2009年5月31日日曜日

ベルギー戦 - ちょっとバルサ

ベルギーといえば、「鈴木のつま先があと1cm短かったら日本サッカーの歴史は変わっていた」といわれている(?)、日本がW杯で記念すべき勝ち点1をあげた相手。北京五輪4位のメンバーが主力とあって、タフな戦いを予想していましたが、終わってみれば チリ戦に続く2試合連続4-0の完勝。しかも、前半30分のボール支配率は70%以上。小気味良く繋がるパス、しかも効果的な縦パスの連続。攻守の早い切替え、前線からのプレスとボール奪取。闘莉王の凡ミスを除けば守備も安定しており、数日前の欧州CLのバルサを彷彿とさせるものがありました。ちょっと、バルサが入っていました。それにしても、チリ戦と今日の日本代表は、これまでの代表と明らかに次元が違っていました。成長曲線というのは連続した比例関数ではなく、不連続な右肩上がりのノコギリの歯(そんなものは無いが)状に昇っていくものです。岡田ジャパンはちょうどその階段を2段飛ばしで昇ったところと考えるのは早計でしょうか。
岡崎の炎のダイビングヘッドはお見事。しっかりゴンが入っていました。もう一人のFW大久保は、2アシストとはいえ、先制点の絶好のチャンスを逃したのはやむを得ないとしても、ゴールポストに八つ当たりしていたのはまだまだ未熟の証明。最後はGKの八つ当たりを後ろから喰らって負傷退場。因果応報です。期待の裏返しであえて言うならば、大久保はこのまま未熟な子供の選手として消えていってしまうような予感がしてなりません。
一方、しっかりアピールしてレギュラー争いに踏みとどまった憲剛。2点目のシュートには大人の落着きを感じました。遠藤・俊輔・憲剛・長谷部のMF陣が、はまってきた岡田ジャパン。シュートの意識も高まって、「危険な」チームになってきました。今後が楽しみ。

2009年5月28日木曜日

止めて蹴る - バルサ欧州CL優勝

チリ戦の興奮も冷めやらぬまま、眠い眼をこすりながら欧州チャンピオンズリーグ決勝を観戦しました。解説者風間さんの淡々とした語り口そのものも好感を持てますが、その分析力と明確な図式に置き換えて説明する能力にはいつも驚かされます。今回の分析は「バルサの人へのパス」と「マンUのスペースへのパス」。バルサの人から人へのパスは単純に人を探せばいいので素早く的確につながるが、マンUはスペースが消された状況で、スペースを探して放り込もうとするので、ワンテンポ遅れ、また、精度も低くなる。という訳で、マンUはサッカーをさせてもらえず、ローマのスタディオ・オリンピコはさながらバルサ劇場の様を呈していました。とはいえ、プレミアリーグでも抜群の守備力を誇ったマンUですから、人へのマークも完璧なはず。それをかいくぐってパスをつなぐバルサの選手たちのパスとトラップの技術の高さはさすがクラブ欧州No.1に相応しいものです。名波との対談で、遠藤が「自分はフィジカルはそれ程でもないし、スピードもない。唯一自分が誇れるのは『止めて蹴る』技術」と語っていました。その遠藤にスピードとフィジカルを加えた選手達の集団がバルサという訳です。強いはずです。
今年は残念ながらクラブW杯を日本で観ることは出来ませんが(この金融不況のあおりでドバイが開催返上して日本開催となることを密かに祈っています)、もう一度ガンバに出てもらって、遠藤と世界の差を確かめることが出来ればと思っています。

