2010年7月27日火曜日

Eight Days A Week

再び、The Beatles。
ここ2日間ばかり、リピートして浮かんでくるのは、 Eight Days A Weekです。
♪Hold me, love me, hold me, love me
I ain't got nothing but love, babe, eight days a week
「僕を抱きしめて 愛して 僕も1週間に8日間分の愛を君に捧げるよ」というたわいのない歌詞ですが、最後のEight days a weekのリフレインが、ちょうどブブゼラの響きのように耳に残り、無意識に口ずさんでいることがあります。
昔は、1週間が8日間以上もあったような気がしますが、最近は、4日間くらいしかないような1週間が随分あります。歳をとるにつれ、時の流れに加速がついていくようです。ある方が、こんな言い回しをしていました。「5歳の頃の時の流れはちょうど歩く早さの時速5km位。20歳の頃は自転車並みの時速20km。そして、50歳になれば、自動車の時速50kmに加速。時の流れの速さは年齢に比例するのです。」なるほど、それで、見える景色、記憶に残る風景も自ずから異なってきてしまうわけです。
時の加速については、こんな風に考えています。見るもの聞くもの全てが新鮮で、毎日が新しい発見・経験に満ちていた幼い頃は、1ヶ月を30cmのモノサシにたとえると、ミリ単位でぎっしりと目盛りが刻まれていました。歳を重ねるにつれ、経験の蓄積と反比例して、新鮮な驚き・感動の機会は減っていき、時のモノサシは、センチ単位どころか、5cm刻み位の粗い目盛りになってしまいます。この幅広目盛りの間隔をギュッと縮めていくと、とんでもなく短いモノサシが出来上がります。というわけで、色んなものを詰め込んで、何とか目盛りの刻みを増やし、時の流れの加速を押し留めようと抵抗しているのですが、好奇心の衰え、感性の摩滅はいかんともし難く、目盛りの刻みはなかなか思うように増やすことは出来ません。Eight days a weekは無理でも、せめて、Five days a week位までには押し戻したいと思っている次第ですが。
ところで、The BeatlesのEight Days A Weekのリリースは1964年。これに先立って、1963年に日本で五月みどりが「1週間に10日来い」をヒットさせています。つまり、ポールは、五月みどりのヒット曲をパクった可能性があるわけです。(実際には、リンゴがあまりの忙しさに「1週間に8日間も仕事だなんて」と嘆いた言葉にヒントを得たということのようです。)

2010年7月23日金曜日

Nowhere Man

Beatlesの曲には麻薬性があります。Lucy in the Sky with Diamondsというかなりサイケデリックな曲がありますが、その頭文字を取るとLSDになるということで、覚醒剤使用を誘発する曲として一時放送禁止になったという冗談のような話があります。実際は、ジョン・レノンの子供が幼稚園で描いた友だちのルーシーの絵がモチーフになっていたようです。
閑話休題。麻薬性といったのは、曲が麻薬がらみということではなく、一旦、その曲を聴いたり、口ずさんだりすると、一日中、反復して、その曲が頭の中で繰り返されるということです。
最近は、どういう訳か、Nowhere Manが朝一番で浮かんできて、一日中リピートされます。アカペラで始まる名曲で、残念ながら「一人ぼっちのあいつ」という安っぽいフォークソングのような邦題をつけられてしまった楽曲です。
♪ He's a real nowhere man
Sitting in his nowhere land
Making all his nowhere plans for nobody
という、とてもやるせない出だしながら、
♪ Nowhere man, don't worry
Take your time, don't hurry
Leave it all till somebody else lends you a hand
と、文字通り、救いの手が差し延べられる歌詞となっています。とはいえ、この曲が毎日繰り返されるというのは、決して、良い傾向ではありません。W杯燃え尽き症候群でしょうか。
早く、
♪ Here comes the sun
Here comes the sun and I say
It's alright
と、太陽に向かって、両手を一杯に広げながら、口ずさみたいものです。
♪ Sun, sun, sun here it comes
 Sun, sun, sun here it comes

