2013年12月8日日曜日

The Golden Slumbers - M君に捧ぐ

以前にも書きましたが、Facebookを始めてからBlogの書込みがめっきり減ってしまいました。呟いてしまったことで、何となく心に貯めたものが吐き出され、Blogに想いが込められないということもあります。しかし、この1ヶ月はとても感慨深い出来事が多かったので、反芻しながら、書き残しておこうと思います。
11月18日Paulが東京ドームにやって来ました。さすがに声の伸びと艶には衰えが感じられたものの、アンコール曲の最後にシャウト系のHelter Skelterをもってくるなど、古希を超えているとはとても思えないエネルギッシュな3時間休みなしの圧巻のステージでした。もちろん、Paulの公演は、楽しみにしていたのですが、さらにもうひとつの想いがありました。実は、直前に会社の後輩のM君が突然あの世に旅立ってしまったのです。彼とは、ビートルズのコピーバンドのライブハウス「Abbey Road」仲間でもありました。彼は、「Golden Slumbers」が好きで、いつもリクエストするのですが、彼がいる時に限って演奏されないという残念な巡り合わせの曲でした。今回のPaulのステージで、M君への追悼歌として是非歌って欲しいと願っていたわけです。しかし、残念ながら最後まで演奏されませんでした。この曲は他の3曲とメドレーとなっている為、演奏に約6分を要し、アンコール曲には向きません。やはり、アンコール曲は福島の被災者に贈る「Yesterday」とまさかの「Helter Skelter」。やっぱりダメだったかと諦めていましたが、奇跡が起きました。開演後3時間近くにもなろうかというのに、2度目のアンコールに応じてPaulが再びステージに。キーボードの前に座ったPaulが歌い出したのです。「♫Once there was a way・・・」涙が滲んできました。Paul、奇跡をありがとう。
もう一つ、心に沁みた曲、「Blackbird」。長女が好きな曲でもあります。Paulのアコースティックギターでの弾き語り曲です(写真)。♫Blackbird fly, Blackbird fly. Into the light of the dark black night・・・.
傷ついた鳥に、暗闇の中のほのかな灯りに向かって飛びたてと呼びかけます。Blackbirdは黒歌鳥との和名通り、美しい歌声の小鳥です。Paulはステージでこの歌をこう紹介していました。「60年代の米国で、とても苦しんでいる人たちが立ち上がろうともがいていることをニュースで知ったんだ。公民権運動だった。僕は苦しんでいる人たちに少しでも希望や勇気を与えることが出来ればと思って、この曲を書いた。」

M君は、やんちゃな天使が地上に迷い込んでしまったような、純真で、真っ直ぐな性格の人物でした。こよなく、だんじり祭を愛し、故郷岸和田を愛していました。乾いた東京での暮らしは彼にとっては時にして辛いものだったのかもしれません。魂が解き放たれて、懐かしい故郷の上空であのはにかんだ笑顔を振りまいていることを祈るばかりです。)。♫Blackbird fly, Blackbird fly. Into the light of the dark black night・・・.

2013年11月4日月曜日

東北楽天イーグルスの奇跡

実は、Facebookで日本シリーズ第6戦のマー君の敗戦と最終戦最終回でのリベンジ登板による楽天の日本一を予想していました。今年の「あまちゃん」「半沢直樹」ブームの流れで、あり得ないマンガのような展開、倍返し、最後は東北の復興という展開を冗談半分で予想したわけです。さすがに、予想した「最終戦9回表楽天1点リードながら無死満塁の大ピンチにマー君リリーフ登板。3者連続三振で、楽天が歓喜の日本一」というところまで漫画チックではなかったものの、最後のバッターをキッチリ三振で仕留めての雄叫びは感動ものでした。
とはいえ、第6戦で160球を投じて最後までマウンドに立ち続けた段階で、最終戦登板は当然無いものと思っていました。星野監督は最終戦を見越して、マー君を途中降板させたかったはずです。続投を志願したのは、メジャー移籍前の最終登板との想いからのマー君の我儘でした。最終戦のリリーフもマー君の我儘。3点差とはいえ、野球に絶対はありません。勝負師星野を知っている世代としては、らしくない解せない采配ですが、マー君の気迫が、勝負師星野の男気に火をつけたのでしょう。星野監督は温情が裏目に出た際には進退を賭ける覚悟で、マー君の我儘に付き合ったわけです。最終戦のマー君の球威は明らかに落ちていました。コントロールもバラついていました。巨人がマー君の幻想に惑わされず、冷静に選球していたら、攻略は可能だったと思います。そして、もし、最終戦に巨人が逆転劇を演じていたら・・・。来年、更にパワーアップし、シーズン連勝記録を更新するマー君を日本で見ることが出来たかもしれません。とはいえ、野球に「もしも」はありません。東北の被災地にとっては、本当に劇的で最高のフィナーレでした。マー君の快投は、明らかに東北のファンが後押ししたなし得た奇跡でした。寄せ集め集団を日本一のチームに変えたのは、東北への強い想いにより結ばれた絆でした。そして、東北楽天のこの快挙が、東北被災地復興への大きな後押しとなり、風化しかけている復興への絆を日本に再び蘇えられさせることを望まずにはいられません。

2013年10月3日木曜日

Project Kool Js - お・も・て・な・し

秋のMCN秘湯・登山の会のプロジェクト(N隊長、シェフパT参加。ドクターK欠席)は、日本秘湯を守る会の桧枝岐かぎや旅館(K)で一泊し、前後に尾瀬沼と尾瀬ヶ原(O)のハイキングを楽しみ、尾瀬ロッジ(OL)から蛇紋岩(J)の至仏山(S)にアタックするという行程です。頭文字を取って、Project Kool Js。クールな日本を再認識するという意味合いを込めた命名です。かぎや旅館は、尾瀬桧枝岐村で若夫婦が切り盛りする温泉宿です。採れたての山菜を調理した山人(やもーど)料理とそば粉ともち米を練ったデザート「はっとう」が名物の宿です。(「はっとう」は、桧枝岐村の地元料理で、昔、殿様が村人の作ったはっとうを食して、そのあまりの美味しさに驚き、「このような贅沢な食べ物は、祝いや祭りの日以外は食べてはならぬ」というご法度(はっと)が出されことから、この名が付いたと言われていますが、「ほうとう」がなまったという説もあります。)伝統の料理を若いご夫婦が受け継ぎ、日本の良き宿の風情を留めています。温泉も、下手な露天風呂で客を呼ぶのではなく、正統派の総檜風呂でゆったりと魅了します。まさに、「お・も・て・な・し」の宿です。
尾瀬ロッジは、至仏山の登山口に位置する山小屋です。山小屋での食事など普通は望むべくもないのですが、この尾瀬ロッジの食事は絶品でした。山小屋だけに手間こそかかっていませんが、地元片品村の新鮮な野菜や卵を使った料理は、正真正銘、心のこもった「お・も・て・な・し」でした。
因みに、シェフパT苦心の昼食はスキヤキ→炊込みご飯→即席めんというこれぞクール・ジャパンメニュー。さすがでした。
今回のプロジェクトのクライマックスは、至仏山。標高2,228m。日本百名山のひとつです。蛇紋岩で出来た山肌は乾いていても滑り易く、尾瀬ヶ原からの登りは、樹林帯を抜けてから山頂までの間は、下りは危険ということで、登り専門となっています。その瓦礫道を文字通り這うようにして岩をつかみながら登ります。振り返ると、尾瀬ヶ原が一望に見渡せ、その先に東北最高峰の燧ケ岳がそびえるという絶景が広がっています。そんな景色を愛でる余裕も無く、息絶え絶えでようやく辿り着いた山頂で待ち構えていてくれたのが、写真の眺望です。南方を見渡すと、武尊山(写真中段の青い山並み)の彼方に広がる雲海から顔を覗かせているのは、紛れもなく富士山です。関東のはずれの地からも拝むことの出来る雄大なその姿は、日本の誇る自然美、そして、日本人の「お・も・て・な・し」の精神文化の象徴でもあります。ここにもクール・ジャパンが・・・。
Project Kool Js, Mission Complete

2013年9月23日月曜日

I'll follw the sun - 旅立ちの時

The Beatlesの"I'll follow the sun"。「明日は雨が降るかもしれない。だから、僕は太陽を追いかけていく」「And now the time has come And so my love I must go」ミディアムテンポのギターが、しっとりと染み込んできます。太陽を追いかけて、田舎の一本道を遠ざかっていく人影。そんな光景が浮かんでくる詩情溢れる楽曲です。つい最近、新たな人生を踏み出した友人が、Facebookでこの曲になぞらえて心情を語っていました。まさに、旅立ちに相応しい曲だと思います。ところが、この曲はポールが16歳の時の作品とのことです。しかも、風邪で寝込んでいて、吸った煙草がひどくまずくて、そんな時、レースのカーテン越しに眺めた外の景色を曲にしたものだそうです。風邪をひいた不良少年が煙草に咳込みながら作った曲に、人生の節目の時を重ねて感傷的になるというのは、少しばかり情けない気もしますが、それだけ、ポールが早熟の天才だということなんでしょう。そのポールがやって来ます。太陽を追いかけて、時代を駆け抜けて来た71歳の天才ミュージシャンの歌う"I'll follow the sun"はどんな深みを増しているのでしょうか。

