2011年12月31日土曜日

大晦日 - 高校サッカー1回戦

清水商業と清水東といえば、全国でもサッカー強豪校として有名ですが、地元ではそれぞれ清商(きよしょう)、清高(きよこう)と呼ばれるライバル校です。共に多くのJリーガーを育てていますが、清商が、名波、藤田、小野伸二など日本を代表する名選手を生み出しているのに対し、清高は大木、反町、長谷川、相馬などJリーグチームの監督を輩出しているのが特徴です。清高は伝統的に水色か青色単色に襟だけ白のシンプルなデザインですが、清商のユニフォームが青を基調に赤と白を配したトリコロールカラーです。
そのトリコロールカラーが全国大会に11年ぶりに戻ってきました。定年退職となる大滝監督にとって最後の采配となる大会であるとともに、2012年度末で学校再編により閉校となる同校にとって、清水商業の名で全国で戦う最後となるかもしれない大会です。会場は、埼玉スタジアム。第一試合は地元浦和東の登場で、スタジアムは大いに盛り上がりましたが、第二試合は、それを上回る観客数で、サッカーの町清水を改めて実感しました。対戦相手熊本県代表ルーテル学院も清商同様堅守速攻のチーム。両キーパーも好セーブを連発しましたが、ともに攻撃に厚みを欠き、無得点もまま後半ロスタイムに。清商風間を起点としたサイド攻撃から終了間際に清商が決勝点をあげ、辛くも勝利しました。清商主将の風間宏矢は元日本代表の風間八宏氏の次男。前評判通り、先輩の名波を思い起こさせる柔らかなプレースタイルの素晴らしい選手でした。清商のもう一人の注目選手はGKの志村選手。身長168cmというキーパーとしては超小柄。ゴール前、身長のハンディキャップをジャンプ力で補っていましたが、もう少しプレーを見てみたい選手でした。ロスタイムが30秒短かったら、これらの注目選手が一回戦で消えていたかもしれなかったわけです。今大会は、1回戦16試合中6試合がPK戦での決着となりました。いかにも多過ぎます。せめて、40分ハーフの試合形式(準々決勝まで)を45分ハーフに変更することは出来ないでしょうか。この変更により、PK戦という惨酷な決着の付け方の頻度がかなり減ると思うのですが。
思いつくままに書き綴っているうちに、あと1時間で2011年が幕を閉じようとしています。日本にとって、辛く悲しい1年でした。来年はみんながその悲しみを乗り越え、ともに手を携えて日本の未来を拓いていく年になって欲しいと願っています。良いお年をお迎え下さい。

2011年12月25日日曜日

Here Comes The Sun

冬の寒い朝、何故か口ずさんでしまうのが、ビートルズのHere comes the sun。特に憂鬱な時は、冬の弱々しい陽射しを見上げながら、「it's alright」と口ずさむと元気づけられる気がします。この曲は、ジョージの曲です。ジョージといえば、While My Guitar Gently WeepsかSomethingでしょうが、この曲も大好きです。ビートルズ内のゴタゴタに疲れ果てたジョージが、スタジオを抜け出して、親友のエリック・クラプトンの家の庭で日向ぼっこしながら作った曲だと言われています。ちなみに、クラプトンは、ジョージの求めに応じてWhile My Guitar Gently Weepsのレコーディングに参加し、見事にギターを偲び泣かせる名演奏を行っています。また、クラプトンからパティ(ジョージの当時の奥さん)への恋心を告白されたジョージは、「いいよ」とあっさり奥さんを譲ってしまったという不思議な関係でもありました。(ミック。ジャガーやジョン・レノンも「パティ・ボイドに魅かれていた」と語っており、魅惑的な女性だったようです。)
Here Comes The Sunは、アルバムAbbey Roadの収録曲ですが、「It's been a long , cold, lonely winter」とか「I see the ice is slowly melting」といった早春の季節感が日本人の感性に合ったのか、日本だけでシングルカット(写真)されています。
この頃のビートルズはよほど複雑な人間関係だったようで、もともと人づきあいのよいリンゴすら疲れ果てて「静かな海の底で暮らしたい」とOctopus' Garden(同じAbbey Roadに収録)の中で歌っています。もっとも、自らストローで水をブクブクさせて、海の中の効果音を演出するなど、あくまでリンゴらしい明るい曲に仕上がっていますが・・・。
♪ Here comes the sun, doo da doo doo
  Here comes the sun, a
nd I say it's alright
      ..............................
      ..............................
  Sun, sun, sun, here it comes
     Sun, sun, sun, here it comes
今年は、日本にとって悲しく、辛い年でした。でも、見上げるとそこには弱々しくはありますが、暖かさを湛えた陽の光が輝いています。

