2010年12月31日金曜日

2010年大晦日- 復活、静岡サッカー

大晦日です。2010年の締括りは、やはり高校サッカー。等々力競技場までは自転車で30分。第一試合の途中にも拘わらず、メインスタンドは既に静学のサポーターで満員でした。ひとつだけ空いていた席に腰をおろし、飛び交う静岡訛りに身を浸していると、今年も大晦日を迎えたことを実感します。静岡代表は、個人技サッカーの静岡学園。対するは鳥取代表米子北高。米子北のエース谷尾は、フロンターレへの入団が決まっている長身のストライカーです。国見時代の平山を彷彿とさせます。米子北は、中盤を省略して、谷尾にロングボールを合わせる典型的なカウンターサッカー。伝統のドリブル突破と中盤のパス回しで仕掛ける静学にとっては、やりにくい相手です。攻めに攻めながら、ゴールを奪えず、ロングボール1発の逆襲に泣くというのが、かつての静学サッカーにありがちなパターンでした。ただ、今年の静学は、守備の意識が高く、ボールを奪われてもすぐに奪返しに行ったり、相手の攻撃を遅らせたりという動きは見事でした。終わってみれば、2-0の快勝。静学の監督が「技術力で上回り、個人技で圧倒する」と戦前話していましたが、その通りになりました。全国のレベルが上がり、個人技では勝てなくなった静岡サッカーはパスサッカーが主流になっていましたが、久々に「スペースがあったらドリブルで仕掛ける」個人技サッカーを見せてもらいました。静岡サッカー復活といったところでしょうか。帰り道に仰いだ鮮やかな夕焼けにも似た美しいサッカーを国立で見せて欲しいものです。
今年を振り返ると、ジェットコースターのような1年だったような気がします。まがりなりにも、ゆったりとした心持ちで大晦日を迎えられるのは、とても幸せなことだと思います。今年のキーワードは「復活」だったのかもしれません。
皆様、佳き初春をお迎え下さい。

2010年12月29日水曜日

遅れて届いたクリスマス・プレゼント

チョット遅そめのクリスマスプレゼントが、ふたつ届きました。
一つ目は、サッカー検定3級合格通知。自己採点で不合格を覚悟していただけに、喜びもひとしおです。前回の初めての3級検定では、異例の合格者無し。今回もかなりの難問揃いだっただけに、合格者を出す為に当初目安にしていた80点の合格ラインを多少下げざるを得なかったようです。今回の3級合格者は全国で32名。合格者の中で最高齢でした。
二つ目は清水エスパルスの天皇杯決勝進出。3連覇を目指すガンバ大阪を3-0で破る見事な勝利でした。小野が完全復活の活躍。運動量の少なさが難点といわれる小野ですが、この日は頻繁に上下動を繰返し、バランサーとしての役目を果たすとともに、前線では危険な存在としての輝きを放っていました。
決勝の相手は、かつての宿敵アントラーズ。いかにも静岡らしい真直ぐな天真爛漫サッカーのエスパルスにとっては、ちょっとした隙も見逃さないマリーシア・サッカーのアントラーズは、やりにくい相手です。しかし、今のエスパルスは、今季限りでチームを去る長谷川監督、伊東、市川の為にも、有終の美を飾りたいという強いモチベーションを持っての戦いとなります。「男・長谷川健太、最後の最後に、悲願のタイトル獲得」を見届けたいと思います。元日の国立、バックスタンドアウェー側応援席確保済みです。

2010年12月24日金曜日

Merry X'mas - サッカー・サンタの贈り物

サッカー好きなサンタが、素敵なクリスマスプレゼントを運んできてくれました。韓国・水原三星所属の高原直泰のJリーグ復帰。しかも、清水エスパルスへの移籍です。年俸の大幅ダウンにも拘わらず、清水への移籍を決断した裏側には、親友小野伸二の存在があります。
2人は三島と沼津という静岡県東部出身の同学年。小学校時代から地区大会で凌ぎを削る良きライバルでした。高校も、清水東と清水市商というライバル校に進学します。2人がともに主将を務めた3年次にも両高とも高校サッカー全国大会への出場は果たせませんでしたが、2人に静岡学園のGK南雄太(元柏レイソル)が加わった静岡県選抜は、96年・97年と国体連覇を達成しています。特に97年いさはや国体では、決勝で熊本県選抜を5-0の大差で破るなど、圧倒的な強さで優勝を飾っています。この3人は、2年後のワールドユース準優勝チームのセンターラインを形成することになります。
その後10年にわたって日本代表の攻撃の核となるべき2人でしたが、小野は2000年シドニー五輪予選での負傷で本戦出場を果たせず、高原も2002年日韓W杯直前にエコノミークラス症候群を発症して代表落ち。代表での黄金コンビ復活はなりませんでした。
14年の時を経て、清水という原点の地に戻ってきた2人が、長い間待ち続け、もはや叶わぬものと諦めかけていた夢を、現実のものにしてくれると信じています。伸二のベルベット・パスに走り込む高原のスシボンバー・シュート。こんなシーンをみたいと思っているのは、決して清水のサポーターのみではないと思います。

2010年12月21日火曜日

Project Final 2○1● - 沼津アルプスから

今年最後のイベントは、Project Final 2○1●と称して沼津アルプスに行って来ました。今回は、森林インストラクターN隊長とシェフパT(シェフ兼シェルパ)といういつものメンバーに、流浪の冒険家Dr.Kが救護係として加わり、一層賑やかなと山歩きとなりました。
F(富士山)とI(伊豆)の絶景をN(沼津)AL(アルプス)から眺めることで2010年のフィナーレを飾ろうという命名です。2○1●には、W杯での日本代表のグループステージ戦績2勝1敗という意味も込めました。山頂に立って、W杯も含めて、今年1年を総括しようということです。
沼津アルプスは、最高峰の鷲頭山でも標高392mという低山が6山連なる山脈です。標高は低いものの、ロープづたいの急斜面や両側ともすぐ谷底という痩せた尾根が続き、アルプスの名に相応しいなかなかの難コースです。全ルートを縦走すると6時間半を要しますが、今回は、昼食時間をたっぷり取る為に、大平山から志下坂峠まで北上する全体のほぼ半分の行程に留めました。
山道の途中に出現する駿河湾の眺めは格別でした。海を眺望しながらの山歩きコース自体希少で、得難いものですが、冬の柔らかな陽光をたたえて、銀青色に輝く駿河湾と緑の中に冬色漂う伊豆の山並みのコントラストは、癒され、それでいて心揺さぶられるものがありました。昼食は、贅沢な和牛のすき焼き。たっぷり1時間半をかけて、山頂での忘年会を満喫致しました。
2010年サッカー界は、代表の東アジア選手権惨敗に始まり、暗雲漂う中で迎えたW杯でのBest16という好成績に沸き、アジア大会での男女アベック優勝の快挙へと登りつめ、しかしながら、最後は2022年W杯招致合戦に敗れるという、アップダウンの激しい1年でした。私自身、ジュビロの6年ぶりのタイトル(ナビスコ杯優勝)の歓喜に浸ったり、国立のトラックを走ったり、母親の台湾の母校を尋ねたりと数多いピークを味わうことが出来ましたが、一方で、深い谷間に入りこんだりと、やはり、乱高下の繰返しの1年でした。その意味で東アルプス登山は、Finalの名に恥じない象徴的なイベントでした。
「穏やかな1年」という響きにも惹かれますが、こんなアップダウンのキツイ1年もそれなりに悪くないなと思います。ありきたりではありますが、谷があってこそ峰があり、渓があってこそ尾根があるということなのでしょう。
今回も「Mission Complete!」と高らかに宣言したいところですが、残念ながら肝心の富士山は雲に隠れたままでした。しかしながら、鷲頭山の頂きから富士市を眺めることができました(写真)。駿河湾にやや靄って浮かぶ煙突の群れは、紛れも無く想い出の地であり、煙突からたなびく煙さえ愛おしく、胸にこみ上げてくるものがありました。という訳で、小声で「Mission Complete!」

2010年12月19日日曜日

The Dock of the Bay

大和証券のTV CMでCharがThe Dock of the Bayを歌っています。心に浸みるいい歌です。
この曲は、1960年代に活躍した黒人ソウル歌手Otis Reddingの代表曲でもあり、遺作でもあります。彼は、The Dock of the Bayを録音した3日後に、公演先に移動中の飛行機事故で、26歳のあまりにも短い生涯を閉じています。
♪ 故郷のジョージアを離れ 
  サンフランシスコ湾を目指した
  何の生き甲斐もなかったから
  何も起こりそうになかったから
と、ジョージア出身の自らの生涯を歌った曲でもありました。
♪ ただ港のドックに座って
  潮の満ち引きを見ながら
  ただ港のドックに座って
  時間をつぶしているだけ
憧れのサンフランシスコでも夢をつかむことが出来ませんでした。一日中港に佇んだまま、故郷を思い出しているのでしょうか。Otis Reddingの独特の歌唱と相俟って、とてもやるせない曲となっています。人生は、故郷を離れ、住み慣れた町を離れ、新天地を探し続ける旅立ちの連続なのかもしれません。決断と後悔の繰返しが人生なのでしょう。港に座ったまま、朝日を浴び、潮の満ち引きを見つめ、夕日の沈むのを見届け、ひとつ溜息をついて、歩き始める。The Dock of the Bayは終着の歌ではなく、新たな旅立ちの歌だと信じています。
私も大きな決断をして、新たな道を歩み始めることとしました。

2010年12月12日日曜日

サッカー検定 - 玉砕

第3回サッカー検定3級を受験してきました。3級検定は前回第2回から開始されましたが、前回は合格者無しで、今回合格者が出れば、第1号認定者となります。
今年開催されたW杯からの出題を見越して、かなり綿密な予想問題を作成して勉強しましたが、見事にヤマがはずれ、玉砕しました。「初出場はスロベニアのみ」「決勝で使用されたボールの名称はジョブラニ(他の試合のボールは色が異なり、名称もジャブラニと微妙に異なる)」「日本対カメルーンの会場はフリー・ステート・スタジアム」「無敗で大会を終えたのはニュージーランド(3分けでグループリーグ敗退。優勝したスペインはグループリーグ初戦でスイスに敗戦)」「スペインの8得点での優勝は、W杯史上最低得点」「W杯で初めて使用された天然芝と人工芝の混合ピッチの人工芝割合は3%」「得点王はトーマス・ミュラー(他の3選手が5得点で並んだが、アシスト数を考慮して、ミュラーが受賞)」いずれも出題されませんでした。
「1936年ベルリン五輪スウェーデン戦での1点目のアシストは誰か?(正解:加茂正五)」エッ、アシスト!?「1979~1980年シーズンのUEFAチャンピオンズカップ優勝チームは?(正解:ノッティンガム・フォレスト)」「1972年AFCアジアカップの優勝国は?(正解:イラン)」「2008年に引退した大谷未央の所属クラブは?(正解:TASAKIペルーレFC)」は全くノーマークでした。「ホームゲーム観戦者の平均年齢が最も低いクラブは?(正解:ガンバ大阪)」という設問にはさすがに天を仰ぎました。「マダガスカルリーグでのプロサッカー1部リーグ史上最多スコアは?(正解:149-0)」は知ってはいましたが、ここまでマニアックな問題を検定に使用するのは如何なものかと。
玉砕とはいいながらも、自己採点では僅かに合格ラインに届かなかったレベルなので、悔いは残ります。「更なる高みへ」が今年後半のテーマでしたが、課題を残して、年を越すことになりました。

