2011年10月27日木曜日

ヒデの遺したもの

昨日のスポーツ紙Web版に、以下のような記事が掲載されていました。「J2湘南は26日ホーム京都戦(平塚)の試合前にエキシビションマッチを開催した。クラブOBの中田英寿氏(34)らから構成されたベルマーレレジェンドと、芸能人からなるSwervesが対戦。中田氏のキラーパスも出て、ベルマーレレジェンドが2-1で勝利した。(中略)中田氏は古巣の試合は観戦せず、さっそうと競技場を去った。」記者は「さっそうと」ではなく、「さっさと」と書きたかったんでしょうね。言わぬが花の最後の文章に記者の思いが込められているような気がします。「そりゃ、ないよ、ヒデ」というのが記事を読んでの感想でした(湘南も中田のサポートを失って、京都に0-1の敗戦でした)が、湘南のHP(写真)で確認してみると、予告メンバーにはヒデの名が無く、サプライズゲストだったようです。きっとスケジュールの合間を縫っての友情出場なのでしょうが、とかく誤解を招きがちな中田らしいエピソードです。思い出されるのはアトランタ五輪のグループリーグ第2戦ナイジェリア戦。マイアミの奇跡ブラジル戦勝利の後、決勝トーナメント進出に向け鍵となるゲームでした。前半を0-0で折り返したロッカールームで、勝利を目指す中田は攻撃の為にDF陣の押上げを要求します。その発言に、守備的な戦い方で引分け、勝ち点1を狙う西野監督が激昂し、チームに亀裂が生じます。ワールドユースでナイジェリアと戦い、勝てる相手と肌で感じていた中田に対し、ブラジル戦での疲労が残るDF陣を眺め、引分け狙いという現実的な戦法を選択した西野監督。故松田選手も「中田の意見に賛成したかったが、監督に逆らうのはどうかと思った」と回顧していました。結局、チームとして崩壊した日本は、後半2失点を喫し、0-2の敗戦。第3戦のハンガリー戦は、中田をはずした布陣で臨み、3-2で勝利したものの、得失点差でブラジル、ナイジェリアに及ばず、決勝T進出を逃しています。二十歳前のこの頃から中田は孤高のプレーヤーでした。
その後の中田の世界的プレーヤーへの軌跡は周知の通りです。奥寺という先達はいますが、日本のサッカープレーヤーに海外リーグへの道を拓いたのは間違いなく彼です。ジョホールバルの歓喜での3アシストに象徴されるように、日本が世界への扉をこじ開ける為には彼の力が必須でした。ウェブという媒体を通じてピッチ上の戦いを選手の視点で世界中に直接発信し、マスコミに挑戦状を叩きつけたのも彼でした。チャリティー事業を企画したり、菓子メーカー東ハトの執行役員を務めるなど、サッカー選手の活動の枠をスポーツ以外の領域にまで広げた彼の功績は、今後の歴史が更に評価していくことでしょう。彼の遺した偉大な足跡を顧み、未だ自分探しの旅の途上にあることを考えると、後輩達の試合を観なかったことを咎めるのは、正当な批判とは言えないかもしれません。