2013年9月8日日曜日

祝!東京五輪2020

2020年東京に五輪が戻ってきます。今から49年前の1964年、高度成長期の真っ只中とはいえ、まだまだ戦後を引きずり、みんなが等しく貧しい時代でした。カラーテレビが普及し始めていたとはいえ、多くの家庭ではちゃぶ台の前に白黒テレビが鎮座していた時代でした。ちゃぶ台の上では、アルミ鍋からおでんの湯気が立ち上り、親父は、一升瓶から二級酒を湯呑みに注いでは、茹で落花生をツマミに、舌鼓を打っていました。TVでは、東洋の魔女が回転レシーブを繰り返し、チャフラフスカが躍動していました。アベベの哲人のような風貌と円谷の精根尽き果てたゴールをテレビは見事に映し出していました。重量挙げの三宅、体操の小野、遠藤。そして、世界の凄さを思い知らされたジャボチンスキーとヘーシンク。あの時の映像は、今でも脳裏に鮮明に残っています。あのいつまでも色褪せない日々を、子供たちに味あわせてあげられると思うと、2020年五輪招致成功は本当に快挙だと思います。
ただ、喜んでばかりはいられません。これは、復興への道筋を掲げて支持を得た東京の世界へのコミットメントでもあります。世界への約束実現に向けたカウンターは既に動き始めているのです。7年後には、立派に復興を果たした東北を世界の人々に見てもらわなければなりません。また、7月~8月の開催スケジュールを考えると、現在悪化の一途を辿っているヒートアイランド現象にストップをかけることも急務です。そして、まずは、安倍総理が明確に約束した福島第一原発の放射線問題を早急に解決しなければなりません。五輪は、東京という都市のプロジェクトではありますが、日本が国家として明確な目標設定を行う絶好の機会となりました。前回の東京五輪は、世界に追い付き、世界に踏み出す象徴的なイベントでした。7年後の東京五輪は、世界に日本人の「絆」を示し、スポーツを通じての「絆」というオリンピックの本来の意義を思い起こさせる大会となればと思います。

2013年9月1日日曜日

Project 青い秘密 - 岩木山編

岩木山は、青森県最高峰、津軽平野のどこからでも眺めることのできる嫋やかで美しい山です。太宰治は、その姿を「十二単を広げた美女」に例えています。昔から山岳信仰の対象となっており、「お山」と呼ばれて、津軽の人々に崇められている山でもあります。7月7日、その岩木山9合目。昨日までの悪天候が嘘のように晴れわたった青空に向かって、鳳鳴ヒュッテからの岩場の坂道を、登山客が連なるように上っていきます(写真)。鳳鳴ヒュッテ前でカレーを作りながら待つこと1時間。未だ別働隊の姿は見えません。岩木山への登山で最もお手軽なのは、岩木スカイラインを車で8合目まで登り、そこからリフトで更に9合目まで登り、最後の山頂までの登山道を徒歩で約40分程度で登るというものです。さすがにリフトの利用は憚られ、8合目の駐車場から湿度の高い樹林帯を汗にまみれて1時間ほど登って、9合目の鳳鳴ヒュッテまで辿り着きました。カレーを煮込んで、N隊長の率いる百沢ルート(約4時間の行程)アタック隊を待つことにしました。カレーの具は、南三陸の家庭菜園で頂いたばかりの採り立てのジャガイモ、タマネギ、ニンジンです。震災直後、断水で困っていたお宅の水運びをドクターKがボランティアで手伝って以来、手紙でのやり取りをしていた老夫妻を、今回の被災地巡りの途中再訪した際に頂いたものです。ご夫婦のお宅が位置する高台の下では、モアイ像に見守られて南三陸の仮設商店街が復興の第一歩を踏み出していた一方で、周りには住宅跡地の空き地が目立っていました。
さて、待つこと1時間半。カレーが煮詰まり始めた頃、ようやく別働隊が到着しました。途中で雪渓を登らざるを得ない箇所があり、難渋したとのことでした。疲れ切った身体には、南三陸で頂いたキュウリが心地よかったと思います。一緒に頂いた味噌との相性も抜群でしたし、味噌はカレーの隠し味にも使わせて頂きました。「青い秘密」です。
東北の震災地は、2年余を経ても、未だ復興への道筋も見えない状況でしたが、被災地の人々が、いや日本国民全体が、写真のように坂の上に浮かぶひとひらの雲を見据えつつ、厳しい坂道を登り始める日が来ることを切に願っています。

2013年8月31日土曜日

Project 青い秘密 - 何も始まっていない

夏バテ気味で、ブログの更新がすっかり滞ってしまいました。というより、Facebookでポツリポツリと呟いているうちに、ブログでのまとまった文章作りが億劫になってしまったというのが、正直なところかもしれません。気を引き締めて、この夏のプロジェクトの記憶を書き留めておくことにします。
MCN秘湯登山倶楽部で毎年初夏に実施している秘湯を絡めた登山。今年は、青森県の最高峰、1,624m岩木山と百沢温泉の旅です。岩木山は、津軽富士の名前で知られる美しい容貌の山です。 青森、岩木山、百沢音泉、ミチノクコザクラ、津軽富士の頭文字を集めて、プロジェクトコード名は「青い秘密」。青春の思い出や隠れた記憶を辿る旅にしたいとの思いもありました。
業務多忙のN隊長は同行出来なかったものの、シェフパTと救護隊員ドクターKとともに、青森に向かう途中、震災被災地をレンタカーで巡りました。あれから2年半、力強い復興の姿を確かめておきたかったのです。しかし、そこにあったのは・・・。
まず向かったのは、志津川町防災対策庁舎(写真)。今でも慰霊の献花が絶えません。鉄筋の骨組みのみ残した庁舎跡の周りに広がるのは、一面の野原。瓦礫の山に夏草が生い茂り、気まぐれな初夏の雨が降り注いでいるだけでした。被災地巡りのもう一つの目的地は、陸前高田の奇跡の一本松モニュメント。枝葉の一つ分をTeam MC78の仲間で募金させて頂きました。復興の象徴にとの想いを込めてのものでしたが、一本松の周辺の陸前高田一帯は2年経ってようやく瓦礫の撤去が終わった段階。復興の2文字とは程遠い状況でした。車のナビが、かつてそこにあった街並みを虚しく映し出します。それが、未来予想図であると信じたいのですが、その希望さえ打ち砕いてしまうような惨状でした。決して風化させてはいけないものがそこにありました。現実への直視が薄れていることをひしひしと感じる被災地巡りでした。当時は、折しも参院選を前にした時期でした。選挙の争点は、憲法改正論議とかアベノミクス論議。復興への取組みを第一に論じる候補者はいませんでした。そして、現在の政局は、消費税論議に。復興から視点がどんどん離れていっています。
今、密かに期待しているのは、NHK朝ドラ「あまちゃん」。来週放映予定の天野アキのGMTメンバーとの初ライブの日にちの設定は、2011年3月12日。明らかにあの大震災と絡めた展開が予想されます。復興に挑むアキはじめ北三陸の人々のひたむきな姿に、日本全体がもう一度「絆」の言葉を思い出すことを願っています。

2013年7月31日水曜日

ブラジルへの道程 - 東アジアカップ

W杯・五輪以外での初めての海外観戦です。今回の東アジアカップ応援ツアーには反町姫のお誘いで、むしろ初のソウル観光を楽しむつもりで参加致しました。肝心の試合の方は、なでしこは間違いなく優勝だろうと、閑散としたスタジアムでのんびりと観戦していたところ、よもやの敗戦。国内組の男子代表の日韓戦は、アジアNo.1のプライドをかけた戦いとなりました。さすがに伝統の日韓戦。時折激しく雨の打ちつける悪天候にも拘らず、スタンドは8割がた埋まり、スタジアムは「テーハミング」の大音響に包まれました。サポーターの大声援に後押しされて、韓国代表は序盤からフルスロットル。日本代表はなす術なく押し込まれ、ウイングがディフェンスラインに吸収され、シックスバックで守る様相に。両翼ともに高く張られて、サイドを起点に再三ゴールを脅かされます。最終ラインで何とか踏みとどまるも、クリアボールを拾われては再び波状攻撃を仕掛けられるという一方的な展開に、日本人サポーター席のイライラが募ります。GK西川からのフィードも前線に放り込むだけのロングキックに終始し、サポーターからは「周作、ちゃんと手で繋げ!」の罵声も。試合はロスタイムの柿谷の劇的ゴールで勝利を収めたものの、いわゆる日本らしいパスサッカーが影を潜め、爽快感の無いゲームでした。というのが、現地での観戦の率直な感想。
ところが、帰国して早速録画を見てみると、違った風景が見えて来ました。確かにゲームを通して押し込まれる展開には変わりがないのですが、TV画面での選手の身振りや表情には、スタンドで感じていたほどのバタバタ感がないのです。スタンドからの観戦はピッチ全体が見渡せて、フォーメーションや選手個々のポジショニングが分かる醍醐味がありますが、高低・遠近がアバウトだったり、選手の表情が読み取れないのが難点です。時としてスタンドから見るととんでもないミスパスが、TVで見ると実は気持ちを込めた絶妙なスルーパスを狙ったものだったりします。この試合もスタンドからだと、日本代表が苦し紛れに蹴り返すだけの極めて情けない展開に見えましたが、TV画面での選手の姿にはむしろ余裕すら伺え、戦略的にリスクを抑え、あえて堅守速攻に徹して勝負に拘る姿勢が読み取れました。代表へのアピールを図りたいというのが選手達の本音だったと思いますが、はやる気持ちを抑えてチーム戦術に徹していました。コンフェデ杯とは選手が一変していますが、チームとしてコンフェデ杯惨敗の教訓を踏まえ、成長した姿を見せてくれたと勝手に解釈しています。監督解任の声もあがり、優勝が絶対条件の中、ザッケローニは大胆なターンオーバー制を取り、全選手に出場機会を与えるとともに、主力メンバーに最終戦前に休養を与えることにも成功しました。結果的にこの作戦が当たり、また、韓国戦3人目に投入した豊田が守備で貢献するなど、ザックも本田同様「持っている男」なんでしょう。