2011年12月18日日曜日

クラブW杯決勝 - バルサ劇場

至福の時というのは、往々にして速く過ぎ去るように感じるものですが、特に今日はとてつもなく速く感じました。前後半1分ずつというアディショナル・タイムもあまりに短すぎました。まさに冬の一夜の美しすぎる夢。サッカーのゲームとしては一方的過ぎて緊張感に欠けましたが、バルサ劇場は余すところなく堪能することが出来ました。TV観戦とスタジアムでの観戦とでは、それぞれの楽しみ方があります。個々の選手の個人技を見極めようとすれば、TV観戦。スタジアムでの観戦、なかんずく、日産スタジアムでのトラック越しの観戦では、細かいタッチまで追うことは出来ませんし、勿論、スロー再生を見ることは不可能です。一方、たとえ、イニエスタとシャビの判別が難しい距離感の中でも、スタジアム観戦では圧倒的な臨場感を味わうことが出来ます。また、TV観戦では見渡せないオフ・ザ・ボールの動きやピッチ全体のフォーメーションをじっくり楽しめるのがスタジアム観戦です。と思っていましたが、家に戻ってから録画ビデオを再生してみると、バルサに限っては、多少修正せざるをえませんでした。驚くべきことに、かなりの時間、TV画面にバルサの選手が10人収まっているのです。美しい陣形です。斜め30度に綺麗にラインを形成してワンタッチパスを繋ぐ様は、ラグビーのようです。壁パスを多用して切込む様は、まさにバスケットボール。ペナルティエリア内の浮き球のラストパスからのシュートは、ハンドボール。「中央でボールを受けて反転出来ない場合は、パスの出し手に戻して、3m移動してから壁パスをもらい、そのまま30度の角度でサイドに散らせて、スピードアップして縦に10m走って、クロスボールを受ける」このアメフトのようなフォーメーションですが、実は100以上あるバルサのフォーメーションパターンの一つだと言っても、信じて頂けるのではないでしょうか(勿論、想像です)。それほど、何の迷いも淀みもない流れるようなパス回しでした。理想のサッカーがそこに展開されていました。決して、圧倒的な運動量がある訳ではありません。ふらふらと歩いている選手が目立ちます。それでも、的確なポジショニング故にパスが繋がります。そして、ボールを奪われるや、まるで、遊び道具を取り上げられたブルドッグのように猛然と奪い返しに群がり、そのスピードは一変します。ゴール前でも然り。結果として、南米王者相手にボールキープ率70%以上の徹底したゲームコントロール。90分間圧倒され続け、消耗し尽くしたのは、サントスのイレブンだけでなく、6万8千人の観客も同様だったと思います。息も絶え絶えです。ということで、バルサの強さについては、また次回に。この至福の機会を譲って下さったDr.Kに改めて感謝。(写真はシャビの2点目の後喜ぶバルサイレブン)