2011年10月26日水曜日

ビートルズが教えてくれた

先週末いつものAbbey Road Lonely Hearts Club(勝手につけた名前です)のメンバーとThe Parrotsのライヴを満喫して参りました。今回は、Oさんの還暦祝いも兼ねていたので、参加者9名の大所帯。お店自体も初回ステージから満席状態。女性客が多かったせいか、ステージは一段と盛り上がり、A Day in the Lifeのエンディングのうねりは、琴奨菊にがぶり寄りをされているような錯覚を覚える大迫力の演奏でした。
さて、36年前の今日、外貨獲得に貢献したとして、ビートルズに大英帝国勲章(Order of the British Empire:写真)が授与されました。Orderは「勲章」と日本語訳されていますが、「騎士団」を意味し、5等級の上位2等級叙勲者にはナイトの称号が与えられ、サーの敬称で呼ばれることになります。(マンUのファーガソン監督が叙勲しています。また、のちにポールも叙勲しています。)ビートルズに授与されたのは、最下等級5等級のMBE(団員)。それでも、ビートルズへの叙勲に「リバプール出身のオカッパ頭のいかれた連中に叙勲するのは、勲章の権威を汚すものだ」と武功で叙勲した元軍人などから批判が相次ぎ、ビートルズの叙勲に抗議して863個もの勲章が返却されたということです。
この批判に対して、ジョンは「僕らの叙勲に不満をもらした人たちは、戦争で人を殺して、それで勲章をもらったんだろう。でも、僕らの叙勲は、多くの人を楽しませたことの結果だから、僕たちの方がもらう資格はあると思う」と語っています。そして、ジョンは、4年後、英国のビアフラ内戦への関与、ベトナム戦争での米国支援に抗議して、勲章を返還しています。
ビートルズの叙勲に関しては、保守的な人々からの反対以上に、反体制派の当時の若者ファンからも相当な批判があったはずです。それでも、あえて叙勲を辞退しなかったのは、ジョンが語っているようにビートルズなりの社会へのメッセージだったと思います。
吉田拓郎は「ビートルズが教えてくれた」の中でこう歌っています。
♪ 勲章を与えてくれるなら
  女王陛下からもらってしまおう
  女王陛下はいい女だから
  つきあってみたいと思う
  それも自由だとビートルズは教えてくれた
その当時「本当の自由とは何なのか」ということをビートルズは伝えていたのだと思います。
時代の変わり目には、その時流の霊降者のような人物が時として現れることがあります。時代がその人を生みだし、時代の福音をその人の口を通じて語らせる。坂本龍馬であり、ビートルズであり、スティーブ・ジョブズであり・・・。たかだか20代の若者4人が残した余りにも大きな影響力は、そのように解釈しなければ、説明できないのではないでしょうか。

2011年10月18日火曜日

上海、Shanghai、シャンハイ

上海を最後に訪れたのは、実に20年以上前です。その間に正にDog Yearの急成長があり、昨年の万博開催で一段の様変わりがあったようです。そこはエネルギーの坩堝のような異次元の世界でした。先ず浦東空港から市内までのリニアモーターカー。最高時速301km。文字通り滑空する感じですが、横揺れが激しく、スリル感さえありました。降車直後は、ジェットコースターから降りた時の感じで、足がふらつきました。もっとも、その後ホテルまで乗り継いだタクシーの方が怖いものがありましたが・・・。後で話を聞いてみると、リニアの最高速度は430km/h(ギネス認定最速陸上交通機関)であり、今日はかなりの安全運転だったようです。(どうも時間帯で最高速度が異なり、お昼前後は低速運転とのことです。)
写真は黄浦江越しの摩天楼群で、現在の金融街です。メタリックな外壁が夕陽の照り返しを水面に映していました。ファインダーから眼を放して振り返ると、そこにはかつて「東洋のウォール街」とよばれた外灘(ワイタン)の旧銀行ビル群が、1920年代の重厚な街並みを留めています。東洋と西洋が出逢い、近代と近未来が接する都市がShanghaiなのです。圧倒的にエネルギッシュなパワーをみなぎらせながら、上海はどこに向かっているのでしょうか。
ホテルに戻ってホテルのLAN経由インターネットに接続してみると、BlogもFacebookもTwitterも接続不可。やれやれ。シャンハイは何処に向かっているのやら。