2013年6月30日日曜日

コンフェデレーション杯2013 ‐ 見えてきたもの

コンフェデレーション杯2013は、3戦全敗という日本代表にとって極めて厳しい現実をつきつけられた大会となってしまいました。W杯アジア最終予選を最終戦を残して予選突破を決めたとはいえ、予選終盤の戦いぶりは決してアジアチャンピオンに相応しいものではありませんでした。「このままでは世界とは戦えない」という不安を抱えてのブラジルへの旅立ちでした。コンフェデ杯3戦で9失点の守備では、世界では勝ち点を奪うことは出来ません。得点力を考えると、とにかく、失点を1点以内に抑えることが、まず挑むべき課題でしょう。一方で、4得点には一縷の光明を見出すことが出来ます。日本のバスサッカーが世界のDF陣を切り裂いた瞬間もありました。第三の動きの運動量を増やし、連動性を高めていけば、世界の脅威となるポテンシャルは秘めています。最大の問題点は、イタリア戦、メキシコ戦で露呈した試合運びの稚拙さでしょう。高い温度と湿度、過密スケジュールという過酷な試合環境の中で、一本調子の常にフルスロットルの戦い方では、どこかでエアポケットが出来てしまうことは避けられません。日本代表の失点は、いずれもそのエアポケットをつかれたものです。
マリーシアというポルトガル語があります。もともと「ずる賢い」という意味なので、日本では、審判の死角で反則するとか、反則スレスレの行為を指すなど誤用されていますが、正確には、試合での駆引きや臨機応変な試合運びといった知的な戦い方を意味するものです。このマリーシアは豊富な人生経験や試合経験を通じて得られるものとされています。外国人監督から「日本代表に欠けているものは経験値」という言葉がよく聞かれますが、強豪との真剣勝負を通じてのマリーシアが身についていないということなのです。この歳になって判るようになったのですが、風を読み、潮目を感じる能力は、座学や書物から学ぶことは出来ず、経験を通じてのみ身に付くものです。この能力があってこそ、流れに乗り、流れを引き寄せることが出来ます。あるいは、一瞬の「機」を見極めることが出来ます。ただ、サッカーで厄介なのは、11人がこの感覚を瞬時に共有しなければならないということです。コンフェデ杯での日本代表には、明らかにこの部分が欠けていました。本田圭佑は、W杯優勝を口にしていますが、その為には、本田のいう個の成長とともに、着実に経験値を積み重ねてのチームとしての成熟が必要です。まだまだ、長い目で見る必要があるのかもしれません。

2013年6月17日月曜日

途切れさせてはいけないもの

W杯アジア予選最終戦イラク戦。コンフェデレーション杯初戦ブラジル戦。そして、Jリーグ東日本大震災復興支援スペシャルマッチ。本当に慌ただしくも至福の1週間でした。
イラク戦は勝ったことだけが全て。本来の目的のサブの選手を試すという点では不十分。且つ、起用されたサブの選手はアピール出来ず。W杯本戦に向けた準備の第一歩としては、何となく消化してしまった試合となってしまい、満足なものではありませんでした。その結果が、コンフェデレーション杯初戦。世界とアジアの差をまざまざと見せつけられた惨敗でした。「個」のレベルの違いは明らか。それに加え、ここぞという時のチームとしてのスピードはもはや異次元。長友は「中学生とプロのゲーム」と揶揄していました。この惨敗を本戦で繰り返すわけにはいきません。何をすべきか?本田の言うように「個の向上」はもちろん必須ですが、これを前面に押し出すのは危険です。「個」の差を前提として、どう戦うのかの戦略を練るべきでしょう。いわゆる「自分たちのサッカー」をアジア仕様から世界仕様に設計変更せざるを得ないのが、現実の姿であり、これから1年の課題だと思います。
さて、Jリーグ東日本大震災復興支援スペシャルマッチ。昨年に続き2回目の開催となります。写真はキックオフ前の黙祷のシーンです。被災地にゆかりのある選手で構成されたTeam As OneがJリーグ選抜を下し、昨年に続き勝利を飾りました。一旦退いた闘莉王がFWとして交代で出てくるなど、選手自身も楽しみ、エンターテイメントの要素も散りばめられたマッチでしたが、反面、勝ちにこだわった熱い気持ちも感じられ、被災地に勇気を与えるイベントに相応しいゲームでした。スタジアムでは、被災地の小学校のグラウンドに簡易照明を設置するための募金が行われていました。小学生たちが日没後もサッカーを楽しめるようにという目的です。募金の使途としては、他に優先順位の高いものもあろうかと思いますが、サッカーファンが是非してあげたいことなのです。それぞれが、その立場と見方で、出来ることを続けていくことが大事なのだと思います。日本代表の「個」と「組織力」の向上。震災復興。それぞれに終わりのない長い道のりですが、一歩、一歩、足を踏み出し、歩みを継続していくことこそが、重要なのではないでしょうか。決して途切れさせてはいけない。

2013年6月9日日曜日

Oの悲劇

5月23日国立競技場。藤田俊哉送別試合。至福の時間でした。現役時代いつもTV画面のどこかに顔を見せていた俊哉が、現役さながらの運動量で走り回り、ウルトラマン並みに3分間限定でピッチに立ったゴンが、予告通り、俊哉にアシスト。(「俊哉にはいつもアシストしてもらっていたので、最後は俊哉のゴールをアシストしたい」試合前のインタビュー。)ハーフタイムのカズとのパス練習をはじめ、ゲーム中もカズにボールを集めるなど、妙にカズに気を使っていたヒデなど、見所満載の本当に楽しいゲームでした。その中でも、クライマックスは10数年ぶりのN-Box(名波を中心にMF5人がサイコロの5の目状に配置されたジュビロ磐田最盛期の布陣。週刊サッカーマガジンが名波のイニシャルから命名)。福西が名波を追い越し、俊哉が並走。福西の抜けたスペースを服部がカバー。名波を中心に幾何学模様を描くような見事な流動性は健在。もっとも、服部はかなり体が重そうでしたが。そして、寂しかったのは、N-Boxの一角の奥大介がいなかったこと。すね当てが出るほどソックスを下げて、チョコチョコ走り回っていた奥は、紳士の多いジュビロのプレーヤーの中で珍しいトラブルメーカーでした。レフリーに注意されてソックスを一旦は上げるものの、すぐにずり下がり、再度注意されては、レフリーに逆に食ってかかる。小柄で童顔の容貌も相まって、憎めないキャラクターでした。
その奥が今回の事件。残念です。サッカー選手のみならず、仕事と家庭を両立させなければならないのは、世の常。ただ、この2つは微妙な関係で、トレードオフの関係であったり、どちらかがうまくいかないと他方に連鎖したり。体調不良でサッカーの世界を離れざるをえなかった(FC横浜のテクニカルアドバイザーを辞任)奥の無念さは、推し量るだけでも胸が痛みます。だからこそ尚更家庭に安らぎを求めようとしたのでしょう。自らの存在価値を見つけようとしたのでしょう。その過剰な気持ちが悲劇につながったのかもしれません。
写真は、送別試合でスタンドに投げ入れられた紙吹雪替わりのサックスブルーのメタルテープです。新潟に反町姫から分けて頂きました。裏に俊哉の直筆で書かれていた文字は「サッカー楽しいです‼」あのドリームチームのメンバーには、いつまでも楽しさの連鎖を紡いでいて欲しかった。

2013年6月5日水曜日

余りに予定調和の結末 ‐ 豪州戦

いずれにせよ、W杯出場決定の歴史的ゲームになるだろうとの確信はありましたので、祝賀セレモニーが終わってからの遅い帰宅になることを覚悟していました。しかし、実際には、素直に喜ぶ気になれず、試合終了後早々とスタジアムを後にしました。浦和美園駅までの約20分間の道のりは、喜びに沸くサポーターは少なく、まるで山間の沢の流れのような静かな青い帯が小刻みに揺れているのみでした。評価しにくいゲームでした。前半見事なカウンターをし掛けていた豪州も、後半はピタッと脚が止まり、完全に日本ペース。それでもゴールを決め切れない日本は、DF栗原を投入し、スコアレスドロー狙いの3バック(?)へのシステム変更。ところが、攻撃的3-4-3が染み付いているチームはサイドが前掛かりになってしまい、豪州のラッキーな先取点の遠因を作ってしまいます。最後のPKは豪州戦アウェーでの不可解なPKの埋め合わせのようなサッカーの神様の采配。結果だけみると、日本がW杯への切符を手にし、豪州も勝ち点1の積上げにより望みを繋ぐという、双方にとって最低限の目標を達成した極めて予定調和的な結果となりました。5大会連続W杯出場というのは大変な偉業であり、素直に喜ぶべきでしょうが、代表選手達が「W杯優勝」を口にしている以上、サポーターとしても、安易な妥協は出来ません。アジア最終予選突破を通過点とするならば、最終ゴールの本戦での躍進は現時点ではかなり遠いと言わざるを得ません。このままでは世界と戦えません。ザックジャパン発足時は、守備が安定し、攻撃時の選手間の連携も躍動感が溢れていました。しかし、このところ、守備は厚みに欠け、攻撃も狭いスペースの突破にこだわり過ぎている感があり、「組織は出来上がった。次は個の成長」の呪縛に囚われ、肝心の連携を失いつつあるのではないかと危惧されます。成長の過程の踊り場状態といえるかもしれませんが、ここを乗り切り、確実な成長を実現できるのか、あるいは、このまま、組織崩壊の途を辿るのかは、まさに指揮官の手腕次第というべきでしょう。トルシエ、ジーコは失敗し、南アW杯時の岡田監督のみが結果を残しました。ザッケローニは、人柄的には極めて好感を持てるのですが、今回の豪州戦でのドタバタ采配をみると若干不安なしとはしません。スコアレスドロー狙いでDF栗原を投入したのは理に適っています。ただ、ここで、3バックにしたのか、長友を1列前に出して4バックを維持したのかの指示の不徹底がありました。また、終了間際にハーフナーを投入して豪州相手に空中戦を挑んだのは全く疑問。後半明らかに足の止まった豪州には、裏を取ってスピードで挑めるFWの投入が筋。ベンチに佐藤(広島)や石川(FC東京)がいたらと思いました。コンディションの整わない本田・岡崎を先発させたのも疑問。前半は守備重視で後半に勝負する展開でも良かったのでは。チームの建直しには、監督のマネジメントの他、ピッチ上の精神的支柱、流れを変えられる存在が必要です。個人的には遠藤にその役回りを担って欲しいのですが、どうも本田が自他ともに認めるピッチ上の指揮官になりそうです。確かに、はずせば大変なバッシングの標的になりかねない最後のPK(写真)を、ボールを抱えたまま誰にも譲る気配がなかった強靭な精神力は、リーダーの資質十分。ただ、イチかバチかのど真ん中シュートには危うさを感じます。キックスピードで勝負する為にどうしても力が入り、枠をはずすリスクも高まるわけですから。結果的に本田に救われたザッケローニとしては、「チームホンダ」の刷り込みが一層強くなったと思います。今後は、更に本田への依存が強まることでしょう。本田が本戦までの1年間で冷静さとしたたかさを如何に身に着けていくかに、ザックジャパンの命運がかかっているといっても過言ではないかもしれません。

