2011年11月30日水曜日

やっぱり、沢 - INAC対アーセナル

清々しいチームというのがあります。例えば、Jリーグ加入時のジュビロ磐田、オシム時代のJEFユナイテッド千葉、・・・。
アーセナルと震災復興支援チャリティマッチを行ったINAC神戸(写真)は「清々しい」という言葉がピッタリのチームでした。7cm以上も平均身長で差がある相手に対して、臆することなく正面からぶつかり、持ち前のパスサッカーを貫く戦いぶりは男子サッカー以上にサムライの心意気を感じました。そして、後半ロスタイムまで走り抜く精神力とスタミナ。デコイラン(おとりの動き)でさえ全速力というひたむきさには、素直に心を動かされました。高校サッカーの無垢なひたむきさとはまた一味違う、極め抜いたひたむきさとも言うべきもので、精神美すら感じました。
お目当ての川澄ちゃんはなかなかボールに絡めませんでしたが、一瞬のスピードは群を抜いており、さすがでした。ザッと数えただけでも5度の決定機を決め切れなかった大野でしたが、それだけいいポジショニングだったということ。そして、結局は沢です。普段は気配を消して漂っているのですが、攻撃でも守備でも、ここぞという時には必ずボールに絡んできます。男子選手に例えるなら、遠藤と全盛期の藤田を足して2で割らない感じ。また、押し込まれた悪い流れの局面では、自らドリブルで攻め上がり、一瞬にして局面を逆転させてしまいます。ゲームコントロール力(りょく)とも称すべきこの能力は比較する選手を知りません。本当に偉大な選手です。
試合は1-1のドロー。11,005人の観客は、秋空のように爽やかな感動を胸にスコア以上の満足感を抱いて家路についたものと思います。本当にいい試合でした。
ところで、MVPにはDF4人をドリブル突破でかわして先制ゴールをあげたチ・ソヨンが選出され、副賞のトヨタヴィッツを獲得。沢や川澄は既にアウディを貰っていることだし、こちらもいい結末でした。(でも、チ・ソヨン免許持っていなさそう)

2011年11月27日日曜日

Missing Pieces - U-22シリア戦

火曜日に行なわれたアウェーでのバーレーン戦は、実は当初水曜日に予定されていました。しかし、時差ぼけ解消の時間を出来るだけ取ってシリア戦に臨みたいという思惑から、日本サッカー協会がバーレーンの同意を得て、日程変更を行ったものです。それだけ、このホームでのシリア戦は五輪出場権獲得の為に重要な試合だった訳です。ところで、バーレーン戦。アウェーでの勝利はそれだけで十分に賞賛に値しますが、チームの勝利というよりは、選手個々の勝利とも言うべき内容で、いまひとつしっくりきませんでした。チームとしての意思統一はバーレーンの方が明らかに上でした。バーレーンの組織の網の目を日本が個人技でかいくぐって勝利をもぎ取った感があり、シリア戦に向けて不安を残した試合運びでした。このチームにはまだ何かが欠けていました。
さて、シリア戦。ゲーム開始前、ちょうど目の前でシリアがシュート練習をしていましたが、何とも緊張感の無い粗いシュートで枠を外しまくっていました。これはいけるかなとニンマリしながら日本の方を見てみると、こちらも似たり寄ったり。高校やユースの頃は「シュート練習は枠を外すな」と教えられていたはずなのに。結果はそのシリアのシュートミスに救われての辛勝。再三シリアにゴールを脅かされる展開に、観戦していて、同点にされた時には、負けさえ覚悟しました。救い主はボルシアMGの大津。勿論、決勝ゴールのダイビングヘッドは見事でしたが、それ以上に評価すべきは、同点に追い付かれた直後に、自陣右タッチライン沿いでタックルでボールを奪い、倒されながらも前へ前へと突き進んだ気迫あふれるプレー。消えかけたチームの闘志に再点火しました。所属クラブの伝説の闘将、ベルティ・フォクツのプレーを彷彿とさせました。このチームに欠けていたピースのひとつが埋まりました。そして、後半アディショナルタイムの日本のCK。何の策もなくゴール前に放り込み、シリアのカウンターを食らいかけました。当然、ショートコーナーでコーナー付近でキープし、時間稼ぎをすべきところ。この辺りのゲームコントロールを行い、チームを落ち着かせる存在が、チームに欠けているもうひとつのピースです。