2011年10月13日木曜日

タジキスタン戦余話 - ラフィコフ監督

タジキスタンのラフィコフ監督(写真)は、弱気というか、謙虚というか、試合前から何度も日本の強さを強調し「勉強に来た」と発言していました。「勝負の世界だから勝つのを目指さないチームはいない。ただチャンスは100分の1、200分の1、1,000分の1かもしれない」
そして、0-8という大敗を喫した後の記者会見でも、日本を「ビッグなチーム」と表現し、「ほぼベストメンバーで戦ってくれたことに感謝している。何よりも日本に感心したのは、無駄な動きが一切なかったことだ。最後の3分間も全力で走っていた。これには感銘を受けた」と日本代表の姿勢を絶賛していました。ここまでは、よくあるGood Loserの発言。
その後に、クリーンな戦いぶりについて聞かれ、こう答えています。「ラフプレーには走らない、クリーンなプレーを心がけるというのを選手たちは理解している。私たちは日本の選手を怪我させるために来たわけではない。日本はもっと高い目標を置いているチームなので、こんなところで怪我をさせては申し訳ない」
「日本相手に攻撃の選手を入れるのは無駄」とエースFWを来日メンバーから外し、8点取られてもひたすら守備に徹するというように、ラフィコフ監督の戦術は徹底していました。選手にラフプレーを禁じていたというのも十分ありうることです。だとしたら、これは感謝しなければなりません。タジキスタン戦後半2桁得点を期待するTV実況中継を観ながら、試合が早く終わるのをひたすら祈っていました。小野伸二が相手DFの悪質なファウルで左膝靱帯断裂の重傷を負い、シドニー五輪本戦欠場を余儀なくされたばかりか、その後も慢性的な怪我と痛みに悩まされることになったのは、2000年のアジア予選フィリピン戦11対0の試合でした。
クリーンな守備でどこまで日本に通用するのか試すとともに、改善すべき点を見出していく。シリア失格に伴い、期せずして第三次予選の機会を得たラフィコフ監督の考え抜いた戦い方だったのかもしれません。次のホームでのタジキスタン代表の戦いぶりに期待したいと思います。その為にも、ラフィコフ監督の解任がないことを祈らずにはいられません。

2011年10月12日水曜日

タジキスタン戦 - 昴の輝き

北朝鮮代表としてタジキスタンと対戦した鄭大世が「タジキスタンは諦めが早いので、とにかく早い時間帯に先取点を取ってしまうことだ」と吉田麻也にアドバイスしていたそうです。鄭大世のアドバイス通りの展開となりました。前半11分ハーフナーのドンピシャヘッドで先制した後は一方的な試合となりました。プレスはかけない、タックルもしない、ましてや、ファウルで止めることもしないクリーンさ。タジキスタンの余りにもクリーンな戦いぶりはゴール前の日本のFK1本という数字が如実に表しています。これ程クリーンに徹したというよりは、覇気の無いチームは初めて見ました。
とはいえ、代表の出来は出色でした。天空の昴の如く美しい陣形で青い光を発していました。その中でもひときわ輝いていたのが、中村憲剛でした。ベトナム戦でも後半投入されてからチームに心地よいリズムをもたらしていましたが、今回も見事にタクトを振り、チームの攻撃を組み立てていました。駒野への気の利いた落としで、先制点のお膳立てをした後は、自らのゴールも含めて8ゴール中7ゴールに絡む大活躍です。遠藤、長谷部のボランチ陣との連携は慣れたものですが、香川との連携に一層の磨きがかかっていました。香川の右足アウトの1点目は間違いなくザックジャパンのベストゴール。香川のスルスルッという飛出し、超難度のシュートは勿論称賛に値しますが、それを引き出した憲剛のラストパスは鳥肌ものでした。また、後半11分の自身のゴールに人差し指を突き出しながらも控え目に喜ぶ姿には男の色気を感じさせました。憲剛、格好いい。トップ下のポジションにベテランが名乗りをあげてきて、ザックジャパン、ますます面白くなってきました。(写真は吉祥寺スポーツバー麦犬)

