼけ解消の時間を出来るだけ取ってシリア戦に臨みたいという思惑から、日本サッカー協会がバーレーンの同意を得て、日程変更を行ったものです。それだけ、このホームでのシリア戦は五輪出場権獲得の為に重要な試合だった訳です。ところで、バーレーン戦。アウェーでの勝利はそれだけで十分に賞賛に値しますが、チームの勝利というよりは、選手個々の勝利とも言うべき内容で、いまひとつしっくりきませんでした。チームとしての意思統一はバーレーンの方が明らかに上でした。バーレーンの組織の網の目を日本が個人技でかいくぐって勝利をもぎ取った感があり、シリア戦に向けて不安を残した試合運びでした。このチームにはまだ何かが欠けていました。
さて、シリア戦。ゲーム開始前、ちょうど目の前でシリアがシュート練習をしていましたが、何とも緊張感の無い粗いシュートで枠を外しまくっていました。これはいけるかなとニンマリしながら日本の方を見てみると、こちらも似たり寄ったり。高校やユースの頃は「シュート練習は枠を外すな」と教えられていたはずなのに。結果はそのシリアのシュートミスに救われての辛勝。再三シリアにゴールを脅かされる展開に、観戦していて、同点にされた時には、負けさえ覚悟しました。救い主はボルシアMGの大津。勿論、決勝ゴールのダイビングヘッドは見事でしたが、それ以上に評価すべきは、同点に追い付かれた直後に、自陣右タッチライン沿いでタックルでボールを奪い、倒されながらも前へ前へと突き進んだ気迫あふれるプレー。消えかけたチームの闘志に再点火しました。所属クラブの伝説の闘将、ベルティ・フォクツのプレーを彷彿とさせました。このチームに欠けていたピースのひとつが埋まりました。そして、後半アディショナルタイムの日本のCK。何の策もなくゴール前に放り込み、シリアのカウンターを食らいかけました。当然、ショートコーナーでコーナー付近でキープし、時間稼ぎをすべきところ。この辺りのゲームコントロールを行い、チームを落ち着かせる存在が、チームに欠けているもうひとつのピースです。

2011年11月19日土曜日

Golden Slumbers - 浜名湖でのクラス会

写真は海外のリゾート地のように見えますが、浜名湖湖畔のホテルのベランダからのショットです。左下がプール、その先の2つの水面はゴルフ場の池、一番上の水面が浜名湖です。ここ数年恒例になった高校のクラス会を今回は首都圏と関西の中間、浜松で行いました。理数科という当時出来て間もないクラスで3年間を一緒に過ごしたクラスメイト達です。教室で雑巾を丸めて室内サッカーをやったり、トランプを何回没収されても性懲り無くナポレオンをやっていたりで、「史上最低の理数科」とか「天然記念物」とかいう有り難くない称号を頂いたクラスでした。しかし、大変な人材の宝庫だったということが、今になって判ります。卒業後30年を過ぎた頃から頻繁に再会を重ねるようになったのは、単に懐かしさ故だけではなく、出会いによってチカラをもらえるが故だと思います。
Golden Slumbersというビートルズ末期の曲があります。同名の邦画のテーマ曲にもなりました。11枚目のアルバムAbbey Roadに収録されています。このアルバムは「昔に戻って、またコンサートツアーをやろう。昔のようにオーバーダブをせずに曲を作ろう」というポールの呼びかけで「昔に戻る」ことをコンセプトに製作されたものです。しかし、既にメンバーの気持ちはバラバラ。実際、このGolden Slumbersのレコーディングにはジョンは参加していません。この曲の歌詞は16世紀の子守唄がベースになっていますが、ポールはオリジナルの歌詞でこう始めています。「Once there was a way to get back homeward(かつては家に戻る道があった)」残念ながらポールの呼び掛けは功を奏さず、まもなくビートルズは解散することになります。そういえば、最後のアルバムLet It Beの最後の曲もGet Backでした。時の流れに抗して昔に戻る(=Get Back)ということは不可能なのでしょう。時とともに全てが変化します。想い出以外は。人は美しい想い出に戻ろうとしますが、既に戻る場所は失われているのです。ただ出来ることは、想い出を重ねていくこと。そして、同じ想い出を作り、分かち合っていける仲間がいることは何よりも幸せです。「あの日」には帰れませんが、今日をその「あの日」に変えることは可能なのです。
写真の右上で輝いているのは生まれたての朝日です。ホテルの部屋の中では、齢を重ねてちょっと髪の毛が薄くなったオジサン達が、前日の夜更けまでの宴会疲れでGolden Slumbers(黄金のまどろみ)の真っ只中にいました。

2011年11月16日水曜日

いくつかの疑問符 - 北朝鮮戦

敗れたからというのではなく、何かしっくりとこない試合でした。疑問符の多い試合でした。まず、鄭大世の前半途中での交代。負傷したわけでもなく、不可解な交代です。日本選手とのやりとりが監督の琴線に触れたのかと勘ぐりたくなるエースの交代でした。ただ、これが結果的には大当たり。交代で入った7番が日本の守備を撹乱し、得点の起点にもなっていました。タジク戦から先発6人を入れ替えたザッケローニ采配は当然。消化試合である以上、控えの選手を試すとともにアウェーのプレッシャーを経験させたのは妥当な作戦だったと思います。序盤北朝鮮に押し込まれる展開に、憲剛の位置どりを下げて中盤でタメを作り試合を落ち着かせようとしたのも肯ける采配。憲剛に遠藤の役割を期待したわけですが、かえって前線との距離が間延びし、機能しませんでした。遠藤に代わる選手がいないという課題が浮彫りになった試合でした。 後半残り30分、その憲剛に替えて内田を投入し、3-4-3にシステムチェンジ。これまで結果がでていない3-4-3をこの場面で試すこだわりは、このゲームを文字通りテストマッチとして位置付けるザックの割切り故か、冷静さを欠いた采配か?試合後のインタビューでの表情を見ると、さすがのザックもスタジアムの異様な雰囲気に飲まれていたのではないかと思えました。ハーフナー、李の投入で得点への執念を見せたものの、清武を下げた段階で攻撃の起点を失った日本代表は、ゴールへ向かう道筋を自ら閉ざしてしまいました。
ザッケローニジャパンの不敗記録は途切れてしまいましたが、これで代表の先行きを不安視する必要はないと思います。早い段階で、伊野波の左サイドを手当し、20番を抑えたり、遠藤を投入して、タメを作るゲーム運びをしたりしていれば、いきり立つ北朝鮮をいなす試合運びが出来ていたと思います。タジキスタン戦で浮かれていたところに、控え選手の底上げとレギュラー陣とのコンビネーションの醸成、遠藤の代役の育成という課題を改めてつきつけられたのはむしろ幸いだったかもしれません。個人的にも、代表戦の日恒例の験担ぎだった豚カツの昼食を怠ってしまったのは、大きな反省材料です。それにしても、鄭大世の前半途中交替は大きな疑問符。

2011年11月12日土曜日

北の国から - タジキスタン戦

新潟の反町監督ファン、反町姫から北の国からのメールを頂きました。「新潟は冷たい雨が降る季節になりました。晴れの日がなくなってくるのは、冬が近い証拠です。あっちこちにハクチョウがコシヒカリの落穂を拾いに来ています。アルビ君の姿が見えると『ああ、今年のリーグ戦も仕舞いだ』と思ってしまいます。」(注:アルビ君=白鳥)こんな文章を読むと日本人の繊細な感覚の素晴らしさと日本語の美しさを実感します。日本人であることに感謝する一瞬です。
さて、もうひとつの北の国からの便り、タジキスタン戦。Hub吉祥寺店(写真)で観戦しました。サッカー検定認定証呈示で5%割引という数少ない(唯一の?)特典を受けられるお店です。もっとも、10%割引のクーポン券を配っていましたが・・・。ともあれ、タジク戦。前半は、凸凹のピッチに足を取られて、ラストパスの精度を欠いたり、シュート前のトラップがうまくいかなかったりで、シュートまで持ち込めない苦戦が続きました。それを打開したのが、今野。自陣でのタックルでボールを奪った今野がドリブルで攻め上がって、香川に預け、壁パスをもらう為にペナルティエリアに侵入するも、香川からのパスはマイナス方向で長谷部に。ゆっくりと自陣方向に引き上げる今野が何を思ったか、ペナルティエリアの外で立ち止まっていました。そして、憲剛のシュートシーンに猛然とこぼれ球を狙ってダッシュ。今野代表初ゴールは今野らしからぬリスクを負った攻め上がりからの得点でした。後半の3得点は、タジクの足が完全に止まり、プレスがルーズになったが故。パスやトラップの際の余裕が生まれ、ボールコントロールを修正する時間が出来た為です。最終予選の相手は、こんな余裕を与えてくれないでしょう。もっとも、ロスタイムでの4点目は文句なし。香川→清武→香川→清武→前田→清武→岡崎 Gooooal!!!。相手の選手も思わずみとれてしまうようなダイレクトパスで描かれた美しい幾何学模様。タジキスタンからの便りは抑揚のない多少退屈な文章で綴られていましたが、最後は魅惑的なキスマークXXXXで締めくくられていました。

 

2011年11月9日水曜日

When I'm Sixty-four

スランプからの脱出法は、「来た球を、打つ!」ということで、ここ数日頭の中で繰返し流れているビートルズの"When I'm sixty-four"について、徒然なるままに書き綴ってみようと思います。
この曲はポールが作詞・作曲した曲で1967年にリリースされた「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band」のアルバムに収録されています。ちょうど64歳だったお父さんに捧げた曲と言われています。(「親孝行なビートルズ」というのはちょっと笑えます。)とは言え、曲自体はポールが10代後半に作って、デビュー前から歌っていたようです。その曲をお父さんの誕生日に引っ張り出してきたという訳です。「僕が64歳になって、髪の毛が薄くなっても、君は僕を必要としてくれるかい?僕の為に食事を作ってくれるかい?」と恋人に問いかけ、「君は暖炉の側でセーターを編み、僕は庭で土いじり。これ以上の幸せはないよ。夏にはワイト島に別荘を借りよう。あまり高くなければね。君は孫を膝に乗せて・・・。ベラとチャックとデーヴだ。」と続きます。何ともリアルなこんな詞を十代で書いてしまうとは、ポール恐るべしです。ただ、ここまでの妄想は男の子には無理ではないでしょうか。当時付き合っていた女友達の他愛ない冗談話が元ネタになっているのではと想像しています。小坂明子の「あなた」って感じで。
当のポールは64歳の時は2度目の奥さんとの離婚を宣言して離婚調停中でした。なかなか歌通りの幸せな人生という訳にはいかないものと思っていたら、古稀を前にした69歳の今年、3度目の結婚を果たしています。やはり、只者ではありません。
ところで、この曲は映画「ガープの世界」のテーマ曲となっているようです。原作は村上春樹が好きな(私も大好きな)米国の作家ジョン・アーヴィングです。世界は色んなところで繋がっています。彼の作品の中でも「ホテル・ニューハンプシャー」は特にオススメです。
それにしても、64歳。ポール(もしくはポールの元カノ)程のイマジネーションが無くとも、十分想像出来る歳になってしまいました。(村上春樹風に)やれやれ・・・。(写真は六本木Abbey Road店内に飾ってあるオブジェ)