2011年11月19日土曜日

Golden Slumbers - 浜名湖でのクラス会

写真は海外のリゾート地のように見えますが、浜名湖湖畔のホテルのベランダからのショットです。左下がプール、その先の2つの水面はゴルフ場の池、一番上の水面が浜名湖です。ここ数年恒例になった高校のクラス会を今回は首都圏と関西の中間、浜松で行いました。理数科という当時出来て間もないクラスで3年間を一緒に過ごしたクラスメイト達です。教室で雑巾を丸めて室内サッカーをやったり、トランプを何回没収されても性懲り無くナポレオンをやっていたりで、「史上最低の理数科」とか「天然記念物」とかいう有り難くない称号を頂いたクラスでした。しかし、大変な人材の宝庫だったということが、今になって判ります。卒業後30年を過ぎた頃から頻繁に再会を重ねるようになったのは、単に懐かしさ故だけではなく、出会いによってチカラをもらえるが故だと思います。
Golden Slumbersというビートルズ末期の曲があります。同名の邦画のテーマ曲にもなりました。11枚目のアルバムAbbey Roadに収録されています。このアルバムは「昔に戻って、またコンサートツアーをやろう。昔のようにオーバーダブをせずに曲を作ろう」というポールの呼びかけで「昔に戻る」ことをコンセプトに製作されたものです。しかし、既にメンバーの気持ちはバラバラ。実際、このGolden Slumbersのレコーディングにはジョンは参加していません。この曲の歌詞は16世紀の子守唄がベースになっていますが、ポールはオリジナルの歌詞でこう始めています。「Once there was a way to get back homeward(かつては家に戻る道があった)」残念ながらポールの呼び掛けは功を奏さず、まもなくビートルズは解散することになります。そういえば、最後のアルバムLet It Beの最後の曲もGet Backでした。時の流れに抗して昔に戻る(=Get Back)ということは不可能なのでしょう。時とともに全てが変化します。想い出以外は。人は美しい想い出に戻ろうとしますが、既に戻る場所は失われているのです。ただ出来ることは、想い出を重ねていくこと。そして、同じ想い出を作り、分かち合っていける仲間がいることは何よりも幸せです。「あの日」には帰れませんが、今日をその「あの日」に変えることは可能なのです。
写真の右上で輝いているのは生まれたての朝日です。ホテルの部屋の中では、齢を重ねてちょっと髪の毛が薄くなったオジサン達が、前日の夜更けまでの宴会疲れでGolden Slumbers(黄金のまどろみ)の真っ只中にいました。