2013年5月25日土曜日

色彩を持たない「つくる」

「1Q84 Book3」から丸3年。村上春樹作品は、読後、時が経つにつれ、徐々に結晶が生成され、ある日突然、思いもよらぬ造形に驚かされたりする楽しさがあります。ただ、「1Q84」だけは、教団「さきがけ」の教祖への嫌悪感が思考や感性にぴったりと蓋をして、どこにも行けないもどかしさを感じていました。そんな想いの中でのこの新作「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」。今回はぴったりとはまってしまいました。「喪失」「孤独」「デタッチメント」「コミットメント」「啓示」「預言」「救済」「回復」「巡礼」。村上ワールドのキーワードが幾何学模様のように整然と並べられたこの作品は、ハルキストにとって、とても心地良く、身を委ね易いものでした。「シロ」はノルウェイの森の「直子」であり、「沙羅」は「レイコ」そのものではないか。それは、デジャヴというより、失われた恋人たちとの邂逅でした。新作は、「ノルウェイの森」の輪廻した姿であり、純化された結晶なのかもしれません。
それにしても、「何故、舞台が名古屋なのか?」素朴な疑問です。村上春樹は「名古屋は日本のガラパゴス」と称していたはずです。その特異な文化を必ずしも好意的には捉えていなかったと思います。舞台は、ストーリー展開からして地方の都市でなければなりません。神戸ではいけなかったのか、仙台ではいけなかったのか、長崎ではいけなかったのか。5人の高校生グループのうち「つくる」だけが東京に出ていきます。4人が地元に残り、地元でそれぞれの人生を歩みます。そして、ある日突然「つくる」はグループからの追放を宣告されます。それは、まさに楽園追放です。しかし、その楽園は、土地ではなく、仲間を意味します。この文脈から、舞台は、大学や産業において様々な選択肢を内包する自己完結的な都市で、特異性を持ちながらも、それ自体「楽園」ではあってはいけない一種無機質性を有する都市でなければならないわけです。なるほど、名古屋です。
村上春樹の作品のタイトルは、いずれも極めて暗示的且つ象徴的に作品を凝縮しているのですが、この作品の長いタイトルは、この作品のあらすじそのものでもあります。色彩(=自我、ポジショニング)を持たないことへの不安と苛立ち。青春時代の極彩色の彩りが否応もなくくすんでいかざるをえない生きるということ。逆に生を蝕んでいく色彩。それゆえの「つくる」という営み。「損なわれた」ものを辿り、再建していく為の巡礼の旅。
「失われたもの」「損なわれたもの」を取り戻すことは出来ません。「つくる」ことでしか先には進めません。

2013年5月6日月曜日

沈まぬ太陽 ‐ 祝!長嶋茂雄国民栄誉賞受賞

「4番サード長嶋」30年振りのアナウンスに胸が熱くなりました。TVにかじりついて長嶋の一挙手一投足に心躍らせ、銭湯では3番の下足札を奪い合い、雨でナイターが中止になった日には、溜息ばかり出て、宿題も手につかなかったあの頃。高度成長期の日本は長嶋とともにあり、長嶋は昭和の人々の生活と完全に同期していました。長嶋は太陽そのものであり。そのまばゆいばかりの光に勇気づけられ、そのほとばしる熱に活力を得て、みんながひたむきに生きていたあの頃でした。国民栄誉賞受賞は当然といえば当然であり、遅きに失した感があります。そんなヒーローも2004年に脳梗塞で倒れた後は、右半身の麻痺と言語障害の後遺症が残り、表舞台からは遠ざかっていました。授賞式でも、右手は終始ズボンのポケットに収められたままでしたし、始球式ではバットに添えることも出来ませんでした。右足を引きずるようにして歩む姿にはさすがにかつての躍動感はありませんでしたが、すっと背筋が伸びた打席での立ち姿には紛れもなくスーパースター長嶋のオーラが漂っていました。そして、左手1本で空振りした後の悔しがる表情はやっぱりミスター。沈まぬ太陽がそこにありました。大観客の前でスピーチを行い、バットスイングを出来るまでに回復した裏には、文字通り血のにじむようなリハビリを通じての壮絶な後遺症との闘いがあったとのことです。(脳梗塞で倒れた直後は、もう立つことも話すことも出来ないと医師に診断されていたそうです。)我らがヒーロー長嶋は、汗をほとばしらせて、まだ戦っている。そして、我々を励まし続けている。

2013年5月5日日曜日

Project KitKat 2 - 諏訪湖を渡る風

今回の花見旅行では片倉館に隣接する諏訪湖ホテルに泊まりました。早朝ホテルで自転車を借り、諏訪湖を時計と反対回りに1周してみました。16km、約1時間のサイクリングです。諏訪湖は諏訪市と岡谷市にまたがっています。諏訪市側の湖畔にはホテルや美術館など観光施設が軒を並べ、サイクリングロード沿いの桜並木(写真)もきれいに整備され、如何にも観光都市の趣きを湛えています。かたや岡谷市側は、工場や事務所が立ち並び、彩りが異なります。しかし、岡谷市は地方の産業都市のご多分に漏れず、景気低迷の中、工場閉鎖に伴う人口流出が進みつつあるとのことでした。そういえば、街並みもどことなく寂れ、灰色のシャッターがやけに目立っていたような気がします。私の親友の一人に岡谷市出身のE君がいます。自分の信念を貫く一方で、その信念にさえもいつも懐疑的なナイーブさを併せ持ち、急に激するかと思うと、情に極めて脆い愛すべき人物です。早朝の諏訪湖を渡る風は四月中旬だというのに身を切るように冷たく、手袋をしていても指先が凍えます。この清冽な諏訪湖の風が彼の人格を彫刻したのでしょう。

2013年5月3日金曜日

Project KitKat 2 - 桜、さくら、サクラ

しばらく時間がたってしまいましたが、今年は4月13日、14日に伊那、諏訪に花見に行ってきました。まずは高遠の桜。江戸時代は、高遠藩の馬場の桜で、馬が埋め尽くされるほど見事に咲き誇る姿は「天下第一の桜」と称されていました。桜の種類はコヒガンザクラで、ソメイヨシノより少し小ぶりですが、赤みのある薄紅色の花を咲かせます。城址公園内には1,500本以上の桜が咲き乱れ、雪を冠した中央アルプスを望んで桜を眺めたり(写真)、桜雲橋の欄干越しに桜を見下ろしたり、散策しながら桜を愛でることが出来る絶好の観桜名所でした。次に訪れた春日城跡公園は、滑り台で子供たちが遊んでいる横でビニールシートを敷いて大人たちが酒盛りをしているという遊園地型の花見スポット。桜越しに望む南アルプスと伊那市街の眺めは格別でした。六道の堤は高遠城址の近くにある農業用溜池です。池の真ん中には松の木が生えた島が浮かび、溜池を囲む堤には桜が植えられています。水面に映る桜の撮影に訪れる写真家も少なくないようですが、ゆっくりと花見を楽しむ穴場スポットでした。伊那公園に向かう途中に立ち寄った三峰川堤には、サイクリング・ジョギングコース沿いに3kmの桜並木が作られようとしていました。まだまばらな植樹状況で、桜名所入りはこれからというところでした。伊那公園は、まさに地元の花見スポット。宴会がよく似合うのどかな桜名所でした。
桜巡りの最後の締めは片倉館の千人風呂。片倉館は、諏訪湖畔上諏訪の地に建つ西洋建築の温泉大浴場で、国の重要文化財に指定されています。製糸業で財を成しシルクエンペラーと呼ばれていた片倉財閥が、昭和初期に福祉目的で建設した純洋風建築の公共温泉浴場です。諏訪に来たら欠かせません。 ローマ風のレリーフと彫像に囲まれた立ち風呂で、玉砂利を踏みしめながら桜名所を思い返しました。コヒガンザクラにソメイヨシノ。枝垂桜。花見散策に、宴会花見、ジョギング花見。まさに、多士済々の桜があり、百人百様の桜の楽しみ方がある。桜、さくら、サクラでした。そもそもProjectコードネームの命名は、WBC3連覇、ナデシコのアルガルベ杯優勝を前提に、サムライブルーのコンフェデレーション杯での活躍を祈念する「きっと勝つ」という願いを込めたものでした。しかし、結果はご存知の通り、WBCとアルガルベ杯では満開とはいきませんでした。しかし、美しいのは勝利のみではないことも確かでした。散り際の美しさも桜の見所のひとつであり、日本人の美意識の根源でもあります。

