2010年10月31日日曜日

大戸屋にて

先日、会社の帰りに大戸屋で釧路沖生さんまの炭火焼定食(写真)を頂きました。「産地直送、冷凍せずに生のまま店舗で焼き上げる」と銘打っているだけに、なかなかのものでした。
その時の出来事です。目の不自由な若い男性が、白い杖をつきながら入って来ました。たまたま戸口にいた若い男の店員さんが「お一人様ですか」と声をかけると「はい、一人です」の返事。どう対応するのかと見ていると、若い店員さんは「お席にご案内します」と、男性の手を取って、私の隣のソファ席に着かせました。「何を召し上がりますか?」「・・・・。メニューはありますか?」若い店員さんは動じることなく「どのような料理をお召し上がりになりますか?」「豚肉を」「それでは、ロースかつ定食、ロースの黒酢炒め定食、ロースかつの卵とじ鍋定食、・・・」としゃがみこみながら耳元でメニューを読み上げる店員さん。結局、男性は生姜焼き定食を注文し、テーブルに置かれた水のグラスとお茶の湯呑を時々指先で確かめながら、料理を待ちます。しばらくして、同じ店員さんが料理をのせたお盆を運んできました。彼は、「お盆をテーブルに置かせて頂きます」と伝えて、静かにお盆を置くと、男性の手を添えて「右側手前がご飯です。その上がお味噌汁。真ん中の小さな器が漬物です。生姜焼きは、左側のお皿で、お皿の上の方にサラダがのっています。ドレッシングはおかけしてよろしいですか?」と料理の場所をひとつひとつ説明していきます。
全てが気負いもなく、引け目もなく、淡々と当り前のやりとりのように進んでいました。横でハラハラしながら見守っていた自分が気恥ずかしく、顔が火照る思いでした。清々しい出来事でした。若いお二人のお互い堂々とした対応に大いに教えられました。感謝したいと思います。これからは、大戸屋をちょっと贔屓にしていくつもりです。

2010年10月25日月曜日

グリーンリボン・ランニング・フェスティバル

最近は、乳がんに関する啓蒙活動のシンボルマークであるピンクリボンが有名ですが、臓器移植医療啓蒙活動のシンボルマークであるグリーンリボンの方が、世界的にみると歴史が古いそうです。グリーンは成長と新しい命を意味し、リボンはギフト・オブ・ライフ(いのちの贈り物)によって結ばれたドナーとレシピエントの命のつながりを表現しています。
10月24日NPO法人日本移植者協議会の主催で、グリーンリボン・ランニング・フェスティバルが開催されました。10km、3km、駅伝、親子ペアランが、国立競技場と神宮外苑コースで行われました。昨今のランニングブームで、特に10kmは応募者が多く、大変な人気だったようです。何しろ国立競技場のトラックを走れるというのは、めったにないチャンスで、これに魅かれた人が多かったのではないでしょうか。かくいう私もそのうちの一人です。フェスティバルにはボランティアとして参加し、3kmランに参加しました。3kmランの方は、この日に向けて、この2ヶ月週1回程度のペースで走っていましたが、20分の壁が破れず、最後尾を走る悪夢にうなされていました。ところが、大勢の中で走ると、ペースに乗せられて、自己ベストを3分以上上回る16分53秒でゴールすることが出来ました。参加者の真ん中よりやや後ろという感じでした。改めて、「みんな」の中で得られるパワーというものを実感した次第です。このイベントは、臓器移植者、提供者が障がい者や一般の健常者と一緒になって走り、「いのち」と「健康」の大切さを分かち合おうという目的で行われているものです。開会式では、臓器提供者への感謝の気持ちを込めて、一斉に風船を空に向かって放つセレモニー(写真上)が行われました。緑・赤・白の3色の風船は、移植者・提供者・一般人を意味しているのかもしれません。象徴的で感慨深いセレモニーでした。このイベントは、3,500名のランナーと数百人のボランティアによって実現しました。寄付をしたり、署名をしたり、セミナーを開催したりという、いわゆる「助ける」活動は勿論大切ですが、今回のような「秋の日に爽やかな汗を分かち合う」イベントも「一緒に生きている」ことを確認する上で、とても意義深いものだと思いました。
ボランティア活動は、フェスティバル終了後の道路のコーン片付けとスタジアム観客席のゴミの回収。このようなイベントは、色々な部分でボランティアに支えられているということを改めて実感した次第です。コーンを担ぎながらランニングのコースを遡るのも精神的にきついものがありましたが、スタジアムの階段も筋肉痛の出始めたふくらはぎにこたえました。下の写真は、憧れの国立のピッチの芝です。もちろん、ピッチには立ち入ることは出来ませんでしたが、ここまで芝を間近かに見ることが出来て、満足です。不謹慎と怒られそうですが、ボランティアのささやかな役得としてご容赦下さい。
このフェスティバルを通じて蒔かれたグリーンリボンの種が、このピッチの芝のように青々と芽吹いて、広がっていくことを祈りたいと思います。本当に気持ちの良い秋の一日でした。