2010年12月8日水曜日

The Long and Winding Road

The Long and Winding Roadはビートルズの日本でのラスト・シングルとして発表された楽曲です。ビートルズの曲の中でも特に好きな曲のひとつです。メロディラインの美しい幻想的な曲ですが、「君の所へ続いているはずなのにいつもこの道に戻ってきてしまう、君に辿りつけない曲がりくねった道」というとても切ない悲しい歌詞でもあります。
前回のブログで車椅子の心象風景を綴ったのは、車椅子の母親と久し振りに会ったせいもありますが、生きていくということが曲がりくねった道を車椅子で行く光景とダブって見えたということもあります。人は多かれ少なかれ、何かを背負い、痛みや不随意と折り合いをつけながら、生きています。どうしても乗り越えられないものに直面したり、人の助けを借りなければどうしようもない局面もあります。表現が不適切かもしれませんが、それは重荷を背負って歩いていくというよりは、車椅子での歩みに似ているのではないかと思うのです。その車椅子を代わるがわる押してくれる人たちを有している人は本当に幸せです。ただ、その押してくれるペースとの折り合いはとても微妙ですし、かえってそれがストレスになる場合もあります。とても難しい問題です。自分のペースで車椅子を漕ぎながら、その前後をゆったりと歩んでくれる人たちがいる人も本当に幸せです。The Long and Winding Roadはどこにも辿りつけない道かもしれません。でも、その道を、時には誰かの車椅子とともに歩み、あるいは、自ら車椅子を精一杯漕ぎながら誰かの後を追い、時にはゆっくり漕ぎながらも、すぐそばを時々立ち止まっては一緒に歩んでくれる人の気配を感じながら進んでいくことが、人生なのだと思います。
今日は、ジョン・レノンの没後30年の命日です。彼は、多くの人々との「愛と平和の共有」を願った人でもありました。

2010年12月4日土曜日

銀杏の落ち葉を踏みしめて

銀杏の落ち葉の中を歩いていると、とても切ない気持ちになったりします。色々な幻想がとりとめもなく浮かんできたりします。そんな情景を書き留めてみました。あくまでフィクションです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
君の車椅子が、微かに湿った銀杏の落ち葉の上を滑って行く。
僕は、わずかに上下動しながら揺れる君のポニーテールをじっと眺めている。
僕は、君について来てもらうのは厭だから、君の車椅子の轍の跡を踏みしめていく。1歩踏み出しては立ち止り、1歩踏み出しては立ち止り。
君は、押してもらう車椅子のスピードには馴染めないって言う。だから、君は、すっかり細くなった腕で車輪を漕いでいく。君のペースで。
僕はちゃんと君のすぐ後ろにいるよ。そう伝える為に、わざと枯れ葉を踏みしめて、乾いた音をたてたりする。

2010年12月3日金曜日

2022年W杯日本開催ならず・・・

2022年W杯開催地はカタールに決定。佐々木りおちゃんの「12年後20歳の私は、世界中の友達を日本に招いてサッカーを楽しみたい」という願いは通じませんでした。共同開催とはいえ、2002年にW杯を開催したばかりの日本は、2022年の開催は「Too Soon」というハンディを撥ね返すには至りませんでした。日本の技術力を前面に押し出して、「世界400ヶ所で3Dパブリックビューイングを実現する」というアピールも、比較的高齢者の多いFIFAの理事達にとっては、「サッカーは実際のスタジアムで観戦するもの」という想いを逆なでするだけで、賛同は得られなかったようです。
下馬評は決して高くなく、FIFA視察団の視察評価も決して高くなかったロシアが2018年、カタールが2022年の開催地に決定したのは、経済的影響力もさることながら、初の開催地を選んで、サッカーの浸透度を広めていきたいという思いが強かったのかもしれません。
それにしても、今回の招致活動は日本全体としての盛上りに欠けていました。国や地方自治体のバックアップを得ることが出来ず、マスコミの取上げ方もどこかしらけていたところがありました。2012年東京五輪の招致合戦に敗れた時と同様、国全体の熱気に欠けていたというのが最大の敗因だったと思います。
折りからの季節はずれの土砂降りで、開きかけていた双子の薔薇(写真)もすっかりうつむいてしまいました。もう一度2002年の感動が味わえるかもしれないというわずかな期待を抱いていただけに残念です。米国ならまだしも、同じアジア地域のカタールに決定しただけに、次回アジア地域での開催は随分先になってしまいそうです。
とはいえ、気持ちを切替えて、前向きに考えましょう。カタールといえば、「ドーハの悲劇」という日本サッカーにとって忘れることの出来ない因縁の地ですが、2022年は「ドーハの歓喜」に変える事を目指したらどうでしょうか。2014年ブラジルでBest8、2018年ロシアでBest4、そして、2022年カタールで悲願の優勝。夢はイメージしなければ、決して実現出来ません。日本サッカー協会は、2050年までにW杯を自国開催し、その大会で優勝することを「2005年宣言」でうたっていますが、優勝を前倒しで実現してしまいましょう。うつむいた薔薇の花の隣では、薄紅色の薔薇の蕾が芽吹いています。

2010年11月28日日曜日

トイレの神様 - 家族愛と悔恨

植村花菜が紅白歌合戦に出場して「トイレの神様」のフルコーラスを歌うことになりました。9分52秒のとても長い曲です。おばあちゃんに育てられた幼い日々の思い出、そして、反抗期のいさかい、恩返しをする前に旅立ってしまったおばあちゃんへの悔恨の思いが切々と詠われています。
とても、とても切ない詩です。特に感動的なエピソードがある訳ではありません。どこにでもある家族の話です。だからこそ、心に響いて、とても切ないのでしょう。
「♪ どうしてだろう?
人は人を傷つけ 大切なものをなくしてく」
と、育ててくれたおばあちゃんを残して家を出ていった日を思い出して、歌っています。
家族の愛というものは、無条件の愛です。空気のように当り前で、そして、透明です。だからこそ、甘えてしまう。報いることを忘れてしまう。そして、傷つけてしまう。失ってしまった大切なものは、もう戻ってこない・・・。
大晦日に、一人でも多くの人が「トイレの神様」を聴いて、大切な人に「ありがとう」と言えたとしたら、日本の体温がちょっと上がるのではないかと期待しています。

2010年11月27日土曜日

晩秋 - 薔薇、蕾、朝露

以前、薔薇の剪定について書きましたが、秋咲きの薔薇が終わって、再度剪定された枝の先から咲き遅れた花の蕾が出ているのを見つけました。ピンク色の可愛らしい双子です。晩秋の朝の柔らかな陽射しに朝露をきらめかせながら、思いがけない冷気に身を固くしている風情でした。彼女達が花を開かせる頃には、更に温度が下がっているかもしれません。寒気漂う中で、弱々しい太陽を仰ぎ、敷きつめられた銀杏の落ち葉を見降ろしながら、咲き遅れた薔薇の花達は何を想うのでしょうか。初夏の溢れんばかりの陽光を満喫した姉達の幸運を羨み、自らの境遇を恨むのかもしれません。最後を飾る花となることに誇りを感じて、精一杯背筋を伸ばし、凛とした姿で、香り高く、美しい花を咲かせて欲しいものです。応援したいと思います。
(それにしても、日本語は偉大です。朝露、薔薇、蕾。美しい漢字です。「薔薇のつぼみ」も秘密めいていますし、「バラのつぼみ」も可愛らしさを端的に表現しています。美しい日本語を大切に伝えていきたいものです。)

2010年11月25日木曜日

快挙!アジア大会 - 男女ともに金メダル!!

なでしこ、見事な金メダルでした。ここ1~2年で中国、北朝鮮というアジアの壁を突き崩しつつありましたが、今回はその2強を破っての堂々たる優勝。文字通り、アジア最強の地位を確固たるものにした感があります。4試合無失点という安定した守備に支えられての優勝でした。身体能力の高い屈強なDF陣がいる訳ではありません。前線からの執拗なチェース、3人で取り囲んでのボール奪取、サイドに追いこんでの守備、中央のバイタルエリアの的確なカバーリングといった、正に組織での守備が大会を通じて無失点という快挙に繋がりました。言葉にすると簡単ですが、豊富な運動量と高度な戦術理解を要する守備システムです。また、連動性を前提としたシステムだけに、誰か一人でもサボると破綻してしまうというリスクと背中合せです。全員に「献身」が要求されるシステムでもあります。そして、無失点の最大の要因は、最後まで続いた体を張っての守備。文字通りの「献身」。前半ならともかく、体力的に厳しい後半の時間帯にシュートコースに足を伸ばし、あるいは体を投げ出すのは決して簡単なことではありません。なでしこジャパンで体現された、このような「連動」と「献身」の精神を、ザッケローニA代表監督は「チームスピリット」と呼び、日本代表の大きな強みであると評しています。南アW杯で岡田ジャパンが賞賛された強みでもあります。かつての日本代表は「ディシプリン(規律性)に優れているものの、規律に捉われる余り、個の力を十分発揮できない」と言われていました。やろうとしていること、やっていることがさほど変わった訳ではありません。ただ、表現の仕方が「ディシプリン」という受動的な言葉から「チームスピリット」という能動的な言葉に変わっただけで、共有されるイメージが変わり、チームコンセプトが変わったというところもあると思います。言葉は偉大です。
U-21、若き日本代表の戦い方も素晴らしいものでした。7試合1失点の守備の安定もさることながら、計17得点の攻撃力はこれまでの日本代表に無いイマジネーションと決定力に溢れるものでした。そして、劣勢を凌ぎきって勝ちをもぎ取る勝負強さ。ロンドン五輪が楽しみです。(これからアジア予選ですので、まずは予選突破が課題ではありますが・・・。)
雑感その1 : 男女決勝共に地上波での中継は無し(BS/CSでの中継)。手に汗握る素晴らしいゲーム、且つ、金メダルという快挙だっただけに残念です。
雑感その2 :TVでご覧になった方はうなずいて頂けると思いますが、決勝戦の相手UAEの監督はダイエットに成功したロナウドでしたよね。)

2010年11月21日日曜日

回帰と新たな出立 - さよなら夏休み

「さよなら夏休み」という映画が12月3日まで新宿シネマートで上映されています。舞台は1977年の郡上八幡。多感な小学生のひと夏の思い出を描いた作品です。母親に捨てられ、郡上八幡のお寺に預けられた少年の担任教師への淡い恋心、そして、運命の不条理への直面。少年は苦い想いを胸に大人への階段を昇り始めます。小林要監督は、郡上八幡の美しい自然と郡上おどりの伝統文化を要所に散りばめながら、奇を衒うことなく、淡々と少年の夏休みの日々を描いていきます。小林監督は、幼稚園以来の私の幼馴染みです。「故郷」を愛おしみ、日本の原風景を愛し、前作の「アオグラ」(青森グラフティ)でも全編青森弁で60年代の青森とそこでの若者の青春を描いています。
今回、小林監督の中学時代の仲間で、舞台挨拶に駆けつけました。2週間前に高校時代の同窓会、1週間前は、大学時代の仲間と30年振りに再会したばかり。この1ヶ月は、さながらタイムトラベリング月間でした。最近、周りでも同窓会ばやりのようです。人恋しくなる年代なのかもしれませんが、そこには、「回帰」と「新たな出立」という人生の節目があるような気がします。中学から大学にかけての青春時代は、人生の原点でもあります。眼前に広がる果てしない人生の重圧に押し潰されそうになりながら、一緒に走り始めたあの頃。その原点から、社会へのゲートをくぐって、いつしかそれぞれの道に走り去っていった仲間達が、それぞれのロードレースを走り終えて、マラソンゲートから周回コースに戻ってきたというところでしょうか。まだレースは残っていますし、ラストスパートの苦しい局面もこれからです。ただ、みんなの足取りは昔のがむしゃらなペースと異なり、随分ゆったりとしながらも安定感のある力強いものに変わってきています。
「回帰」と「再スタート」は、小林監督の重要なテーマです(間違っていたらごめんなさい)。映画のラストシーンで、主人公たちは、支えてくれる仲間達とともに「やり直す」ことを誓います。今、仲間達と「原点」を確認しあって、もう一度並走を始めていくことに、幸せと心強さを感じています。