2013年3月31日日曜日

ヨルダン戦 - いくつかの疑問

前々回のブログで取り上げたVVVフェンローのカレン(写真)、フェンローとは今季限りとのこと。貴重なゲームを観ることが出来たのかもしれません。ところで、前回のブログのアムステルダムアリーナツアーで一緒だったデンマーク人の学生と駅への帰り道W杯予選について話をしました。「Danish Dynamiteはどんな具合?」「デンマークは、欧州予選で6チーム中5位で、とても厳しい状況。明日のチェコ戦で勝てなければもうノーチャンスだよ。しかも、アウェイの戦いだし、かなり難しいと思うよ。日本は?」「もしかしたら、来週、世界最速でW杯本戦出場権を獲得するかもしれない。」と多少得意気に答えたのは、今にして思えば、驕りがあったのだと思います。結果は、デンマークは敵地でチェコに3-0の快勝。他方、日本はヨルダンに1‐2のよもやの敗戦。サッカーに絶対とか、簡単な試合は無いということを思い知らされました。それにしても、納得のいかない敗戦でした。既に試合前に豪州vsオマーンが引き分けていただけに、引き分けでも予選突破が決まる試合。アウェイでの戦いでもあり、カウンター狙いの守備的布陣で臨んでも良かったのではないでしょうか。結果的にスコアレスドローで予選突破を決めれば、ミッション・コンプリートだし、逆に勝てる確率が高かったのではないかと思います。イタリア人の得意な戦い方だと思いますが、日本にすっかり同化しているザッケローニとしては、そのような戦い方を潔しとしなかったのでしょうか。攻撃的な布陣でした。トップ下に憲剛、サイドバックに駒野を入れていたら、随分守備は安定していたと思います。1失点目のCKでのマークのズレも問題ですが、ほとんどセンターラインからのドリブルからそのままゴールを許した2失点目はあり得ない失点でした。中央にヨルダンの選手は誰もおらず、1人の選手だけを止めればいいわけですから、ボールを失った酒井が内側に戻り、吉田が並走して、ハイエルを外側に追い出し、今野と内田がゴール前まで戻っていれば、何のことはない場面でした。ハイエルはメッシでもC.ロナウドでもないわけですから。代表にも心のスキがあったのでしょう。もう一つスルーできないのが、この場面、抜かれた吉田がそのままハイルの独走を許したのに対し、解説の松木さんが「ファウルで止めなきゃねぇ。失点するよりは、イエローカードをもらった方が、ずっといいわけですから」と堂々と述べていた。それを言っちゃオシマイですよ、松木さん。
色んな意味でかなり血圧の上がったヨルダン戦だったが、冷静になってみると、豪州・オマーンがそれぞれ勝ち点を分け合ったことで、得失点差を考えると、サッカーに絶対はないといいながら、日本の予選突破は、ほぼ間違いない状況。であれば、とにかく、自らのサッカーにこだわったザック采配もアリ?

2013年3月25日月曜日

No Ajax No Life

世界各国のプロサッカーリーグは、2強か3強の名門チームが常に優勝争いを繰り広げ、その他のチームが優勝することは滅多に無いというのが常態化しています。毎年優勝チームが変わる群雄割拠状態のJリーグの様な例は極めて珍しいようです。オランダのエールディビジもアヤックス、フェーエノールト(かつて小野伸二が在籍)、PSV(かつて朴智星が在籍)が3強を形成し、その中でもアムステルダムを本拠地とするアヤックスは、圧倒的な人気を博しています。アヤックスは欧州チャンピオンズリーグを4度制し、世界クラブチャンピオンにも輝いた強豪クラブですが、日本でマスコミに取り上げられることは滅多にありません。最近では、「東日本大震災直後にアヤックスが清水エスパルスをオランダに招待して慈善試合を行い、その収益金が義援金として寄付された」というニュースが報道されたくらいでしょうか。
日本とは全くというほど接点のないアヤックスですが、ヨハン・クライフが育ったクラブとして私にとっては特別な意味合いを有するクラブです。ヨハン・クライフは、1974年のドイツW杯で、「トータル・フットボール」という当時としては画期的な流動的ポジショニングのサッカーを展開し、優勝した西ドイツを凌ぐ衝撃を残したオランダ代表チームの象徴的なプレイヤーでした。当時のアヤックスにおいても、欧州CL3連覇の偉業を達成し、当時の背番号14はアヤックスの永久欠番となっています。
帰国便までの数時間、躊躇なく、空港から数10分の距離にあるアヤックスの本拠地アムステルダムアリーナに向かい、スタジアムツアーに参加してきました。約1時間のツアーガイド、ヤンは根っからのアヤックスファン。アヤックスにつき、熱く語ります。スタジアム自体は、収容人数5万3千人とビッグクラブとしては決して大きくない規模ですが、整備の行き届いたピッチといい、18分で開閉する屋根といい、クッションの効いたシートといい、全てに素晴らしいスタジアムでした。信じられないほどの急こう配の観客席は、最後列でも臨場感があり、また、ロイヤルボックスの豪華さは、これが欧州サッカーの楽しみ方かと納得させられました。いつもはツアーのクライマックスとなるはずの更衣室は、当日ツアー直前にファン・ペルシー(!)他のオランダ代表が練習の為に使用していた為、見学不可となってしまいました。「ファン・ペルシーはまだいるのか」「スナイデルは来たのか」としつこく食い下がるサウジアラビアからのツアー客に、スタジアムガイドのヤンは、苛つきながら、こう吐き捨てました。「オランダ代表の試合は嫌いだ。明日は女子供がいっぱいここにやって来て、アヤックスのライバルチームの選手を応援するんだ。判るかい。このアヤックスの本拠地で・・・・。耐えられないよ。」これが、欧州クラブサッカーサポーターの心意気です。

2013年3月21日木曜日

VVVの憂鬱

フェンローは、オランダの中部、ドイツとの国境付近に位置する人口9万人の小さな町です。特に観光スポットがあるわけでもなく、日本では全く知られていなかった町でした。しかし、5年前に本田が地元のサッカークラブVVVフェンローに移籍して以来、吉田麻也、カレン・ロバート、大津と日本人プレーヤーの在籍が続き、日本でも名前だけは聞くようになり、観戦目当てに町を訪れる日本人も少なくないようです。たまたま、電車で1時間強のところにあるエルストという田舎町に缶詰めになることになり、週末を利用して観戦に行って来ました。Jリーグと同じように試合開始2時間程前にはスタジアムまでの道にサポーターの列が出来、その流れに乗っていけば、スタジアムに行けるだろうとタカをくくって駅前のレストランで軽食を取っていたところ、閑散とした道路には全く変化なし。已む無く、道を聞きながら、約20分の道のりをスタジアムに向かうものの、レプリカユニフォームなどのサポーターの姿は皆無。それどころか氷点下ギリギリ、風の影響で更に寒く感じる屋外には人影さえまばらです。しかも、スタジアムの周りにチケット売り場はなく、スタジアムショップも閉まったままでした。そのスタジアムショップが開いたのは試合開始1時間前。チケットはどこで買うのかと聞くと、「ここだ」と答えて、レジの下から座席の配置図を取り出します。どうも年間シートの会員がほとんどで、当日券を買う観客は極く少数のようです。無事チケットを購入し、とりあえず、スタジアム内に入ろうとすると、まだ開場はしていないとのこと。ようやく入場開始したのは試合開始30分ほど前でした。小さな町ですからみんなゲーム開始時間に合わせて来場するということもあるでしょうが、スタジアムに隣接して小さなダイニング・バーがあって、試合開始までここで軽食を取ったり、飲んでいたりするようです。コーヒーで暖まりたいと思いましたが、「ここは会員だけ」と断られてしまいました。スタジアムは収容人数7,500人のこじんまりしたサッカー場です。日本でいえば、大きさといいレイアウトといい、ちょうど西が丘競技場といった感じです。ピッチもかなり荒れていて、至る所で芝生がはげたり、めくれあがっており、ここではパスサッカーは難しいだろうとの印象でした。案の定、ヘラクレス(かつて平山が在籍)との試合が始まると、両チームとも取り敢えずトップにボールを当てて、こぼれ球を拾いあうという展開。技術レベル的には高校サッカー県予選レベルといったところでしょうか。しかし、ボールへの寄せの速さと当りの強さは、迫力がありました。まさに、肉弾戦の様相で、日本代表の海外組の体幹の強さはこういった戦いの中で鍛えられるんだと改めて実感しました。サポーターも実戦派の集まりという感じで、黄色と黒のマフラー(写真は大津をデザインした特別バージョンのマフラー)は目立ちましたが、日本のようなレプリカユニ集団は無く、個々人でゲームを楽しんでいる雰囲気でした。ゴール裏のヘラクレスのサポーターは30名程度。フェンローサポーターとの区切りもなく、フェンローサポーターに囲まれながらも、男性サポーター独特の低音の地鳴りのようなチャントを繰り返していました。お目当ての大津は体調不良でベンチ外。カレンは、ワントップのポジションで頑張っていましたが、再三の決定機をはずして、後半途中で交替。隣のオバちゃんが「Go!Bobby!Go!」とかなり気合を入れて応援していました。西欧人受けする風貌もあり、人気は高いようでした。試合は、ヘラクレスのカウンターの前に、あっけなく2失点。逆に最後までヘラクレスのゴールを割ることが出来ず、0‐2の完敗でした。
VVVは現在オランダ1部リーグにあたるエールディビジで18チーム中17位と低迷しています。本田がいた頃は2部優勝で1部に復帰、吉田時代は12位と健闘していたのですが、ここ2年は17位、16位とかろうじて降格を免れている状況です。本田、吉田が結構高値で売れたにも拘わらず、そのお金を有効な補強に使えなかったのが、低迷の原因となっています。22時過ぎに試合が終わって、真っ暗な住宅街を駅に急ぐ道すがら、メンバーズルームのウェイターの言葉を思い出しました。「試合が終わったら、メンバー以外にも開放しているから、また、来るといい。日本人も時々来て、一緒にお酒を飲んでいるよ。」VVVのサポーター達は「ひどいゲームだった」と愚痴をこぼしながら、夜半過ぎまでビールを飲んでいるのだろう。そう思うと、負け試合を毎週末見せられるというVVVの憂鬱もまんざら捨てたものではないのかもしれません。敗因を肴に、いつもの仲間と週末の夜酒が飲める。それが、オランダの片田舎の弱小クラブ・サポーターの実はとても幸せなサッカーの楽しみ方なのかもしれません。