2010年10月23日土曜日

龍馬外伝 - 弥太郎の宴会5ヶ条②

江東区清澄の清澄庭園は、かつては、岩崎弥太郎(写真)が造成した三菱社員の親睦と賓客接待を目的とした庭園でした。弥太郎は、その開園にあたって、宴会のルールを示した「公会式目」を定めました。龍馬伝でライバルとされている坂本龍馬の「船中八策」と比べるのは、そもそも無理がありますが、弥太郎のひととなりがよくあらわれていますので、その要旨を紹介させて頂きます。
まず、その第1条で、社員慰労会を春秋の2回行うが、会においては、礼節を保つようにとしています。第2条では、一応酒は用意するが、食事は質素を旨とし、二汁五菜に留めると、弥太郎らしい細かさが顔をのぞかせています。第3条では、芸者には酌だけさせて猥芸の具にしてはならない、また、大声で歌うなど騒いではならないと定めています。愛妻家の一面でしょうか、あるいは、そもそも、土佐流の酒の飲み方は慎み、酒はスマートに飲めということでしょうか。更に、第4条で、度を過ごして酒は飲むなとし、酒を強要してはならないとしています。最後に、時間厳守、予定通り開会し、予定通り閉会することとマナーの基本を述べて第5条としています。
本社の東京移転に伴い、花の都に出てきた土佐のいごっそう達を、都会のビジネスマンに育てていくためには、このような細かいルールを示していくことが必要だったのでしょう。そして、実際に、庭園の開園式で酒を飲み過ぎて失態を演じた4人の社員に、翌日、式目違反としてクビを申し渡しています。弥太郎は、極めて厳格な経営者だったようです。
オマケ:全く関係ありませんが、今日仕入れたジョークです。「クリントン夫妻がガソリンスタンドに立寄ると、その店員がなんとヒラリーの元彼。2人が懐かしそうに話をしていたのにヤキモチを焼いたクリントンが「ヒラリー、良かったね、私を選んで。もし、彼と結婚していたら、今頃、君はガソリンスタンド店員の奥さんだったってわけだ」「何言ってるのよ、ビル。もし、私が彼と結婚していたら、今頃、彼が大統領よ。」