2010年7月21日水曜日

虹色の雲

ちょっと前のことですが、7月18日の日曜日、炎天下でテニスをしている最中、ふと空を見上げると虹色の雲が浮かんでいました。平均年齢60歳近いテニス仲間の面々は、携帯で写真を撮ることも忘れて、ポカンと雲を眺めるばかり。73歳の長老も人生で初めて見たということでした。「そういえば、『虹色の雲』って歌、ありましたよねぇ。♪虹色の雲と思い出をだいて~」「それは、『バラ色の雲』じゃないですか。」「雲じゃないけど、『にじいろの雨~』って八神純子が歌ってましたね。」「そうそう、高い声で」「それは、たぶん『みずいろの雨』ですね」「『虹色の湖』を歌っていたのは黛ジュンでしたっけ?」「・・・・・・・」(歌っていたのは、中村晃子でした)平均年齢60歳ちょっと前の人々の会話は、こんな風に緩~く、とめどもなく続きます。
この虹色の雲は、彩雲と呼ばれているそうです。瑞雲の別名がある通り、吉兆ということです。
しばらくして、とてもイイことがありました。やっぱり、吉兆でした。

2010年7月19日月曜日

日本サッカーの明日

W杯南ア大会が幕を閉じてから早や1週間。頭の片隅で鳴り続けているブブゼラの音量もここ数日は一段とトーンダウンしているような気がします。未だに鳴り続けてはいますが・・・。ブブゼラの音が消えてしまわないうちに、日本代表の戦いについて、総括しておくことにします。
岡田監督の評価は難しいところです。ベスト16を達成し、記録的にはW杯での最高成績を残したことで、岡田監督は歴代最高の監督として日本サッカー史に名前を留めることになります。ベスト8への進出はならなかったものの、決勝トーナメント1回戦で記録上は引分けという結果を残したことにより、トルシエ監督の日韓W杯での記録を上書きしてくれたという事実は、「個人的には」高く評価しております。しかしながら、本戦でのいきなりの戦術転換、メンバー変更は、結果オーライで批判を免れるものではありません。無策のまま代表を南アに送り出した協会幹部も含め、しっかりと振返り、反省を怠ってはならないと思います。本戦での采配は十分高い評価ながらも、監督就任後からのトータルな総合点では、必ずしも合格点を与えることが出来ないというのが、私的評価です。
今回の大方の予想を覆す好成績の要因は、何といってもチームの団結力でした。マスコミやサッカーファンからのバッシングがむしろチームの結束力を高めました。本大会直前での戦術転換という監督のヤケッパチ采配に、選手たちは不意に大海原に投げ出された感があったのではないでしょうか。結束感は否応なく高まらざるを得ませんでした。そして、2006年W杯ドイツ大会での苦い教訓が活かされたことは、中澤はじめ多くの選手が認めているところです。カメルーン戦の勝利が分水嶺となりました。戦術転換、メンバー変更で大きな不安を抱えながら臨んだこの一戦で、もし、負けていたら、チームは空中分解し、ドイツの二の舞となっていたことでしょう。全員の連携で得点し、全員で守り切ったカメルーンでの勝利は、1勝以上の自信を選手達に与え、団結のチカラが日本の生命線であることを自覚させました。団結のチカラで守備を安定させ、デンマーク戦では攻撃面にまで踏み出した感がありましたが、パラグアイ戦では、残念ながら、攻撃での自信を得るまでには至っていなかったことを露呈しました。ブロックを固めての守備では、責任感・使命感・献身といった日本人のメンタリティの特長が発揮され、4試合で2失点という見事な成果に繋がりました。しかし、そのような組織的守備は、スペイン、オランダ、ドイツといった今大会の上位チームでは当然のベースとなっており、ブラジルすら、基本的戦略として取り入れていました。要は、世界レベルにようやく手が届いたということでしょう。また、阿部というリベロ(正確にはドイスボランチの底)を組み入れて、ようやく機能した守備システムであるという事実も認識しておく必要があります。守備に枚数を割いた結果として、当然、攻めの枚数は減ることになります。ちょうど、1人退場者が出た戦いを想像すると判り易いと思います。守備の枚数を増やすことで、守備面では何とか世界と互角にわたりあえたものの、攻撃面では、課題を残したというのが、正当な評価だと思います。このまま岡田式ドイスボランチで守備の安定を高め、運動量とカウンターで攻撃を組み立てていくシステムを志向していくのか、守備の枚数を戻しながらも、個々の献身的動きで補いながら、守備力を世界レベルに引き上げていくのか、日本らしいサッカーとは何かを考えつつ、決していかなければならないテーマだといえます。
選手達が「このチームでもっと戦いたかった」と口を揃えて語っていたところに、このチームの強さの源泉が窺えたとともに、日本らしいサッカーとは何かのヒントを垣間見た感がありました。チームとしての視点を優先することが、日本人のある種の限界となっていることは確かですが、やはり、そこにこそ日本固有の美意識があり、強さがあるのです。まずは、チームとしての団結のチカラを確立し、それを個のチカラで引き上げていくということが、日本代表の基本的なチームマネジメントであることを認識したのが、今大会最大の収穫だったと思います。
この教訓を次に繋げていくべき代表監督の人選は8月中に完了するということです。また、日本サッカーのベースとなるJリーグは既に再開しました。「南アでの躍進が日本サッカーの新たなステージへの扉を開いた」と語られる日を心待ちにしたいと思います。