2011年10月10日月曜日

ベトナム戦 - テストマッチの意味合い

ベトナム戦、FIFAの区分けでは、International A Match - Friendly Matchということになります。A代表同士の公式親善試合であり、FIFA公認のタイトルには関係しない試合ながらも、FIFAランキング算定の対象となります。日本では、親善やFriendlyの語感が嫌われ、真剣勝負の意味合いを出す為に「代表テストマッチ」という言葉が使われたりします。
ベトナム戦は、テストマッチという言葉に相応しい内容でした。課題の3-4-3の布陣のテスト。藤本・細貝・原口・西川らサブ組のテスト。サブ組に関しては、藤本(写真右)も含め、それなりのアピールはしたものの、先発組への昇格を決定つけるパフォーマンスを見せることは出来ませんでした。むしろ、ピンボールのようなせわしないサッカーに終始し、チェンジオブペースやタメをもたらすことの出来る遠藤や本田の存在の大きさを逆に際立たせた感があります。
3-4-3は機能しませんでした。前線を厚くしながら、その分お互いにスペースを消しあって、攻撃の連動性が失われていました。ポジションがかぶっていたシーンも再三見られました。前線に張った香川は引いたポジションからバイタルエリアに飛びこんでいく持ち味を封印されていましたし、駒野は自らの居場所を見つけられずにいました。3-4-3は、両翼の厚みを増して、サイド突破から攻撃を仕掛けようというシステムですが、あまりにもその基本に忠実すぎて、サイドでノッキングを起こしていたり、肝心の中央が手薄になっていました。課題だらけでしたが、そのような課題を炙り出せるのがテストマッチ。十分意義があったと思います。さすが名将ザッケローニ、しっかりとしたチーム作りをしています。ただ、3-4-3については、選手達がそれぞれの所属チームに戻ると3バックシステムをほとんど経験できないという不安材料があるとともに、阿部・今野といったユーティリティプレーヤーが重用されがちになるという副作用があります。
さて、テストマッチという言葉ですが、ラグビーではフル代表同士の国際試合そのものの呼称であり、現在開催されているW杯もテストマッチということになります。もともと、英国が豪州・ニュージーランドなどの自治領と国際試合をする際に、力量を計るという意味で使ったことに由来しています。したがって、ラグビーファンに言わせると、サッカーで五輪代表の強化試合をU-22テストマッチなどというのは、明らかな誤用ということになる訳ですが、サッカーがラグビーと袂を分かってから既に150年近くになるのですから、言葉遣いが異なってきても当然であり、目くじらをたてる程では無いのでは?

2011年10月6日木曜日

巨星逝く

Apple信者ではありません。どちらかというとSony派でした。iMacよりもVAIOでしたし、iPodではなく、律儀にWalkmanを使い続けていました。映画Social Networkでは、ザッカーバーグがパソコンを使うシーンにはVAIOのロゴがしつこく映り、Macはちらっと映った後に無残に机に叩きつけられて壊されてしまいます。実際にザッカーバーグが使っていたのはMacであり、さすがに、Sony Picturesも大人げないなとは思いました。ただ、短い期間ではありますが、Silicon Valleyで暮らした人間にとっては、Appleは特別な会社でしたし、Steve Jobsは別格な存在でした。当時、東海岸でIBMマシーンへの服従を誓わされた人間にとって、西海岸で初めて触れたMacは扱いにくいペットのように感じました。確かに何かと可愛い気があって、気が利くのですが、ちょっと気分を害すると爆弾マークでフリーズしてしまう。そこには、東海岸のEstablishmentに対抗するSilicon Vallayの文化の香りが詰め込まれていました。そして、その象徴であり、光を発していたのがSteve Jobsでした。パーソナルコンピュータを生み出しながらも、自らその終焉を予言して、iPhone、iPad、iCloudを世に送り出すことで、それを実証しました。自ら生み出したものまで破壊し、変革を求め続けたその姿勢は壮絶でもありました。正に、スタンフォードでの伝説のスピーチ「Stay Hungry, Stay Foolish」を実践する生き様でした。
Walkman愛好家であった私としては、Walkmanが後発のiPodに取って替わられるのを苦々しく思っていました。しかし、今にして思うと、Walkmanが根本的にはラジカセの手のひらサイズへの小型化に過ぎなかった(勿論、おかげで私達の日常は飛躍的に音楽に満たされることになりましたが)のに対し、iPodはインターネットに更に命を吹き込み、ライフスタイルやエンターテインメント産業の在り方そのものを変革するものでした。Steve Jobsの見据える射程は、我々よりもずっと彼方の水平線に向けられていました。PC時代に自らピリオドを打ったSteve Jobsの瞳には、どのような未来が広がっていたのでしょうか。そして、そのビジョンを誰が引き継ぐことになるのでしょうか。逝去する前日にリリースされたiPhoneの新モデルはiPhone 5ではなく、iPhone 4Sでした。Silicon Valleyでは、4SはFor Steveと読むと言われているそうです。Silicon Valleyは健在です。写真はAppleのホームページのものです。Steve Jobs 1955 -2011のキャプションのみがつけられています。彼を語るには言葉はいらないということでしょう。