2010年10月22日金曜日

龍馬外伝 - 弥太郎の宴会5ヶ条①

NHKの龍馬伝も佳境を迎えつつあり、いよいよ夕顔丸での船中八策起草です。高知の蔵元「司牡丹」は龍馬ゆかりの酒蔵として有名ですが、「船中八策」「日本を今一度せんたくいたし申候」「坂竜飛騰」など龍馬にちなんだネーミングの辛口のキレのいい日本酒を造っています。多少辛過ぎるのと、さすがに便乗商法気味なので、敬遠していましたが、先日、吟醸酒「夕顔丸」を飲んでみたところ、土佐のお酒らしくない滑らかな飲み口で、これはお勧めです。また、土佐のお酒でお勧めといえば、亀泉CEL-24(写真)。CEL-24は、新政六号と同じで酵母名がお酒の銘柄となっています。日本酒度-8.5という信じられない甘口で、騙されたと思って飲んでみたところ、これが甘さを感じさせないキレのよさ。フルーティな香りに程よい酸味で、不覚にもはまりました。キンキンに冷やして飲んで下さい。
閑話休題。話を戻して、その龍馬伝。もともとは岩崎弥太郎伝が企画されましたが、一企業グループの創始者を主人公とするのは如何なものかという意見があり、ボツとなりました。しかし、企画を全て捨て去るのは忍びなく、龍馬伝を制作するにあたり、弥太郎を語り部にすることで、弥太郎の生涯も重ね合わせる形としたということです。また、当初は、龍馬暗殺後、弥太郎を中心した話を数回放映するシナリオだったのが、「福山龍馬を最後まで出し続けろ」という視聴者の声があまりに大きく、龍馬暗殺の回を遅らせるようシナリオが書き換えられたという話もあります。
と、閑話休題になっておりませんでしたので、今度こそ、閑話休題。その弥太郎です。甥にあたる小弥太(三菱四代目社長)の訓諭は、三菱商事の企業理念である三綱領として、今の世に引き継がれていますが、三菱の創始者である弥太郎は宴会の心得5ヶ条を残しています。弥太郎のひととなりが窺えますので、紹介させて頂きます。というところで、紙面が尽きて(?)しまったので、本題は次回に。 To be continued......

2010年10月19日火曜日

台湾紀行3 - 飲茶の旅

台湾の旅も最終日。今日は、フライトの関係で実質半日のスケジュールながらも、菜心のママは、タップリ1日のコースを頑張って半日に詰め込んでくれました。汐止で牡蠣入り素麺と汁米粉の朝食を取った後、朝市を見て回って、更に基隆河河川敷公園を散策してから、忠列祀へ。まさに様式美の極致である衛兵交替式の感動を引きずったまま、郊外の広大な盆栽園へ。素人でも名匠の技の凄味が伝わってくるような一鉢、一鉢を観賞した後は、台北中心街へ戻って、飲茶で中国4,000年の味を堪能。
これでもかこれでもかというくらい、次々にこだわりの料理を出してくれていた菜心のママらしい、超豪華フル・コースのスケジュールでした。感謝してもしきれませんし、たまたま連れて行かれて、味にはまって、通い詰めた東京でのご縁がこのような夢のような台湾旅行につながっている運命の不思議さと素晴らしさを感じずにはいられません。味わい深い一品、一品が間を置かずに次から次に出てくる旅でしたので、最後の食事が飲茶で締め括られたのは象徴的でした。
菜心のママは元気でした。菜心ファンの為に、ママの写真を掲載致しました。台北の中心部のマンションから郊外の菜園まで毎日通い、野菜を育て、植樹をしています。日本流のゴミの分別を地域に普及させたり、ネットで天燈の作り方を広めたりと、相変わらずエネルギッシュに動き回っています。菜園の中に民宿を開くのが今の夢ということですが、日本での生活への未練も断ち切り難く、気持ちは日々揺れ動いているようです。菜心ファンとしては、是非もう一度日本でお店を開いて欲しいのですが、台湾料理はやはり台湾で食べるのが一番なのかもしれません。故郷の自然と家族に囲まれたママを見ていると、大久保にいた時とはまた違った輝きを放っていました。天燈は輝きながら天に還って行くということでしょうか。
空港に向かう時間になって、漸く太陽が顔を出して、台湾らしい暑さになってきました。「今度は晴れた時に来てよ」ママが、怒ったような顔で空を見上げながら口にします。我々に向かって行ったのか、空に向かって行ったのか・・・。3日間、本当に有難うございました。