2011年12月15日木曜日

FIFAクラブW杯準決勝 - 御礼10,000アクセス

クラブW杯準決勝柏vsサントス。柏が万が一勝つとしたら、むしろ早い時間に失点し、サントスに余裕を持たせて時間をつぶしながら、終了間際にセットプレーから追いつき、延長戦を守り切ってPK戦、と考えていましたが、サントスのスーパーゴール3連発がその淡い期待を見事に打ち砕きました。ボール支配率、シュート数で上回りながら、個人技、シュートの精度での大きな差。しかし、臆することなく、自らのサッカーで立ち向かうという絶対に勝つ見込みのない戦法で戦った柏はある意味で立派でした。これを隙を見せることなく、確実に突き放したサントスは、さすがに南米王者。ネイマールの1点目(写真)をはじめとし、サントスの3点はいずれも高い個人技からのスーパーゴール。足の裏を使ったフットサルのようなボールの扱いは新時代のサッカーを感じさせました。また、強く印象に残ったのは、攻撃・守備の両面での的確なポジショニング。味方のパスを正確に予感しての走り込み、相手のパスコースを予測しての守備の位置どり。ゲームを支配するのは、ボールの支配率ではなく、オフ・ザ・ボールの動きであることを思い知らされました。
ところで、ふと気がつくと、ブログのアクセスカウンターが5桁となっていました。10,000アクセス突破はおそらく13日(火)と想像されます。2008年9月15日にブログをオープンしてから3年3ヶ月。1日当たり8名強の方に閲覧頂いた計算になります。有難うございました。厚く御礼申し上げます。アクセス履歴をみると、マレーシア、ロシアから定期的にアクセスがあり、イギリス、ドイツ、ウクライナからも閲覧して頂いているようです。インターネットが如何に世界を小さくしたかを身をもって感じます。
第1回のブログ(クリックで閲覧)は、北京オリンピックでの男子サッカーの惨敗を嘆いて、世界との距離がまだまだ遠く、まずはJリーグから盛り上げてサッカー文化を高めていかなければならないと綴っています。その北京五輪惨敗組の主力だった本田、香川、長友、内田、岡崎、吉田、細貝、安田、森本は今や海外に活躍の場を移し、Jリーグ王者柏が南米王者相手に互角の勝負を挑むまでになっています。世界のトップは逃げ水の様になかなかその距離を縮めさせてくれませんが、この3年間日本のサッカーは着実にレベルアップしている様です。

2011年12月11日日曜日

FIFAクラブW杯準々決勝 - 攻め

FIFAクラブW杯が3年振りにUAEから日本に戻ってきました。開催国出場枠とともに。日本チームは2007年浦和レッズ、2008年ガンバ大阪と2年連続3位の栄冠に輝いたものの、ここ2年は大会出場を逃していました。Jリーグ王者柏レイソルは、中2日、8日間で3試合という厳しい日程にも拘わらず、見事な戦いぶりでした。PK戦での勝利は気迫で勝ち取ったもの。120分走り続けたことに対する、正当な報酬でした。前半は、モンテレイの分厚い攻めに押し込まれ、得意のカウンター攻撃を仕掛けることすら出来ませんでした。逆に攻め上がった守備陣の裏を狙われ、スピードに乗ったカウンターに再三ゴールを脅かされました。柏は体を投げ出しての守備でよく持ちこたえました。普通であれば、ハーフタイムの監督の指示は「よく守った。後半も守備を固めて、カウンターを狙え。必ずチャンスはくる」といったところでしょうが、ネルシーニョ監督は「何をビビっているんだ。もっと押し上げろ」とSBの橋本に怒気を込めた叱責。格上相手にこの無謀とも言える「攻め」の指示が、後半以降柏がゲームを支配し続けることに繋がりました。後半モンテレイの運動量が落ちることを見越しての指示だったとしたら、さすが名監督です。後半12分、わずか3本のパスでスアソにゴールを奪われしまったのは、攻めの姿勢がはらむ已むを得ない代償。それにしても、前半にみせたモンテレイの個人技の高さとスピード溢れる攻撃は、これぞ世界でした。柏もスピードが身上のチームですが、パス選択の速さとカウンター時の押上げの速さにはモンテレイに学ぶべき点が多々ありました。パス選択の速さは、いくつかのシナリオの中から最も可能性の高いオプションを選択する判断の速さに通じ、押上げの速さも、リスクとチャンスを瞬時に計算する判断の速さに通じます。要は、判断の速さ。判断の速さといっても、考える速さではなく、感じる速さ。これは、日頃のJリーグの戦いでチームとしての感覚を研ぎ澄ましていくしかありません。豊富な運動量では恐らく世界水準のJリーグ。次の課題はスピードです。
かつて、世界水準の判断のスピードを有していたJリーグチームがありました。名全盛期のジュビロ磐田。名波を服部、福西、奥、藤田という4人のタレントが囲むいわゆるN-Boxに、前線のゴン、タカが絡む緩急自在な多彩な攻めは華麗そのものでした。2001年第2回クラブW杯。ジュビロ磐田はアジア王者として出場予定でしたが、運営を委託されていたISL社の倒産で中止に。世界がまだまだ遠い時代でしたが、出場していたら、きっとサプライズを惹き起していたのにと今でも悔しく思っています。