2010年7月14日水曜日

ジャブラニの向こう側

虹の国でのW杯の後遺症でしょうか。時々、ブブゼラの音が頭の奥で鳴り続けているような感覚に襲われます。W杯の余韻が残り続けているうちに、今回のW杯の総括をしておきたいと思います。
スペイン対オランダという攻撃的なチームの決勝となったにも拘わらず、全体的には極めて守備的な大会でした。ゴール数は64試合制となった1998年フランス大会(171ゴール)以来最低の145ゴールに留まりました。ファウル数も4年前のドイツ大会の346から261へと大幅に減少し、FKの減少が、キッカーにとって扱いにくいジャブラニと相俟って、セットプレーからの得点の減少を招いたともいえます。ただ、南米のチームをはじめとして、極めて高いレベルの組織化された守備でゴールを与えない戦いが目立ち、W杯を勝ち抜くために守備力を高めるチーム作りが定着してきた感がありました。 キーワードとしては、攻撃的サッカーの復活、ファウルの減少、組織的守備というものが挙げられると思います。サッカーは、正しい方向に、「正しい」という言葉が不適切ならば、好ましい方向に向かっているといえるのではないでしょうか。
組織力が地域に拘わらず均一的に高まってきた中で(アフリカ代表のガーナ、南米代表のウルグアイは極めて高い組織力を有していました)、その組織力に個人の力では対抗できなくなったというのも顕著な傾向でした。イングランド・ポルトガル・アルゼンチンなど頭抜けたスーパースターを擁するチームが、組織力の壁を突破出来ずに敗退していきました。イタリア、フランスという前大会決勝進出国が組織そのものを確立できなかった為にグループステージすら突破出来ずに大会を後にしたのは象徴的でした。高度に戦略的になった現代サッカーでは、選手個々の力量の総和よりも、組織としての強さが、勝敗を決するようになりました。傑出したサッカー選手の出にくい土壌の日本にとっては、好ましい傾向といえます。とはいえ、組織的に守備をし、組織的に攻撃を組み立てても、最後のゴールを決めるのは個人であるという事実に変わりはありません。スペインの総得点8点のうち5ゴールを決めたビジャの例をひくまでもなく、決定力を有したストライカーの存在は、チーム作りの重要な部分を占めています。如何にストライカーを育てていくのか、あるいは、あくまでMFからのゴールを狙っていくという日本独特の路線を歩んでいくのかは、日本サッカーの直面する課題であるといえます。

2010年7月12日月曜日

Viva!! España!!