2010年10月18日月曜日

台湾紀行2 - 天燈

台湾2日目の旅程。松山オフィス街でビジネスマン向け台湾ファーストフードの朝食→故宮博物館→野柳地質公園(「クレオパトラの横顔」の奇岩)→金山金包老里街の老舗鴨肉食堂で昼食→烏來(トロッコ列車、白糸瀑布)→菜心のママの菜園でママのおもてなし晩餐→ぎょう河街観光夜市。と、書いているだけで、自分でも驚かされるイベントのぎっしりつまった長い一日でした。
菜心のママのお父さんは、台北でも有名な茶園の経営者で、台北市北東部の山一帯を保有しています。台北に戻ったママは、お茶作りを手伝う一方で、山の一部に「王家の菜心の菜園」と名付けた畑を拓いて、野菜や果物を育てていました。菜園の中の(製茶作業所の一部を改造した)ママの別荘での晩餐は、菜園で採れた果物(パパイヤ・釈迦頭・ドラゴンフルーツ・蓮霧・菱の実)に始まり、鶏の丸焼き、採れたてのネギ、茄子、サツマイモの葉を調理した台湾家庭料理という超豪華版。
食事の後は、前庭に出て、「天燈(テンダイ)上げ」を楽しみました。天燈は、針金で留め合わせた竹片の輪に4枚の大きな紙を風船状に貼り合わせ、灯油をしみこませた紙の束をつるした、いわば紙製の熱気球で、子供がすっぽり入る位の大きさをしています。紙風船の4面に願い事を書いて、皆んなで一斉に夜空に飛ばすというとてもロマンチックな台北の伝統行事で、旧正月に行われるとのことです。風船の端を2人か3人でつまみ、つるした紙の束に火をつけると、風船がみるみる膨らみます。「行ってらっしゃい」という掛け声とともに手を放すと(写真上)、天燈は儚げな灯りを揺らしながら舞い上がっていきます。数十mまで上昇した天燈は、気流に乗って数km先まで飛んでいくとのことです。雨があがったばかりの漆黒の闇空に、淡いオレンジ色の灯りが上っていき、やがて視界の外に消えていく様は、神秘的であり、ある種の感傷を呼び起こします。晴れた日であれば、天の川がくっきりと見えるそうです。「天の川を流れていく天燈を見せてあげたかった」と菜心のママは曇り空を恨めし気に見上げていましたが、ママの手作りの天燈の灯りが天に帰っていく姿(写真下)をみただけで十分でした。願いが本当に叶いそうな気がしました。

2010年10月17日日曜日

台湾紀行1 - 基隆は今日も雨

台湾北端の港町基隆は、雨の日が多く、年間280日以上雨が降るとのことです。この日も、しのつくような雨が街を濡らしていました。日本統治時代には、日本海軍が駐留する軍港として、また、日本と最も近い立地から日本との貿易港として繁栄しました。一時期は、人口の4分の1を日本人が占めており、私の母もその中の一人でした。母は、女学校時代まで基隆で暮らし、終戦とともに日本に引き揚げてきました。
台湾の旅は、図らずも、母が戦時下青春時代を過ごした女学校から始まることになりました。
ここで話は前後しますが、大久保に菜心という台湾料理の名店がありました。台湾人の女将さん一人で調理から配膳まできりもりする小じんまりとしたお店で、台湾のお袋の味ともいうべき家庭料理が絶品でした。その菜心のママが、店を閉じて、故郷の台北に戻ってしまってから2ヶ月。ママの「台湾に遊びにおいで」の言葉に甘えて、お店の常連仲間と連れだって、今回の台湾の旅となった次第です。宿も観光旅程もママにお任せ。ただ、時間が許せば、私の母親が通っていた基隆の女学校に行ってみたいとお願いしておりました。
菜心の売りは、料理の味の他に、ママのサービス精神・ホスピタリティにありました。珍しい台湾の果物をデザートにサービスしてくれたり、料理の味付けを褒めると秘伝の「醤」を分けてくれたり・・・。とにかく、客の喜ぶ顔をみるのが楽しくて仕方がないという感じのママでした。そんなママだけに、学校の門の前で写真を撮るだけのつもりでお願いしていたのが、行ってみるとママの交渉力(?)で、何と校長室に招かれて校長と面談の上、ご丁重な記念品まで頂き、その後は女子高(写真・現在は生徒数2,000人のマンモス校)の校内を教務主任が案内という至れり尽くせりの歓待でした。その上、母が通っていた小学校が近くに残っているとの話をすると、教務主任自ら現地に案内して頂き、台湾の方々の親切さにはつくづく感激致しました。この間、女性職員が大きなカメラでフラッシュをたきながら写真をバチバチ撮っており、校内新聞でどのように掲載されるのか、厚顔無恥な日本人にとっても、多少心配なところであります。
小学校は、裏山を背負った丘の中腹にあり、校舎自体は勿論改築されていましたが、周りの風景は母に聞かされた面影を残しておりました。終戦のあの頃、基隆の町は、やはり雨に煙っていたのか、老いた母に聞いてみようと思います。(1日目の旅程:桃園国際空港→基隆→九份(「千と千尋の神隠し」の舞台)→基隆夜市→台北ホテル)