2011年11月6日日曜日

長嶋茂雄伝説 - スランプ脱出法

渋谷宮益坂の裏通りに佇む老舗のビストロの壁に、ON揃い踏みのお宝サイン色紙(写真)が飾られています。お二人に「一枚の色紙に」とお願いしたところ、長嶋さんは迷うことなく色紙の真ん中にサイン。王さんは苦笑しつつも、律儀に色紙の端っこにサインしてくれたとのことです。両氏の性格がよく表れている色紙です。ONといえば、かつて「バッティングフォーム、おかしいんじゃないの」という野村捕手のささやき戦術に、王選手は考え込んで三振。長嶋選手は「えっ、そう?」と打席をはずして、2度、3度素振りをしてから、「ありがとう」と言ってホームランというこれまた対照的なエピソードがあります。稀代のスーパースター長嶋茂雄氏は、エピソードというか伝説に事欠かない人物です。ベースを踏み忘れて、アウトになったり(しかも3回も)、ホームランをふいにしてしまったり。幼い頃の一茂を後楽園球場に忘れてきてしまったとか、ストッキングが片方無いと騒いでいたと思ったら、片足に重ねて履いていたという話は有名ですが、他にも、ゴルフがらみで、その天真爛漫ぶりが如何なく発揮されている長嶋伝説があります。ビートたけしをゴルフに誘っておきながら、朝、ゴルフ場で会って「たけしさん、今日はゴルフ?誰と?」車でゴルフ場に向かっていると道路の右側にあるはずのゴルフ場がない。しばらくして、左側だったのを思い出して、Uターンをし、今度は道路の左側を探したので、当然、見つからなかった。そんな長嶋氏もスランプに陥り、悩むことが多々ありました。入団間もない頃、スランプに悩んだ長嶋は、立教大学時代の恩師、砂押監督宅に押し掛けて教えを乞い、翌日の国鉄戦でホームランを放ち、見事スランプ脱出。ちなみにその時の国鉄の監督は当の砂押監督。敵チームの監督にコーチを受けに行く方も行く方ですが、教える方も教える方。長嶋が長嶋である由縁であり、長嶋の不思議な人徳のなせる技なのでしょう。ここのところ、なかなかブログの筆が進まず、スランプ状態にあります。長嶋は、スランプの掛布の相談を受けて、こう答えたそうです。「来た球を、打つ!」なるほど。

2011年10月27日木曜日

ヒデの遺したもの

昨日のスポーツ紙Web版に、以下のような記事が掲載されていました。「J2湘南は26日ホーム京都戦(平塚)の試合前にエキシビションマッチを開催した。クラブOBの中田英寿氏(34)らから構成されたベルマーレレジェンドと、芸能人からなるSwervesが対戦。中田氏のキラーパスも出て、ベルマーレレジェンドが2-1で勝利した。(中略)中田氏は古巣の試合は観戦せず、さっそうと競技場を去った。」記者は「さっそうと」ではなく、「さっさと」と書きたかったんでしょうね。言わぬが花の最後の文章に記者の思いが込められているような気がします。「そりゃ、ないよ、ヒデ」というのが記事を読んでの感想でした(湘南も中田のサポートを失って、京都に0-1の敗戦でした)が、湘南のHP(写真)で確認してみると、予告メンバーにはヒデの名が無く、サプライズゲストだったようです。きっとスケジュールの合間を縫っての友情出場なのでしょうが、とかく誤解を招きがちな中田らしいエピソードです。思い出されるのはアトランタ五輪のグループリーグ第2戦ナイジェリア戦。マイアミの奇跡ブラジル戦勝利の後、決勝トーナメント進出に向け鍵となるゲームでした。前半を0-0で折り返したロッカールームで、勝利を目指す中田は攻撃の為にDF陣の押上げを要求します。その発言に、守備的な戦い方で引分け、勝ち点1を狙う西野監督が激昂し、チームに亀裂が生じます。ワールドユースでナイジェリアと戦い、勝てる相手と肌で感じていた中田に対し、ブラジル戦での疲労が残るDF陣を眺め、引分け狙いという現実的な戦法を選択した西野監督。故松田選手も「中田の意見に賛成したかったが、監督に逆らうのはどうかと思った」と回顧していました。結局、チームとして崩壊した日本は、後半2失点を喫し、0-2の敗戦。第3戦のハンガリー戦は、中田をはずした布陣で臨み、3-2で勝利したものの、得失点差でブラジル、ナイジェリアに及ばず、決勝T進出を逃しています。二十歳前のこの頃から中田は孤高のプレーヤーでした。
その後の中田の世界的プレーヤーへの軌跡は周知の通りです。奥寺という先達はいますが、日本のサッカープレーヤーに海外リーグへの道を拓いたのは間違いなく彼です。ジョホールバルの歓喜での3アシストに象徴されるように、日本が世界への扉をこじ開ける為には彼の力が必須でした。ウェブという媒体を通じてピッチ上の戦いを選手の視点で世界中に直接発信し、マスコミに挑戦状を叩きつけたのも彼でした。チャリティー事業を企画したり、菓子メーカー東ハトの執行役員を務めるなど、サッカー選手の活動の枠をスポーツ以外の領域にまで広げた彼の功績は、今後の歴史が更に評価していくことでしょう。彼の遺した偉大な足跡を顧み、未だ自分探しの旅の途上にあることを考えると、後輩達の試合を観なかったことを咎めるのは、正当な批判とは言えないかもしれません。

2011年10月26日水曜日

ビートルズが教えてくれた

先週末いつものAbbey Road Lonely Hearts Club(勝手につけた名前です)のメンバーとThe Parrotsのライヴを満喫して参りました。今回は、Oさんの還暦祝いも兼ねていたので、参加者9名の大所帯。お店自体も初回ステージから満席状態。女性客が多かったせいか、ステージは一段と盛り上がり、A Day in the Lifeのエンディングのうねりは、琴奨菊にがぶり寄りをされているような錯覚を覚える大迫力の演奏でした。
さて、36年前の今日、外貨獲得に貢献したとして、ビートルズに大英帝国勲章(Order of the British Empire:写真)が授与されました。Orderは「勲章」と日本語訳されていますが、「騎士団」を意味し、5等級の上位2等級叙勲者にはナイトの称号が与えられ、サーの敬称で呼ばれることになります。(マンUのファーガソン監督が叙勲しています。また、のちにポールも叙勲しています。)ビートルズに授与されたのは、最下等級5等級のMBE(団員)。それでも、ビートルズへの叙勲に「リバプール出身のオカッパ頭のいかれた連中に叙勲するのは、勲章の権威を汚すものだ」と武功で叙勲した元軍人などから批判が相次ぎ、ビートルズの叙勲に抗議して863個もの勲章が返却されたということです。
この批判に対して、ジョンは「僕らの叙勲に不満をもらした人たちは、戦争で人を殺して、それで勲章をもらったんだろう。でも、僕らの叙勲は、多くの人を楽しませたことの結果だから、僕たちの方がもらう資格はあると思う」と語っています。そして、ジョンは、4年後、英国のビアフラ内戦への関与、ベトナム戦争での米国支援に抗議して、勲章を返還しています。
ビートルズの叙勲に関しては、保守的な人々からの反対以上に、反体制派の当時の若者ファンからも相当な批判があったはずです。それでも、あえて叙勲を辞退しなかったのは、ジョンが語っているようにビートルズなりの社会へのメッセージだったと思います。
吉田拓郎は「ビートルズが教えてくれた」の中でこう歌っています。
♪ 勲章を与えてくれるなら
  女王陛下からもらってしまおう
  女王陛下はいい女だから
  つきあってみたいと思う
  それも自由だとビートルズは教えてくれた
その当時「本当の自由とは何なのか」ということをビートルズは伝えていたのだと思います。
時代の変わり目には、その時流の霊降者のような人物が時として現れることがあります。時代がその人を生みだし、時代の福音をその人の口を通じて語らせる。坂本龍馬であり、ビートルズであり、スティーブ・ジョブズであり・・・。たかだか20代の若者4人が残した余りにも大きな影響力は、そのように解釈しなければ、説明できないのではないでしょうか。

2011年10月18日火曜日

上海、Shanghai、シャンハイ

上海を最後に訪れたのは、実に20年以上前です。その間に正にDog Yearの急成長があり、昨年の万博開催で一段の様変わりがあったようです。そこはエネルギーの坩堝のような異次元の世界でした。先ず浦東空港から市内までのリニアモーターカー。最高時速301km。文字通り滑空する感じですが、横揺れが激しく、スリル感さえありました。降車直後は、ジェットコースターから降りた時の感じで、足がふらつきました。もっとも、その後ホテルまで乗り継いだタクシーの方が怖いものがありましたが・・・。後で話を聞いてみると、リニアの最高速度は430km/h(ギネス認定最速陸上交通機関)であり、今日はかなりの安全運転だったようです。(どうも時間帯で最高速度が異なり、お昼前後は低速運転とのことです。)
写真は黄浦江越しの摩天楼群で、現在の金融街です。メタリックな外壁が夕陽の照り返しを水面に映していました。ファインダーから眼を放して振り返ると、そこにはかつて「東洋のウォール街」とよばれた外灘(ワイタン)の旧銀行ビル群が、1920年代の重厚な街並みを留めています。東洋と西洋が出逢い、近代と近未来が接する都市がShanghaiなのです。圧倒的にエネルギッシュなパワーをみなぎらせながら、上海はどこに向かっているのでしょうか。
ホテルに戻ってホテルのLAN経由インターネットに接続してみると、BlogもFacebookもTwitterも接続不可。やれやれ。シャンハイは何処に向かっているのやら。

2011年10月13日木曜日

タジキスタン戦余話 - ラフィコフ監督

タジキスタンのラフィコフ監督(写真)は、弱気というか、謙虚というか、試合前から何度も日本の強さを強調し「勉強に来た」と発言していました。「勝負の世界だから勝つのを目指さないチームはいない。ただチャンスは100分の1、200分の1、1,000分の1かもしれない」
そして、0-8という大敗を喫した後の記者会見でも、日本を「ビッグなチーム」と表現し、「ほぼベストメンバーで戦ってくれたことに感謝している。何よりも日本に感心したのは、無駄な動きが一切なかったことだ。最後の3分間も全力で走っていた。これには感銘を受けた」と日本代表の姿勢を絶賛していました。ここまでは、よくあるGood Loserの発言。
その後に、クリーンな戦いぶりについて聞かれ、こう答えています。「ラフプレーには走らない、クリーンなプレーを心がけるというのを選手たちは理解している。私たちは日本の選手を怪我させるために来たわけではない。日本はもっと高い目標を置いているチームなので、こんなところで怪我をさせては申し訳ない」
「日本相手に攻撃の選手を入れるのは無駄」とエースFWを来日メンバーから外し、8点取られてもひたすら守備に徹するというように、ラフィコフ監督の戦術は徹底していました。選手にラフプレーを禁じていたというのも十分ありうることです。だとしたら、これは感謝しなければなりません。タジキスタン戦後半2桁得点を期待するTV実況中継を観ながら、試合が早く終わるのをひたすら祈っていました。小野伸二が相手DFの悪質なファウルで左膝靱帯断裂の重傷を負い、シドニー五輪本戦欠場を余儀なくされたばかりか、その後も慢性的な怪我と痛みに悩まされることになったのは、2000年のアジア予選フィリピン戦11対0の試合でした。
クリーンな守備でどこまで日本に通用するのか試すとともに、改善すべき点を見出していく。シリア失格に伴い、期せずして第三次予選の機会を得たラフィコフ監督の考え抜いた戦い方だったのかもしれません。次のホームでのタジキスタン代表の戦いぶりに期待したいと思います。その為にも、ラフィコフ監督の解任がないことを祈らずにはいられません。