「強い者が勝つわけではない。勝った者が強いのだ」と語ったのは74年W杯ドイツ大会を制したベッケンバウアー。そして、敗者となったクライフは「美しく負けることを恥と思わず、無様に勝つことを恥と思え」という言葉を残しました。しかし、クライフの末裔ながら、どちらかというと、ドイツやイングランドのテイストを漂わせるオランダ代表は、美しさよりも勝つサッカーに徹していました。そして、最後まで美しさにこだわったスペインに、勝利の女神は微笑みました。
オランダは、中盤を省略し、ロングパスでシンプルにDFの裏をつく攻撃に徹する一方で、相手の中盤を激しく潰しにいくという、クライフの理想とは対極の戦法で、勝利を目指しました。むしろ、FCバルセロナのサッカーを通じてクライフ色に染められたスペイン代表の方が、クライフの掲げた美しく勝つサッカーの理想を具現化していました。オランダの挑発に乗ることなく、自らのショートパスのリズムを最後まで崩さずに貫く姿勢には拍手を送らずにはいられません。7戦目、そして、中3日という連戦の疲労は覆うべくもなく、ビジャの体のキレは明らかに鈍っていましたし、イニエスタ、シャビらにも一瞬の判断の遅れが散見されました。それでも、最後のイニエスタの決勝ゴールに繋がった流れるようなパスワークは、サッカーファンを魅了する美の極致でした。途中でオランダDFのクリアミスがはさまれるのですが、それさえも一連のパスワークの美しさにアクセントを加えているように見えました。
美しいサッカーが勝利をおさめたことは、これから4年間のサッカーの方向性への影響を考えると喜ばしい限りです。とはいえ、その華麗な攻撃的パスサッカーが、しっかりとした守備に支えられていたという事実を見逃してはいけません。決勝戦でのスペインの勝利は、プジョルの献身的な守備とカシージャスのスーパーセーブの連発なくしてはあり得ませんでしたし、決勝トーナメントに入ってからの4試合は、すべて1-0の勝利であったという事実が、スペインの勝利が堅守によって得られたことを如実に物語っています。スコアだけみると、まるでイタリア代表が理想とする試合結果のようですが、「守って、守って、攻める」のか、「攻めて、攻めて、守る」のかというサッカー哲学の点で大きく異なります。2010年W杯でのスペイン代表の優勝は、世界のサッカースタイルの分水嶺として後世記録されることを願ってやみません。
スペインの攻撃的サッカーが、固い守備に支えられていたとしたら、今の日本代表は、その基盤にあたる守備の部分につき、団結力という日本の強みで何とか世界レベルに手が届きつつあるという段階です。美しいサッカーを目指すためには、あと2つ程、山を越えなければならないでしょう。日本代表には、このW杯で得た日本らしい守備というものへのヒントと自信を確実に自らのものにし、坂の上の雲を望みつつ、まだまだ険しい世界への山道を登っていって欲しいと思います。
ともあれ、夢のような1ヶ月が、夢が現実となって、幕を閉じました。「Viva!! España!!」「Viva!! Copa Mundial!!」