2010年10月16日土曜日

Project Post WC - 高みへ その3 完結編

新生サムライ・ブルーは、南アの地で守備面での覚醒とBest16の経験値という貴重な財産を獲得し、更なる「高みへ」向かって力強い歩みを開始しました。アルゼンチン、そして、メッシ、テベスという世界のビッグネームにも臆することなく立ち向かい、アウェーの韓国でも自らのサッカーを貫いた戦い方は、自信に満ち溢れ、ザッケローニ監督のいう「伸びしろ」を十二分に感じさせるものでした。
一方、今回の山岳行は、3,000mの山並みを10時間かけて縦走という私にとっては初めてのチャレンジであり、「高みへ」というテーマに相応しいものでした。鬱々たる霧雨の中の黒部ダムに圧倒された翌日には立山の山頂からその黒部ダムをはるか下に見下ろし、文字通り「高みへ」向かった旅でした。立山三峰を踏破し、地獄谷経由室堂に戻る途上に別山があります。ちょうどここからが下りの道のりとなり、ある種の達成感と余韻に浸りながらも、急な下り坂に踏出す1歩1歩に集中する行程となります。写真は、別山から望んだ剣岳です。高さは、別山2,880m、剣岳2,999mですから、見上げる程ではないのですが、剣岳という名前に象徴されるように、人を拒むような猛々しい山容に圧倒される想いがしました。実際に、剣岳は一般登山者が登る山の中で最も危険な山とされています。また、かつての立山信教(立山は富士山、白山とともに三霊山のひとつ)においては、剣岳は信仰の対象であり、登ることが許されておりませんでした。その神々しい山並みは、文字通り、更なる「高み」であり、辿り着いた高みの向こうには別次元の高みが待ち構えておりました。
ひとつの高みを極めた時、更なる高みに向けて目線を上げること、一方で、足元を見つめながら、一歩一歩慎重に歩を進め、ひとまずは、ベースキャンプまで後退すること。いずれも、人生における重要なプロセスであるように思えます。
追記1 : ブログにリアクションの機能を追加しました。読者の皆さんの感想を自由にご回答下さい。。
追記2 : 実は、今、台北におります。この地で人生はドラマだとつくづく思いました。詳細は後ほどブログでご報告させて頂きます。