2009年5月27日水曜日

チリ戦 - TV観戦の醍醐味

久々のTV観戦です。TV観戦の醍醐味ってありますね。1点目につながった本田の無回転シュート、2点目のアシストになった中澤の柔らかいトラップ、そして4点目のアシストの山田のラストパスの前のキックフェイント。スタンドからでは判らなかったかも。でも、TVでは判らない「何故あそこに中澤が?」「遠藤と憲剛は縦の関係?」この前のやべっちFCでの名波との対談で、遠藤が「食いつかせるパス」について語っていましたが、TVではパスの瞬間にその次の展開が見渡せるまでの視野はなかなか確保出来ません。そして何よりも、この4対0の快勝の歓喜をスタジアムで4万人のサポーターと分かち合いたかったですね。それがスタジアム観戦の醍醐味。
岡ちゃんのユーティリティプレイヤー好みがぴたっとはまったゲームでした。阿部、遠藤、憲剛、岡崎、そして今野。流れるようなポジションチェンジとカバーリングがピッチ上で展開され、これぞトータルフットボール。2点目、4点目などは理想的な展開でした。岡ちゃんの目指しているサッカーが具現化されたものでした。でも、それがサブ組のメンバーで展開されたのは皮肉。今野は完全復活のキレキレでしたが、長友が戻ってきたらベンチに逆戻りでしょうし、阿部、憲剛も然り。闘莉王が戻ってきたら、中澤のあの上がりもなくなるだろうし。チームは生き物です。レギュラー陣が戻ってくるベルギー戦はどんなチームになるか。ベルギー戦は国立でスタジアム観戦の醍醐味を味わう予定です。
それにしてもゴンの魂を引き継ぐ男、岡崎はいいですね。レギュラー定着を確実にしました。ワントップでもいいのでは?

2009年5月10日日曜日

Monet - Water Lilies

米国には三大美術館がいくつかあります。NYCのメトロポリタン美術館は第一番目にあげられますが、ボストンではボストン美術館が、ワシントンではナショナル・ギャラリーが、フィラデルフィアではフィラデルフィア美術館が、そして、シカゴではシカゴ美術館が2番目にあげられます。個人的にはNYCの近代美術館が最も好きですので、近代美術館・メトロポリタン・フィラデルフィアが個人的な三大美術館です。月並みではありますが、「印象派」ファンですので、印象派の作品の充実度からのランクです。印象派の中でも特にモネの睡蓮(写真はシカゴ美術館の睡蓮)が好きです。「光の画家」と呼ばれているモネの絵からは、日差しの強さ、方向、温かみまでが感じられ、移ろい行く一瞬が語りかけてきます。その意味では、俳句の世界に通じるところがあり、日本人がモネに魅かれる由縁かもしれません。
画家の生誕年と創作年から何歳の時の作品かを計算しながら絵を見るようになったのは、30代後半くらいからでしょうか。自分でも年齢と仕事の関係を意識し始めた頃からです。モネの睡蓮には年代による変化があります。モネが睡蓮を描き始めたのは50代になってからです。初期の睡蓮には、池の回りの柳や水草が丹念に描き込まれ、壮年のエネルギーと高い芸術性を感じさせます。還暦を越えた頃からのモネの睡蓮からは岸の風景が消え、水面だけのあの独特な構図(写真)となります。辿り着いた境地、極めきった精神美というものが、その作品を通じて不思議な安らぎと癒しを我々に与えてくれます。そして、白内障を患い、ほとんど視力を失ってしまった70代後半から86歳の晩年に至るまでの睡蓮は、荒々しいタッチと大胆な色使いの抽象画ともいえる作品となっています。気力・体力ともに衰えているはずなのに、作品からは、むしろ、芸術家の魂の叫びともいえるような鬼気迫るパワーが立ち上り、見る者を圧倒します。
晩年まで筆を加え続けたオランジュリー美術館の睡蓮の壁画は、モネの代名詞とも言える作品で、オランジュリーの「睡蓮の間」(昔旭化成のTVCMで放映されていました)はモネファンにとって聖地ともいえる場所ですが、モネはこの作品に満足しておらず、公開は自らの死後にすることを条件としたそうです。芸術とは難しいものです。「やれ、やれ」(村上春樹風、吉田拓郎「真夜中のタクシー」バージョン)