2011年12月7日水曜日

Good Morning, Hong Kong

朝が好きです。特に日の出には妙に惹かれます。中学卒業まで新聞配達をしていたせいかもしれません。旅行や出張の旅先では、早く起きて日の出を眺めながら散歩をするのが常となっています。香港の朝(写真上・ブルースリーの銅像越しに九龍から眺望する香港島)は靄っていて日の出を見ることは出来ませんでしたが、ヴィクトリアハーバーのボードウォークをジョギングする人達が行き交い、その中で如何にも自己流の妙な動きの体操をする人達と、この街の独特の雰囲気を感じることができました。The Dock of the Bay(ブログへのリンク)の音楽が似合う風景をもう一つ見つけることが出来ました。
もうひとつの旅先での楽しみは、朝食の美味しいお店を探すこと。前日に目星をつけていたお粥のお店が開店しておらず、暫くうろうろして見つけた丸椅子だけの小さなお店が新源中華麺飯饗応。旅行者が入りそうもない地元の店かと思ったら、店内には英語表示に加えて、日本語表示が。写真下がその中の1枚。「No Photo」となっているのですが、余りに見事なボケぶりに思わずパチリ。「リ」と「ソ」、「テ」と「ラ」、「シ」と「ミ」、「ウ」と「ワ」の間違いは基本ですが、これだけ見事にはずしてくれると、受け狙いの意図的なものを感じます。この応用編が「「えでりンタン麺」(=えびワンタン麺)。最大の難解メニューは「チセサ牛バブ肉煮マみコ飯=Curry Beef Brisket w/Rice」。色々考え、「千切牛バラ肉煮込みご飯」と推理しましたが、ここまでひねりをきかせて来る香港の笑いのセンスに脱帽。世界はユーモアとウィットに満ち溢れています。

2011年12月3日土曜日

宗谷物語

キムタク主演ドラマ「南極大陸」はかなり人気を集めているようですが、そのドラマに出てこない越冬隊秘話。越冬隊員の新婚の妻から越冬中の夫への電報。南極に送る電報代の余りに高さに、妻が考え抜いた究極の3文字電報・・・・「アナタ」。初代南極観測船となった「宗谷」は、数奇な運命を辿った船でした。今回は、インターネット検索で調べた結果を繋げた宗谷物語を。「宗谷」は戦前ソ連からの注文で耐氷型輸送船として日本で建造されましたが、ソ連との契約問題がこじれ、結局、日本帝国海軍が買い上げ、測量などを任務とした特務艦となりました。大戦中は、輸送船としてミッドウェー、ガダルカナルなどの死地に多数の兵士を送り込む役目を負うこととなります。宗谷自身は、友艦の多くが撃沈される中で、南洋で米国潜水艦の攻撃を受け、魚雷が命中したにも拘わらず、幸い不発弾だったり、横須賀で戦艦長門や病院船氷川丸とともにドック入りしていた際、空襲にあい、投下されたガソリンタンクが命中するも、ボイラーに火を入れていなかった為に被害を免れるなどして、無事終戦を迎えました。その為、「奇跡の船」と呼ばれました。
玉砕地への兵士輸送という辛い戦役を終えた宗谷は、終戦後その罪を償うかのように引揚船として活躍し、2万人近い引揚者の命を救いました。その後、日本各地の灯台に物資を運ぶ灯台補給船の任務を与えられ、灯台守の子供達に本やオモチャも運んだことから、海のサンタクロースとも呼ばれました。そんな境遇の宗谷に初代南極観測船の大命が下ったのは、もともと耐氷型輸送船として建造されていたことに加え、2度の被爆を無事に切り抜けた強運が決め手となったと言われています。
宗谷は、計6回の南極観測船としての任務を遂行した後、海上保安庁巡視艇としての通常任務に戻り、1978年、41年間に及ぶ任務を終え、現在はお台場海の科学館前に係留されています。