2011年11月16日水曜日

いくつかの疑問符 - 北朝鮮戦

敗れたからというのではなく、何かしっくりとこない試合でした。疑問符の多い試合でした。まず、鄭大世の前半途中での交代。負傷したわけでもなく、不可解な交代です。日本選手とのやりとりが監督の琴線に触れたのかと勘ぐりたくなるエースの交代でした。ただ、これが結果的には大当たり。交代で入った7番が日本の守備を撹乱し、得点の起点にもなっていました。タジク戦から先発6人を入れ替えたザッケローニ采配は当然。消化試合である以上、控えの選手を試すとともにアウェーのプレッシャーを経験させたのは妥当な作戦だったと思います。序盤北朝鮮に押し込まれる展開に、憲剛の位置どりを下げて中盤でタメを作り試合を落ち着かせようとしたのも肯ける采配。憲剛に遠藤の役割を期待したわけですが、かえって前線との距離が間延びし、機能しませんでした。遠藤に代わる選手がいないという課題が浮彫りになった試合でした。 後半残り30分、その憲剛に替えて内田を投入し、3-4-3にシステムチェンジ。これまで結果がでていない3-4-3をこの場面で試すこだわりは、このゲームを文字通りテストマッチとして位置付けるザックの割切り故か、冷静さを欠いた采配か?試合後のインタビューでの表情を見ると、さすがのザックもスタジアムの異様な雰囲気に飲まれていたのではないかと思えました。ハーフナー、李の投入で得点への執念を見せたものの、清武を下げた段階で攻撃の起点を失った日本代表は、ゴールへ向かう道筋を自ら閉ざしてしまいました。
ザッケローニジャパンの不敗記録は途切れてしまいましたが、これで代表の先行きを不安視する必要はないと思います。早い段階で、伊野波の左サイドを手当し、20番を抑えたり、遠藤を投入して、タメを作るゲーム運びをしたりしていれば、いきり立つ北朝鮮をいなす試合運びが出来ていたと思います。タジキスタン戦で浮かれていたところに、控え選手の底上げとレギュラー陣とのコンビネーションの醸成、遠藤の代役の育成という課題を改めてつきつけられたのはむしろ幸いだったかもしれません。個人的にも、代表戦の日恒例の験担ぎだった豚カツの昼食を怠ってしまったのは、大きな反省材料です。それにしても、鄭大世の前半途中交替は大きな疑問符。

2011年11月12日土曜日

北の国から - タジキスタン戦

新潟の反町監督ファン、反町姫から北の国からのメールを頂きました。「新潟は冷たい雨が降る季節になりました。晴れの日がなくなってくるのは、冬が近い証拠です。あっちこちにハクチョウがコシヒカリの落穂を拾いに来ています。アルビ君の姿が見えると『ああ、今年のリーグ戦も仕舞いだ』と思ってしまいます。」(注:アルビ君=白鳥)こんな文章を読むと日本人の繊細な感覚の素晴らしさと日本語の美しさを実感します。日本人であることに感謝する一瞬です。
さて、もうひとつの北の国からの便り、タジキスタン戦。Hub吉祥寺店(写真)で観戦しました。サッカー検定認定証呈示で5%割引という数少ない(唯一の?)特典を受けられるお店です。もっとも、10%割引のクーポン券を配っていましたが・・・。ともあれ、タジク戦。前半は、凸凹のピッチに足を取られて、ラストパスの精度を欠いたり、シュート前のトラップがうまくいかなかったりで、シュートまで持ち込めない苦戦が続きました。それを打開したのが、今野。自陣でのタックルでボールを奪った今野がドリブルで攻め上がって、香川に預け、壁パスをもらう為にペナルティエリアに侵入するも、香川からのパスはマイナス方向で長谷部に。ゆっくりと自陣方向に引き上げる今野が何を思ったか、ペナルティエリアの外で立ち止まっていました。そして、憲剛のシュートシーンに猛然とこぼれ球を狙ってダッシュ。今野代表初ゴールは今野らしからぬリスクを負った攻め上がりからの得点でした。後半の3得点は、タジクの足が完全に止まり、プレスがルーズになったが故。パスやトラップの際の余裕が生まれ、ボールコントロールを修正する時間が出来た為です。最終予選の相手は、こんな余裕を与えてくれないでしょう。もっとも、ロスタイムでの4点目は文句なし。香川→清武→香川→清武→前田→清武→岡崎 Gooooal!!!。相手の選手も思わずみとれてしまうようなダイレクトパスで描かれた美しい幾何学模様。タジキスタンからの便りは抑揚のない多少退屈な文章で綴られていましたが、最後は魅惑的なキスマークXXXXで締めくくられていました。

 