2011年10月12日水曜日

タジキスタン戦 - 昴の輝き

北朝鮮代表としてタジキスタンと対戦した鄭大世が「タジキスタンは諦めが早いので、とにかく早い時間帯に先取点を取ってしまうことだ」と吉田麻也にアドバイスしていたそうです。鄭大世のアドバイス通りの展開となりました。前半11分ハーフナーのドンピシャヘッドで先制した後は一方的な試合となりました。プレスはかけない、タックルもしない、ましてや、ファウルで止めることもしないクリーンさ。タジキスタンの余りにもクリーンな戦いぶりはゴール前の日本のFK1本という数字が如実に表しています。これ程クリーンに徹したというよりは、覇気の無いチームは初めて見ました。
とはいえ、代表の出来は出色でした。天空の昴の如く美しい陣形で青い光を発していました。その中でもひときわ輝いていたのが、中村憲剛でした。ベトナム戦でも後半投入されてからチームに心地よいリズムをもたらしていましたが、今回も見事にタクトを振り、チームの攻撃を組み立てていました。駒野への気の利いた落としで、先制点のお膳立てをした後は、自らのゴールも含めて8ゴール中7ゴールに絡む大活躍です。遠藤、長谷部のボランチ陣との連携は慣れたものですが、香川との連携に一層の磨きがかかっていました。香川の右足アウトの1点目は間違いなくザックジャパンのベストゴール。香川のスルスルッという飛出し、超難度のシュートは勿論称賛に値しますが、それを引き出した憲剛のラストパスは鳥肌ものでした。また、後半11分の自身のゴールに人差し指を突き出しながらも控え目に喜ぶ姿には男の色気を感じさせました。憲剛、格好いい。トップ下のポジションにベテランが名乗りをあげてきて、ザックジャパン、ますます面白くなってきました。(写真は吉祥寺スポーツバー麦犬)

2011年10月10日月曜日

ベトナム戦 - テストマッチの意味合い

ベトナム戦、FIFAの区分けでは、International A Match - Friendly Matchということになります。A代表同士の公式親善試合であり、FIFA公認のタイトルには関係しない試合ながらも、FIFAランキング算定の対象となります。日本では、親善やFriendlyの語感が嫌われ、真剣勝負の意味合いを出す為に「代表テストマッチ」という言葉が使われたりします。
ベトナム戦は、テストマッチという言葉に相応しい内容でした。課題の3-4-3の布陣のテスト。藤本・細貝・原口・西川らサブ組のテスト。サブ組に関しては、藤本(写真右)も含め、それなりのアピールはしたものの、先発組への昇格を決定つけるパフォーマンスを見せることは出来ませんでした。むしろ、ピンボールのようなせわしないサッカーに終始し、チェンジオブペースやタメをもたらすことの出来る遠藤や本田の存在の大きさを逆に際立たせた感があります。
3-4-3は機能しませんでした。前線を厚くしながら、その分お互いにスペースを消しあって、攻撃の連動性が失われていました。ポジションがかぶっていたシーンも再三見られました。前線に張った香川は引いたポジションからバイタルエリアに飛びこんでいく持ち味を封印されていましたし、駒野は自らの居場所を見つけられずにいました。3-4-3は、両翼の厚みを増して、サイド突破から攻撃を仕掛けようというシステムですが、あまりにもその基本に忠実すぎて、サイドでノッキングを起こしていたり、肝心の中央が手薄になっていました。課題だらけでしたが、そのような課題を炙り出せるのがテストマッチ。十分意義があったと思います。さすが名将ザッケローニ、しっかりとしたチーム作りをしています。ただ、3-4-3については、選手達がそれぞれの所属チームに戻ると3バックシステムをほとんど経験できないという不安材料があるとともに、阿部・今野といったユーティリティプレーヤーが重用されがちになるという副作用があります。
さて、テストマッチという言葉ですが、ラグビーではフル代表同士の国際試合そのものの呼称であり、現在開催されているW杯もテストマッチということになります。もともと、英国が豪州・ニュージーランドなどの自治領と国際試合をする際に、力量を計るという意味で使ったことに由来しています。したがって、ラグビーファンに言わせると、サッカーで五輪代表の強化試合をU-22テストマッチなどというのは、明らかな誤用ということになる訳ですが、サッカーがラグビーと袂を分かってから既に150年近くになるのですから、言葉遣いが異なってきても当然であり、目くじらをたてる程では無いのでは?

2011年10月6日木曜日

巨星逝く

Apple信者ではありません。どちらかというとSony派でした。iMacよりもVAIOでしたし、iPodではなく、律儀にWalkmanを使い続けていました。映画Social Networkでは、ザッカーバーグがパソコンを使うシーンにはVAIOのロゴがしつこく映り、Macはちらっと映った後に無残に机に叩きつけられて壊されてしまいます。実際にザッカーバーグが使っていたのはMacであり、さすがに、Sony Picturesも大人げないなとは思いました。ただ、短い期間ではありますが、Silicon Valleyで暮らした人間にとっては、Appleは特別な会社でしたし、Steve Jobsは別格な存在でした。当時、東海岸でIBMマシーンへの服従を誓わされた人間にとって、西海岸で初めて触れたMacは扱いにくいペットのように感じました。確かに何かと可愛い気があって、気が利くのですが、ちょっと気分を害すると爆弾マークでフリーズしてしまう。そこには、東海岸のEstablishmentに対抗するSilicon Vallayの文化の香りが詰め込まれていました。そして、その象徴であり、光を発していたのがSteve Jobsでした。パーソナルコンピュータを生み出しながらも、自らその終焉を予言して、iPhone、iPad、iCloudを世に送り出すことで、それを実証しました。自ら生み出したものまで破壊し、変革を求め続けたその姿勢は壮絶でもありました。正に、スタンフォードでの伝説のスピーチ「Stay Hungry, Stay Foolish」を実践する生き様でした。
Walkman愛好家であった私としては、Walkmanが後発のiPodに取って替わられるのを苦々しく思っていました。しかし、今にして思うと、Walkmanが根本的にはラジカセの手のひらサイズへの小型化に過ぎなかった(勿論、おかげで私達の日常は飛躍的に音楽に満たされることになりましたが)のに対し、iPodはインターネットに更に命を吹き込み、ライフスタイルやエンターテインメント産業の在り方そのものを変革するものでした。Steve Jobsの見据える射程は、我々よりもずっと彼方の水平線に向けられていました。PC時代に自らピリオドを打ったSteve Jobsの瞳には、どのような未来が広がっていたのでしょうか。そして、そのビジョンを誰が引き継ぐことになるのでしょうか。逝去する前日にリリースされたiPhoneの新モデルはiPhone 5ではなく、iPhone 4Sでした。Silicon Valleyでは、4SはFor Steveと読むと言われているそうです。Silicon Valleyは健在です。写真はAppleのホームページのものです。Steve Jobs 1955 -2011のキャプションのみがつけられています。彼を語るには言葉はいらないということでしょう。

2011年10月4日火曜日

Size Does Matter - Boeing Factory

シアトル出張初日。日曜日朝方に到着し、ホテルにもチェックイン出来ないので、空港からレンタカーでボーイングのエバレット工場に直行。Size Does Matter!(サイズが問題だ)を実感してきました。
同工場は、一般公開されており、予約制で約1時間半の工場見学をすることが出来ます。床面積39万8千m²、容積は1,330万m³。世界最大の建築物としてギネスブックにも登録されています。東京ドームの約8倍の建坪に東京ドームが約11個入っているという建物を想像して下さい。
受付棟から工場にバスで移動し、地下への階段を降りると、そこには電線・配管を天井や壁面に這わせた全長500mのトンネルがあります。トンネルを200mほど行ったところで巨大なエレベータに乗り、工場中央の見学用テラスに。見下ろすと、組立途中の機体が10台ほど。なかにはつい先週第1号機がANAに引き渡された最新鋭機787も。機体が特殊カーボンファイバーで出来ており、大幅な軽量化が実現できた為、燃費効率は20%アップとか。時代はエコです。眺めはとにかく壮観そのもの。尾翼だけの機体の横に、中央部分まで組み上がった機体が並び、工場の出口付近になると完成形の機体にエンジンが取り付けられる作業が行われています。機体は素材を保護するために薄緑色の特殊塗料が塗られており、さながら、蝶になる前のサナギを思わせます。
タイトルのSize Does Matterは、ハリウッド版ゴジラのキャッチコピーでした。日本の匠と発想力が見事に凝縮されたゴジラという憎めない怪獣を、ハリウッド版では、CGを駆使して、文字通りモンスターに仕上げていました。米国の資金力とスケールの象徴が、ハリウッドであり、航空機産業なのです。日本は、そのサイズに、知恵と匠の技で対抗してきたのですが、最近はなでしこジャパンを除き、どうも押されっ放しで、世界では影が薄くなりつつあります。と思っていたら、最新鋭機787は、コンセプトをANAがボーイング社に提案し、共同開発を進めてきたものとか。また、機体のカーボンファイバーは東レが提供し、この新素材を一体成型して機体主要部を製造しているのが三菱重工他日本メーカーということです。見えないところで、まだまだ、頑張っているようです。
ちょっと気分を良くしてホテルにチェックインすると、部屋の壁かけTVは韓国LG社製。やれやれ・・・。(工場内は携帯の持込みさえ禁止された完全撮影禁区画なので、写真は受付棟のギャラリーで撮影した尾翼とエンジンです。)

2011年10月3日月曜日

Project Nadeshiko - 結局は太田裕美

尾瀬→燧ケ岳から、脱線したままの「太田裕美」の続きです。彼女は木綿のハンカチーフのイメージが強すぎて、地方出身(何となく東北地方)だと思いがちですが、東京都荒川の生まれで育ちは埼玉県春日部市といわば都会っ子。お寿司屋のお父さんから厳しき躾けられ、通っていた上野学園高校は芸能活動禁止でしたが、日頃の素行が素晴らしいということで、特例でNHKヤング101への出演が許されたという逸話があります。アイドルながら、清楚で気品あふれる雰囲気が魅力でした。77年にリリースされた「九月の雨」の後ヒット曲に恵まれなかった彼女は、一時音楽活動を中止して、82年にニューヨークに短期留学します。この時の経験を綴ったエッセイ集を2冊執筆するなど、文筆活動を行う一方、作曲も手掛け、本格的にシンガーソングライターの道を歩み始めます。85年にはプロデューサー福岡智彦氏と結婚、子供にも恵まれ、現在は主婦として雑誌・TVにも出演、カリスマミセスとの一面も見せています。
アイドルから自立する女性、そしてカリスマミセスへ。「九月の雨」でつらい失恋を味わう地方出身の「そばかすお嬢さん」を、彼女の人生に重ねてしまうのは、かなり乱暴な話なのですが、架空の彼女が今は太田裕美のように充実した幸せな人生を送っていて欲しいななどとつい思ってしまいます。
今回のProject Nedeshikoは、尾瀬の自然を満喫するとともに、東北最高峰燧ケ岳(ひうちがたけ)に挑み、Dr.Kの誕生日を祝いつつ、東北の復興を祈念するということでした。太田裕美ネタで盛り上がったことで、Dr.Kには良いバースデープレゼントになったのではないかと思います。また、プロジェクト名のNadeshikoの由来のなでしこジャパンも力強くロンドン五輪への道を切り拓いてくれました。私の周りでも、女性陣が活発に東北支援活動を推進しています。自立する女性が、東北再生のエンジンとなるような気がします。ということで、今回もMission Completed!!