2010年10月13日水曜日

日韓戦 - 勝率15.7%










11勝21分38敗。昨日の日韓戦をドローで終えた後の通算成績です。7回対戦して1回勝ち、4回負けるという計算になります。これはかなり分が悪い相手だといわざるを得ないでしょう。ここ数年でその差は急速に縮まっている印象があり、実際FIFAランキングも日本が33位、韓国が40位と日本が上位に位置しています。しかしながら、ここ10年の戦績をみても日本の1勝3分4敗と殆ど勝率に変化はありません。更にここ数日間、韓国代表には、女子U-17W杯決勝でPK戦負けで優勝をさらわれ、男子U-19代表もU-20W杯アジア予選準々決勝での痛恨の逆転負けで世界への夢を断たれるという悔しい負けが続き、A代表の対戦でかろうじてドローを拾った感があります。残念ながら、サッカーの世界では、いまだ日本は韓国の背中を追っている状況にあることを認めざるを得ないと思います。
アルゼンチン戦に続いての完封が示す通り、日本代表の守備は安定していました。また、DFラインも高い位置を保ち、早い攻守の切替えに繋げていました。ボランチ陣、香川・松井のウイングハーフに加え、本田・前田までもが、自陣深くまで戻って守備をこなし、守備のブロックをより強固なものにしていました。一方で、攻撃は、韓国の早いプレスもあり、前を向いての展開がなかなか出来なかったのが、アルゼンチン戦との違いでした。前を向いた選手に次から次へパスが繋がる直線的な攻撃の展開だったアルゼンチン戦と異なり、昨日のゲームでは、前線の後向きの選手にボールを当てて、後列に落としたボールをサイドに展開するという「1歩下がって2歩進む」的な展開にならざるを得ませんでした。それでも、「岡田監督時代は攻撃に転じるときに余計なパスが多かったが、今の日本代表は、すごく攻撃が早くなったというイメージがある」と韓国代表監督が評しているように、新生ザック・ジャパンの攻撃力は岡田ジャパン時代に比べ確実に相手にとって脅威を増しているといえます。脅威をいかに現実のゴールに繋げるかがザック・ジャパンの今後の課題となります。
後半32分松井のセンタリングが明らかに韓国選手の手に当ったにも拘らずPK判定とならなかったのは、アンラッキーでしたが、松井がその前の絶好のシュートタイミングを逃したのが全てであり、下手にPKの1点で勝敗を決するよりは、スコアレスドローの方が、緊迫感溢れるゲームの評価としては妥当だったと思います。両チームとも最後まで集中力を切らさなかった好ゲームでした。ただ痛恨事は、駒野の右腕骨折。ジュビロ磐田の久々のタイトル獲得のチャンス、11月3日のナビスコ杯決勝には間に合いそうもありません。

2010年10月11日月曜日

高みへ - アルゼンチン戦

メッシ、メッシ、メッシ。埼玉スタジアムはアルゼンチンの10番のレプリカユニフォームを着た子供たちが至る所で目につきました。また、アルゼンチンの応援席にもブルーの日本代表レプリカを着たサポーター達が。ザック・ジャパンの船出のゲームは、さながらメッシ一人にスタジアムジャックされた様相でした。そして、キックオフ早々メッシが魅せます。ボールが足に吸いついているような小刻みな高速ドリブルに、日本のDF陣がいきなり翻弄され、ピンチを招きますが、その後のディフェンスは安定感に溢れ、ザック・ジャパンの目指すサッカーを予感させるものでした。
岡田ジャパンのW杯での守備的布陣は、CBの両脇にやや高めにSBを配置し、その1列前にボランチを置いた六角形を押しつぶしたような陣形で、その六角形の中心に阿部を配したものでした。いわば、蜘蛛の巣でボールを絡め取るような守備陣形でした。それに対して、新生ジャパンの守備陣形は、CBとSBの横一線の前にボランチの両脇に岡崎、香川の両ウイングがフラットに並び、8人で長方形のブロックを構成し、敵の中央突破を撥ね返す布陣でした。これがアルゼンチン相手に、見事にはまりました。南米の雄のプライドか、中央突破にあくまでこだわるアルゼンチンの攻めに対して、日本の長方形のブロックが面白いように機能します。長身のイグアインをターゲットにハイボールを放り込んできたり、サイドをついてきたら、あるいは、日本の金星はなかったかもしれません。また、親善試合が故の6名までの選手交替も日本に有利に働きました。攻守の切替えの都度、激しい上下動を繰り返す岡崎・香川の動きは、90分間持続するのは不可能であり、2人のスタミナが切れた時には、日本の強固な守備のブロックに亀裂が生じることになるからです。
いずれにせよ、ザック・ジャパンのコンセプトが明確に表現されたナイス・ゲームでした。ただ、その真価は、アウェイでの日韓戦で問われます。南アW杯でのBest16を足懸りに、どこまでの高みを目指し、どこまでの高みに至ったのか。U-19アジア予選で、U-20W杯本戦への道を断たれた弟分の雪辱を果たせるのか、注目です。
(ところで、埼玉スタジアムで隣り合わせたご夫婦のご主人の方は、なかなかのサッカーフリークオヤジで、味のある解説を奥様にしておりました。香川の中央への切込みに際して、「行け、行け、香川、ドルトムント香川」の絶叫の後にポツリと「四国のチーム」。よほど、自分で気に入ったのか、もう一度「ドルトムント香川、四国のチーム」とつぶやき、ニヤリと笑っておりました。座布団1枚。)