2009年5月6日水曜日

エースナンバー10番

GWも今日でお仕舞い。どこかに出掛けることなく、テニスをしたり、ブログを書いたりしての5日間でした。今回は久々にサッカーネタ。我が名波さんがTV番組「やべっちFC」のレギュラーに起用されました。初仕事は中村俊輔との新旧日本代表10番対談。同じレフティのパサーながら、10番を背負いたくなかった名波と10番を背負うのが夢だった俊輔。二人の言葉のパス交換は絶妙で、2000年アジア杯での伝説の俊輔→名波のダイレクトシュートを彷彿とさせました(もちろん映像でも流れていましたが)。
もともとは、GKが1番、DFが2-4番、MFが5-8番、FWが9-11番と高校野球と同じようにポジション別の背番号をつけていたのが、センターフォワードの10番が日本ではいつの間にかゲームメーカーのエースナンバーになってしまったようです。ペレやマラドーナの影響も大きいのかもしれません。日本代表の10番のルーツは定かではありませんが、木村和司、ラモス瑠偉が思い浮かびます。そして、名波に。写真はフランスW杯での名波10番のレプリカユニフォームです。当初は10番のイメージではありませんでしたし、サポーターからは「10番つけてるんじゃねぇ」と罵声を浴びせられたこともありました。名波自身認めている通り、プレースタイルは10番のイメージではないし、「好きでつけているんじゃない」という訳でした。でも、2000年のアジア杯レバノン大会での名波は文字通りの10番でした。この大会で優勝した日本代表は当時「史上最強、アジアのレベルを超えた」と言われていましたが、今でも最強の日本代表だったと思います。ウズベキスタン戦での西澤・高原の清水東コンビが決めたWハットトリックは圧巻でした。明神・俊輔・ヒデ・森島といった個性豊かな選手を縦横無尽に操って、ピッチ上の監督として君臨した名波の活躍は文句なしのMVPでしたし、大いなる可能性を感じさせました。それだけに、半月板損傷の怪我で2002年の日韓W杯の代表落ちとなってしまったのは残念でなりません。
日本のもう一人の10番といえば、なでしこの澤穂希。北京での攻守にわたっての活躍は、これこそまさにエース。米国プロリーグに移籍した澤の10番を日テレベレーザは永久欠番にしています。もうひとつ、10番ネタ。名波・俊輔の対談で思い出したんですが、名波、俊輔の間にもう一人偉大な10番がいたということ。中山ゴン、2002年日韓W杯の炎の10番でした。

2009年5月5日火曜日

Philadelphia

米国からの帰りの機内で、豚インフルエンザ騒ぎの中マスクをしながら映画「マーリー」を観ました。「世界一おバカな犬」というおバカキャラブームに便乗(?)した映画です。話の筋はひどいし、マーリーのおバカぶりは単に躾けの出来ていない犬にすぎないし、映画としては「金と時間を返せ!」レベルでしたが、舞台が南フロリダからフィラデルフィアに移る最後のシーンには感慨深いものがありました。
もう15年も前のことになりますが、3年半ほど家族でフィラデルフィアに住んでいました。単身赴任中に探して見つけた家は築50年以上の石造りの家。窓が多くて大小様々なカーテンが必要な家でした。隅々までちゃんと見てから決めたつもりでしたが、いざ住んでみるとなんとバスタブがなく、シャワーのみでした。さすがに子供たちは湯船に入れてあげたくて、特大のゴミバケツを買ってきて、それにお湯をはってお風呂代わりにしました。子供たちがあまりに気持ちよさそうに入っているので、ある日膝を抱えて入ったところ、抜けなくなってしまい、出るに出れなくなったこともありました。
暖房は、セントラルヒーティングというと聞こえはいいのですが、地下室のボイラーは年代モノで、しょっちゅう故障していました。その度にサービスマンを呼ぶのですが、その日のうちに来たためしがありません。零下20度を超える極寒の中、家族4人毛布にくるまって夜を過ごしたものでした。引っ越してきて間も無くの頃、町の駐車場でいきなり窓ガラスを割られて車上荒しにあったり、結構散々な滑り出しだったのですが、家族の中で誰一人不平をいうことなく、「日本に帰りたい」と駄々をこねることもなく、文字通り「♪肩寄せ合って生きていた」(吉田拓郎「フキの唄」)幸せな日々でした。 (写真は、フィラデルフィア日本語補習校が開かれていた現地の私立校フレンズセントラルスクール)
フィラデルフィアは、白と灰色のモノトーンに彩られた長い冬の季節が終わり、若葉と花が一斉に芽吹く頃です。