2013年3月18日月曜日

Destiny - フランクフルト空港での遭遇

理由(わけ)あってオランダに来ています。多少気の重い仕事です。ということで、オランダに向かう飛行機の中では、映画を楽しむことなく、英文資料を読むという羽目になってしまいました。乗継ぎのフランクフルト空港で、寝ぼけ眼(まなこ)で入国審査に並んでいると、隣の列に大きなマスクをつけた日本人男性がいました。顔半分がマスクで隠れていましたが、ちょっと薄茶色の瞳にはどこか見覚えが。まさかと思いつつ列を移って、マスクの男性に「失礼ですが、名波さんですか?」やや間があって、観念したように「はい、そうです。」そこで、「フランスW杯からのファンです。クロアチア戦に応援に行きました。もちろん、引退試合にも行きました。」と、畳み掛けて退路を防ぐことに成功。「今回はブンデスリーガ観戦ですか?」「いや、ミラノの長友に会いに」「怪我は大丈夫なんですかね?」「大丈夫みたいですよ」と、前振りが終わって、これからという時に、入国審査の係員が「Next!(っぽいドイツ語)」取り敢えず、名波さんを先に通して、入国審査が終わるのももどかしく、後を追って、何とかツーショットの写真を撮って頂くことができました。
ところが、モニターに写真を映し出してみると、名波の爽やかで精悍な顔の隣に、如何にも徹夜明けといった感じの、眼鏡がずり落ちて、怪しい笑顔のオジさんが・・・。憧れのレフティーに会えて、言葉を交わすことが出来ただけでも良しとしなければいけないのですが、折角ツーショットを撮らせてもらったのに、誰にも見せられないような写真とは、あまりに無念です。
松任谷由実の曲に「Destiny」という名曲があります。荒井由美ファンとしてはアルバム「14番目の月」までの感性あふれる曲に圧倒的に共感し、松任谷由実の曲には何か作られた人工的なものを感じてしまい、どうしても感情移入しにくいところがあります。しかし、この「Destiny」と「潮風にちぎれて」だけは、荒井由美本来の私小説的な香りを感じ、とても好きな曲です。2つとも失恋の曲で、歌詞に「サンダル」が出てくるのは、偶然の一致でしょうか。
ともあれ、乗継ぎまでの3時間、フランクフルト空港のコーヒーショップで、何度も写真を見直しながら、知らず知らずのうちに口ずさんでいました。「♪どうしてなの 今日に限って 安いサンダルをはいてた (今日わかった) むなしいこと 結ばれぬ 悲しいDestiny」

2013年3月2日土曜日

WBCブラジル戦

WBC3連覇を目指す侍ジャパンが初出場のブラジル相手にまさかの苦戦。サッカーとは全く逆の立場の日本代表vsブラジル代表のゲームは、別の意味で趣きのある戦いでもあります。サッカーに比べ、ピッチャー対バッターという個人対個人の要素の強い野球だけに、本来であれば、プロ野球オールスターの日本代表が、アマチュア中心のブラジルに負けるはずはありません。しかも、会場は日本のホーム。むしろ、日本が圧勝して然るべきなのですが、そうならないところが、国際試合の怖さ。ブラジルは、ギリギリまで侍ジャパンを追い込んだのですが、残り2回を守りきることが出来ませんでした。そこが実力の差であり、歴史の差でもあります。サッカーにあてはめると、ブラジルW杯本戦で、開幕戦、ブラジル代表相手にサムライ・ブルーが残り10分まで2-1でリードしていた展開といったところでしょうか。奇跡が起こるかもと期待した瞬間に、同点シュートを決められ、更には、逆転ゴール、ダメ押しゴール・・・。2年後のザック・ジャパンを裏返しに重ね合わせて、ブラジルの善戦にドキドキしながらTV観戦していただけに、何やら複雑な思いで、日本の逆転勝ちを見届けました。予選リーグ序盤で苦戦するというのは、チャンピオンチームの常。侍ジャパンにとっては吉兆かもしれません。

2013年2月24日日曜日

日本サッカーの明日

御茶ノ水のサッカーミュージアムで、サッカー検定特別表彰式と記念トークショーが開催されました。1級から4級までの成績優秀者が表彰されたのですが、その中でひと際目をひいたのが4級最年少合格者、9歳のA少年。半ズボン・詰襟の学生服姿はどこかの名門小学校なのでしょうか。インタビューの受答えも堂々たるものでした。表彰式の後で開催されたトークショーのパネラーは、日韓戦伝説のFKの木村和司氏に理論派スポーツライター金子達仁氏。2人の対照的なトークを裁くのはサッカージャーナリスト中西哲生氏。最初のテーマは、お決まりの日本代表の評価。木村氏が広島弁で「今の日本代表はすごいのう。ちゃんとポゼションが出来とる。見てて楽しいもんのう」金子氏がオリンピックでの光景を引合いに出して、こう続けます。「スタジアムで、日本人ではないアジア系の人が日の丸のフェイスペイントをして、日本を応援していた。これまで、アジアでは憎まれ役だった日本チームでは考えられなかったこと。今の日本のサッカーは他の国の人達も応援したくなるような面白いサッカーをしている」また、なでしこの世界での活躍が今後の日本サッカーにはとても大きな力になっているとのことです。「僕らの時代にはW杯に出ることすら夢のまた夢だと思っていた。ところが、1998年、2002年と連続してW杯を経験したことで、W杯は出て当たり前の雰囲気が出てきた。意識の変化は、日本サッカーが成長する上でとても大きい。なでしこのW杯優勝、五輪銀メダルは、女子サッカーの世界のことであり、男子サッカーは別と考えがちだが、小学生くらいでは男女の区別は意識しないはず。彼らにとっては男子サッカーのW杯優勝はたやすく想像できることであり、彼らが主力となる10数年後は、日本代表が世界の強豪の仲間入りしていることは十分ありえることである」(金子氏談)。それにしても、3人が口をそろえたのが、ストライカー不足。世界に通用するストライカーは釜本氏以降出ていないし、今の若い世代にも可能性を感じる選手がいないとのこと。見本となる一流ストライカーをJリーグに集めることがその打開策になるというのは面白い意見でした。最後に金子氏から9歳のA少年にメッセージ。「このままサッカーを好きでいて欲しい。プロサッカー選手になれなくとも、サッカージャーナリストという職業もあるし、サッカーチームの経営という人材も益々必要になってくる。将来、何らかの形でサッカーに関わっていって欲しい」日本サッカーの成長の為には、プレーヤーの技術向上とともに、サッカー界を支える基盤の強化、サッカー文化の向上が必須なのです。写真は、イベントの後に観覧したサッカーミュージアムの展示のひとつ、なでしこジャパンのエース川澄選手の代表ユニフォームです。彼女たちがドイツの地で開かせた大輪の花は、その後、無数の綿毛になってその種子を日本全国に運んでくれたのです。それらを大事に育んでいくことが、サッカーサポーターの使命でもあります。その使命を担ったサッカーの魅力の伝道師達。何故か会場にマドラスチェックのネルシャツ、大きめリュック姿のアキバ系ファッションが目立ったのが、若干不安ではありました。

2013年2月17日日曜日

拓郎 「雪」

鹿児島生まれ、広島育ちの吉田拓郎だけに、雪の歌は多くはありません。ただ、以前ブログで取り上げた「外は白い雪の夜」(クリックでリンク)は、拓郎ファンの中で1、2の人気を争う名曲ですし、フォークグループ「猫」に書き下ろした「雪」も如何にも拓郎らしい余韻が残る名曲です。この曲に関しては、オールナイトニッポンGoldの中で拓郎自身「これこそがラブソングだ」と自画自賛しておりました。恋心とは胸が切なく痛むものであり、そのどうしようもない切なさを歌うのがラブソングだと。最近のラブソングは、「いつも君の傍にいてあげるから」とか「君を支えてあげるよ」といった妙に冷静に愛を歌い上げるものばかりだと嘆いていました。そして、そんな「愛」の歌は、どんなに頑張っても、Simon & Garfunkleの「明日に架ける橋」を絶対に超えられないんだと。
「♫雪でした あなたのあとを なんとなく ついて行きたかった 振り向いた あなたの瞳は 早くお帰り 坊やって言ってた」
この歌にはモデルがいたそうです。デビューしたての拓郎が、地方ラジオ局の番組にゲストとして出演した際、番組終了後居酒屋で女性ディレクターと二人で酒を酌み交わしながら、将来の夢を熱く語ったそうです。お店を出ると外は一面の雪。そのほのかな雪明りの中を彼女は歩いて遠ざかっていきます。その背中を見ながら、急にこみあげてくる切ない思い。拓郎は、追いかけていって背中から抱きすくめたい衝動を必死で抑えます。「♫雪国の 小さな街に そんなわたしの 思い出がある」
写真は、先日訪れた北海道定山渓温泉の神社で行われていた雪灯路です。神社の境内に2,000の雪灯が燈され、幻想的な世界を創り出していました。すべてのものを白く包み込んでしまう雪は、まるで過去の日々を覆いつくし、消し去ってしまおうとする残酷な時の流れのようです。雪灯はかすかな記憶の中に切なく灯る思い出。「♫夢でしょうか あの日のことは 雪を見るたびに 思い出す」