2010年10月3日日曜日

Project Post WC - 高みへ その2

標高2,410m、日本で一番高所にある温泉、「みくりが池温泉」で目覚めた朝は、雲海の上でした。下界は雨なのでしょう。山の上は、曇りがちながらも、無風の絶好の登山日和。映画「剣岳 点の記」にも出てきた玉殿岩屋に立ち寄った後、いよいよ、雄山→大汝山→富士の折立の立山三山の縦走に向かいます。いつもながらのゆったりとした昼食(今回はタンメンにPlus Oneのワンタンを加えた野菜たっぷりワンタン麺)を含めて約10時間の行程。初めての北アルプス登山に加え、長丁場の山歩き。まさに、「高み」への挑戦でした。写真は、大汝山山頂からの眺望です。雪渓の向こうにエメラルド色に輝いているのは、黒部湖です。湖の左端の建造物が、黒部ダムです。前日に間近かで観たその威容も、3,015mの高さから見下ろすと、気が抜ける程の小ささです。大自然の前では、所詮、人智人力が結実した大事業も、ちっぽけなものに過ぎないということなのでしょうか。山はどこまでも高くそびえ、その上にどこまでも続く空が広がり、雲が悠々と流れていました。

2010年10月2日土曜日

Project Post WC - 高みへ その1

日本代表は、ザッケローニ新監督の下、新たな高みに向けて歩みを開始しました。我々、山と秘湯を愛する凸凹トリオも、「Post WC - 高みに」のProject名で高みに挑むこととしました。
「日本秘湯を守る会」という秘湯の宿の会があって、この宿に泊まるとスタンプがもらえ、10個貯まると1泊無料という特典を得ることができます。今回、期間限定でスタンプがダブルになるキャンペーンが実施され、早速、このチャンスを活かすべく、秘湯を絡めた立山縦走を企画致しました。「Plus One STamp W Campaign - TAteyama Kita-Alps MIkurigaike-onsen」ということで、Project名は「Post WC - 高みへ」。WC(W杯)後の日本代表とともに、更なる高みに到達しようとの想いも込められています。いつもながら、完璧なネーミングであり、森林インストラクター資格保有者N隊長の行程も完璧でした。しかしながら、天候には勝てず、初日は雨。立山のベースキャンプとなるみくりが池温泉に向かう途上の黒部ダムも雨に濡れそぼっていました(写真)。昭和31年に開始された黒部ダム建設は7年の歳月と延べ1,000万人の作業員を要し、171人の殉職者の犠牲の下に昭和38年ようやく完成をみました。毎秒10tの放水の瀑布を目の当たりにすると、この世紀の大事業に携わった人々の執念のほとばしりを体感することが出来ます。人智が、大自然に挑み、撥ね返され、最後にはかろうじて御した歴史が、黒部ダムの威容に凝縮されています。半世紀の時が過ぎ、エメラルド色の水を湛えたダムは、北アルプスの景観の一部となっています。それは、自然との和解なのか、自然への同化なのか。
黒部ダムからケーブルカーを経て、大観峰に向かうロープーウェーは、辺りの絶景を覆う真っ白な霧の中を音も無く登っていきます。