2011年11月9日水曜日

When I'm Sixty-four

スランプからの脱出法は、「来た球を、打つ!」ということで、ここ数日頭の中で繰返し流れているビートルズの"When I'm sixty-four"について、徒然なるままに書き綴ってみようと思います。
この曲はポールが作詞・作曲した曲で1967年にリリースされた「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band」のアルバムに収録されています。ちょうど64歳だったお父さんに捧げた曲と言われています。(「親孝行なビートルズ」というのはちょっと笑えます。)とは言え、曲自体はポールが10代後半に作って、デビュー前から歌っていたようです。その曲をお父さんの誕生日に引っ張り出してきたという訳です。「僕が64歳になって、髪の毛が薄くなっても、君は僕を必要としてくれるかい?僕の為に食事を作ってくれるかい?」と恋人に問いかけ、「君は暖炉の側でセーターを編み、僕は庭で土いじり。これ以上の幸せはないよ。夏にはワイト島に別荘を借りよう。あまり高くなければね。君は孫を膝に乗せて・・・。ベラとチャックとデーヴだ。」と続きます。何ともリアルなこんな詞を十代で書いてしまうとは、ポール恐るべしです。ただ、ここまでの妄想は男の子には無理ではないでしょうか。当時付き合っていた女友達の他愛ない冗談話が元ネタになっているのではと想像しています。小坂明子の「あなた」って感じで。
当のポールは64歳の時は2度目の奥さんとの離婚を宣言して離婚調停中でした。なかなか歌通りの幸せな人生という訳にはいかないものと思っていたら、古稀を前にした69歳の今年、3度目の結婚を果たしています。やはり、只者ではありません。
ところで、この曲は映画「ガープの世界」のテーマ曲となっているようです。原作は村上春樹が好きな(私も大好きな)米国の作家ジョン・アーヴィングです。世界は色んなところで繋がっています。彼の作品の中でも「ホテル・ニューハンプシャー」は特にオススメです。
それにしても、64歳。ポール(もしくはポールの元カノ)程のイマジネーションが無くとも、十分想像出来る歳になってしまいました。(村上春樹風に)やれやれ・・・。(写真は六本木Abbey Road店内に飾ってあるオブジェ)

2011年11月6日日曜日

長嶋茂雄伝説 - スランプ脱出法

渋谷宮益坂の裏通りに佇む老舗のビストロの壁に、ON揃い踏みのお宝サイン色紙(写真)が飾られています。お二人に「一枚の色紙に」とお願いしたところ、長嶋さんは迷うことなく色紙の真ん中にサイン。王さんは苦笑しつつも、律儀に色紙の端っこにサインしてくれたとのことです。両氏の性格がよく表れている色紙です。ONといえば、かつて「バッティングフォーム、おかしいんじゃないの」という野村捕手のささやき戦術に、王選手は考え込んで三振。長嶋選手は「えっ、そう?」と打席をはずして、2度、3度素振りをしてから、「ありがとう」と言ってホームランというこれまた対照的なエピソードがあります。稀代のスーパースター長嶋茂雄氏は、エピソードというか伝説に事欠かない人物です。ベースを踏み忘れて、アウトになったり(しかも3回も)、ホームランをふいにしてしまったり。幼い頃の一茂を後楽園球場に忘れてきてしまったとか、ストッキングが片方無いと騒いでいたと思ったら、片足に重ねて履いていたという話は有名ですが、他にも、ゴルフがらみで、その天真爛漫ぶりが如何なく発揮されている長嶋伝説があります。ビートたけしをゴルフに誘っておきながら、朝、ゴルフ場で会って「たけしさん、今日はゴルフ?誰と?」車でゴルフ場に向かっていると道路の右側にあるはずのゴルフ場がない。しばらくして、左側だったのを思い出して、Uターンをし、今度は道路の左側を探したので、当然、見つからなかった。そんな長嶋氏もスランプに陥り、悩むことが多々ありました。入団間もない頃、スランプに悩んだ長嶋は、立教大学時代の恩師、砂押監督宅に押し掛けて教えを乞い、翌日の国鉄戦でホームランを放ち、見事スランプ脱出。ちなみにその時の国鉄の監督は当の砂押監督。敵チームの監督にコーチを受けに行く方も行く方ですが、教える方も教える方。長嶋が長嶋である由縁であり、長嶋の不思議な人徳のなせる技なのでしょう。ここのところ、なかなかブログの筆が進まず、スランプ状態にあります。長嶋は、スランプの掛布の相談を受けて、こう答えたそうです。「来た球を、打つ!」なるほど。