2010年11月10日水曜日

アジア大会 - 中国戦、快勝

尖閣諸島問題で日中関係が不安定な中、大きな混乱なく、広州での中国戦が終了したのは何よりでした。武装警官による厳戒態勢が功を奏したのかもしれませんが、対日感情の鎮静化が進んでいると期待したいものです。写真の右側に写っている山羊の大会マスコットのゆるキャラらしいのんびりとした平和の祭典になってくれることを祈りたいと思います。
さて、ゲーム内容ですが、BS1での深夜の録画放映という扱いが残念でならないくらいの快勝でした。中国も、スピード豊かなカウンター攻撃を仕掛けて決定機を再三作るなど、実力の差は点差ほどなかったと思います。勝負の分れ目は、技術とイマジネーションのわずかな差。山崎の先制点の抑えたハーフボレーも見事でしたが、永井のループでDFの頭を超えたワンタッチ・パスのアシストはイマジネーション溢れる芸術的なものでした。2点目の永井のゴールは、ヘディングシュートがうまくヒットしなかったのを、前のめりになりながら、そのまま左足を振り抜いたもので、日本人離れした反応とボディバランスでした。また、ディフェンスも、紙一重で凌ぎきる勝負強さはこれまでの日本代表になかったものでした。体の入れ方、ボールを受けて前を向く技術が格段に向上しているのには驚かされました。W杯で得た教訓、課題への対処が、この短期間でA代表のみならず、ひとつ下の世代にも共有されていることにただただ驚嘆しました。今回の代表チームは、召集されていない香川、宇佐美、原口、金崎などを含めて「プラチナ世代」と呼ばれています。小野、稲本、高原の黄金世代を超える世代として期待されていますが、U17世界大会でのグループリーグ敗退、U20世界大会アジア予選突破ならずと、これまでは必ずしも期待に応えるに至っていませんでした。今回のアジア大会で実績を積み、自信を持ってロンドン五輪に臨んで欲しいと思います。

2010年11月9日火曜日

鉄人28号 - No Buddy, No Life!

写真は、神戸市新長田駅そば若松公園にそびえる鉄人28号のモニュメントです。高さ15.6m。直立すると18mとなり、実物大(?)となります。高校時代のクラス会のついでに立ち寄ってみました。高校時代3年間を一緒に過ごした41人の仲間達とは、数年前から定期的に会うようになり、全体でのクラス会を、清水、熱海に続き、今年は関西在住組が幹事となって神戸で開催しました。静岡県各地からお山の大将が集まり、競い合っていたこともあり、「なかなか馴染めなかった」「劣等感に苛まれていた」などの独白もありましたが、今にして思うと、「車輪の下」の日々で、得難い仲間達、人生のBuddyを作ることが出来たというのが、共通した意見でした。高校卒業後別々の道を歩み、それぞれの世界で大きく成長した姿に接するにつけ、静岡の片田舎の高校で偶然に素晴らしい仲間に巡り合えた幸運に感謝せずにはいられません。個々人の本質部分は高校時代から全く変わっていないだけに、その周りを覆う年輪なり、オーラなりが余計鮮明に感じられます。何ら飾る必要もなく、無防備なまま酒を酌み交わしていると、脱力しながらも不思議に力がみなぎり、澄んだ気持ちの中で物事の本質が見えてくるような気になります。飾らないからこそ、自らの人生のエッセンスを淡々と伝えることが出来、無防備だからこそ、いつの間にかそれを吸収出来る。ただ接しているだけで磨かれ、高みに導いてくれるのが、仲間。そして、時にはただ黙々と壁打ちの壁になってくれる。仲間と出会い、仲間との時間を少しずつ重ねていくことは、人生のとても大切な要素だと思います。
鉄人28号は、もともとフランケンシュタインと爆撃機B29をモデルとして生み出された悪の権化のようなロボットでしたが、読者から圧倒的な支持を得た為、正義の味方として生まれ変わらせたという逸話があります。ロボットでありながら、リモコン操縦する金田正太郎少年との関係は、決して、操縦者・兵器の関係や主人・下僕の関係ではなく、一緒に戦う仲間の感がありました。子供の頃、半ズボンでスポーツカーを乗り回し、鉄人を操作する金田少年に憧れながら、鉄人28号の姿に寡黙な頼れる友人を重ね合わせていたような記憶があります。若松公園のモニュメントは、地元出身の原作者横山光輝にちなんで、長田区の商店主たちが寄付を募って、阪神大震災後の復興のシンボルとして建立したものです。仲間が気持ちを合わせれば、これだけのものを作ることが出来るというシンボルでもあります。色々な仲間達と何かを残すことが出来たらと、ふと考えるこの頃です。No Buddy, No Life!

2010年11月7日日曜日

Project SM@SH - 空と君のあいだに

「空と君のあいだに」はTVドラマ「家なき子」の主題歌として大ヒットした中島みゆきの代表作です。曲の題名は「空と君のあいだに」なのに、サビでは「空と君とのあいだには今日も冷たい雨が降る」と「君」の後に「と」が入ります。気になります。単なる見落としか意図的なものか?中島みゆきは本当にミステリアスなシンガーソングライターです。
少し前にProject SM@SHと称して、秘湯巡りメンバーで、その中の長老SMさんの中伊豆の別荘(Second House)にお伺いしました。別荘でのSMさんのロハスライフを拝見し、併せてテニスを楽しむということで、Project名はSM@SH。我ながらお洒落なネーミングです。そのProject で出会った「空と君のあいだに」の風景2題。
上の写真は、空と君のあいだに「海」があります。伊東の南のはずれにある赤沢温泉無料露天風呂は、すぐ下まで太平洋の波が打ち寄せています。目をこらして頂くと、写真の右上に船が浮かんでいます。脱衣所も無い混浴で、ついつい裸で入ってしまうのですが、地元の人も海遊びの後などに入るので、出来るだけ水着着用で入って欲しいとのことでした。
下の写真の空と君のあいだには「清流のせせらぎ」があります。川端康成が伊豆の踊子を執筆したことで有名な天城湯ヶ島温泉旅館湯本館の露天風呂です。文字通り野趣あふれ、日本人に生まれたことを感謝せずにはいられない贅沢な露天風呂です。天を仰ぎながら入れるから露天風呂なのですが、その「空」を思いっきり満喫できる2つの温泉でした。
中伊豆での別荘ライフ、露天風呂巡り、伊豆稲取「徳造丸」の金目鯛の煮付け、三島「うなよし」の鰻丼、そして、雨の合間を縫ってのテニス。濃厚な48時間でした。いつも通り、Mission Complete!!

2010年11月3日水曜日

歓喜 - ナビスコ杯決勝

Jubiloはポルトガル語で「歓喜」を意味します。ジュビロ磐田の名前には、サポーターをはじめ、全ての人々に感動と喜びを与えるという意味が込められています。10年前のジュビロ全盛時代には毎試合歓喜を与えてくれました。しかしながら、世代交代に失敗して長い低迷期に入り、一昨年にはJ2との入替え戦の末辛うじてJ1 に留まるという苦い経験も積みました。2003年度の天皇杯優勝以来、タイトルから遠ざかっています。一方のサンフレッチェ広島は優勝すれば初タイトル。国立でのナビスコ杯決勝は、両チームの緊張感がピッチ全体を覆いつくしているような重たい立上りでした。両チーム通じての初シュートが前半15分上田のFKという、双方とも慎重に守備を固め、ラストパスを通させないという展開。前半36分の船谷のヘディングシュートによるジュビロ先制からゲームは一挙に加熱し、ボールキープ率では圧倒的にジュビロながら、カウンターからの少ないチャンスを確実にものにした広島が、後半3分に2-1と逆転。押しに押しながらゴールの遠いジュビロ。流れは完全に広島。勝負のあやは、両監督の采配でした。後半15分、先制点をあげた船谷に替えて菅沼投入。ジュビロ柳下監督が動き、この采配がズバリ当たりました。その菅沼に左サイドを切り裂かれ続けた広島は、残り10分、たまらずミキッチを下げて守備固めに入ります。佐藤寿人を負傷で欠き、李は同点ゴールシーン以外はほぼ封じ込められ、唯一機能していたミキッチを下げてしまった広島ぺトロヴィッチ監督は自ら3本の矢を折ってしまった感があります。一方、柳下監督は、ジウシーニョに見切りをつけて山崎を投入し、更に勝負に出ます。流れはジュビロに傾き、終了間際の前田の同点弾は必然ともいうべき展開となりました。延長戦に入っての菅沼、山崎の立続けのゴールという交替采配がズバリ当たっての柳下監督快心の勝利でした。主催者発表のMVPは前田(2ゴール2アシストと数字上は文句無し)でしたが、真のMVPは120分間ピッチを走り回り、攻守の要そして起点となり続けた西だと思います。そして、影のMVPは柳下監督。と、勝手な評論は出来ますが、リーグ戦から中3日のジュビロに対して、広島は中2日というハンディを負っており、延長戦に入ったら不利は明らか。ぺトロヴィッチ監督として守りに入らざるをえなかったのは已むを得ない選択でした。また、1点ビハインドの状況で、点を取りに行った柳下采配も当然といえば当然。しかしながら、一方は名采配と称えられ、一方は敗戦の責任を一身に負うという、指揮官とは厳しい職務です。
今回は、新潟から駆けつけた反町姫と久々に再会し、神保町の中華料理店で祝杯をあげました。「歓喜に包まれて」といいたいところですが、あまりにも長い間歓喜から離れていたせいか、どうも喜び方がしっくりきません。常勝ジュビロ復活に向けての第1歩を踏み出した記念すべき日に、とりあえずは乾杯。(写真は国立ジュビロサポーター席の歓喜の瞬間)
P.S. ブログを開始して2年余。アクセス数が5,000を超えました。つたない独り言をお読み頂いている皆さんに感謝し、このネットを通じての見えない絆を大事にしていきたいと思っております。