2011年9月29日木曜日

Project Nadeshiko - 何故か、太田裕美

という訳で、何故か、太田裕美です。75年の暮れにリリースされた「木綿のハンカチーフ」は永遠の名曲として今でも世代を超えて歌い継がれています。地方から都会に出て来て都会色に染まっていく「僕」は、もう故郷での生活には戻れないと恋人への手紙に綴ります。故郷で僕の帰りを待つ彼女は、僕との別れを察して、最後の贈り物に木綿のハンカチーフをねだります。涙を拭う為に。時代は、オイルショックの影響で高度経済成長期が終焉を迎え、「モーレツからビューティフルへ」の転換期の真っ只中にありました。高度成長の残照と安定成長の薄暮の中で、社会も人の心も揺れ動いていた時代でした。そういう意味では、この曲は、松本隆・筒美京平の黄金コンビというよりは時代そのものが生み出した名曲といえるかもしれません。そういえば、「木綿のハンカチーフ」のオリコン1位を阻み続けた「およげ!たいやきくん」も企業戦士への癒しソングでした。従来の応援ソングからの転換も時代を象徴していました。そして、問題の「赤いハイヒール」(写真)です。「木綿のハンカチーフ」の大ヒットにつながるプチブレイク序曲だと記憶しておりましたが、日本レコード大賞をはじめとする歌謡史に絶大なる知識を有するN隊長の断言通り、順序が逆で「木綿のハンカチーフ」の半年後にリリースされていました。しかも、「木綿のハンカチーフ」と対をなす男女を入れ替えたストーリーでした。地方から出てきたおさげ髪のそばかすお嬢さんは、東京に着いてすぐに赤いハイヒールを買います。仕事はタイピスト。タイプを打つたびに夢を失っていくと呟きます。そして、一度履いたら死ぬまで踊り続けなくてはいけない「赤い靴」に悲鳴をあげ、救いを求めます。そんな彼女に、「僕」は、一緒に故郷に帰って緑の草原で裸足になろうと誘います。彼女は、僕のプロポーズに応じてくれるのでしょうか?含みを残したまま曲は終わっています。この結末は、1年後にリリースされた太田裕美の最後のヒット曲「九月の雨」で明らかにされています。東京に留まった彼女は、ある男性と恋に落ちます。彼は木綿のハンカチーフの「僕」なのかもしれません。しかし、恋は破局を迎えることになります。彼への電話の最中、彼の肩越しに微かに聴こえた女性の笑い声。彼女は思わず外に飛び出し、タクシーを停めます。そして、彼の住所をポツリと告げます。彼との思い出の公園通りで、彼女は、9月の冷たい雨に打たれて立ち尽くします。「季節に褪せない心があれば、人ってどんなに倖福(しあわせ)かしら」9月の雨が彼女の涙を優しく洗い流します。木綿のハンカチーフではひたすら伸びやかで温かみに溢れていた太田裕美の高音に、9月の雨では胸をえぐる様な哀愁を帯びた鋭さも加わっており、彼女自身の大人への成長を感じさせます。太田裕美22歳。歌手としての円熟期を迎えながら、その後は目立ったヒット曲に恵まれない時期が続き、5年後彼女は大きな決断を下すことになります。長くなってしまいましたので、彼女自身のストーリーについては、次の機会に。

2011年9月26日月曜日

Project Nadeshiko - 尾瀬と東電、そして、太田裕美

3連休を利用して尾瀬に行って来ました。1日目は尾瀬ヶ原を縦断して尾瀬小屋泊。2日目に燧ケ岳(ひうちがたけ)に登って、檜枝岐(ひのえまた)温泉泊。最終日は尾瀬沼の畔をトレッキング、というトラベルプランナーN隊長の面目躍如たる尾瀬を満喫し尽くす日程です。1日目は鳩待峠からアヤメ平経由で見晴に抜けるという比較的マイナーなルートでしたが、それにしても連休中の尾瀬とは思えないほど閑散としておりました。旅館で聞いてみると、宿泊客は昨年の4割減らしく、福島県のはずれに位置し、福島原発からは遠隔地であるにも拘わらず、原発事故による風評被害は深刻なようです。今回のプロジェクトは、新メンバーDr.Kの誕生日を祝うとともに、東北支援の意味合いも込められています。宿は福島、3日間の昼の食材はシェフパTが厳選した岩手せんべい汁他の東北産品。尾瀬のゴミ拾いボランティアもいつも通り実施しました。従来は、東電がグリーンボランティアの名称で、ゴミ袋、バッジ、記念品の3点セットを配布し、参加者を募っていましたが、経費削減の影響か、募集は中止されていました。東電による尾瀬の保有継続の是非も含めて悩ましい問題です。
さて、本題です。燧ケ岳は東北最高峰(写真は燧ケ岳山頂から望む尾瀬沼。遥か彼方に富士山が一瞬顔を覗かせました)。尾瀬小屋からの高低差は1,000m、全行程9時間。山頂アタック時にはスタミナ切れ、下山途中から足の踏ん張りが効かずという悲惨な状況でした。疲労の為にややもすると集中力が途切れがちになってしまうのを防ぐのが、「声」です。もともとは、単調な樹林帯のトレッキング時の気分転換を目的に、クマ除けと称して始めた「しりとり歌合戦」ですが、今では、我々の登山には欠かせない要素となり、疲労低減、集中力の維持にも役立っています(多分)。毎回、曲のレパートリーも広がり、今回は太田裕美の「赤いハイヒール」が登場しました。ここで、どうでもいい細部にこだわる我が登山チーム内での論争。赤いハイヒールと木綿のハンカチーフとでは、どちらが先にリリースされたか。赤いハイヒールのプチブレイクが木綿のハンカチーフの大ヒットに繋がったという説を、歌謡史には絶対的な自信を持つN隊長が真っ向から否定。という訳で、調べてみました。次回は太田裕美ファンのDr. Kに誕生日プレゼント替わりに捧げる「太田裕美物語」。

2011年9月22日木曜日

生酒とひやおろし - U-22マレーシア戦

台風が首都圏を直撃し、暴風雨の最中、馬喰町「岡永倶楽部」の「ひやおろし試飲会」(写真)に参加しておりました。台風の影響で参加者が半分以下となってしまいましたが、その分酒飲み同士の親密感が高まったとても良い会でした。
冬に仕込まれた日本酒は、春に低温加熱(火入れ)が行われ、発酵が止められるとともに殺菌処理がされます。1度目の火入れをされたお酒は蔵で寝かされながら、熟成が進みます。一夏を越して蔵出しされ、2度目の火入れ(殺菌処理)をされたお酒が瓶詰めされて店頭に並ぶ訳ですが、この2度目の火入れを行わずに瓶詰めされたものが「ひやおろし」です。熟成樽の大樽から小分けの木樽にひやのまま卸していたところからひやおろしと呼ばれるようになりました。2度目の火入れによって損なわれてしまう日本酒本来の香りや微妙な風味・旨味が残っており、「お酒を味わうならひやおろし」と言われています。そうであれば、最初の火入れも行っていない生酒がもっと美味いのではないかと素人考えで思ってしまいます。そこで、同じ銘柄の生酒とひやおろしを飲み比べてみました。甘味、辛味、旨味、果実味、香りなど日本酒の様々な味わいがストレートに伝わってくるのが、生酒。力強い味わいですが、どうしてもそれぞれの味や香りが暴れてしまうきらいがあります。一方、熟成されたひやおろしは、味がバランス良く落着き、かどが取れてまろやかな風味になっています。日本酒の深さを再認識させられた至福の飲み比べでした。
さて、U-22マレーシア戦。乱れに乱れたダイヤの交通機関を乗り継ぎ、零時過ぎに家に戻ってからの録画観戦となりました。ホームとはいえ、初戦の硬さの中で2‐0の勝利はまずまずだったと思います。2点とも、このチームの良さが出た美しいゴールでした。起点はいずれも清武。特に1点目のノールックパスは彼のサッカーセンスの高さが見事に現れていました。清武の他にも、スピードの永井、突破力の原口、ゴール感覚抜群の大迫、高速クロスの酒井、バランサー山村と、この世代は個性豊かで且つJリーグでもレギュラーに定着している経験豊かな選手が多数います。ここに海外組の香川や宮市が加わるかと思うとワクワクする布陣となります。ただ、まだ、生酒。それぞれの個性が弾けて、まだチームとして熟成するに至っていません。五輪予選を通じて、火入れされ、しっかりと熟成し、個人の個性をチームの個性に昇華させ、来年のロンドン五輪では香り高く、まろやか、且つ、芳醇な日本酒「ひやおろし」の美味を世界に知らしめてくれるものと期待しています。
ところで、難病バセドウ病と闘っていたジュビロの山崎が代表に戻って来ました。復帰後いきなりのゴール。夏の間じっくりと熟成していたのでしょう。

2011年9月19日月曜日

がんばってる?日本

先日、多摩川のグラウンドで試合をしていた少年野球チームのヘルメットに、写真のステッカーが貼ってありました。もともと日本野球機構が発案したもので、プロ野球12 球団のヘルメットに貼られているステッカーです。観光庁が作成した桜と日の丸をアレンジした「がんばろう、日本」は国内旅行振興キャンペーンで使用されています。
至るところで展開されている「がんばろう!日本」「がんばろう!東北」キャンペーンですが、一方で、京都の五山送り火で陸前高田の松材の薪の使用が中止されたり、愛知県日進市の花火大会で東北復興支援と銘打ちながら福島で製造された花火の打上げが中止されたりと、ある種のクレーマーとそれに押し切られてしまうことなかれ主義は、図らずも、「がんばろう」の掛け声が掛け声のみで終わってしまう危うさを露呈してしまいました。鉢呂前経産大臣の「死の町」発言は、悪気はなく、単にボキャブラリーと思慮の不足によるものですが、その両者とも政治家には必須の資質です。「放射能つけちゃうぞ」に至っては、オフレコ状況でのおふざけとはいえ、緊張感の無さはそれだけでこの非常時の大臣としての資格無しです。首相の所信表明演説での野次も同様です。非常時の緊張感の無さは目を覆うばかり。政治家を育ててこなかったツケががここにきて回ってきています。
周りで復興の為に頑張っている方はたくさんいます。ただ、「がんばろう!日本」の掛け声の下に日本は本当に頑張っているんだろうか。「団結力」や「献身」の精神は、なでしこやサッカー日本代表だけの専売特許ではないはずなんですが・・・。

2011年9月15日木曜日

なでしこは何故強い?

