2012年11月13日火曜日

豚の角煮と白菜 - 台湾紀行本編1

中華料理での豚の角煮と白菜の取合せはいかにも美味しそうですが、台北の故宮博物院でも最も人気の高い展示物が正にこの2つです。この角煮と白菜は、3階のギャラリー302、巧彫玉石コーナーに、並べて展示されており、人だかりが絶えることはありません。このコーナーの名称は、「天人合唱」。自然素材の色合いや形状などの特質を活かしながら、人の巧みを加えて、工芸作品を創り上げるという「自然と人の均衡と調和」が理念となっています。素材の玉石から得たインスピレーションも、天からの啓示として、作品の重要な一要素をなしており、天然素材、インスピレーション、人の匠みの技の三位一体が、この巧彫玉石を生み出すと説明されていました。まず、豚の角煮「肉形石」(写真上)ですが、素材は幾層もの模様が重なった碧玉類の鉱物です。創作者は、まずその表面に無数の穴を穿つところから作品作りを始めました。表面にびっしりと毛穴が配されたことにより、無機質な鉱物に有機的な息づきが与えられました。更に最上層をわずかに赤褐色に染めることで、醤油が浸みこんだ皮を表現しています。そこまで出来上がれば、その下の層は誰がみても、肉汁したたる赤身肉に脂肪がとろけている肉片そのものです。一方、白菜「翠玉白菜」(写真下)ですが、素材は白色と緑色が半分ずつ混ざった翡翠です。ただ、ところどころに亀裂があり、また、色がまだら模様となっている為、装飾品に加工するには欠陥が多すぎます。ところが、インスピレーションがこの欠陥を特質に変えます。創作者は、この石を白菜に見立て、亀裂は葉脈の一部とし、斑点を霜にあたった跡としました。上部両側面の緑の濃い部分は、イナゴとキリギリスを彫って、天然の色を活かしています。この置物は、清の第11代皇帝光緒帝(西太后の傀儡皇帝)の后妃、瑾妃の嫁入り持参品であり、白菜は純潔を意味し、2匹の虫は多産を祈念したものであると言われています。寓意まで与えられ、この工芸作品は完璧なものに仕上がったわけです。写真の上部にキリギリスが彫られていますが、実は、羽が両方とも半分のところでちょん切れています。折れてしまったにしては、切り口があまりに滑らかなので、最初から羽が切られた状態で彫られているようです。観賞用に飼育する為に、逃げたり喧嘩したりしないように羽を切っていたのかもしれません。あるいは、白菜から飛び立たないようにとの創作者の思いがこめられているのかもしれません。
故宮博物院でもうひとつ時間をかけて観たのは、「院本清明上河図」でした。これは、「とても素晴らしいから、絶対に観なきゃいけない」と菜心のママに無理やり連れていかれたものですが、大感動でした。これは、北宋の都開封の場内外の賑わいの様子を描いたものです。約12mの絵巻に当時の風俗が衣食住全ての面にわたって、実に細かい筆使いで克明に描きこまれています。汴河を下流から上流に遡り、ようやく城内に辿り着いた頃には、僅か11mを移動するうちに、上質の歴史長編映画を観終わったような軽い疲労感を覚えました。素晴らしい芸術作品であり、優れた風俗史料です。
このブログを書きながら、調べて判ったのですが、実はこの「院本清明上河図」は北京の故宮博物院所蔵の「清明上河図」の模倣本ということです。(題材を模倣したとはいえ、作品そのものはオリジナルに劣るものではありません。)また、上記の「肉形石」、「翠玉白菜」に北京の「清明上河図」を加えて、故宮博物院の三大至宝と称するそうです。菜心のママのお陰で、またしても、大変な贅沢な美術鑑賞をさせて頂きました。本当に「天人合唱」を地でいくようなインスピレーションに満ちた不思議な方です。(台湾紀行、更に続きます。)

2012年11月7日水曜日

菜の心 - 台湾紀行プロローグ

2度目の台湾旅行です。今回も菜心のママにお世話になりました。「菜心」という名の台湾料理のお店が大久保駅から小滝橋通りに抜ける路地裏にかつてありました。台北出身のママ1人できりもりしている目立たないこじんまりとしたお店でしたが、とても人気があり、10数名入って、満員状態の時も度々ありました。そんな時も、ママ1人で調理と給仕をこなし、その手際のよさは驚異的でした。どこから手に入れたのか、台湾独特の食材を調理してくれたり、日本では手に入らない果物をデザートに出してくれたり。料理の味・量・サービス全て満点の個人的には5つ星のお店でした。3年ほどお店を出した後、思うところがあったのか、店を譲って、台北に帰ってしまいました。しかし、その後も時々来日され、その度に、常連仲間と一緒にお会いし、楽しいお酒を飲ませてもらっていました。
彼女は、台北市郊外の茶園農家の3男6女の次女として生まれました。祖先は100年以上前に福建省から台湾に渡り、南港包種茶を起こした由緒正しい家系の末裔であり、七代目にあたるそうです。名家とはいえ、当時の農家の暮らしは決して楽ではなく、彼女も靴を履かずに1時間程かけて山麓の学校に通っていました。途中、炭鉱があり、道に石炭ガラが転がっていて、足の裏が痛いのと、夏は焼けて熱いのには、往生したそうです。彼女は、走るのが得意で、4年生の時、学校の代表として台北市の大会に出場することになりました。晴れの舞台に裸足では可哀想ということで、お母さんが靴を買ってくれました。とても喜んだ彼女は、絶対に1位になろうと必死に駆けましたが、結果は2位。帰り道、泣きながら川で靴の汚れを洗い流し、来年こそ、この靴で1位になろうと心に誓ったそうです。そして、1年後、大切に大切にしまっていた靴をいざ履こうとしたら「足が大きくなっていて、入らなかったよ」破顔一笑、いつもの笑顔で語ってくれました。彼女の2足目の靴は、学校を出た後、家計を助ける為に町の工場で働き始めた際に買ったものでした。そこでの真面目且つ機転の効いた仕事振りが認められ、マレーシア工場に赴任。その後日本の会社に移り、そのまま、日本で暮らすようになりました。
お店を畳んで、ある程度の蓄えと共に故郷に戻った彼女ですが、農村独特の保守的な土地柄、周りは必ずしも温かく迎えてはくれませんでした。成功者へのやっかみもあって、口さがない噂を立てられたこともありました。そんな中で、彼女は、かつてお茶畑だった実家の周りを耕し、「菜心の菜園」と名付けた菜園(写真)を拓きました。食材(菜)の心を何よりも大事にした彼女が、今度は菜の心に耳を傾けながら、野菜を育てようというのです。(続く)