2010年10月31日日曜日

大戸屋にて

先日、会社の帰りに大戸屋で釧路沖生さんまの炭火焼定食(写真)を頂きました。「産地直送、冷凍せずに生のまま店舗で焼き上げる」と銘打っているだけに、なかなかのものでした。
その時の出来事です。目の不自由な若い男性が、白い杖をつきながら入って来ました。たまたま戸口にいた若い男の店員さんが「お一人様ですか」と声をかけると「はい、一人です」の返事。どう対応するのかと見ていると、若い店員さんは「お席にご案内します」と、男性の手を取って、私の隣のソファ席に着かせました。「何を召し上がりますか?」「・・・・。メニューはありますか?」若い店員さんは動じることなく「どのような料理をお召し上がりになりますか?」「豚肉を」「それでは、ロースかつ定食、ロースの黒酢炒め定食、ロースかつの卵とじ鍋定食、・・・」としゃがみこみながら耳元でメニューを読み上げる店員さん。結局、男性は生姜焼き定食を注文し、テーブルに置かれた水のグラスとお茶の湯呑を時々指先で確かめながら、料理を待ちます。しばらくして、同じ店員さんが料理をのせたお盆を運んできました。彼は、「お盆をテーブルに置かせて頂きます」と伝えて、静かにお盆を置くと、男性の手を添えて「右側手前がご飯です。その上がお味噌汁。真ん中の小さな器が漬物です。生姜焼きは、左側のお皿で、お皿の上の方にサラダがのっています。ドレッシングはおかけしてよろしいですか?」と料理の場所をひとつひとつ説明していきます。
全てが気負いもなく、引け目もなく、淡々と当り前のやりとりのように進んでいました。横でハラハラしながら見守っていた自分が気恥ずかしく、顔が火照る思いでした。清々しい出来事でした。若いお二人のお互い堂々とした対応に大いに教えられました。感謝したいと思います。これからは、大戸屋をちょっと贔屓にしていくつもりです。

2010年10月25日月曜日

グリーンリボン・ランニング・フェスティバル

最近は、乳がんに関する啓蒙活動のシンボルマークであるピンクリボンが有名ですが、臓器移植医療啓蒙活動のシンボルマークであるグリーンリボンの方が、世界的にみると歴史が古いそうです。グリーンは成長と新しい命を意味し、リボンはギフト・オブ・ライフ(いのちの贈り物)によって結ばれたドナーとレシピエントの命のつながりを表現しています。
10月24日NPO法人日本移植者協議会の主催で、グリーンリボン・ランニング・フェスティバルが開催されました。10km、3km、駅伝、親子ペアランが、国立競技場と神宮外苑コースで行われました。昨今のランニングブームで、特に10kmは応募者が多く、大変な人気だったようです。何しろ国立競技場のトラックを走れるというのは、めったにないチャンスで、これに魅かれた人が多かったのではないでしょうか。かくいう私もそのうちの一人です。フェスティバルにはボランティアとして参加し、3kmランに参加しました。3kmランの方は、この日に向けて、この2ヶ月週1回程度のペースで走っていましたが、20分の壁が破れず、最後尾を走る悪夢にうなされていました。ところが、大勢の中で走ると、ペースに乗せられて、自己ベストを3分以上上回る16分53秒でゴールすることが出来ました。参加者の真ん中よりやや後ろという感じでした。改めて、「みんな」の中で得られるパワーというものを実感した次第です。このイベントは、臓器移植者、提供者が障がい者や一般の健常者と一緒になって走り、「いのち」と「健康」の大切さを分かち合おうという目的で行われているものです。開会式では、臓器提供者への感謝の気持ちを込めて、一斉に風船を空に向かって放つセレモニー(写真上)が行われました。緑・赤・白の3色の風船は、移植者・提供者・一般人を意味しているのかもしれません。象徴的で感慨深いセレモニーでした。このイベントは、3,500名のランナーと数百人のボランティアによって実現しました。寄付をしたり、署名をしたり、セミナーを開催したりという、いわゆる「助ける」活動は勿論大切ですが、今回のような「秋の日に爽やかな汗を分かち合う」イベントも「一緒に生きている」ことを確認する上で、とても意義深いものだと思いました。
ボランティア活動は、フェスティバル終了後の道路のコーン片付けとスタジアム観客席のゴミの回収。このようなイベントは、色々な部分でボランティアに支えられているということを改めて実感した次第です。コーンを担ぎながらランニングのコースを遡るのも精神的にきついものがありましたが、スタジアムの階段も筋肉痛の出始めたふくらはぎにこたえました。下の写真は、憧れの国立のピッチの芝です。もちろん、ピッチには立ち入ることは出来ませんでしたが、ここまで芝を間近かに見ることが出来て、満足です。不謹慎と怒られそうですが、ボランティアのささやかな役得としてご容赦下さい。
このフェスティバルを通じて蒔かれたグリーンリボンの種が、このピッチの芝のように青々と芽吹いて、広がっていくことを祈りたいと思います。本当に気持ちの良い秋の一日でした。

2010年10月23日土曜日

龍馬外伝 - 弥太郎の宴会5ヶ条②

江東区清澄の清澄庭園は、かつては、岩崎弥太郎(写真)が造成した三菱社員の親睦と賓客接待を目的とした庭園でした。弥太郎は、その開園にあたって、宴会のルールを示した「公会式目」を定めました。龍馬伝でライバルとされている坂本龍馬の「船中八策」と比べるのは、そもそも無理がありますが、弥太郎のひととなりがよくあらわれていますので、その要旨を紹介させて頂きます。
まず、その第1条で、社員慰労会を春秋の2回行うが、会においては、礼節を保つようにとしています。第2条では、一応酒は用意するが、食事は質素を旨とし、二汁五菜に留めると、弥太郎らしい細かさが顔をのぞかせています。第3条では、芸者には酌だけさせて猥芸の具にしてはならない、また、大声で歌うなど騒いではならないと定めています。愛妻家の一面でしょうか、あるいは、そもそも、土佐流の酒の飲み方は慎み、酒はスマートに飲めということでしょうか。更に、第4条で、度を過ごして酒は飲むなとし、酒を強要してはならないとしています。最後に、時間厳守、予定通り開会し、予定通り閉会することとマナーの基本を述べて第5条としています。
本社の東京移転に伴い、花の都に出てきた土佐のいごっそう達を、都会のビジネスマンに育てていくためには、このような細かいルールを示していくことが必要だったのでしょう。そして、実際に、庭園の開園式で酒を飲み過ぎて失態を演じた4人の社員に、翌日、式目違反としてクビを申し渡しています。弥太郎は、極めて厳格な経営者だったようです。
オマケ:全く関係ありませんが、今日仕入れたジョークです。「クリントン夫妻がガソリンスタンドに立寄ると、その店員がなんとヒラリーの元彼。2人が懐かしそうに話をしていたのにヤキモチを焼いたクリントンが「ヒラリー、良かったね、私を選んで。もし、彼と結婚していたら、今頃、君はガソリンスタンド店員の奥さんだったってわけだ」「何言ってるのよ、ビル。もし、私が彼と結婚していたら、今頃、彼が大統領よ。」

2010年10月22日金曜日

龍馬外伝 - 弥太郎の宴会5ヶ条①

NHKの龍馬伝も佳境を迎えつつあり、いよいよ夕顔丸での船中八策起草です。高知の蔵元「司牡丹」は龍馬ゆかりの酒蔵として有名ですが、「船中八策」「日本を今一度せんたくいたし申候」「坂竜飛騰」など龍馬にちなんだネーミングの辛口のキレのいい日本酒を造っています。多少辛過ぎるのと、さすがに便乗商法気味なので、敬遠していましたが、先日、吟醸酒「夕顔丸」を飲んでみたところ、土佐のお酒らしくない滑らかな飲み口で、これはお勧めです。また、土佐のお酒でお勧めといえば、亀泉CEL-24(写真)。CEL-24は、新政六号と同じで酵母名がお酒の銘柄となっています。日本酒度-8.5という信じられない甘口で、騙されたと思って飲んでみたところ、これが甘さを感じさせないキレのよさ。フルーティな香りに程よい酸味で、不覚にもはまりました。キンキンに冷やして飲んで下さい。
閑話休題。話を戻して、その龍馬伝。もともとは岩崎弥太郎伝が企画されましたが、一企業グループの創始者を主人公とするのは如何なものかという意見があり、ボツとなりました。しかし、企画を全て捨て去るのは忍びなく、龍馬伝を制作するにあたり、弥太郎を語り部にすることで、弥太郎の生涯も重ね合わせる形としたということです。また、当初は、龍馬暗殺後、弥太郎を中心した話を数回放映するシナリオだったのが、「福山龍馬を最後まで出し続けろ」という視聴者の声があまりに大きく、龍馬暗殺の回を遅らせるようシナリオが書き換えられたという話もあります。
と、閑話休題になっておりませんでしたので、今度こそ、閑話休題。その弥太郎です。甥にあたる小弥太(三菱四代目社長)の訓諭は、三菱商事の企業理念である三綱領として、今の世に引き継がれていますが、三菱の創始者である弥太郎は宴会の心得5ヶ条を残しています。弥太郎のひととなりが窺えますので、紹介させて頂きます。というところで、紙面が尽きて(?)しまったので、本題は次回に。 To be continued......

2010年10月19日火曜日

台湾紀行3 - 飲茶の旅

台湾の旅も最終日。今日は、フライトの関係で実質半日のスケジュールながらも、菜心のママは、タップリ1日のコースを頑張って半日に詰め込んでくれました。汐止で牡蠣入り素麺と汁米粉の朝食を取った後、朝市を見て回って、更に基隆河河川敷公園を散策してから、忠列祀へ。まさに様式美の極致である衛兵交替式の感動を引きずったまま、郊外の広大な盆栽園へ。素人でも名匠の技の凄味が伝わってくるような一鉢、一鉢を観賞した後は、台北中心街へ戻って、飲茶で中国4,000年の味を堪能。
これでもかこれでもかというくらい、次々にこだわりの料理を出してくれていた菜心のママらしい、超豪華フル・コースのスケジュールでした。感謝してもしきれませんし、たまたま連れて行かれて、味にはまって、通い詰めた東京でのご縁がこのような夢のような台湾旅行につながっている運命の不思議さと素晴らしさを感じずにはいられません。味わい深い一品、一品が間を置かずに次から次に出てくる旅でしたので、最後の食事が飲茶で締め括られたのは象徴的でした。
菜心のママは元気でした。菜心ファンの為に、ママの写真を掲載致しました。台北の中心部のマンションから郊外の菜園まで毎日通い、野菜を育て、植樹をしています。日本流のゴミの分別を地域に普及させたり、ネットで天燈の作り方を広めたりと、相変わらずエネルギッシュに動き回っています。菜園の中に民宿を開くのが今の夢ということですが、日本での生活への未練も断ち切り難く、気持ちは日々揺れ動いているようです。菜心ファンとしては、是非もう一度日本でお店を開いて欲しいのですが、台湾料理はやはり台湾で食べるのが一番なのかもしれません。故郷の自然と家族に囲まれたママを見ていると、大久保にいた時とはまた違った輝きを放っていました。天燈は輝きながら天に還って行くということでしょうか。
空港に向かう時間になって、漸く太陽が顔を出して、台湾らしい暑さになってきました。「今度は晴れた時に来てよ」ママが、怒ったような顔で空を見上げながら口にします。我々に向かって行ったのか、空に向かって行ったのか・・・。3日間、本当に有難うございました。