2011年10月4日火曜日

Size Does Matter - Boeing Factory

シアトル出張初日。日曜日朝方に到着し、ホテルにもチェックイン出来ないので、空港からレンタカーでボーイングのエバレット工場に直行。Size Does Matter!(サイズが問題だ)を実感してきました。
同工場は、一般公開されており、予約制で約1時間半の工場見学をすることが出来ます。床面積39万8千m²、容積は1,330万m³。世界最大の建築物としてギネスブックにも登録されています。東京ドームの約8倍の建坪に東京ドームが約11個入っているという建物を想像して下さい。
受付棟から工場にバスで移動し、地下への階段を降りると、そこには電線・配管を天井や壁面に這わせた全長500mのトンネルがあります。トンネルを200mほど行ったところで巨大なエレベータに乗り、工場中央の見学用テラスに。見下ろすと、組立途中の機体が10台ほど。なかにはつい先週第1号機がANAに引き渡された最新鋭機787も。機体が特殊カーボンファイバーで出来ており、大幅な軽量化が実現できた為、燃費効率は20%アップとか。時代はエコです。眺めはとにかく壮観そのもの。尾翼だけの機体の横に、中央部分まで組み上がった機体が並び、工場の出口付近になると完成形の機体にエンジンが取り付けられる作業が行われています。機体は素材を保護するために薄緑色の特殊塗料が塗られており、さながら、蝶になる前のサナギを思わせます。
タイトルのSize Does Matterは、ハリウッド版ゴジラのキャッチコピーでした。日本の匠と発想力が見事に凝縮されたゴジラという憎めない怪獣を、ハリウッド版では、CGを駆使して、文字通りモンスターに仕上げていました。米国の資金力とスケールの象徴が、ハリウッドであり、航空機産業なのです。日本は、そのサイズに、知恵と匠の技で対抗してきたのですが、最近はなでしこジャパンを除き、どうも押されっ放しで、世界では影が薄くなりつつあります。と思っていたら、最新鋭機787は、コンセプトをANAがボーイング社に提案し、共同開発を進めてきたものとか。また、機体のカーボンファイバーは東レが提供し、この新素材を一体成型して機体主要部を製造しているのが三菱重工他日本メーカーということです。見えないところで、まだまだ、頑張っているようです。
ちょっと気分を良くしてホテルにチェックインすると、部屋の壁かけTVは韓国LG社製。やれやれ・・・。(工場内は携帯の持込みさえ禁止された完全撮影禁区画なので、写真は受付棟のギャラリーで撮影した尾翼とエンジンです。)

2011年10月3日月曜日

Project Nadeshiko - 結局は太田裕美

尾瀬→燧ケ岳から、脱線したままの「太田裕美」の続きです。彼女は木綿のハンカチーフのイメージが強すぎて、地方出身(何となく東北地方)だと思いがちですが、東京都荒川の生まれで育ちは埼玉県春日部市といわば都会っ子。お寿司屋のお父さんから厳しき躾けられ、通っていた上野学園高校は芸能活動禁止でしたが、日頃の素行が素晴らしいということで、特例でNHKヤング101への出演が許されたという逸話があります。アイドルながら、清楚で気品あふれる雰囲気が魅力でした。77年にリリースされた「九月の雨」の後ヒット曲に恵まれなかった彼女は、一時音楽活動を中止して、82年にニューヨークに短期留学します。この時の経験を綴ったエッセイ集を2冊執筆するなど、文筆活動を行う一方、作曲も手掛け、本格的にシンガーソングライターの道を歩み始めます。85年にはプロデューサー福岡智彦氏と結婚、子供にも恵まれ、現在は主婦として雑誌・TVにも出演、カリスマミセスとの一面も見せています。
アイドルから自立する女性、そしてカリスマミセスへ。「九月の雨」でつらい失恋を味わう地方出身の「そばかすお嬢さん」を、彼女の人生に重ねてしまうのは、かなり乱暴な話なのですが、架空の彼女が今は太田裕美のように充実した幸せな人生を送っていて欲しいななどとつい思ってしまいます。
今回のProject Nedeshikoは、尾瀬の自然を満喫するとともに、東北最高峰燧ケ岳(ひうちがたけ)に挑み、Dr.Kの誕生日を祝いつつ、東北の復興を祈念するということでした。太田裕美ネタで盛り上がったことで、Dr.Kには良いバースデープレゼントになったのではないかと思います。また、プロジェクト名のNadeshikoの由来のなでしこジャパンも力強くロンドン五輪への道を切り拓いてくれました。私の周りでも、女性陣が活発に東北支援活動を推進しています。自立する女性が、東北再生のエンジンとなるような気がします。ということで、今回もMission Completed!!