2013年2月11日月曜日

Made in Japan - 小樽にて

NHKのTVドラマ「メイド・イン・ジャパン」は見ごたえのあるドラマでした。欲をいうならば、3話完結にせず、せめて1シーズン12回の連続ドラマとし、もう少し時間をかけてじっくりと見せる展開にして欲しかったということでしょうか。日本のモノづくりとは何だったのか、メイド・イン・ジャパンの凋落は何故起こったのか、今や日本の市場から脅威へ変貌した中国とどのように向き合っていくべきなのか。色々考えさせられたドラマでした。場面場面に散りばめられた昭和の香りも郷愁を誘ってくれました。太田裕美の歌う「タクミ電機社歌」。舌足らずの歌声、懐かしく耳に残りました。
ところで、この週末、小樽に行って来ました。小樽運河の南に広がる石造りの倉庫群は、おしゃれなガラス細工やオルゴール工芸のお店に生まれ変わり、女性に人気の高い観光スポットとなっています。写真は、その街並みの中心に位置するメルヘン交差点に立つ高さ5.5mの蒸気時計です。15分おきに汽笛で時を告げます。後ろの煉瓦造りの建物は小樽オルゴール堂。店内には無数のオルゴールが並び、繊細な音色を奏でていました。メルヘン交差点の北側には北一硝子直営のガラス細工店、地酒店、カフェなどが軒を並べています。北一硝子は1901年創業の老舗で、もともとは石油ランプのメーカーです。今でもランプの製造は続けており、電気の通じていない秘湯の宿や山小屋ではお馴染みのブランドです。現在では、高級グラスからアクセサリー、ステンドグラスなどのインテリアまで様々なガラス製品を製造・販売しています。北一硝子のグラスはすべて職人の手作りで、一つ一つが微妙に色合いが異なり、その匠の技は感嘆のため息を誘います。オルゴールにせよ、ガラス細工にせよ、メイド・イン・ジャパンの根底にある職人の「美と品質へのこだわり」を感じさせます。また、この小樽という観光スポットそのものが、100年以上前の歴史と伝統の建造物の中に最先端の技術やセンスを綺麗に収めたメイド・イン・ジャパンの神髄を感じさせます。小樽では、欧米やアジア諸国からの多くの旅行客を見かけました。彼らにとって小樽はとても居心地の良い「日本らしい日本」なのでしょう。今回訪れた札幌、定山渓、小樽。どの土地の人達も、とても親切でした。「Hospitality=おもてなし、一期一会」の心もメイド・イン・ジャパンです。
実は、小樽オルゴール堂は、親会社のブルーハウスがバブル崩壊後の経済不況の中で1997年自己破産した際、連鎖倒産をしましたが、存続を望む多くのファンの後押しを受けて、会社更生法の下再建を果たしたという歴史があります。失われた20年間、日本はコスト競争に身を擦り減らせてきましたが、日本の職人の美や品質へのこだわり、そして、日本人のHospitalityこそ、世界に通用し、世界で求められているものなのではないでしょうか。メイド・イン・ジャパン復活のヒントを小樽で垣間見たような気がします。

2013年1月28日月曜日

銀山温泉 - 護り続ける人達

銀山温泉は、山形新幹線大石田駅からバスで山道を40分ほど分け入った秘湯です。銀山川に面して、木造漆喰壁の洋風多層建築が軒を並べ、夕刻ともなると橋の袂のガス燈が街並みを照らし、大正浪漫の情緒溢れる素晴らしい佇まいの温泉街です。名前は、江戸初期に栄えた銀の鉱山、延沢銀山に由来しています。延沢銀山自体は江戸中期には閉山となってしまうのですが、能登出身の坑夫によって発見された温泉は、その後も湯治場として残り、大正に至ります。しかし、大正元年、銀山川の大洪水によりほとんどの温泉宿が流されてしまうという壊滅的打撃を受けてしまいます。その後、水力発電所の建設で活気を取り戻し、地元資産家の援助の下、昭和初期に温泉宿が一斉に洋風多層建築に改築し、現在の街並みとなりました。歴史の荒浪を乗り越えてきた由緒ある温泉街です。
そして、ひとつひとつの旅館にもドラマがあります。温泉街の中程にお洒落な現代風の建物があります。看板は掲げていません。銀山温泉の中で最高級の旅館「藤屋」です。金髪の米国人女将の宿として人気を集めた旅館でしたが、現在、民事再生法の適用を受けて再建中です。2006年に著名な建築家の設計による大規模な建替えを行い、部屋数を3分の1の8部屋に減らし、宿泊代は逆に3倍に値上げし、高級化を図りました。しかし、客足は遠のき、折悪しくリーマン・ショックの直撃を受け、倒産を余儀無くされてしまいました。今では、なかなか予約が取れない旅館として有名ですから、再建は順調に進んでいるのかもしれません。各旅館とも老朽化が進み、その修繕に頭を悩ませているようです。中には修繕費の手当てがままならず、客室を閉鎖し、立寄り入浴のみの営業を行っているところもあります。今回お世話になった「能登屋」は、銀山温泉のシンボルともいえる景観を有する老舗旅館です。ご多分に漏れず、建物の老朽化が進み、最近、半年間休業し、外観は保ちつつ、補強工事、内装工事を行いました。人気旅館ではありますが、経営は決して楽ではないと思います。仲居さんも3名で頑張っておられ、宿泊当日は、お一人が急なお休みで、お二人で頑張っておられました。目の回るような忙しさの中笑顔を絶やさず対応する二十歳そこそこの若い仲居さん、、各部屋を挨拶して回る若女将の凛とした立ち居振る舞い、雪の中背筋を伸ばして客の出立を見送る大女将の姿には、日本の女性の美しさを見た想いでした。時代の要請に合わせて変わり続けることは大事なことですが、そのような時代への適応は、変えてはいけない大切なものを護る為の変化なのです。そして、そのかけがえのない大切なものを護っていくことは、とても大変なことなのです。老舗旅館、昔ながらの素朴な饅頭を作り続ける和菓子屋、目を見開いたこけしの工芸店。銀山温泉郷で、タイムスリップしたような大正浪漫の美しい街並みとともに、自然と時代の風雪に耐え、日本の大切なものを護り続けている人達の姿に触れることが出来ました。みんなに宣伝し、自らもまた訪れることで、護り続ける人達をわずかでも支えていけたらと思っています。(今回もM会長、N隊長、シャフパTの秘湯仲間で訪れました。この絆も護り続けていきたい大切なもののひとつです。)

2013年1月24日木曜日

Come Together ‐ The Endへの哀歌

年末放映されたロンドン五輪総集編の録画を見直していて、開会式でThe Beatlesの「Come Together」が演奏されたのに気が付きました。この曲は、スタジオ前の横断歩道を4人が渡っているカバージャケットがあまりに有名なアルバム「Abbey Road」の1曲目に収録されています。このアルバムは、1969年9月にリリースされました。その後「Let it be」が1970年5月にリリースされ、この「Let it be」がThe Beatlesのラストアルバムとなりました。しかし、「Let it be」の最終録音となった伝説のループトップ・コンサートが行われたのは1969年1月であり、「Abbey Road」の録音が行われたのは1969年7月ですから、実際は「Abbey Road」がThe Beatlesの製作した最後のアルバムということになります。
アルバム「Let it be」で、The Beatlesの末期的な状況を悲しんでいたPaulは、もう一度昔のようにやり直したいとの思いをこめて「Get Back」を歌っています。夢に出てきた母Maryの「Let it be(あるがままに受け入れなさい)」との啓示にもかかわらず・・・。「Abbey Road」の中には、このPaulの「Get Back」の呼びかけへの各メンバーからの返歌が散りばめられています。メンバーの仲を取り持つことにすっり疲れ果てたRingoは「Octopus' Garden」で「海の底にもぐって静かに暮らしたい」と歌っています。録音中にスタジオを飛び出してしまい数日戻ってこなかったGeorgeは、その時の思いを「Here comes the sun」で「It's beeen a long, cold, lonley winter」だけど「It's alright」と自らを励ましています。The Beatlesの解散にはオノ・ヨーコが大きくかかわっていると言われていますが、Johnは「I want you」で「She's so heavy」と歌い、The Beatlesよりもヨーコを選択することを宣言しています。そして、「Come Together」。John特有のサイケデリックな歌詞です。日本で発売された当時のレコードの歌詞カードには「対訳不可能」と書かれていたそうです。歌詞は4節に分かれており、それぞれThe Beatlesのメンバーについて歌ったものだという説があります。第1節で「Hair down to his knee(髪を膝まで伸ばした)」George(写真:かなり長髪)を「He just do what he please(好き勝手にやっている)」と切り捨てています。2節目で「He wear no shoeshime(裸足の)」Paul(写真:確かに1人だけ裸足)には「He shoot Coca-Cola (コカインをやって)」「He say "I know you, you know me"(お互い知った仲じゃないかというけど)」「One thing I can tell you is you got to be free(ひとつだけ言えることは自由になっていいよということ)」と突き放しています。第3節はJohn自身について「He got Ono sideboard he one spinal cracker(オノという食器棚と一緒に(交通事故で)背骨を傷めた)」Johnは「Hold you in his armchair you can feel his disease(肘掛け椅子でヨーコを抱く。ヨーコには彼のみじめさが判るだろう) 」と嘆いています。最終節はRingoということになります。「He got early warning(早くからグループ内の亀裂に警告を発し)」「 He got muddy water he one mojo filter(泥水の中でフィルター役になっていた)」Ringoは「 Got to be good-looking 'cause he's so hard to see(目立たない存在ゆえにカッコいい奴になった)」と多少持ち上げています。
難解なのは「Come together right now over me」のリフレイン。「みんな、また、俺と一緒にやろうぜ」という単純な訳では歌詞の流れと矛盾してしまいます。「Over me」がカギなのでしょうか。「俺を超えて」なのか「The Beatlesを超えて」なのか。そういえば、Johnの発する「シューッ」というガイドボーカルは、The Beatles Anthology 3のバージョンでははっきりと「Shoot me!」と聞こえるそうです。この言葉にJohnがどう様な思いを込めていたのか、今は知る由もありません。