2010年10月18日月曜日

台湾紀行2 - 天燈

台湾2日目の旅程。松山オフィス街でビジネスマン向け台湾ファーストフードの朝食→故宮博物館→野柳地質公園(「クレオパトラの横顔」の奇岩)→金山金包老里街の老舗鴨肉食堂で昼食→烏來(トロッコ列車、白糸瀑布)→菜心のママの菜園でママのおもてなし晩餐→ぎょう河街観光夜市。と、書いているだけで、自分でも驚かされるイベントのぎっしりつまった長い一日でした。
菜心のママのお父さんは、台北でも有名な茶園の経営者で、台北市北東部の山一帯を保有しています。台北に戻ったママは、お茶作りを手伝う一方で、山の一部に「王家の菜心の菜園」と名付けた畑を拓いて、野菜や果物を育てていました。菜園の中の(製茶作業所の一部を改造した)ママの別荘での晩餐は、菜園で採れた果物(パパイヤ・釈迦頭・ドラゴンフルーツ・蓮霧・菱の実)に始まり、鶏の丸焼き、採れたてのネギ、茄子、サツマイモの葉を調理した台湾家庭料理という超豪華版。
食事の後は、前庭に出て、「天燈(テンダイ)上げ」を楽しみました。天燈は、針金で留め合わせた竹片の輪に4枚の大きな紙を風船状に貼り合わせ、灯油をしみこませた紙の束をつるした、いわば紙製の熱気球で、子供がすっぽり入る位の大きさをしています。紙風船の4面に願い事を書いて、皆んなで一斉に夜空に飛ばすというとてもロマンチックな台北の伝統行事で、旧正月に行われるとのことです。風船の端を2人か3人でつまみ、つるした紙の束に火をつけると、風船がみるみる膨らみます。「行ってらっしゃい」という掛け声とともに手を放すと(写真上)、天燈は儚げな灯りを揺らしながら舞い上がっていきます。数十mまで上昇した天燈は、気流に乗って数km先まで飛んでいくとのことです。雨があがったばかりの漆黒の闇空に、淡いオレンジ色の灯りが上っていき、やがて視界の外に消えていく様は、神秘的であり、ある種の感傷を呼び起こします。晴れた日であれば、天の川がくっきりと見えるそうです。「天の川を流れていく天燈を見せてあげたかった」と菜心のママは曇り空を恨めし気に見上げていましたが、ママの手作りの天燈の灯りが天に帰っていく姿(写真下)をみただけで十分でした。願いが本当に叶いそうな気がしました。

2010年10月17日日曜日

台湾紀行1 - 基隆は今日も雨

台湾北端の港町基隆は、雨の日が多く、年間280日以上雨が降るとのことです。この日も、しのつくような雨が街を濡らしていました。日本統治時代には、日本海軍が駐留する軍港として、また、日本と最も近い立地から日本との貿易港として繁栄しました。一時期は、人口の4分の1を日本人が占めており、私の母もその中の一人でした。母は、女学校時代まで基隆で暮らし、終戦とともに日本に引き揚げてきました。
台湾の旅は、図らずも、母が戦時下青春時代を過ごした女学校から始まることになりました。
ここで話は前後しますが、大久保に菜心という台湾料理の名店がありました。台湾人の女将さん一人で調理から配膳まできりもりする小じんまりとしたお店で、台湾のお袋の味ともいうべき家庭料理が絶品でした。その菜心のママが、店を閉じて、故郷の台北に戻ってしまってから2ヶ月。ママの「台湾に遊びにおいで」の言葉に甘えて、お店の常連仲間と連れだって、今回の台湾の旅となった次第です。宿も観光旅程もママにお任せ。ただ、時間が許せば、私の母親が通っていた基隆の女学校に行ってみたいとお願いしておりました。
菜心の売りは、料理の味の他に、ママのサービス精神・ホスピタリティにありました。珍しい台湾の果物をデザートにサービスしてくれたり、料理の味付けを褒めると秘伝の「醤」を分けてくれたり・・・。とにかく、客の喜ぶ顔をみるのが楽しくて仕方がないという感じのママでした。そんなママだけに、学校の門の前で写真を撮るだけのつもりでお願いしていたのが、行ってみるとママの交渉力(?)で、何と校長室に招かれて校長と面談の上、ご丁重な記念品まで頂き、その後は女子高(写真・現在は生徒数2,000人のマンモス校)の校内を教務主任が案内という至れり尽くせりの歓待でした。その上、母が通っていた小学校が近くに残っているとの話をすると、教務主任自ら現地に案内して頂き、台湾の方々の親切さにはつくづく感激致しました。この間、女性職員が大きなカメラでフラッシュをたきながら写真をバチバチ撮っており、校内新聞でどのように掲載されるのか、厚顔無恥な日本人にとっても、多少心配なところであります。
小学校は、裏山を背負った丘の中腹にあり、校舎自体は勿論改築されていましたが、周りの風景は母に聞かされた面影を残しておりました。終戦のあの頃、基隆の町は、やはり雨に煙っていたのか、老いた母に聞いてみようと思います。(1日目の旅程:桃園国際空港→基隆→九份(「千と千尋の神隠し」の舞台)→基隆夜市→台北ホテル)

2010年10月16日土曜日

Project Post WC - 高みへ その3 完結編

新生サムライ・ブルーは、南アの地で守備面での覚醒とBest16の経験値という貴重な財産を獲得し、更なる「高みへ」向かって力強い歩みを開始しました。アルゼンチン、そして、メッシ、テベスという世界のビッグネームにも臆することなく立ち向かい、アウェーの韓国でも自らのサッカーを貫いた戦い方は、自信に満ち溢れ、ザッケローニ監督のいう「伸びしろ」を十二分に感じさせるものでした。
一方、今回の山岳行は、3,000mの山並みを10時間かけて縦走という私にとっては初めてのチャレンジであり、「高みへ」というテーマに相応しいものでした。鬱々たる霧雨の中の黒部ダムに圧倒された翌日には立山の山頂からその黒部ダムをはるか下に見下ろし、文字通り「高みへ」向かった旅でした。立山三峰を踏破し、地獄谷経由室堂に戻る途上に別山があります。ちょうどここからが下りの道のりとなり、ある種の達成感と余韻に浸りながらも、急な下り坂に踏出す1歩1歩に集中する行程となります。写真は、別山から望んだ剣岳です。高さは、別山2,880m、剣岳2,999mですから、見上げる程ではないのですが、剣岳という名前に象徴されるように、人を拒むような猛々しい山容に圧倒される想いがしました。実際に、剣岳は一般登山者が登る山の中で最も危険な山とされています。また、かつての立山信教(立山は富士山、白山とともに三霊山のひとつ)においては、剣岳は信仰の対象であり、登ることが許されておりませんでした。その神々しい山並みは、文字通り、更なる「高み」であり、辿り着いた高みの向こうには別次元の高みが待ち構えておりました。
ひとつの高みを極めた時、更なる高みに向けて目線を上げること、一方で、足元を見つめながら、一歩一歩慎重に歩を進め、ひとまずは、ベースキャンプまで後退すること。いずれも、人生における重要なプロセスであるように思えます。
追記1 : ブログにリアクションの機能を追加しました。読者の皆さんの感想を自由にご回答下さい。。
追記2 : 実は、今、台北におります。この地で人生はドラマだとつくづく思いました。詳細は後ほどブログでご報告させて頂きます。

2010年10月13日水曜日

日韓戦 - 勝率15.7%










11勝21分38敗。昨日の日韓戦をドローで終えた後の通算成績です。7回対戦して1回勝ち、4回負けるという計算になります。これはかなり分が悪い相手だといわざるを得ないでしょう。ここ数年でその差は急速に縮まっている印象があり、実際FIFAランキングも日本が33位、韓国が40位と日本が上位に位置しています。しかしながら、ここ10年の戦績をみても日本の1勝3分4敗と殆ど勝率に変化はありません。更にここ数日間、韓国代表には、女子U-17W杯決勝でPK戦負けで優勝をさらわれ、男子U-19代表もU-20W杯アジア予選準々決勝での痛恨の逆転負けで世界への夢を断たれるという悔しい負けが続き、A代表の対戦でかろうじてドローを拾った感があります。残念ながら、サッカーの世界では、いまだ日本は韓国の背中を追っている状況にあることを認めざるを得ないと思います。
アルゼンチン戦に続いての完封が示す通り、日本代表の守備は安定していました。また、DFラインも高い位置を保ち、早い攻守の切替えに繋げていました。ボランチ陣、香川・松井のウイングハーフに加え、本田・前田までもが、自陣深くまで戻って守備をこなし、守備のブロックをより強固なものにしていました。一方で、攻撃は、韓国の早いプレスもあり、前を向いての展開がなかなか出来なかったのが、アルゼンチン戦との違いでした。前を向いた選手に次から次へパスが繋がる直線的な攻撃の展開だったアルゼンチン戦と異なり、昨日のゲームでは、前線の後向きの選手にボールを当てて、後列に落としたボールをサイドに展開するという「1歩下がって2歩進む」的な展開にならざるを得ませんでした。それでも、「岡田監督時代は攻撃に転じるときに余計なパスが多かったが、今の日本代表は、すごく攻撃が早くなったというイメージがある」と韓国代表監督が評しているように、新生ザック・ジャパンの攻撃力は岡田ジャパン時代に比べ確実に相手にとって脅威を増しているといえます。脅威をいかに現実のゴールに繋げるかがザック・ジャパンの今後の課題となります。
後半32分松井のセンタリングが明らかに韓国選手の手に当ったにも拘らずPK判定とならなかったのは、アンラッキーでしたが、松井がその前の絶好のシュートタイミングを逃したのが全てであり、下手にPKの1点で勝敗を決するよりは、スコアレスドローの方が、緊迫感溢れるゲームの評価としては妥当だったと思います。両チームとも最後まで集中力を切らさなかった好ゲームでした。ただ痛恨事は、駒野の右腕骨折。ジュビロ磐田の久々のタイトル獲得のチャンス、11月3日のナビスコ杯決勝には間に合いそうもありません。

2010年10月11日月曜日

高みへ - アルゼンチン戦

メッシ、メッシ、メッシ。埼玉スタジアムはアルゼンチンの10番のレプリカユニフォームを着た子供たちが至る所で目につきました。また、アルゼンチンの応援席にもブルーの日本代表レプリカを着たサポーター達が。ザック・ジャパンの船出のゲームは、さながらメッシ一人にスタジアムジャックされた様相でした。そして、キックオフ早々メッシが魅せます。ボールが足に吸いついているような小刻みな高速ドリブルに、日本のDF陣がいきなり翻弄され、ピンチを招きますが、その後のディフェンスは安定感に溢れ、ザック・ジャパンの目指すサッカーを予感させるものでした。
岡田ジャパンのW杯での守備的布陣は、CBの両脇にやや高めにSBを配置し、その1列前にボランチを置いた六角形を押しつぶしたような陣形で、その六角形の中心に阿部を配したものでした。いわば、蜘蛛の巣でボールを絡め取るような守備陣形でした。それに対して、新生ジャパンの守備陣形は、CBとSBの横一線の前にボランチの両脇に岡崎、香川の両ウイングがフラットに並び、8人で長方形のブロックを構成し、敵の中央突破を撥ね返す布陣でした。これがアルゼンチン相手に、見事にはまりました。南米の雄のプライドか、中央突破にあくまでこだわるアルゼンチンの攻めに対して、日本の長方形のブロックが面白いように機能します。長身のイグアインをターゲットにハイボールを放り込んできたり、サイドをついてきたら、あるいは、日本の金星はなかったかもしれません。また、親善試合が故の6名までの選手交替も日本に有利に働きました。攻守の切替えの都度、激しい上下動を繰り返す岡崎・香川の動きは、90分間持続するのは不可能であり、2人のスタミナが切れた時には、日本の強固な守備のブロックに亀裂が生じることになるからです。
いずれにせよ、ザック・ジャパンのコンセプトが明確に表現されたナイス・ゲームでした。ただ、その真価は、アウェイでの日韓戦で問われます。南アW杯でのBest16を足懸りに、どこまでの高みを目指し、どこまでの高みに至ったのか。U-19アジア予選で、U-20W杯本戦への道を断たれた弟分の雪辱を果たせるのか、注目です。
(ところで、埼玉スタジアムで隣り合わせたご夫婦のご主人の方は、なかなかのサッカーフリークオヤジで、味のある解説を奥様にしておりました。香川の中央への切込みに際して、「行け、行け、香川、ドルトムント香川」の絶叫の後にポツリと「四国のチーム」。よほど、自分で気に入ったのか、もう一度「ドルトムント香川、四国のチーム」とつぶやき、ニヤリと笑っておりました。座布団1枚。)