2010年7月9日金曜日

正義が勝たなければならない理由

シリコンバレーのGNさんからのメールの続きです。サッカーにおいて、何故、正義が勝たなければならないのか。(写真は、正義の女神テーミス)
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正義が勝たねばならないと言うには、理由があります。ずばり、「機械判定やビデオ判定の導入を阻止する」為です。では、何故、機械判定やビデオ判定に反対かと言うと、次の4つの理由によります。
① サッカーが全世界にこれだけ広まった理由は、様々な格差(貧富の差、民度の差、学力の差など)とは無関係に、ボールさえあれば、どんな国の人でも、手軽に、誰でも楽しめることにあると思います。機械判定やビデオ判定が導入されると、そうした機器を導入することが出来ない国や地域との間で「サッカー格差」が生じてしまいます。サッカーが「世界の共通言語」であり続けて欲しいなら、サッカー格差に繋がりかねない機械判定やビデオ判定はいかがなものかと思います。
② 最近の少年サッカーでは、プロのように審判の判定に不満をぶつける子供が増えています。「サッカーは少年を男にし、男を紳士にする」と言います。それは、自己犠牲のチームプレーや最後まで全力を尽くすといったことだけではなく、時には不条理をも飲み込んで審判の判定に従い、悔しければどこからもケチのつけようのないプレーをするという「美学」にあると思います。機械判定やビデオ判定が導入された時に、少年サッカーレベルでのモラル低下を懸念します。(モンスターペアレントがホームビデオを片手に審判に詰め寄るなんてことになったら、恐ろしいです。)
③ サッカーは、90分の途切れることのないドラマです。ベンチは試合前とハーフタイムしか選手と話が出来ません。フィールド上に散っている選手同士だって試合中に作戦会議なんて出来ません。選手たちは、その局面、局面でプレーしながら、一人で考え、判断し、行動するしかありません。それでも、アイコンタクトとか、意思統一とかされて、チーム全体がひとつの生き物のように動き出すところにチームスポーツとしてのサッカーの醍醐味があるわけです。機械判定やビデオ判定の導入によって、アメフトや野球みたいに、試合がぶつ切りの細切れになって、サッカーの醍醐味が損なわれてしまうことを危惧します。
④ ランパードのシュートがノーゴールとなった時に「44年前の出来事」が取り沙汰されました。「マラドーナの神の手」も然りで、実は、誤審や疑惑の判定というものが、長い年月の中で様々な伝説を生み出しているのではないかと思います。だから、サッカーは面白いのでしょう。誤審や疑惑の判定は「記録に残る試合ではなく、記憶に残る試合」を演出するスパイスみたいなものでしょう。
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今回のW杯で、後世に語り継がれること間違いないのが、GNさんも取り上げているランパードのノーゴールシュートとスアレス(ウルグアイ)のバレーボールブロックのゴール阻止でしょう。FIFAブラッター会長は、明らかな得点機が反則によって阻まれた場合、得点を認めるよう規則改定を検討することを表明しました。当該規則改定を討議する際、併せて、ゴール判定に新技術を導入するかどうかを検討するそうです。GNさんの声はFIFAに届くでしょうか。
さて、閑話休題。いよいよ、W杯決勝戦です。クライフのDNAを受継ぐオランダサッカーにクライフの作り上げた芸術品スペインサッカーが挑みます。当のヨハン・クライフはどのような想いで、この決勝戦を観戦するのでしょうか。

米国サッカー事情 - シリコンバレー便り

「正義は勝つ」理論でことごとく勝敗予想を的中させてきたシリコンバレーのサッカー小僧GNさんから「正義には、勝たねばならない理由があるんです!」というテーマでメールを頂きましたので、W杯決勝戦までの間、2回にわたって、掲載させて頂こうと思います。
第1回は、本題のイントロダクションともなる「米国サッカー事情」。(写真は、シリコンバレーの象徴、スタンフォード大学のキャンパス風景)
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当地ではワールドカップはESPNがフルカバーしてます。実況アナウンサーが、本田のことは「ホンダ」と正しく発音してました(有名な自動車メーカーがあるからでしょう)が、大久保のことは「オクブ」ってアフリカの名前みたいに呼ぶし、長谷部も「ハシビ」ってアラブ人の名前になってたのはご愛嬌としても、日本の試合も全試合ハイビジョン生中継してくれたのはありがたかったです。そして、パラグアイ戦のあった夜の番組では、駒野選手が何回も何回もアップで登場しました。「悲劇のヒーロー」と言ってしまえばそれまでですが、日本サッカーがアメリカ人に強い印象を与えたことは間違いないでしょう。また、アメリカ×ガーナの視聴率は、ワールドシリーズ並だったそうです。土曜日の昼というもっとも視聴率が低迷する時間帯にそれだけの視聴率を稼いだことは、ちょっとした話題になりました。ひとつには、中南米からの移住者の増加に伴い、サッカーファンが増えていると言うこともあるでしょう。ともあれ、サッカー不毛国と言われたアメリカにも、ついにサッカーが根付き始めているようです。加えて、オリンピックの視聴者と比べて、平均年齢が低いことも、サッカー人気が今後ますます向上していくという予想に繋がっているようです。そうなると、審判のミスジャッジが話題になります。もともと、ルールに照らしてフェアであることに対して徹底的なこだわりを持つ国民性(逆に、普通に考えたらおかしなことでも、ルールに違反してなければ許されちゃうというおかしな国でもあるのですが、)に加えて、愛国心が強いのは言うまでもありませんから、ベスト16に進出できたから良いものの、スロベニア戦でのゴール取り消し(オフサイド?)の判定は、大問題として取り上げられました。ビデオ判定とか機械判定とかを導入すべきと騒いでます。
「世界の警察」を気取ったアメリカが、「世界のサッカーの警察」になったら、…。アメリカのサッカー人気が上がるのはとても結構なことなですが、機械判定やビデオ判定を導入するまでもなく、ちゃぁんと「サッカーの神様」が裁いているから心配ないと、アメリカ人にわかってもらいたいのです。昨日までの「正義」を明日からは「悪」に変えてしまうような人間には、「正義」の名の下に人間を裁くことは出来ないのです。人生なんて曖昧なことや過ちだらけなんですから、人間が行うサッカーの裁きは、「サッカーの神様」に任せておけばいいのではないでしょうか。
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本題「正義には、勝たねばならない理由があるんです!」に続く。