2013年1月21日月曜日

敗者なき戦い ‐ 高校サッカー決勝戦

大雪の為1週間延期された高校サッカー選手権決勝戦は、1月19日グラウンドやスタンドの一部に雪が残る国立競技場で開催されました。出生地の宮崎と大学時代を過ごした京都という両方所縁のある県代表の戦いとなりましたが、今回は準決勝で魅せられたブラバンと仙頭君に惹かれて、京都橘の応援団席で観戦させてもらいました。試合は大方の予想通り攻撃力に勝る京都橘が押し気味にゲームを進め、仙頭君と小屋松君の絶妙なコンビネーションで鵬翔の鉄壁の守備陣を切り裂き、先取点と勝越し点を決めます。しかし、鵬翔は高さを活かしたセットプレーからのヘディングでのゴールと強引なドリブルからのPKで追いつきます。延長戦はさすがに両者ともに足が止まり、攻めに決め手を欠いたままホイッスル。決着はPK戦へ。PK戦では往々にしてヒーローが外したりするものです。米国W杯でのバッジオ、シドニー五輪での中田英・・・。今大会の得点王で最も輝いていた仙頭君が京都橘の最初のキッカーとして蹴りましたが、スピードを抑えて右隅を狙いすましたシュートは、無情にもポストに跳ね返され、PK失敗。もう数センチ内側であったら、ゴール内に跳ね返っていたであろう際どいボールでした。結局この失敗が両チーム唯一のPK失敗となり、優勝の栄冠は鵬翔へ。PK戦が続いた今大会を象徴する幕切れでした。センターサークルから勢いよく飛び出す鵬翔イレブン、その脇で膝から崩れ落ちる京都橘イレブン。PK戦の間は両チームのフィールドプレーヤーはセンターサークル内に留まらなければならないというルール故に繰り広げられるセンターサークル内のドラマです(写真)。
CKをゾーンで守る京都橘の陣形を見て全員で飛び込む戦術でゴールをもぎ取った鵬翔の執念、強引過ぎるほどのドリブルでゴールマウスに突き進んだ迫力も見事でした。そして、6試合中4試合をPK戦でしぶとく勝利し、栄冠を勝ち得たのは精神的強さがあってこそであり、讃えられるべきであると思います。但し、サッカーに技術点、芸術点があったならば、京都橘の圧勝。京都橘の美しいサッカーは敗者という言葉にそぐわないものでした。決勝戦は、延長戦で決着がつかない場合は両校優勝でいいのではないか。心からそう思った敗者なき決勝戦でした。

2013年1月13日日曜日

「楽しもう!」 ‐ 高校サッカー準決勝

新春の陽光が眩しい国立競技場。絶好のサッカー観戦日和でした。第1試合の鵬翔(宮崎)vs星稜(石川)は星稜が先行しては鵬翔が追いつくという息詰まる展開。結局2-2の同点でPK戦へ。本大会準決勝までの46試合中そのほぼ3分の1にあたる15試合がPK戦での決着となっています。鵬翔自体も5試合中実に3試合PK戦での勝ち上がりで決勝に進出することになりました。大会の過密日程を考えると、1回戦からの延長戦導入は難しいかもしれませんが、せめて準々決勝からは延長戦を導入出来ないものでしょうか。(高校サッカー選手権は、準々決勝まで試合時間40分ハーフ、準決勝から45分ハーフとなり、延長戦は決勝のみ。)PK戦の間、両チームのフィールドプレーヤーは、キッカーを除き、センターサークル内に留まっていなければならないというルールがあります。このルールのおかげで、センターサークル内のドラマが繰り広げられることになります。PK戦決着の瞬間、センターライン上に膝から崩れ落ちたのは黄色いユニフォームの星稜の選手達。センターサークルから両手を挙げながら勢いよく飛び出していったのは鵬翔の選手達でした。
第2試合は、勢いに乗るダークホース京都橘が優勝候補桐光学園を圧倒した試合でした。体を張った粘り強い守備でゴールに鍵を掛け、高い位置からのプレスでボールを奪取して鋭いカウンターを仕掛け、3-0の快勝。司令塔仙頭君(写真右下のキッカー)のパスワークが冴えわたりました。サッカーセンス・技術ともに素晴らしい選手です。京都橘で仙頭君にも増して魅了されたのが、応援のブラスバンド(写真中央)。全日本マーチングコンテストで金賞を受賞したこともある吹奏楽部だけに、演奏は見事でした。スウィング・ジャズの定番「シング・シング・シング」は鳥肌ものでした。今大会の応援リーダー遠藤選手(G大阪)のメッセージは「楽しもう!」京都橘はピッチ上の選手も、スタンドの応援団も精一杯楽しんでいたように思えました。「サッカーを楽しんでやることが一番!それがすべてにつながる。」(遠藤保仁)

2013年1月5日土曜日

2013年 ‐ 現実に向い合う長い道のり

年末に続いて映画「レ・ミゼラブル」を観ました。前回は、とにかく音楽に圧倒され、ストーリー展開や映像の細部にこだわる余裕がなかったので、今回はじっくり観ようと、ポップコーンも控えて臨みました。前回観終わって胸に残ったのは、感動を超えた「切なさ」。今回、登場人物それぞれを追うことで、その「切なさ」の正体が判りました。主要な登場人物の殆どが、その夢や希望を叶えることなく、命を失っていく物語なのです。そして、その他の名もないキャスト達は夢とか希望を抱くことさえも許されない境遇にあります。まさに、小学生の時に読んだ原作の邦題「あゝ無情」。全編にわたって流れる「I Dreamed a Dream」は、スーザン・ボイルのカバー曲で有名です。「夢やぶれて」と意訳されていますが、「夢をみていただけ」と訳した方が、その絶望感がより正しく表現されるように思えます。この曲が象徴しているように、救いようがない物語なのですが、最後は、舞台ミュージカルのフィナーレに倣って、登場人物がみんな生き返って力強く「民衆の歌」を合唱します。「♪夢見た明日は必ず来る」と。そして、昂揚感にくるまれた切なさを胸に映画館を後にする訳です。
元旦にも、同じ切なさを感じながら国立競技場を後にしました。2013年は、J2でもがきながらも、ACLでアジアチャンピオンを目指すガンバ大阪を期待していました。それが、天皇杯決勝での余りにも惨めな敗戦。ACLという夢を失い、ガンバ大阪は、J2での昇格を義務付けられた厳しい戦いという現実を直視し、1年を過ごすことになります。ガンバ残留を表明している遠藤(写真:天皇杯決勝、CKに向かう遠藤)と今野は、J2でのJ1昇格争いに心身ともに消耗しながら、W杯代表メンバーへの生残りというもうひとつの戦いをも勝ち抜いていかねばなりません。2人の代表落ちは想像しにくいかもしれませんが、J2で戦いながら代表でのコンディションを維持していくのは決して簡単なことではないと思います。レ・ミゼラブルの冒頭の曲「Look Down」のように足下のみを見据え、現実と向かい合っていく切ない戦いが続くのです。
ガンバの戦いは、2013年の日本を象徴しているようにも思えます。明日を楽観していた間に山積した問題に、今こそ向かい合わざるを得ない状況を日本は迎えています。現実を直視し、日々の戦いに専念し、着実に勝ち点を重ねている地道な長い道のり。眼前に伸びるぬかるんだ泥の坂道を上っていけるのか。日本人の真価が問われます。


2013年1月1日火曜日

元旦はここから ‐ 天皇杯決勝

新年明けましておめでとうございます。今年も年始は、ここ、国立競技場からです。凛と澄み渡った冬空に穏やかな陽光が満ち、絶好のサッカー日和です。スタンドを埋める青と黄色のコントラストがやや色褪せた緑のピッチに映えます。柏サポーター席の一角には、約100人の上半身裸サポの肌色エリアが。クラブW杯の昂奮を知ってしまった両チームサポーターにとっては、天皇杯優勝という栄誉に加え、クラブW杯出場の前提条件となるACL出場権がかかっている大事な試合であり、応援は否が応でもヒートアップします。
前半は圧倒的なガンバペース。J2降格したリーグ戦の不振が嘘のように、ワンタッチでの細かいパス回しの連続でゴールに迫ります。しかし、それも柏の先制点が決まる前半35分まで。先制されたとたんに、緊張の糸がチームの絆の糸とともにプツリと切れてしまいました。不振は不信につながります。リーグ戦でのチームに逆戻りしたガンバ。味方からのパスを信じられない選手達の足は止まり、味方の動きを信じられない選手達は一人でつっかけては柏の守備陣にボールをからめとられます。選手交代も、機能していたサイドの倉田と二川を下げるなど、松波采配は意図不明。前半から水野をスパッと替えてチームに喝を入れたメッセージ性の高い選手交代采配のネルシーニョとは好対照でした。後半は、勝ちへの執着を思い出せず、ただ淡々と試合を進めるガンバと、勝ちを意識して早くから守りに入ったレイソルが、きっちり噛み合ってしまった盛上りを欠いた寂しいゲームでした。サッカーの素晴らしさと感動を伝える場が元旦の天皇杯決勝ならば、サッカーの怖さと残酷さをさらけ出すのも天皇杯。ガンバのACLでの劇的な復活の夢はあっけなく潰えてしまいました。最後の夢を砕かれ、負けることが許されないJ2での厳しい戦いのみが残されたガンバの1年が幕を開けます。様々な意味で厳しい現実に向き合わなければならない今年の日本に相応しい幕明けだったのかもしれません。