2010年10月3日日曜日

Project Post WC - 高みへ その2

標高2,410m、日本で一番高所にある温泉、「みくりが池温泉」で目覚めた朝は、雲海の上でした。下界は雨なのでしょう。山の上は、曇りがちながらも、無風の絶好の登山日和。映画「剣岳 点の記」にも出てきた玉殿岩屋に立ち寄った後、いよいよ、雄山→大汝山→富士の折立の立山三山の縦走に向かいます。いつもながらのゆったりとした昼食(今回はタンメンにPlus Oneのワンタンを加えた野菜たっぷりワンタン麺)を含めて約10時間の行程。初めての北アルプス登山に加え、長丁場の山歩き。まさに、「高み」への挑戦でした。写真は、大汝山山頂からの眺望です。雪渓の向こうにエメラルド色に輝いているのは、黒部湖です。湖の左端の建造物が、黒部ダムです。前日に間近かで観たその威容も、3,015mの高さから見下ろすと、気が抜ける程の小ささです。大自然の前では、所詮、人智人力が結実した大事業も、ちっぽけなものに過ぎないということなのでしょうか。山はどこまでも高くそびえ、その上にどこまでも続く空が広がり、雲が悠々と流れていました。

2010年10月2日土曜日

Project Post WC - 高みへ その1

日本代表は、ザッケローニ新監督の下、新たな高みに向けて歩みを開始しました。我々、山と秘湯を愛する凸凹トリオも、「Post WC - 高みに」のProject名で高みに挑むこととしました。
「日本秘湯を守る会」という秘湯の宿の会があって、この宿に泊まるとスタンプがもらえ、10個貯まると1泊無料という特典を得ることができます。今回、期間限定でスタンプがダブルになるキャンペーンが実施され、早速、このチャンスを活かすべく、秘湯を絡めた立山縦走を企画致しました。「Plus One STamp W Campaign - TAteyama Kita-Alps MIkurigaike-onsen」ということで、Project名は「Post WC - 高みへ」。WC(W杯)後の日本代表とともに、更なる高みに到達しようとの想いも込められています。いつもながら、完璧なネーミングであり、森林インストラクター資格保有者N隊長の行程も完璧でした。しかしながら、天候には勝てず、初日は雨。立山のベースキャンプとなるみくりが池温泉に向かう途上の黒部ダムも雨に濡れそぼっていました(写真)。昭和31年に開始された黒部ダム建設は7年の歳月と延べ1,000万人の作業員を要し、171人の殉職者の犠牲の下に昭和38年ようやく完成をみました。毎秒10tの放水の瀑布を目の当たりにすると、この世紀の大事業に携わった人々の執念のほとばしりを体感することが出来ます。人智が、大自然に挑み、撥ね返され、最後にはかろうじて御した歴史が、黒部ダムの威容に凝縮されています。半世紀の時が過ぎ、エメラルド色の水を湛えたダムは、北アルプスの景観の一部となっています。それは、自然との和解なのか、自然への同化なのか。
黒部ダムからケーブルカーを経て、大観峰に向かうロープーウェーは、辺りの絶景を覆う真っ白な霧の中を音も無く登っていきます。

2010年9月28日火曜日

♪バラが咲いた

「♪バラが咲いた バラが咲いた 真っ赤なバラが さびしかった 僕の庭に バラが咲いた」は1966年に大ヒットしたマイク真木の名曲ですが、剪定されてさびしくなっていた公園のバラの木に白い花が咲きました。秋の訪れを待ちわびていたように、涼しさの到来とともに蕾を開きました。小振りで愛らしい姿は心を和ませてくれますし、瑞々しく無垢な白い花びらは明日への希望を感じさせてくれます。
ドイツでは、日本発の青いバラが花を咲かせています。香川真司21歳。2009年J2の得点王。セレッソ大阪モリシ(森島寛晃)から後継に指名され、背番号8を引き継いだ男です。A代表に召集された最初の平成生まれでもあります。南アW杯には、代表選考から漏れ、サポートメンバーとして同行し、ピッチに立つことはありませんでした。その悔しさを胸に、2010年7月1日、ドイツ・ブンデスリーガ第1部ボルシア・ドルトムントに完全移籍。ブンデスリーガで6試合4ゴールは見事な成績です。欧州デビュー2ヶ月で既にACミラン、インテル、ユベントス等セリアAの強豪チームが興味を示しているとの報道もあります。来週には凱旋帰国。メッシとの対戦が楽しみです。また、代表の背番号は11のままなのかも注目されます。出来れば10番をつけて欲しいのですが、モリシからシャイな性格も引き継いでいる香川クンのことですから、10番は「オレ様」本田クンに譲ってしまいそうな予感も。
身長172cmの文字通り小さなバラですが、和製イニエスタを目指して、大きく花開いて欲しいと願っています。

2010年9月18日土曜日

夢はW杯出場

写真は、代表監督選びで一躍有名になった原博実JFA技術委員長です。現役時代はFWとして活躍し、代表Aマッチでの37ゴールは歴代3位の記録です。そのヘディングの強さから「アジアの核弾頭」と呼ばれていました。実は、今日、FC東京の事務所にお邪魔した際、その応接室でお会いした・・・訳ではなく、応接間に飾ってあった写真を携帯で撮影させて頂きました。「ゴールをもっと決めろ!」いかにも攻撃サッカーを標榜する原さんらしい言葉です。
今日、FC東京の事務所をお邪魔したのは、事務所に隣接したグラウンドで開催された養護施設の小学生向けサッカースクールをボランティアとしてお手伝いする為です。年2回程開催され、毎回40-50名の子供たちがやってきます。高学年の子供たちになると結構上手な子が多く、とても太刀打ち出来ないので、いつも1-2年生の子供たちのクラスをお手伝いさせてもらっています。スクールメニューもサッカーというよりは、ボールを使った運動といった感じです。ただ、すぐ飽きてしまう子がいたり、転んで泣きだしてしまう子がいたり、どうしても馴染めない子がいたり、喧嘩を始める子がいたり、FC東京のスクールコーチも大変です。喧嘩をしている子の両方から「どっちが悪かったんだ」と理由を聞いて、「うん、どっちも悪い。両方とも謝んなきゃな」「どっちが先に謝るか競争だ」といったコーチの子供の接し方には、いつも感心させられます。
今回なついてくれた子はソウタ君、1年生。足でのボール扱いが苦手で、すぐ「オレ、キーパー」といってゴールにへばりつきます。がんばり屋でもあります。シュートをお腹で受けて、泣きそうになりながらも、「キーパー、ナイスセーブ」の声をかけると、ぐっと涙をこらえて、はにかみます。決して、はしゃぐことがなく、いつも、うつむいている、そんな子でした。幼いながらも、耐えること、目立たぬことを知恵として身につけている子供でした。「ソウタ、大人になったら、何になるんだ」と尋ねたら、暫く考えて、「W杯に出る」と答えてくれました。そして、「でも、W杯に出れるかな」と下を向いたまま、すかさず付け加えます。肩に手を置いて「ソウタがW杯に出たら、応援に行くからな」。今度はまぶしそうに上を向いて、ニコッと笑顔を浮かべながら「うん」とうなづいてくれました。
日本代表のW杯での活躍は、色々なところでに夢を芽生えさせています。

2010年9月15日水曜日

薔薇の塔 - 明治の画家達の夢見たもの

以前のブログで薔薇の剪定につき書きましたが、同じ公園で、今度は薔薇の塔(写真)が出現しました。近隣の花屋が製作した生花の薔薇によるモニュメントです。夏枯れでかなり色褪せていた公園に、文字通り華やかな輝きを発しています。ピンク系の花の塔を色とりどりの薔薇の花が囲み、良くできたモニュメントではありますが、剪定された薔薇の茎の切り口との取合せは、何か居心地の悪さを感じずにはいられません。また、自然の美と人工の美の対比をつきつけている感もあります。
この公園は、丸の内の三菱一号館美術館の中庭です。煉瓦造りの三菱一号館は、明治時代に建造された丸の内の最初の西洋建築によるオフィスビルを復元したものです。現在の公園は、当時はオフィスビルのパティオだったわけで、背広に山高帽姿の明治のビジネスマンたちが憩っていたのでしょう。
現在、三菱一号館美術館では、「三菱が夢見た美術館」と題して、岩崎家と三菱グループのコレクションの展覧会が開催されています。明治中期から昭和初期の日本の代表的洋画家の作品やモネやルノワールなどの印象派の絵画を観賞することが出来ます。日本の近代画家達の作品からは、強烈な西洋絵画への憧憬の香りが漂っています。モネの作品と見紛うばかりの黒田清輝の「春の名残」。藤島武二の「日の出(海)」は明らかにモネの「日の出・印象」に挑んだ作品でしょう。ルノアールの「パリスの審判」とそれを直接模写した梅原龍三郎の作品を並べて展示しているのは、本展覧会最大の見所だといえます。日本の近代洋画家たちも、ひたすら「坂の上の雲」を望みながら、近代化の道を疾走していたのでしょう。一方で、欧州の画壇では、日本の浮世絵などに心酔するジャポニスムが印象派に大きな影響を与えていたわけです。歴史の皮肉といえるかもしれません。
薔薇の塔は、やがて朽ち果て、剪定された薔薇の木からは、やがて新たな蕾が芽吹いてくることになります。ようやく、秋風が吹いてきました。

2010年9月11日土曜日

グアテマラ戦 - 新たなステージへ

グアテマラ戦にも勝利し、新生日本代表、まずは順調な滑出しです。それにしても、この時期の中南米諸国3連戦。パラグアイはW杯決勝トーナメントの再現ということで、大いに盛り上がるマッチメークであり、強豪アルゼンチンとの対戦も大ヒットだと思います。その狭間でのグアテマラ戦。W杯出場経験の無いFIFAランキング119位。「何故?」の疑問が浮かびます。この3ヶ国に共通するのは、いずれもFIFAの理事を送り出している国だということです。日本が立候補している2022年W杯開催国は12月2日に32名のFIFA理事の投票で決定されます。今回の一連の親善試合は、中南米3ヶ国理事に対する投票前の「最後のお願い」であり、誘致活動の一環といえる訳です。こんな政治的な動きが出来るようになったのも、日本サッカー界の成長の証かもしれません。日本サッカー界は、サッカー先進国の仲間入りという新しいステージに入りつつあります。
写真は、グアテマラ戦のワンシーンです。「11番の似合わない香川(写真右)に10番をつけさせたい」と前のブログに書込みましたが、本田(写真左)が10番をつけたいと名乗りを挙げたそうです。木村‐ラモス‐名波‐中山‐中村という日本代表10番の系譜を引継ぐのは、香川か本田か、アルゼンチン戦ではっきりしそうです。10番が一挙に若返り、代表も新しいステージに突入しました。
新生代表で確実にアピールしたのは、香川、長友、細貝、森本といったところでしょうか。最もアピール度が高かったのは、実は、原代行監督ではなかったかとも思います。中心選手に故障の相次ぐ中、残った手駒での見事な采配でした。ザッケローニ監督が何らかの理由で短命に終わった場合には、野球に続いて原ジャパンがあり得るのではないかと思います。本人が一番その気になっているかもしれません。