2010年7月8日木曜日

カタルーニャ魂炸裂 - W杯準決勝

ロスタイムに入っても、延長を覚悟していました。最後の最後に追いつき、ゲルマン魂を見せるのがドイツですから。
スペインは、終了間際のCKでも、ショートコーナーは使うものの、コーナー付近でキープする時間稼ぎをせず、僅かな隙をついて、ゴールを狙います。カタルーニャ魂というべきか、ラテンの血というか、ゴールを見ると攻めずにはいられないのでしょう。最後まで、攻めの姿勢を貫きながら、ゲルマン魂を撥ね返したスペインの戦い方には、美学すら感じました。
身長178cmのプジョルのあの豪快なヘディングシュートは圧巻でした。ドイツの高い壁を切り裂く魂のゴール。ペナルティエリア外からトップスピードで走りこんで、体ごとぶつけるようなヘディングは、まさにバレーボールのバックアタック。ドイツのDF陣は反応できず、ただ呆然とゴールに吸い込まれるボールを見送るばかりでした。ヘディングといえば、高さにおいて圧倒的に劣るスペインが自陣ゴール前での空中戦をことごとく制していたのは見事でした。華麗なパスワークによるボール保持もさることながら、この苦手なはずの空中戦を攻守に制したのが、最大の勝因だったと思います。 (GNさんによれば、「正義は勝つ」理論の勝利ということになりますが・・・。)
技術と組織力と、そして、魂で、フィジカル面でのハンディは十分カバーできることをスペインサッカーは見事に示してくれました。これが、日本の目指すべきサッカーなんでしょう。岡田監督は、スペインサッカーを一挙にコピーしようとし、挫折しながらも、それなりの自信とこれからの道筋についてのヒントを残してくれました。
さて、オランダvsスペインの美しいサッカー同士の決勝戦。新世紀のサッカーの幕開けとなるような華麗な美の競演を期待したいものです。

2010年7月7日水曜日

最後に正義は勝つ?

「正しかるべき正義も時として盲しいることがある。」は、米国TVドラマ「逃亡者」の冒頭ナレーションの一節です。「リチャード・キンブル、職業医師」で始まる伝説的なナレーション。矢島正明さんの抑えの利いた渋い声と目隠しをされた正義の女神テーミス像の映像を記憶されている方も多い(?)かと思います。
今回のW杯は、ハンドの反則が厳しく取られる一方で、「神の手」も多く見られ、「正義も時にして盲しいる」場面に多く遭遇した感があります。シリコンバレーのサッカー小僧GNさんから、「正義は勝つ」というメールを頂きました。準々決勝の結果を評するメールです。「テベスのオフサイドゴールのアルゼンチンは手ひどい制裁を受け、『彼の手』(※)ゴール、ルイス・ファビアーノのブラジルも代償を払わされることとなった。やはり、正義は勝つ」というものです。次に裁きを受けるのは、バレーボールブロックのウルグアイ(写真)と、イングランド戦、世紀の誤審に後押しされたドイツということになります。ただ、様々なものを味方につけることもW杯で勝ち抜く重要な要素です。運も実力のうちということです。正義の女神テーミスの目隠しは「公正無私の裁き」の象徴とのことです。誤審もサッカーという競技の一部なのです。(※「彼の手」ゴール:ゴールにつながったハンドを「神の手」と表現したルイス・ファビアーノにマラドーナが「あれは神の手ではなく、彼の手」とコメント)
女神といえば、勝利の女神二ケは有翼の女神で、サモトラケの二ケ像が有名ですが、英語ではNike。Nikeのロゴはこの女神の翼をイメージしたものです。勝ち残ったチームで胸にスウッシュを付けているのはオランダのみ。準決勝では、勝利の女神は微笑んでくれましたが、気紛れな女神はオランダに最後まで微笑み続けてくれるのか。
一方の準決勝カードは、ドイツが裁かれて、スペインに是非決勝進出を果たして欲しいものですが、ドイツには3964のジンクスが味方しています。W杯の優勝年を合計すると3964になるというジンクスで、ドイツ(1974+1990)、アルゼンチン(1978+1986)、ブラジル(1970+1994、1962+2002)で実証されています。3964-2010=1954年(スイス大会)の優勝国はドイツです。また、このジンクスによると、次回ブラジル大会は3964-2014=1950年(ブラジル大会)で、優勝国はなんとウルグアイ。マラカナンの悲劇が、半世紀以上の時を経て、繰り返されるということになりますが・・・。(ジンクスについては、6月2日付ブログに詳しく書いています。)
それにしても、準決勝オランダvsウルグアイ戦の完璧なロングシュート2発。あそこからゴールを打ち抜かれるとなると、サッカーそのものが変わってしまう可能性があります。今回のW杯が残した潮流のひとつでしょうか。