なでしこが苦しみながらもアジア予選無敗でロンドン五輪出場を決めました。コンディションは最悪でゲーム内容は押されっぱなし。それでも、4勝1分という圧倒的な結果。世界王者の誇りを胸に、なでしこは次元の違うサッカーを展開していました。本当に強いチームというのは、こういうチームなんでしょう。なでしこが強い5つの理由。
①選手の高い志。「五輪での目標は?」の質問に、監督は「メダル」、選手は「頂点」。W杯でもメダルを目標にしていた監督に、北京五輪でベスト4を目指してベスト4どまり、銅メダルを逃した反省から、あくまで優勝を目指し、優勝を公言していたのは選手達でした。監督より選手の目線の高いチームは強い。
②チームコンセプトの徹底。タイ戦、中国戦は、控え主体のチームで臨みましたが、いずれも勝利。控え選手主体でも個々をアピールするプレーに走ることなく、しっかりと同じサッカーをして勝利する。控え選手にまでチームコンセプトが浸透しているチームはブレません。
③澤のキャプテンシー。「苦しい時は私を見て」という澤の言葉は有名です。本当に苦しい終盤に、最終ラインまで下がって体を張る一方で、ドリブル突破で敵陣に切り込みラストパスを通す頑張りは、正にその言葉を実践するものです。また、W杯決勝のPK戦で最後のキックを若手の熊谷に任せたり、今回も2試合ベンチで過ごすという若手への厚い信頼は、そのキャプテンシーの進化を感じさせました。
④サッカーへの強い想い。東電のチームメイトの後押しでサッカーを続けることを決意し、福島への強い思いを胸に頑張る鮫島。年収200万円そこそこで、アルバイトをしながらサッカーに情熱を注ぐなでしこ達。彼女達の団結力の根源は、そんなサッカーへの熱い思いの共有にあります。
⑤絶対的な自信。W杯優勝で、彼女達は「夢は見るものではなく、実現するもの」ということを実感しました。この経験は彼女達にとって、大きな自信となったのみならず、人生観も変える程の出来事だったと思います。追われる立場の苦しみもあるでしょうが、なでしこ達が、自信を確信に変えながら、更に進化していくものと信じています。

2011年9月11日日曜日

中国戦 - 鮫島の特別な想い

なでしこにとっては消化試合となった中国戦。先発をガラリと入れ替えて臨みました。控え組主体の先発陣の中で、主力組から残った鮫島(写真)は、自ら志願しての先発でした。控え組が代表残留への精一杯のアピールを図る中で、鮫島は特別な想いを胸に秘めていました。独特の内股女の子走り、タックルを受けると「あれ〜ぇ」って感じでお姉さん座りになってしまう仕草。それでいて、女性とは思えないスピードとテクニック。なでしこの中では川澄と並んで男性サポーターの圧倒的な人気を集めるプレーヤーです。(女性サポーターには、海堀や宮間といったボーイッシュな選手の方が人気が高いようですが・・・。)
彼女は福島第一原発の技術部門に勤務しながら、東電マリーゼでプレーしていました。そして、あの大震災。マリーゼの活動休止とともにサッカーを諦めるつもりでいた彼女に米国移籍を決意させたのは、「自分達の分までサッカーで頑張って欲しい。なでしこで活躍して福島のサポーター達を勇気づけて欲しい」というチームメイトからの後押しでした。W杯での活躍は、その言葉通り、福島のみならず、日本全体に元気をもたらしました。鮫島がW杯で着用したユニフォームは、福島第一原発の免震重要棟に飾られています。野田首相が訪れた際、吉田所長は、このユニフォームを「守り神」と紹介していました。9月11日は震災からちょうど半年。鮫島には、なんとしてもゲームに出なければならない特別な理由があったわけです。その鮫島。再三左サイドを駆け上がってはドリブルをしかける、気持ちの入ったいいプレーをしていました。何よりも5試合フル出場450分間を戦い抜いた熱い想いは、確実に被災地に届いたことでしょう。

2011年9月9日金曜日

なでしこ、五輪出場決定!!

なでしこジャパンは、北朝鮮に苦戦し、引分けに持ち込まれるも、中国の敗戦でロンドン五輪の切符を手にしました。W杯女王ということで、世間一般では、北朝鮮には勝って当り前のように思われていましたが、数年前までは全く歯が立たない相手で、なでしこは、何度も苦杯をなめさせられてきました。それだけに、「北朝鮮に苦戦」の表現には隔世の感があります。北朝鮮はW杯でのドーピングによる出場停止で5名の主力を欠いていましたが、見事に世代交代を成功させ、古豪復活を予感させるチームになっていました。W杯以来の肉体的・精神的疲労がピークに達していたなでしこですから、若い北朝鮮相手にドローという結果は妥当だったと思います。終了間際の失点はW杯当時のなでしこには考えられない展開で、明らかに集中力を欠いていました。W杯後のなでしこ狂騒曲の中で弛緩する時間がなく、また、練習不足を余儀なくされたなでしこに、予選敗退もありうると秘かに危惧しておりました。やはり、予想にたがわず、動きにキレを欠き、ミスを連発しての試合運びでしたが、それでも3勝1分と確実に勝ち点を積み上げ、五輪切符を獲得するというたくましい戦いぶり。また、疲労蓄積には怪我がつきものですが、一人の負傷者も無く戦い抜いたのも名馬の証しです。W杯トロフィーをかたどった右胸のエンブレムに相応しい本物の強さを示してくれました。それにしても、今回の五輪予選の強行日程は、なでしこならずとも、どのチームにとっても厳し過ぎます。ホーム&アウェイで予選を行うどころか、余裕をもった日程での集中開催すら、予算的にままならないというのが、女子サッカーの現実なのです。
約束の五輪切符を手に凱旋帰国のなでしこ。団体競技での最初の五輪出場決定です。おめでとう、そして、ありがとう。

2011年9月4日日曜日

ノルウェーの森

以前、尻切れ蜻蛉になってしまったテーマの続きです。原題はNorwegian Wood。この言葉は曲の中でこんな風に出てきます。「僕は彼女の部屋に誘われた。部屋の中はNorwegian Wood。僕らはワインを飲みながら、夜中の2時までしゃべっていた。彼女が「明日は仕事があるから」と先に寝てしまったので、僕は仕方なくバスタブで寝た。朝、目が覚めると僕は一人ぼっちだった。鳥は飛びたっていた。だから、僕は火をつけたんだ。Norwegian Wood。」Norwegian Woodを「ノルウェーの森」と訳すと随分幻想的な歌詞になりますが、ノルウェー材と訳すのが正解のようです。(邦題をつけた東芝EMI高嶋ディレクターも、誤訳であることを認め、最悪の訳だと語っています。)英国ではNorwegian Woodといえば、安アパートの松の木の内装を指します。ただ、「ノルウェーの材木」とか「安普請の内装の部屋」っていう邦題はさすがにつけられません。小説「ノルウェイの森」の作者村上春樹氏は「Knowing she would」(オレは彼女がヤらせてくれると知っていた)という言葉の語呂合わせで「Norwegian Wood」という題名がつけられたという説を紹介しています。これでは、折角のシタールの音色が台無しになってしまうお手軽な曲になってしまいます。村上春樹氏が小説のタイトルにするのを躊躇した原因かもしれません。ところで、写真は、映画化された「ノルウェイの森」が英国で公開された際のポスターです。英語タイトルの翻訳者は、ちょっと複雑な心境だったと思います。

2011年9月3日土曜日

北朝鮮戦 - 噛み合わない歯車

柏木陽介は好きな選手です。グループリーグ突破を果たした2007年U-20W杯調子乗り世代の中心選手であり、それ以前から注目していました。小柄な体に闘志をみなぎらせ、無尽蔵なスタミナでピッチを駆け巡るプレースタイルは、サンフレッチェの心臓であり、ダイナモでした。しかし、ステップアップの為に移籍した浦和で周囲と噛み合わず苦しんでいます。チーム戦術と本人のプレースタイルが合わなかったり、チームメイトとの相性がよくなかったり、必ずしも本人のパフォーマンス自体は悪くなくとも、いわゆるフィットしないという現象がしばしば起こります。香川は昨シーズン、ドルトムントで中心選手として大活躍しましたが、長友のセリエAインテルに行っていたら、どうなっていたか。逆もまた同じです。サッカーがチーム競技である以上、チームへのフィットは最も重要な要素です。柏木のようにボールに触りたがる選手は、ポジションの比較的固定したチームでは輝きを発しますが、ポジションの流動的なチームでは持ち味を失ってしまう場合があります。
W杯予選北朝鮮戦(写真はすっかりお馴染みになった肩を組んで君が代を聴くサムライブルー)。本田、中村憲剛というトップ下2人を負傷で欠き、香川をトップ下に配し、左サイド清武の布陣を予想しましたが、トップ下は柏木。もともと意気に感じるタイプですから、燃えないはずがありません。いつも以上の運動量でピッチを走り回ります。ハーフウェイラインまで戻ってボールを受けて攻め上がるかと思うと、左サイドでボールを繋いだ後、ゴール前でシュートに絡みます。何回かあった決定機を決めていたらヒーローになっていたかもしれませんが、シュートの精度が低かったのとボール回しのリズムをしばしば途切らせていたので、印象は良くありません。ボールを欲しがる動きは、他の選手との距離感を乱し、時には他の選手のスペースを消していました。岡崎や香川が窮屈そうに動き、あるいはポジションがサイドに開きすぎていたのは、柏木との連携に原因があったように思います。前半30分過ぎ、香川がポジションチェンジをして中央に入った時間帯に、いいリズムの攻撃を仕掛け、柏木が退いた後に怒涛の猛攻を繰り返していただけに、余計、柏木のフィット感のなさが目立ちました。素晴らしい選手であることには変わりがないのですが・・・。柏木に替わって入った清武は決勝点をアシストし、これで代表2試合で3アシスト。先発に定着させるのか、スーパーサブで使い続けるのか、ザックの悩みどころです。

なでしこ、苦戦 - 韓国戦

なでしこがベストメンバーでロンドン五輪アジア予選第2戦韓国戦に臨みました。
阪口のヘッドで先制するまでの10分間はいいリズムでしたが、その後は、いいところ無し。
悪かった点・・・。足が動いていなかった。パスの精度が悪かった。守備陣のライン押上げがなかった。中盤が間延びしていた。こぼれ球への寄せが遅い。ゴール前でのマークがルーズ。選手間の距離感が悪かった。などなど・・・・・・。
唯一良かった点・・・。勝ったこと。
こういうチームを強いチームという。
新ユニフォーム(写真)の胸のひとつ星とW杯王者のエンブレムは伊達じゃない。