2010年9月6日月曜日

FIFA 南アW杯 Technical Report

FIFAの南アW杯テクニカルレポートがリリースされました。一部内容については、共同通信社の配信で各紙で紹介されましたが、原本がFIFAのホームページからダウンロード出来ますので、日本に関する部分を中心に拾い読みしてみました。
まず、日本に関する部分。日本の長所を、①優れたライン間の連携、②統制の取れた組織的な守備、③攻守の切替えの速さ、④プレッシャー下での安定したボールキープ力、⑤俊敏性、⑥チーム・スピリット、⑦優れたフリーキッカー、と評価しています。傑出した選手として、松井(優れたドリブラー)、本田(危険なアタッカー)、中澤(空中戦での強さと広い視野)の3名が挙げられています。
日本のフォーメーションは、守備的MFがバックラインの前でプレーする4-3-3と分析し、ボールを失うと、ウイングプレーヤーが守備に戻り、9人での守備ブロックを形成するとしています(1トップ、9バック?!)。また、日本は、ドイツ、スペイン、オランダ、ブラジル、ガーナ、アルゼンチンと並んで、攻守の切替えが早く、正確でタイミングの良いラストパスを通すことのできるカウンター攻撃に秀でたチームとして紹介されています。と、持ち上げている一方、各ゲームの戦評では、決勝トーナメントの日本対パラグアイ戦は、両チームともリスクを取らない試合運びでスコアレスドローは当然の帰結と手厳しく断定しています。
今大会の戦術分析においては、どのチームもコンパクトなディフェンスで、強敵に対してもプレスをかけていたと述べています。しばしば、ボールの後ろに8~9人のディフェンダーが守っているケースがあり、このような守備に対しては、その裏をつくのは極めて困難であるとしています。したがって、ドリブルなどを絡めた両サイドをつく攻めが必要であり、クロスもハイクロスではなく、後方から走り込んでくるプレーヤーへのグラウンダーでのクロスが有効だったとしています。また、前線からの守備も重要であり、これが、素早い攻守の切替えを可能にすると分析しています。
フォーメーションに関しては、4-4-2が主流で、3バックはニュージーランド、アルジェリア、チリの3チームのみとしています。(北朝鮮も3バックだったはず・・・と、レポートの北朝鮮のフォーメーションを確認してみると、何と5バックで、論外扱い?)
今大会のトレンドとして、以下が挙げられていました。①若手の躍進、②ドリブルが出来、1対1に秀でたプレーヤーの重用、③ペナルティエリア付近での慎重な守備(ペナルティエリア付近でファウルを犯さない守備。各チームともFKのスペシャリストを有しており、ファウルはゴールに直結するとして、デンマーク戦での本田と遠藤のFKからの連続得点を例に挙げています)、④前線からのプレス、⑤フレキシブルな守備陣形の変更、⑥前方へのパス(横パスやバックパスを使わず、前方へのフィードが基本)、⑦早い攻守の切替え、⑧ピッチの各所でのユニットの組成、⑨状況に応じての戦術の変更。
トレンドの総括は、日本代表にとっては、直面している課題でもあります。ザッケローニ体制の下、ひとつひとつクリアしていって欲しいものです。さて、明日は、新生ジャパンの第2戦グアテマラ戦です。香川が好調を持続して、乾とのコンビでC大阪のホーム、長居スタジアムに錦を飾ることが出来るか楽しみです。

2010年9月4日土曜日

パラグアイ戦 - リベンジ無き勝利

W杯のリベンジマッチと銘打たれて開催された新生日本代表の親善試合初戦。1-0の勝利でリベンジを果たしたといいたいところですが、ゲームを支配し、決定機を多く作っていたのはむしろパラグアイ。シンプルに前につなぐパスで日本の守備網の僅かな隙間を的確についていました。日本が手間暇掛けたパスを繋ぎながらも、ちっとも前に進まず、バイタルエリアに侵入するのに苦労していたのに対し、パラグアイは、わずか2本、3本のシンプルな前へのパスで確実にシュートに持ち込みます。パアグアイのコンディションが万全であれば、勝敗も逆になっていたと思います。「リベンジした」というには、ちょっと躊躇される内容でした。
その中で、確実にリベンジを果たしたのは、香川でした。W杯メンバー落ちの悔しさを、ピッチ上の躍動で十分に晴らしていました。岡田ジャパンの頃のピッチ上でどこかオドオドしていた面影はなく、自信に溢れ、確実にチームをリードしていました。ただ、背番号11には違和感を感じました。俊輔が代表引退を表明している中、代表の10番を引き継がせてもいいのではないでしょうか。細貝という新星も輝き、新生ジャパンは、まずは上々の滑り出しでした。原代行監督も無難な采配でしたが、最後の内田に替えて槙野の投入は、選手の名前の呼び間違えによるものでしょう(駒野を呼ぶつもりで、槙野を呼んでしまった)。選手達がフォーメーション変更にあたふたしていました。その直後、慌てて、香川に替えて駒野投入。駒野をリベンジのピッチに送り出してあげようという温情采配は、試合前から考えていたのでしょうが、原さんらしいおっちょこちょい振りでした。

白地に赤く - 日本らしいサッカー

「♪白地に赤く 日の丸染めて ああ美しい 日本の旗は」
国粋主義とは無縁ですが、日の丸は本当に美しい意匠だと思います。白地に赤い円を描いただけの極めてシンプルなデザインに、仁と義という日本人の精神性が見事に表現されています。
日の丸は、熱い想いを内に秘めていることを表し、円は「和」を表現しています。まさに日本代表のメンタリティそのものでしょう。深紅を尊びながら、赤がこれ程似合わない国民はいないのではないでしょうか。お隣の韓国代表が赤いユニフォームで、燃える赤そのもののサッカーを繰り広げるのに対し、我が日本代表は青いユニフォームで静かに炎を燃やすプレースタイルです。「和を以て尊しとなす」という聖徳太子の言葉を引用するまでもなく、「和」は日本人の精神性の重要なキーワードです。「個」より、やはり、「和」なのです。
チームスポーツでは、高校野球により強く日本人のメンタリティが表れているように思えます。好チームとして評価されるのは、好投手を擁し、固い守備で、単打とバントでコツコツと点を重ねるチーム。いわゆる、鍛えられたチームです。1死3塁の場面ではホームランよりスクイズが好まれ、12対10の乱打戦よりは2-1の緊迫した投手戦の方が好まれるのです。メジャーの力対力の勝負に憧れながらもスモールベースボールという言葉にむしろ愛着と誇りを覚えてしまう。サッカーでも、攻撃的サッカーに憧れながらも、実は体を張った守りに痺れてしまい、耐えて耐えて守ってからのスピードに乗ったカウンターに堪らなく快感を感じてしまう。力道山のプロレス以来、耐えて耐えて守勢からの一瞬の反撃(例えば、吉村道明の回転エビ固めやアントニオ猪木の卍固め)が、日本人の好む勝負スタイルではないかと思うのです。
更に、チームワーク重視のプレースタイル。日本代表の規律性の高さは常々引合いに出されますが、南アW杯では、日本代表の献身的なプレー姿勢が高く評価されました。「個」より「和」を重視し、自己犠牲に美徳を見出す国民性は、平成の世になっても若い世代にまで受け継がれています。また、「柔よく剛を制す」の国技柔道の精神には、日本人のスポーツ観が適切に表現されています。組織を重視し、技を志向する日本人に向いたサッカーということになると、「人が動き、ボールも動く、コレクティブなパスサッカー」ということになります。正に、オシムが提唱したサッカーの日本化であり、岡田監督が目指したコンセプトです。ただ、そこに「スペインのような」とか「攻撃的サッカー」という異質の概念が紛れ込んでしまったところに、岡田ジャパンのチームコンセプトの変質が生じてしまったのだと思います。
組織力と技のパスサッカーを展開する為には、まずは、献身的な守備でボールを奪い、確実に攻撃の起点に繋げていく必要があります。守備的な戦いでの歯痒さはあったものの、岡田ジャパンの南アでの戦い方は、日本的な守備とは何かとの問いに「献身」という解を与えてくれたことで、大きな意義があったと思います。2日に公表されたFIFAの南アW杯総括報告書の日本代表の評価は、多少持ち上げ気味ながらも、日本の長所として「組織的な守備」「重圧下での安定した球さばき」「素晴らしいチーム精神」を挙げるなど、的確に分析をしています。イタリア人のザッケローニ監督がFIFAの分析を創り自らの眼で確かめ、アズーリとサムライブルーをどう混ぜ合わせて新たなジャパンブルーのカラーを出していくのか楽しみではあります。
日の丸の2番の歌詞は「♪青空高く 日の丸揚げて」で始まります。ブルーのユニフォームに映えて躍動する日の丸を期待しましょう。とりあえず、今日は、その第1歩のパラグアイ戦です。

2010年9月1日水曜日

アルベルト・ザッケローニ - 10年前のニューウェーブ

日本代表監督が漸く決まりました。お盆前に仕上げるつもりだった夏休みの宿題が、何とか夏休み最終日に間に合ったという感じでしょうか。ザッケローニ(写真)というと、セリアAファンにとっては、カテナチオのイタリアサッカーに3-4-3の攻撃的サッカーを持ち込んで、ACミランを優勝させた監督というのが強烈な印象となっているようです。10年前のACミラン監督当時は、新世代のホープとしてもてはやされましたが、その後のラツィオ、インテル、トリノ、ユベントスの実績は必ずしも華々しいものではありません。また、協会が条件としていた「代表監督や海外での監督経験を有し、異文化や言葉への対応力を有する人物」という点では、セリアA監督の経験のみ、欧州CLでも1次リーグ敗退という実績からすると、必ずしも条件に合致していません。トリノ時代に大黒を指導したということで、日本を理解しているというのもコジツケの感があります。
最終的に絞られた3名の候補者の他の2名というのが、ケイロスとペケルマンというビッグネームであったらしいということを考え合わせると、交渉に難航していた協会が、失業中で売り込んできた「昔の名前」のザッケローニに飛びついたというのが真相かもしれません。単年度契約で毎年見直しというところに、協会としての若干の躊躇が見え隠れします。もっとも、この単年度契約は、欧州のビッグクラブからのオファーの可能性を想定してのザッケローニ側からの要望でもあったようです。ということで、ザッケローニがブラジル大会まで指揮を取るかどうかは不透明。協会としては、今回の経験を糧に今後とも監督候補リストをアップデートし、監督交代の事態に備えておくことが必要となりそうです。
ネガティブな取越し苦労的な話ばかりしてしまいましたが、何と言ってもセリアAのBig3の監督を歴任した実績はあなどれません。時代遅れといわれようが、3バックを駆使する戦術も見ものです。3-4-3の布陣で守備を固めつつ、長友・内田のSBコンビをSHとして高い位置に上げ、守備の負担を軽減しながら、新生ジャパンの両翼にしていくというのは、アリではないかと。とにかく、今のうちは、大いに期待を膨らませましょう。