2010年7月2日金曜日

PK戦 - 残酷なドラマ

PK戦の後、ゲスト解説の中田氏が、自分もシドニー五輪でPKをはずして敗れてしまったが、PK戦で勝敗を決めるのは厳しすぎると語っていました。米国W杯決勝でのPK戦でPKをはずしたバッジオが「PKを決めたことは誰も覚えていないが、PKを外したことは皆が覚えている」という名言を残していますが、駒野も「PKをはずした駒野」としてサッカーファンの記憶に留められることでしょう。駒野に対するマスコミ、サポーターの反応は、随分暖かいものでした。翌日、にわかサッカーファンの女の子までが「駒野がかわいそう。PKなんて運だから」とのたまっていたのには驚かされました。日本のサッカー文化は着実に成熟しています。
シリコンバレーのGNさんから、「120分間走り回って足がガクガクのサイドバックにPKを蹴らしたのは、岡田監督のミスではないか」との鋭い指摘がありました。ただ、「公式戦では外したことがなかった」と駒野自身が語っているように、PKには絶対の自信を持っていたのでしょう。岡田監督は、気持ちの強い選手、練習でPKの確度が高い選手を順番に並べたのだと思います。ただ、PK戦の前の選手の状況を見て、選手を選び直すというオプションもあったのかもしれません。岡田監督が敗戦後のインタビューで答えていた「自分の執着心・執念が足りなかった」という意味深長な言葉が気になります。
PK戦といえば、オシム前監督はPK戦を見ずにロッカールームに籠ってしまうことで有名ですが、その理由は、90年のW杯イタリア大会まで遡ります。当時のユーゴスラビアは民族紛争に揺れていました。オシム監督率いるユーゴスラビア代表は、深刻な民族対立の影響を受け、メンバー選考にも様々な困難に直面しましたが、初出場のストイコビッチを中心に勝ち進み、ベスト8でマラドーナを擁するアルゼンチンと対戦します。試合は、延長を含めスコアレスドローに終わり、PK戦にもつれこみます。その時、ユーゴスラビアでPKのキッカーを志願したのはわずかに2人。他のメンバーはスパイクを脱いで、PKを蹴ることを拒否したそうです。もし、PKを蹴って失敗したら、民族対立の標的となり、生命の危険に晒されることを危惧したわけです。結局、志願した2名のみがPKを決め、勇気を奮い起こしてキッカーを務めた3人は全員が外し、ユーゴスラビアは敗れ去ります。オシム監督は、生命の危険という重圧を背負いながらペナルティエリアに向かうプレーヤーの姿を直視出来なかったというわけです。PK戦では、様々な、そして、多くは残酷なドラマが演じられてきました。
ところで、件(くだん)のにわかサッカーファンの女の子が抱いた素朴な疑問です。「何故、日本のFWの選手はPKを蹴らないで、DFの選手が蹴るの?」なるほど、確かに。