2011年9月2日金曜日

なでしこ発進

「ノルウェーの森」の続きを書かなければならないのですが、男女五輪予選、W杯予選が開始されましたので、閑話休題。
なでしこがロンドンに向けて発進しました。ロンドン五輪最終予選初戦、タイ戦。佐々木監督は11日間で5戦という強行日程を勘案して、中盤4人を総入替えし、ターンオーバー制を採用してきました。ひとつの取りこぼしも出来ない状況下、なかなか勇気のいる戦術です。なでしこ達は開始3分で実力の差を実感したと思います。しかし、相手陣内の高い位置でボールを奪い、ほとんどタイ陣内でゲームを進められる展開ながら、無得点のまま前半終了。焦ってもおかしくない展開ですが、主力投入の選手交替は宮間のみにとどめ、ターンオーバー制を堅持した采配は見事でした。選手もよく期待に応えて、3対0の勝利。多少物足りなさは残りますが、堂々たる横綱相撲で、王者なでしこ、上々の滑り出しです。前半の苦戦は、宮間も言っている通り「苦しい試合だったからこそ、スイッチが入った」とむしろいい刺激になったと思います。なでしこフィーバーによる疲労蓄積の影響は杞憂に終わりそうです。そして、貴重な先取点を決めたのは、またしても川澄。好調を持続している川澄がラッキーガールになりそうな予感。

2011年9月1日木曜日

新米 - 尻切れ蜻蛉 - ノルウェーの森

スマートフォンを持つようになってから、電車の中での読書量がめっきり減りました。また、そのスピードもすっかり遅くなってしまいました。言葉の意味や語源が気になると、ついついネットで検索してしまい、その度にスジを追い直す連続で、ちっとも読書に身が入りません。
今朝も、小説に「新前」の文字。新米の誤植だろうと思いながら調べてみると、「江戸時代、新しい奉公人は新しい前掛けをしているので、新前と呼ばれていたが、これが訛って『しんまい』となり、やがて新米の文字があてられることとなった。」なるほど。少し読み進むうちに、今度は「尻切れ蜻蛉」。普段からよく使っておりますが、語源は?再び読書中断。「鼻緒の先を蜻蛉の羽のように結んだ草履があり、とんぼ草履と呼ばれていた。その中でも踵の部分の無い足半(あしなか)という草履(写真)は尻切れ蜻蛉と呼ばれ、中途半端な様を尻切れ蜻蛉と呼ぶようになった」とても尤もらしいのですが、鼻緒の先を蜻蛉の羽のように結ぶというのがどうにもイメージ出来ませんし、草履を「物事が完結しない様」の例えに使うのはかなり無理があるのでは?ただ、文字通り「尻の切れた蜻蛉は飛べなくなってしまうので」というのも、残酷過ぎますね。などと考えていると、読書はそっちのけですっかり深みに。
昔から気になっていた「ビートルズの『ノルウェーの森』というタイトルは誤訳?」との問題。村上春樹の「ノルウェイの森」は、この音楽が飛行機のスピーカーから流れて、主人公が回想するシーンから始まります。小説全体がこの楽曲の旋律のようなどこかほの暗くウェットなトーンに包まれていて、秀逸なタイトルだと思っていましたが、作家自身は必ずしも気に入っていなかったようです。また、小説自体、ギリシャとイタリアという陽光溢れる南欧で、同じビートルズでも、「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のテープを120回も聴きながら執筆したということで、イメージ的には対極です(「ノルウェーの森」はアルバム「ラバー・ソウル」に収録)。村上春樹の音楽に関する造詣の深さは、その作品の中でしばしば披露されていますが、「ノルウェーの森」についても、「このタイトルは誤訳であるという議論があるが、そのことについて書くと長くなってしまうので」と語っています。実際長くなってしまうので、この話題については次回に持ち越しということにします。

2011年8月28日日曜日

なでしこブラシ - 日本のチカラ

ちょっと前の話になってしまいますが、なでしこが国民栄誉賞を受賞した際、副賞として熊野筆の化粧ブラシ(写真)が贈られました。7本セットで約3万5千円。写真を拡大すると判りますが、軸に国民栄誉賞受賞記念の文字が入り、裏側には選手の名前が書かれているそうです。国民栄誉賞の副賞は大体100万円の予算で、受賞者の意向を聞きながら選定してきました。王貞治氏の副賞は鷹のはく製、高橋尚子さんの副賞は腕時計だったとのことです。今回は、受賞者が多数にのぼる為、意向を聞くわけにはいかず、菅伸子首相夫人の発案ともいわれています。熊野筆は、幕末の頃から興り、170余年の歴史を有する広島県安芸郡熊野町の伝統工芸品です。戦後に習字教育が禁止となり、筆の需要が落ち込んだ為、画筆や化粧筆といったブラシ類が作成されることとなりました。今回の化粧ブラシを製造した竹田ブラシ製作所は、熊野町で最も古い化粧ブラシ専門メーカーであり、また、最も小さい会社です。「命毛」という「毛先の先にある描く際に最も重要となる部分」にこだわるという書筆作りの感性をもって製造を行っているとのことです。ほとんど家族経営の会社の製品ですが、欧米でも高い評価を受け、ハリウッドのメイクアップアーティストにも愛用されています。こだわりと技と感性という日本のチカラが世界に通用している好例といえます。その意味で、なでしこへの記念品としては相応しかったのかもしれません。
さて、そのなでしこは、W杯から帰国後の嵐のような日々の疲労をひきずったまま、試練の五輪予選に臨むため、中国に旅立ちました。

2011年8月27日土曜日

出会い - グラスとIn My Life

退職されるSさんの送別会。お花をあげるつもりでしたが、日頃使って頂けるものがいいと思い直して、デパートの食器売り場に。マグカップを探している最中にこのグラスに出会いました。なでしこを彫刻したグラスで、オンザロック用のオールドグラスと飲み口の広がったカップグラス(写真)の2タイプがあり、その名も「なでしこカップ」。底がほんのり撫子色に染まり、一目で魅せられてしまいました。女性にプレゼントするのはどうかなとかなり躊躇しましたが、結局は、この出会いを大事にしようと、群青色の包装紙に包んで、ピンクのリボンをかけてもらいました。Sさんとは30年近くお付合いさせて頂きましたが、考えてみると職場でご一緒したのは数年間で、残りの20余年間は、その時のご縁で年に数回楽しく会食させて頂く間柄でした。ビートルズの中期の楽曲に「In My Life」という人気の高い曲があります。「今まで様々な場所に行った。たくさんの友達や恋人と出会った。僕は時々そんな場所や友達のことを思い出す。彼らに対する愛情を失うことはない。でも、今は、君だけだ。これからの僕の人生で君をもっと愛していきたい。」といった内容の歌詞です。この歌詞はジョンが十代の頃を回想しながら書いた詩が原型になっているというだけあって、出だしは重厚で哲学的なのですが、最後は「I'll love you more.」とラブソングになってしまっています。ただ、このYouを、恋人の「君」ではなく、これまでの友達に対する「君達」という呼びかけだと解釈すると、とても奥深い歌になります。人生の様々な出会い、そして、出会った人々をもっと愛していこうという・・・。
Sさんからお礼のメールを頂きました。「頂いたグラスは大事に使います。グラスを使う度に、なでしこがW杯で優勝した2011年に退職したことを思い出します。」
♪ In my life, I'll love you more.

2011年8月21日日曜日

Giant Killer

初めてのヴァンフォーレ甲府観戦です。しかも、ゴール裏サポーター席で。国立競技場でのホーム戦。相手は昇り調子の浦和レッズ。ホーム戦とはいえ、2万人強の観客の赤と青の割合は2対1程度。特にゴール裏のサポーターによる応援合戦では、音量的にもどうしても劣勢になりがちです。
浦和の圧勝を予想したのはレッズサポーターのみではないと思います。しかし、甲府は名うてのGiant Killer。降格争いの真っただ中にあり、勝利数はこれまでわずかに4勝ですが、そのうち3勝が、G大阪、名古屋、鹿島という優勝争いをくりひろげているBig Nameからあげたものです。
前線にハーフナーとパウリーニョという決定力の高いFWを並べ、しっかり守備を固めてカウンターでゴールを狙うというシンプルな戦い方が、ツボにはまると格上を倒すことになるわけです。また、この戦い方は、攻撃的なチームこそその術中にはまり易く、浦和もまんまとその網に絡め取られてしまいました。
守備に集中を欠いた浦和は前半に3失点。いずれも、パウリーニョのスピードとハーフナーの高さに余りにも淡泊に振り切られての失点でした。最後は、次々と攻撃的選手を投入し、ほとんど2バックで、2-1-7の超攻撃的布陣で攻め立てた浦和ですが、攻撃陣を厚くすれば点を取れるほどサッカーは簡単なスポーツではありません。結局、甲府が逃げ切り、見事なGiant Killing。こんなチームがJリーグを盛り上げます。一方の浦和は、経営赤字転落とともに、リーグ戦も負け数先行の借金生活に。ピンチです。(写真は、ちょっと小さめの甲府ビッグフラッグの下からのショット)

2011年8月19日金曜日

人生の意義 - タイ生保のCMから

前回ご紹介したタイ生命保険のCMは珠玉の名作揃いなのですが、その中でも、このMae Toi (トーイお母さん)が私の一番のお気に入りです。彼女は癌の為に余命2年の宣告を受けます。「私は幸せ。2年もあれば色々な事が出来る」彼女は、体や心に障害を負い、物乞いや盗みを行っていたストリートチルドレン達を引取り、一緒に生活を始めます。「人生の価値は、富や名誉ではない。長生きでもない。自分がどれだけ他の人にとって価値のある人間かということ、そして、誰かを価値のある人にしてあげたかということ」と子供たちに教えます。
定かではありませんが、実在のモデルがいるようです。彼女は100人以上の孤児を育て、寄付を募るために重度の癌患者でありながら、100㎞マラソンを完走したという話もあります。
人生は3分のドラマに圧縮できるものでは決してないし、人生のディテールの大切さを軽視するつもりは毛頭ありませんが、3分のドラマで表現できる人生は、とても幸せな人生なんだろうなと思います。

2011年8月14日日曜日

人を愛するということ - 話題のタイのCM


明治安田生命のCMは小田和正の歌が流れるだけでウルっときてしまいますが、それを超えるCMをタイの生命保険会社が製作していました。この生保会社は、毎年感動的なCMを製作しており、数多くの賞を受賞しています。今回のCMは特にドラマ性が強く、わずか3分の映像ですが、長編映画を観終わった後のような深い感動と心のざわつきを覚えます。(YouTubeのアイコンをクリックして再生して下さい。タイ語の音声が流れますので、音量にはご注意下さい。初めての映像の貼付けです。)
聾唖の父親と思春期の娘の話です。母親は死別してしまったのか、父一人娘一人の家庭です。娘は学校で「聾唖者の娘」とからかわれ、いじめを受けます。手話で明るく話しかけようとする父親に娘は心を閉ざします。「普通の父親が欲しかった。私の話すことを聞いてくれる父親が欲しかった。」娘の誕生日の夜、バースデーケーキを前に娘へのメッセージを一生懸命練習する父親。部屋から出てこない娘を不審に思って部屋の扉を開けると、そこには自殺を図った娘の姿が・・・。手首を血で染めた娘を抱えて、街頭で言葉にならない叫びをあげている父親の姿は、余りに残酷で正視出来ません。彼は、電話で救急車を呼ぶことも出来ませんし、手話を解する人がいなければ、娘を助けて欲しいという必死の思いを伝えることも出来ません。CMの中では、娘は無事病院に運び込まれ、最後はハッピーエンドで終わるのですが、もし、手遅れになってしまっていたらと考えさせられました。それはAnother Storyですが、娘は父親の深い愛情を理解しないまま、この世を去ってしまうことになります。その時、父親は何を思い、何を恨むのでしょうか。人を愛することができるという人間の美性がはらむ余りの惨酷さ。しかし、結局はAnother Storyは起こらないのだと決めつけるのはナイーヴ過ぎるでしょうか。報われない愛はあっても、理解されない愛はないと信じたいのですが・・・。

