2012年5月28日月曜日

バラの恋人

サントリー烏龍茶のCM。宮崎あおい扮する綺麗なお姉さんにほのかな恋心を抱く少年。毎朝出会う坂の上の横断歩道で、少年は思い切ってバラの花束を渡そうとしますが、お姉さんにすっとかわされてしまいます(フェイント篇)。翌日少年はすれ違いざまに花束をお姉さんに放り投げます。思わず受け取めて「困った子だな」とつぶやくお姉さん(パス篇)。BGMで流れているのがザ・ワイルドワンズの「バラの恋人」。1968年のヒット曲です。実力派ながら華やかさに欠けていたザ・ワイルドワンズがジュリー、ショーケンに対抗するアイドルとしてチャッピーこと渡辺茂樹を加入させ、そのヴォーカルデビューがこの曲でした。「♪いつでも逢うたびに 君の返事を 待ってるのに また今日も いつでも逢うたびに 君のひとみを 見つめるのに わからないの」もどかしく、切ない歌詞ですが、それでいて恋の成就を予感させるところに、昭和の香りが漂います。写真は、ホームパーティにご招待頂いたNさんのお庭のバラです。毎年バラが盛りを迎えるこの時期にお招き頂いていますが、今年は特に色鮮やかな大輪の花をつけているように感じました。肥料に改良を加えて、今年はなかなかの出来栄えとのことでした。手間をかけないと綺麗な花が咲かないのがバラで、綺麗なバラほど大事に育てないと花をつけてくれません。写真の中央に薄紫のバラが一輪俯きがちに咲いていますが、とても弱くて難しい花だということでした。如何にも繊細で気品漂う青みがかった薄紫の可憐な花でした。「♪髪がゆれて バラのくちびる すねてるようなとこも 好きなのさ」

2012年5月24日木曜日

オレンジの残像 ‐ アゼルバイジャン戦

FIFAランキング109位のチームとの調整試合。先発は海外組9名の殆どぶっつけ本番状態。海外組はシーズン終了直後のリラックスモード期間。一昔前の代表だったら「サムライブルー空回り。格下相手にスコアレスドロー。W杯最終予選に暗雲」との翌日の新聞見出しを試合前から覚悟せざるを得ないシチュエーションでした。ただ、今回は明らかに違いました。選手の勝利にこだわり、ゴールへの高い執着心が明らかに感じられました。海外組の最大の成長は、この意識改革かもしれません。そして、戦術への高い共通理解と実践。昔は、練習を通じての醸成を目指した「オートマティズム」と呼ばれていたものです。これがごく自然に実現出来るというのは、日本代表というチームの暗黙知が確実に向上し、強さのステージが上がったことを実意味しています。2-0のスコアはややもの足りないものの、最終予選に向けてのいい調整になったと思います。
今回の試合の最大の驚きは、アゼルバイジャン代表監督のベルティ・フォクツ。TVでは元ドイツ代表監督との紹介でしたが、私にとってみると「1974年西ドイツW杯決勝でクライフを抑えきった西ドイツのディフェンダー」です。ベッケンバウアー率いる西ドイツ対クライフ率いるトータルフットボールのオランダとの決勝。オランダが開始2分で西ドイツにボールを触れさせることなくPKを獲得して先制しますが、その後、西ドイツはフォクツをクライフのマンマークにつけ、クライフの動きを完封。ミュラーの逆転弾でオランダを粉砕し、開催国優勝を飾ります。フォクツは、クライフがピッチの外で靴ひもを結び直す間もタッチライン上でマークを続けていました。
当時のオランダ代表は、ポジションが流動的に変化する画期的なシステムを実践し、「トータルフットーボール」「未来のサッカー」と呼ばれていました。その中核にいたのがスーパースター、ヨハン・クライフ。そして、彼が監督を務めて築き上げたのが、FCバルセロナのスペクタクルな攻撃サッカーです。オランダ代表でのクライフのポジションは4-3-3のセンターフォワードでしたが、多くは中盤に位置し、時にはディフェンスラインまで下がり、機を見て最前線に駆け上がるというポジション取りで、結果として、システム的にはゼロ・トップとなっていました。今回の試合の本田の復活で、トップ下は本田か香川かとの議論がマスコミを賑わしそうですが、ゼロ・トップというオプションもあるのではないでしょうか。つまり、岡崎・宮市をウィングに配し、真ん中は香川と本田を縦に並べ、その上下を流動的に入れ替えるというものです。本田と香川にクライフになれというわけです。奇しくも日本代表の練習着(写真)がオレンジ色になりました。クライフやニースケンスのオレンジの残像を、ついついダブらせたくなってしまいます。

2012年5月6日日曜日

カーネーション

「母の日を 待たず召されし 空は眩く」
母が逝去しました。享年84歳と天寿を全うした生涯でした。しかし、半生は病気との闘いで、天寿を全うできたのは、本人の愚直なまでの生きることへの努力と多くの方々の支えの賜物だったと思っています。最期も、危篤状態に陥ってから、半日頑張り続けました。心臓は、リズムを失いながらも早鐘のような鼓動を繰返し、人工呼吸マスクの中で、喘ぐように必死に酸素を吸い込もうとしている様は痛々しいものがありました。見るに見かねて、父は耳元で「よう頑張った。もう無理せんでいいよ」と繰り返していました。
母は、日本統治下の台湾で生まれ、海軍関係の技術者の娘として、比較的恵まれた少女時代を送っていましたが、敗戦により、全てを失い、着の身着のままで日本に引き揚げてきます。引揚げ直後に一家の大黒柱である父をも失い、家族7人のそれ以降の苦労は想像に難くありません。結婚後もいくつかの病や怪我に悩まされ、決して、平坦な人生ではありませんでした。しかし、そんな苦労が顔に表れない人でした。いつも穏やかな笑顔をたたえ、寡黙ではありましたが、何故か人から慕われる人でした。実直そのもので、最後までやり遂げなければ気が済まない性格でした。最後の最後まで頑張り抜いて、自らの生き方を貫き通した生涯でした。立派な一生であり、親孝行出来なかったことを悔いつつも、母はきっと幸せな生涯だったと振り返りながら、旅立っていったと信じています。
最近、「幸せは『なる』ものではなく、『気づく』もの」という言葉に出会いました。母を偲びつつ、改めてこの言葉を噛みしめています。