2010年8月28日土曜日

薔薇の剪定 - 新生日本代表発表

オフィスに隣接した公園に、薔薇の木が植えてあり、小さな花をポツリ、ポツリとつけておりました。さすがに盛りを過ぎて、夏バテ気味のくたびれた花たちでしたが、出勤時の慌ただしい気持ちをなごませてくれていました。ところが、つい先日の朝、花がひとつもなくなっていました。枝が短く切り揃えられ、一回り小さくなった薔薇の立ち木はどことなく居心地の悪そうに佇んでいました(写真)。
薔薇の剪定です。秋の開花の前に伸びた枝を切って日当たりと風通しを良くするとともに、養分を少数の枝に集中させて良い花を咲かせるのが目的です。むき出しになった枝の切り口を見ると可哀そうな気がしますが、これも芳しい薔薇の花をつかせる為の生育の一環なのです。
折しも、新生日本代表が発表されました。選出されたメンバーは、ほぼ南アW杯代表のまま。俊輔が自ら身を引いた他は、「薔薇の剪定」は無し。「新監督が決まっていないから、サプライズは無し」とのことですが、むしろ、協会が自ら選んだ代表だけに、しっかりとした方針が見て取れるメンバー選考を行うべきだったと思います。監督を選んで、全てを任せるのではなく、しっかりとした協会の方針を示して、それを実現できる監督を選ぶべきでしょう。南アでのBest16という結果を未来に繋げる為に、ブラジル大会までの4年間どういったチーム作りをしていくのか。若手育成をメインテーマにして、アルゼンチンユースで実績を残したペケルマンに任せるのか、岡田監督が目指した攻撃サッカーを追い求めてスペイン人監督を招聘するのか。最近ではセリアAのイタリア人監督まで交渉相手になっているとのことであり、協会の迷走ぶりがうかがわれます。代表は何とかワールドクラスへの足掛かりを築こうとしていますが、協会の方は、まだまだアジアレベルということでしょうか。
薔薇の剪定は新監督の初仕事になりそうです。9月のパラグアイ戦、グアテマラ戦は、南ア組の最後の一花。大輪の花を咲かせるのか、はなばなしく散ってしまうのか、今週末、日産スタジアムに見届けに行ってまいります。

2010年8月23日月曜日

天城越え - 隠れ宿「うえだ」

カラオケで女性に歌って欲しい歌。今井美樹「Pride」、Zard「負けないで」、そして、石川さゆり「天城越え」。先の2曲がかなり爽やか系なのに、天城越えは、ドロドロ系の極致です。これぞ艶歌の中の艶歌。歌謡史上に残る名曲です。中森明菜がカバーしているというところにも、運命的な妖しい香りを感じずにはいられません。
先日、中伊豆に行ってまいりました。右の写真は、浄蓮の滝です。「天城越え」の一番のサビの部分に出てきます。「♪寝乱れて 隠れ宿 九十九折り 浄蓮の滝」。泊った宿は、船原温泉の日本秘湯を守る会「うえだ」。渓流沿いの僅か7室の小じんまりとした山あいの宿です。3つの露天風呂は全て予約貸切制。まさに歌に織り込まれた「隠れ宿」の風情溢れる宿でした。照りつける夏の日差しを生い茂った木々の重ね葉が遮り、その樹々から間断なく降り注ぐ蝉時雨を聴きながら、ゆったりと身を沈める露天風呂。蝉時雨にかき消されるはずの渓流のせせらぎの音が、聞こえてきて、涼を誘います。至福の時という言葉に相応しい瞬間です。
紅葉で「♪山が燃える~」季節ではありませんでしたが、むせ返るような濃緑の樹々は生命力に満ち溢れ、炎暑の中で、萌え盛っておりました。
浄蓮の滝には「天城越え」の曲が刻まれた碑が立っています。女性の狂気にも似た情念が込められた歌詞に、滝壺の冷気と染み透るような瀑布の音が不思議に合います。
「♪くらくら燃える 火をくぐり あなたと越えたい 天城越え~~」

2010年8月15日日曜日

Project KonK Ⅱ - 続編


Project KonK Ⅱの目的の一つは、次期日本代表監督の婚活の成就祈願でした。ところが、実際の監督選びは大混迷。原博実技術委員長が、まず南米に向かったことから、本命は、ペケルマンとビエルサの2人のアルゼンチン人だったと推測されます。ところが、何があったのか、腰を据えるどころか、早々に欧州に方向転換。リーガ・エスパニョーラの熱狂的信奉者、原技術委員長の影響でしょう。いつの間にか、候補はアルゼンチン人からスペイン人指揮官に代わっていました。今のところ、第一候補はポルトでトヨタカップを制したビクトル・フェルナンデス(写真)。その他に前マジョルカ監督のグレゴリオ・マンサーノや前ビジャレアル監督のエルネスト・バルベルデがあがっていましたが、条件面で門前払いを食らったのか、早々に消えてしまいました。候補として名が挙がっていたマルコ・ファンバステンに至っては、恐らく会ってももらえなかったのではないかと想像しています。いずれにせよ、日替りで監督候補の名が入れ換わり立ち替わり出てきては消える状況は、本来、水面下で密かに行われるべき交渉の性質を考えると、異常といわざるを得ません。まさに、世界を股にかけての大迷走。交渉の主役原技術委員長の現役時代の異名は「アジアの核弾頭」。当って砕けろということではないでしょうし、交渉相手を悉く粉砕してしまうというわけでもないと思うのですが、その交渉手腕には疑問をいだかざるをえません。やはり、プロの交渉代理人の助けが必要なのでしょう。つてを辿って日本で実績のある指揮官と交渉するこれまでの代表監督選びのやり方(トルシエはベンゲルの紹介)を脱して、スクラッチで候補者を選定し、自らコンタクトして交渉するという初めての試みですから、試行錯誤も已むを得ないのかもしれません。ただ、4年後のブラジルW杯は日本のプラチナ世代が中心となる大会。しっかりした監督選びを行って、ゴールデンエイジを擁しながらも、その輝きを封印したまま敗れ去ったドイツ大会の二の舞だけは避けて欲しいものです。
このまま混迷が続くようだと、小倉サッカー協会会長の「ドゥンガには聞いてみたのか?」の鶴の一声で前ブラジル代表監督のドゥンガにお鉢が回ってくる可能があります。現在、新体制に入閣する日本人コーチには関口前川崎F監督が決定しているようですが、ドゥンガ監督の場合には、当然ながら、かつてのジュビロコンビの名波浩で決まり。これならば、アリだと思いますが・・・・。

2010年8月12日木曜日

Project KonK Ⅱ- エピローグ

私たちの登山は、山歩きに、野外での調理を加え、必ず、温泉を絡めるという、軟弱派あるいはゆったり派登山です。今回も、締めは、山を下ってからの日帰り入浴。上諏訪の駅のそばには数件の日帰り入浴が出来る温泉宿がありましたが、N隊長が独特の嗅覚で選抜したのは、日帰り入浴専門の片倉館。これが、予想を大きく上回る秀逸な温泉でした。
写真の通り、建物はゴチックリバイバル調の洋館。昭和3年に建造された築80年を超える建造物です。風呂は内風呂のみですが、「歴史とロマン漂う」という謳い文句にたがわず、大理石作りの浴槽にステンドグラス、壁面にはロココ調の彫刻と、贅をつくした作りです。通称千人風呂の浴槽は、深さ1メートルの立ち湯で、底に大振りの玉砂利が敷きつめられています。千人はさすがに大袈裟でも、百人は浸かれる立派な浴槽です。これまで訪れた温泉の内風呂では、間違いなくダントツで1位の素晴らしい温泉です。
片倉館の「片倉」は、養蚕業・製糸業で財をなしシルクエンペラーと呼ばれた片倉財閥からきています。大正11~12年に二代目片倉兼太郎社長が欧米を視察した際、欧州の各農村に充実した厚生施設があるのに感銘を受け、帰国後、創立50周年事業として、上諏訪の地に、地域住民の保養・社交・娯楽を目的とした温泉施設片倉館を建造しました。現代で言えば、立派な地域貢献、CSR事業です。明治人らしい、あるいは、信州人らしい、片倉兼太郎の純粋さと一徹さを感じます。片倉財閥は、戦後の財閥解体で4大財閥とともに解散され、ついに再結集することはありませんでした。今では、片倉館の威容に往年の名残りを留めるのみです。
私のごく親しい友人に信州出身者がいます。信州人の御多分に漏れず、理屈っぽく、一徹で、口やかましく、それでいて憎めない性格です。多少のお世辞を交えて言えば、槍ヶ岳の孤高と、諏訪湖の奥深さを兼ね備えた人格の人物と言えます。彼は、諏訪清陵高という名門校の出身なのですが、同校は、戦艦大和の有賀艦長、戦艦武蔵の古村艦長という2人の海軍将校を輩出しているそうです。海の無い信州出身の同窓生が、帝国海軍の両巨艦の艦長になるまでの数奇な遍歴は想像だに出来ませんが、やはり、信州人は、どこか変哲で、一徹なところがあるという実証でもあります。「信州人の一つ残し」という言葉があるそうです。今風に言うと「遠慮の塊」。そんなところにも信州人の独特の美風が窺えます。信州の涼やかな風に吹かれていると、ガラスを研ぎ澄ましたような澄み渡った硬質な性格の人間が自然に生み出されるのでしょうか。そんなことを、片倉館の由来の看板を読みながら、思ったりしました。上諏訪温泉の片倉館という、もうひとつのK on Kに導かれて幕を閉じた充実したプロジェクトでした。

2010年8月8日日曜日

Project KonK Ⅱ- 野の花編

初夏の車山湿原は、ニッコウキスゲで黄色く染まるそうです。ただ、今年は、満開にはほど遠かったとのことでした。生態系の熱帯化の影響がここにも及んでいるのでしょうか?
散り忘れたニッコウキスゲが緑に映える中、ノアザミ(写真一番上)が凛と空を突き、クルマユリ(写真2番目)が小さいながらもユリの気品をたたえていました。霧ヶ峰の代名詞でもあるマツムシソウ(写真3番目)の淡い青紫色の花が微笑みかけます。楚々とうつむくツリガネニンジン(写真4番目)を下から覗きこむと、メシベがはにかみます。その根元に目を移すと、白山風露(ハクサンフウロ・写真一番下)が一輪、その名前の通り、はかなげに風に揺れています。
ニッコウキスゲの一面の黄色の絨毯も素晴らしい眺めではありますが、名も知らぬ野の花たちが、それぞれの場所で一生懸命その生命の明かりを灯しているのは、感動的な光景です。比較的地味なオニシモツケの花が蝶たちのお気に入りというのも、ちょっとうれしい発見でした。名の無い花たちも、森林インストラクターのN隊長のおかげで、名前を与えられ、ブログに登場することになりました。N隊長の意図した「自然との婚活」は一応成功したということでしょうか。
Mission Complete!!