2011年8月11日木曜日

日韓戦 - KKホットラインと不等辺三角形

昨日の日韓戦は吉祥寺のスポーツバー麦犬(写真)で観戦しました。  ここは「麦」という名のミニチュアダックスが迎えていくれる落ち着いた雰囲気の英国パブ風のお店です。サッカー観戦だけではなく、ちょっとしたパーティでも使えるお薦めのお店です。
さて、日韓戦。アジア杯優勝に加え、なでしこのW杯制覇の好影響か、日本代表は自信に溢れる堂々とした戦いぶりでした。
まずは、ザッケローニ。選手起用がピタリとあたるアジア杯以来のザック・マジックは健在でした。負傷の岡崎の交替要員であれば、森本か松井が順当なところですが、U-22から引き揚げたばかりの清武を投入。その清武が見事にはまりました。2点目の本田への柔らかな落としも鮮やかでしたが、何といっても3点目の香川へのピンポイントクロスは香川の要求通り。香川は、代表では本田や松井とポジショニングが度々重なり、持ち味を出せない時期がありましたが、今は完全に香川ゾーンを作って、気持ちのいいくらいミドルシュートやペナルティエリア内への切込みを繰り返すようになりました。本田、松井、岡崎といった選手が、香川とはどちらかというと磁石のN極同士のように反発しあう関係(決して悪い意味ではなく)にあるのに対して、香川と清武の関係はN極とS極のように惹きあう関係のように思えます。セレッソ大阪で築かれた関係のなせる技でしょうか。かつて日本代表には西澤・森島というセレッソコンビの名ユニットがありました。その再来を思わせる香川・清武のKKホットラインユニットです。日本代表に大きな武器が加わりました。
なでしこジャパンは、高ぶりを抑えながら(じっと耐えながら)も艶やかに舞う日本の様式美を世界にアピールしてくれましたが、ザックジャパンは、遠近透視法(ロングパス・ロングシュート)も立体感(高さ・フィジカル)も無いが、不等辺三角形が複雑に組み合わされた日本画の構図美を表現してくれていました。美しい距離感、美しい位置どりでした。
ところで、韓国に3点差以上の勝利は、1974年9月28日国立競技場での4対1の勝利以来です。釜本が2ゴールをあげ、ブラジルから帰化したネルソン吉村も得点しています。37年の時を経ての文字通りの歴史的勝利と言えます。

2011年8月9日火曜日

森下愛子、スポーツ界を語る

森下愛子(写真)という女優をご存知でしょうか。スレンダーな肢体に憂いを帯びた大きな瞳。小悪魔的な役と清純な役を両方こなせる女優でした。代表作は1978年に永島敏行と共演した「サード」。本名吉田佳代、拓郎の奥さんです。月曜10時からの吉田拓郎・坂崎幸之助のオールナイトニッポンゴールドでは、しばしば、拓郎から奥さんネタが披露されます。昨日の話は、森下愛子がスポーツ界を語るようになったという話。
もともとスポーツ音痴で、拓郎が野球やゴルフのTV中継を観ていても全くのってこず、唯一テニス中継で拓郎がお気に入りのウォズニアッキが出て来ると多少のジェラシーの表情を見せる程度だったそうです。ところが、昨年の南アW杯デンマーク戦の遠藤のFKに魅せられ、以来、熱烈なヤットフリークになってしまいました。1点目の本田のFKには反応せずに、遠藤のFKに感動したというのが面白いところです。1年前はオフサイドルールすら知らなかった森下さんが、遠藤の追っかけをするうちにすっかりサッカーに詳しくなり、今では拓郎に解説しながら試合を観ているそうです。得点シーンでは、その前のプレーに遡って、あのディフェンダーがルーズだったなどと解説しているとのこと。たいしたものです。その森下さんが最近はサッカー界を語り、スポーツ界を語り始めました。「なでしこの活躍で女子サッカーの試合に観客が入るようになったのは、今後のサッカー界全体にとって非常にいいこと」「なでしこの国民栄誉賞受賞で選手以外のスタッフまで対象になったのは、スポーツ界としてとても喜ばしい」などなど。1年前はスポーツの話題には全く興味を示さなかった女性が、今はスポーツ界について熱く語っているという変貌ぶりに、「それを惹き起こした遠藤選手は凄い」と拓郎は語っています。「ただし、嫉妬は感じてはいない」とも。
「ウチの奥さんは怖いんだよ」と照れつつも、本当に嬉しそうに奥さんの自慢話をする拓郎。病魔を2人で乗り越えてきた夫婦愛を感じます。

2011年8月7日日曜日

第4回サッカー検定  

サッカー検定というマイナーな検定制度があります。サッカーに関する知識を検定するもので、TBS系列会社内のサッカー検定委員会が主催し、Jリーグ、日本サッカーミュージアムが協力しています。2009年に4級・5級の資格認定が開始されて以来、2010年に3級が追加され、この7月10日に新設された2級の検定試験が行われました(写真:東京会場の立正大学キャンパス)。現時点での最高位である2級合格者は全国で34名。私もその中に名を連ねることが出来、また、3級に続き最年長合格者の称号を頂きました。(検定資格保有者の呼称も「アドバンスド・エキスパート」から「マスター」に格上げになります。)
サッカー検定のホームページで過去問題の一部を体験することが出来ます(http://www.soccer-kentei.jp/blog/fan/)が、ここで引用されている問題は、かなり基礎的なもので、実際の試験問題はかなりマニアックなもの、ほとんど解答不可能なものが相当数含まれています。「サー・ボビー・ロブソンの後にバルセロナの監督を引継いだのは?」(正解:ルイス・ファン・ハール)というのはいい問題だと思いますが、「フース・ヒディングが現役時代にエールディビジ昇格に貢献したチームは?」(正解:デ・フラーフスハップ)というのは、マニアック過ぎて如何なものかと。また、「マダガスカルリーグでのプロサッカー1部リーグ史上最多スコアは?」(正解:149-0)とか、「初代W杯優勝杯の作者は?」(正解:アベル・ラフレール)というのはうんちくネタでグッド。但し、「1999年女子サッカー世界選手権米国代表のGKは?」(正解:ブライアナ・スカリー)とか「1994年度高円宮杯優勝チームは?」(正解:清水商)というのは正解者がいたとしたら驚き。また、「ヨルダンの女子サッカー選手が着用した民族衣装は?」(正解:ヒジャブ)や「ニューヨーク・コスモスのスポンサーは?」(正解:ワーナーブラザーズ)というのはサッカーの問題?
100問という問題数から、どうしても奇問・珍問を含めざるを得ないという背景は判りますが、サッカー文化の普及を目指しているのであれば、受験すること自体を躊躇してしまうような問題は避けるべきでしょう。また、W杯の開催地・優勝国・MVP・得点王の暗記は已むを得ませんが、この暗記の範囲を高校サッカー・JSL/Jリーグにまで広げるのにも反対です。
今回2級の最年少合格者はさすがに20歳ですが、3級は14歳、4級は12歳。きっと彼らは学校ではサッカー博士と呼ばれているのでしょうね。いいことです。サッカーオタクに市民権を与え、サッカー文化の底辺を広げる為にも、サッカー検定には頑張ってメジャーになって欲しいと願っている次第です。

2011年8月4日木曜日

リベロ、駆け抜ける

元日本代表の松田直樹選手が帰らぬ人となりました。34歳、余りにも早すぎる夭逝です。やんちゃな熱血漢でした。激しすぎるプレースタイルで、退場処分回数は、ストイコビッチに次ぐJリーグ第2位(8回)。監督とも度々対立しました。マリノス時代の大宮戦で、あまりにも前線に飛び出し過ぎるのに業を煮やした岡田監督から「お前のポジションはどこなんだ」と怒鳴られたにも拘わらず、攻撃参加を繰返し、ついには決勝のゴールをあげたというエピソードも残っています。トルシエジャパンでは3バックの不動の一角でしたが、韓国への遠征中、練習時にトルシエと口論になり、ピッチを後にしてそのまま日本に無断で帰国してしまったこともありました。ジーコジャパン時代には、起用法をめぐって衝突し、以降、代表に呼ばれることはありませんでした。
ジュニアユースまではFWだったこともあり、攻撃の好きな選手でした。闘莉王に代表されるように、今でこそ、DFの攻め上がりは常識ですが、3バック全盛期において、そのプレースタイルは特異でした。日本では数少ないリべロタイプのDFでした。長髪をなびかせて「なんだテメー」と叫びながら前線に駆け上がっていく松田選手のプレーにサッカーファンは魅了されました。2010年マリノスから戦力外通告を受けた際には、2万人を超えるサポーターが通告撤回を求めて署名を行いました。ファンから愛される以上にサッカーとチームを愛した選手でした。マリノス解雇後に移籍先として選んだのはJリーグのチームではなく、その下部のJFLのチーム(松本山雅FC)でした。「最も早く声をかけ、熱心に誘ってくれたから」と本人はその理由を語っていますが、愛するマリノスと対戦するチームには行きたくなかったからとも言われています。そして、松本山雅FCでは、マリノスとは雲泥の差の環境の中で、練習から先頭に立って若手を引っ張り、サッカーについて熱く語っていたということです。
リべロは、イタリア語で「自由」を意味します。愛すべきやんちゃなリべロは、文字通り自由奔放にピッチと人生を高速で駆け抜けていってしまいました。「なんだテメー」と叫びながら。謹んで合掌。

2011年8月2日火曜日

なでしこ現象考 - その2

澤のネイルアートは川澄の作品。ジャパンブルーとゴールドを基調にし、シルバーは使わなかった。川澄は料理も得意らしい。普段着のファッションセンスがいいのは澤。丸山がAKB48の衣裳を着せられて「会いたかった」を歌わされるが、音が高すぎてキーを外す。川澄がお笑いタレントの突然の求愛に「ゴメンなさい」。これは、サッカー専門番組で披露されたなでしこの話題と番組の一コマです。ましてや、他のバラエティ番組での取り上げ方は酷いものでした。
凱旋帰国した男子の日本代表に「どんな女性が好きですか?」「一番モテるのは誰ですか?」「髪の毛を短くしたのは何故ですか?」「結婚したいですか?」なんて聞かないだろうと、多少憤りながら番組を見ていましたが、よく思い出してみたら、同じような質問してたかもしれませんね。でも、さすがに遠藤にガチャピンの着ぐるみを着せてコロコロPKをさせるようなことはなかったと思います。
スポーツは文化です。特にサッカーには国民性やその国の社会情勢が色濃く反映されます。それがサッカーの面白さです。なでしこ達が偉業を達成し、女子サッカーがようやくメジャースポーツになろうとしている絶好のチャンスに、それを後押しすべきマスコミが、未だに時代錯誤の「女子供」感覚でしか扱っていないというのが、残念でなりません。これが日本のスポーツ文化の現状であり、女性のおかれた社会状況の現実なのかもしれません。米国のニュース番組では、GKのホープ・ソロが「かつてのチームメイトだった宮間がゲーム終了後真っ先に慰めにきてくれた。彼女は我々の気持ちを察して喜んでいる表情を見せなかった」と語り、なでしこ達の敗者を思いやる態度を讃えていました。FWのワンバックも「私は2度米国の勝利を確信した。でも、驚いたことに彼女たちは決して諦めなかった」となでしこ達の精神力に脱帽しています。これらの発言は日本の報道でも引用されていましたが、果たして、なでしこ達に米国代表の強さ、潔さについて質問したマスコミがあったでしょうか?かつて、オシムは「マスコミは父親である。暖かく見守りつつも厳しく叱責することで、子供は育つ。」と語っていました。スポーツ文化の成熟の為にはスポーツジャーナリズムの成熟が不可欠です。
ところで、女子サッカーW杯と同時期に米国オクラホマシティで女子ソフトボールW杯が開催されていたことを知る人は少ないと思います。日本は惜しくも準優勝でした(写真)。もしかしたら、3年前の北京五輪で金メダルを獲得して大フィーバーを惹き起したということを覚えている人も少なくなっているかもしれません。なでしこに同じ運命を辿らせてはいけません。

2011年7月30日土曜日

なでしこ現象考 - その1

「なでしこ」が社会現象になっています。W杯後は、どのチャンネルを回してもなでしこ達が出演しており、再開したなでしこリーグには普段は数百人も集まらないスタジアムに1万8千人の観客が押し寄せました。その中で、なでしこ達は疲れたそぶりも見せずに律儀に質問に答え、また、見事なプレーを披露してくれていました。TVのインタビューで、浮かれることなく、また、驕ることなく、これまで女子サッカーを支えてきた先輩達への感謝の言葉を述べる彼女達の態度に感銘を受けた方も多いと思います。その姿には、しっかりと自立した大人の集団を感じさせるものがありました。女子W杯の直前に行われ、ベスト8で涙を飲んだU-17日本代表の吉武監督が、チームに欠けていたものとして選手の自立をあげていました。高校世代の少年に自立を求めるのも酷な話と感じていましたが、「この世代のレベルを凌駕する極めて質の高いサッカーをしていたにも拘らず、ブラジルの壁を乗り越えられなかったのは、その精神面での差が決定的だった」というのです。「ブラジルは、日本の戦い方を個々の選手が判断してゲーム中にサッカーを変えてきたが、日本は練習通りのサッカーしか出来なかった。個人技の差以上にその判断力の差が大きかった」というわけです。一方のなでしこは、防戦に追われた前半戦、しっかりとブロックを作って猛攻に耐えながらも、DFラインでのゆったりとしたパス回しで米国のリズムを崩すというサッカーをしていました。そして、潮目が変わったとみるや、前線への速いスルーパスを起点に、積極的にラインを押し上げる戦法にギアチェンジ。この切替えが実にスムーズに行われていました。共通理解は、それぞれの選手の自立した判断の上でこそ成立するものなのです。日本ではU-17のみならずA代表でも自立した集団が登場するに至っていません。男子チームで一番近づいたのは、N-Boxの頃のジュビロでしょうか。何故、歴史の浅い女子チームで先に自立したチームが出来上がったのでしょうか?そもそも、日本には、なでしこ達が自立せざるを得ない社会環境があります。小学生の頃男子と一緒のチームでプレーしていることにより、なでしこ達の技術が磨かれたと以前書きましたが、中学進学に際し、既に彼女達はサッカーを続ける為に自立(=自ら判断・決断)を迫られることになります。サッカーチームが全国に約3万ある中で、女子チームは約1,200チーム、中学生も所属しているチームは400程度に過ぎません。女子サッカー部を有する中学を近隣に見つけるのは至難の技です。彼女達は小学生にして、バスケットなどの他のスポーツに転向するか、片道3時間かけてクラブチームに通いながらサッカーをするかの選択をしなければなりません。自分がベンチに押しやっていた男の子達が地元クラブや中学の部活でレベルアップしていくのを横目に見ながら、中学世代でサッカーを諦めざるを得ないサッカー少女達は決して少なくないわけです。更に社会人になる際も同様です。男子のJリーグという受け皿に比べ、なでしこリーグの経済的基盤は極めて脆弱です。なでしこジャパンの代表クラスでも、アルバイトをしなければ生計を立てられないのが実態です。ここにも、サッカーをするためには、組織に頼らずに自立するしかないなでしこ達の姿があります。
この状況は日本社会に共通したものでもあります。男女差別が無くなってきたとは言え、まだまだ男性の方が組織内で優位な立場にある社会環境下で、男性は組織を拠り所とし、組織の中で自らの志を遂げようとします。それとは逆に、志を遂げる為には自立するしかない女性達。「団結力」という共通の強みを有しながらも、男女の日本代表の間では精神構造面で現段階では大きく異なるというのは、言い過ぎでしょうか。(写真は、決勝PK戦での勝利の瞬間)

2011年7月28日木曜日

Mさんに捧ぐ

The Sound of Silence

♪ Hello,darkness my old friend.
    I've come to talk with you
    again.
    Because a vision softly
   creeping.
    Left its seeds while I was
   sleeping.
   And the vision that was planted
   in my brain
   Still remains.
   With in The Sound Of Silence.

♪ 僕の心に植え付けられた映像は
   今でもしっかりと息づいている
   静寂の音と共に

サイモン&ガーファンクルの歌声が届きますように。

2011年7月27日水曜日

Mさんを悼む

友人のMさんが帰らぬ人となってしまいました。今、日常の風景の一部が欠落してしまっているような底なしの喪失感を覚えています。彼は6月24日苗場山に単独登山をし、以来音信が途絶えておりましたが、昨日ご遺体が確認されたとのことです。行方不明の状態だったことも知らなかった私は、昨日夕刻久々に彼の携帯に電話をしたばかりでした。その直後の訃報でした。
Mさんとは偶然に職場が2度一緒になり、その関係もあり、テニスやグルメを一緒に楽しむ仲間でした。一緒にオジサン達のテニスサークルをひとつ立上げ、グルメの会を2つ立ち上げました。世話好きとちょっと寂しがり屋の性格が惹き合ったのかもしれません。野球を愛し、音楽を愛し、お酒を愛し、何よりもご家族を深く深く愛していらっしゃいました。少年の笑顔のままの方でした。お互いに中学時代はスヌーピーとサイモン&ガーファンクルで育ったことを知ったのは、つい最近のことでした。Mさんから頂いたサイモン&ガーファンクルの1967年NYコンサートのライヴ映像が形見の品となってしまいました。ただただご冥福を祈るばかりです。

2011年7月22日金曜日

なでしこ秘話

決勝のPK戦の際のエピソードです。PKの苦手な沢は、蹴りたく​ないので最​後のキッカーにしてくれとお願い。​佐々木監督が「せめて​GK海堀の前に蹴れ」​と切り返して笑いが起​きたというのは報道さ​れていますが、監督は​勝負のかかったキッカ​ーは沢に決めていたと​のことです。そこで、​熊谷の順番の際に「​先、行け!」と沢に​叫んだところ、「紗季​、行け!」 と聞き間違えた熊谷が​ボールに向かってしま​った。話が出​来すぎていて、真偽の程は​不明です。
その一躍ヒロインとなった熊谷選手(写真)。帰国直後の学生との合コンの一部始終が男子学生のツイッターで実況中継され、大変な騒ぎに。監督批判したとか、男子学生に金メダルをかじらせたとか・・・。サッカー協会から厳重注意を受けた上、自身のツイッターも炎上し、精神的に大変な打撃をうけているものと思います。フランクフルト所属のプロ選手とはいえ、まだ二十歳の女の子。慣れない酒の席での仲間とのヨタ話にこれ程大騒ぎするのは如何なものかと。小倉日本サッカー協会会長の「よくそんな時間あったよね。僕なんかすぐ寝ちゃったのに元気だな。大したもんだよね」と笑い飛ばす態度が正しい対応だと思います。
それにしても、九州電力の原発やらせ投稿依頼同報メールといい、この男子学生のツイッターといい、大人も子供も情報発信の重さの自覚の欠如が甚だしい。また、インターネットの危うさに関する認識が余りに低過ぎます。インターネットの世界は常に見えない敵に囲まれ、見えない観客から注視されています。仲間とのパス交換(コミュニケーション)にも細心の注意が必要なのは、なでしこのピッチ上での戦いと同様です。自戒も込めて。

2011年7月20日水曜日

なでしこ快挙の秘密 - サッカー愛

なでしこが世界の頂点に立ちました。なでしこ快挙の秘密はどこにあるのでしょうか。まず挙げなければならないのは、その技術の高さでしょう。スピード、強さ、高さといったフィジカルでは世界と差があるものの、トラップ、パス、ドリブルなどの基本技術、そして、なによりもシュートのバラエティ、正確さは群を抜いていました。決勝での芸術的な2ゴールはもとより、日本の今大会の12ゴールはいずれも技術的に高度で文字通りワールドクラスのシュートばかりでした。この技術の高さは、子供の頃は女子のサッカーチームがなく、男子と一緒に練習・ゲームをせざるを得ないという環境の中で磨かれ、培われたものです。GK海掘のセービング技術の高さも見事でした。これまでなでしこのGKはウィークポイントでした。層の薄い日本の女子サッカーでは、人気の低いGKには多くの人材が集まらなかったからです。海堀の活躍に刺激された女の子達がGKを目指すようになるとしたら素晴らしい遺産のひとつとなります。
2つ目は精神力。ゴール前での冷静さ、PK戦前にも笑顔を見せるタフさ、格上の米国に2度もリードされながら、追いついた気持ちの強さ。そして、120分間走り続けるのもスタミナ以上に強い精神力があってこそです。この精神力は体力と異なり、練習のみで鍛えられるものではありません。日常生活を含めた人格形成の中で結晶化していくものなのです。プロサッカー選手はサッカー少年にとって憧れの職業であり、日本代表クラスともなれば、それなりの収入を得、サッカー以外にも多くのものを手に入れることが出来ます。一方で、なでしこ達は、エースの澤でさえ、所属クラブからの年俸は360万円といわれています。他の選手達は月10万円の報酬と言われ、殆どがアルバイトをして生計をたてているのが実態です。経済的にも環境的にも恵まれない中で、彼女たちは、それでも、サッカーを選択し、多くのものを諦めながら、サッカーに打ち込んでいるのです。それだけ、サッカーを愛しているからこそ、大舞台でも臆することなく自分たちのサッカーを楽しみ、最後まで走り抜き、PK戦の前でも笑顔でいられたのです。なでしこ21人を固い絆で結び付け、あの団結力を作り出していたのは、佐々木監督の統率力、澤選手のリーダーシップの前に、サッカー愛という強烈な磁力だったのだと思います。澤選手は、北京五輪の際「苦しくなったら私の背中を見て」と言って、チームメイトを鼓舞しました。今回はその必要はなかったと思います。なでしこ達は、それぞれのサッカー愛をのびのびと表現する術を身につけていました。自ら優勝というゴールを定め、しっかりとそれを見据えて、疾走していました。サッカーの神様もその愛に応えてくれました。(写真は、日の丸を羽織って駆ける澤選手)