2012年12月16日日曜日

魂の伝道師、ゴン引退に寄せて

ゴンこと中山雅史が、現役引退を発表してから早や10日余り。新潟の反町姫はもうショックから立ち直ったかなと案じるこの頃です。この話題はもっと早く取り上げなければいけなかったのですが、さすが「中山隊長」です。正直、手に余りました。調べれば調べるほど凄いプレーヤーでした。2つの世界記録(ギネスブック記録)保持者です。4試合連続ハットトリック(1998年Jリーグ)。国際試合最短ハットトリック(2000年ブルネイ戦3分15秒)。Jリーグでは、シーズン最多得点、通算最多得点、J1最年長出場記録。そして、日本代表のW杯での初ゴール。その初ゴール直後に、骨折していたにも拘わらず、最後まで走り切ったエピソードが自ら語るように、記録にも記憶にも残る選手でした。むしろ、その数々の記録が霞んでしまうほどの強烈なインパクトを残しながら、走り続けたきたプレーヤーでした。Jリーグ発足時から一緒にサッカー界を牽引してきた三浦知良が「King Kazu」と呼ばれて孤高の存在なのに対して、中山雅史は「中山隊長」「ゴンちゃん」とサポーターから本当に愛されてきました。サポーターと一緒に踊るゴンダンスに象徴されるように、スタンドにまで魂を注入できる稀有な存在でした。写真は、2002年日韓W杯の時のものです。予選リーグ第2戦ロシア戦、1点リードの後半27分、満を持してゴンが投入されます。場内はナカヤマコールの合唱でボルテージが一気に上がり、最小得点リードでの重苦しいムードが吹き飛ばされます。ピッチ、スタンド一体となり、そのままロシアの猛攻をしのぎ切って、見事W杯初勝利を手にします。ゴンの魂注入が大きく寄与しました。
筑波大卒業後ヤマハ発動機に入社。ヤマハ発動機サッカー部(後のジュビロ磐田)が初年度Jリーグ加盟チームの選から漏れた際、エスパルスからの誘いを断ってヤマハに残留するなど男気の強い人物であり、以後、ジュビロ一筋のサッカー人生でした。しかし、2009年シーズン終了時にジュビロから戦力外通知とともにスタッフでの残留を要請された際には、現役続行を優先し、ジュビロ退団を決意します。しかし、移籍先のコンサドーレでは、膝の怪我もあり、満足な結果を残すことが出来ず、今回の現役引退に至りました。「いい時に引退した方がいいと考える人もいますが?」という質問に「僕の場合は、自分の『いい時』がいつだったのかわからない。いつも『もっと上に行けるはず』と思っていたわけで」と答えています。本人も認めている通り「下手くそ」で足元の技術は決して上手いものではありませんでした。(「利き足は?」の質問に「頭」と答えています。)ただ、ゴール前での消える動き、ボールを受ける体の角度など、あらゆる面で成長し続けたプレーヤーでもありました。フランスW杯時の盟友、山口素弘も「30歳過ぎて技術的にうまくなった選手は他にいない」と語っています。
日本サッカー史に大きな足跡を残した選手ですが、最も大きな功績は、性別年齢を問わず多くの人に愛され、サッカーファンの層を飛躍的に広げたということだと思います。反町姫もその中の一人です。「ゴンちゃんがいなければサッカーを好きになっていたかどうかわからない。キャプテン翼の読者で終わっていたはずでした。」というメールを頂きました。サッカーの伝道師であり、サッカーを通じて人々に勇気を与え続けたアスリートでした。「今後しばらくの肩書は?」との質問に「評論家というのがあるんだったら、情熱家でもいいんじゃないですか?サッカーに対する情熱と、そこにかける意気込みは一生変わりませんから。」
情熱家ゴンにはタイムアップのホイッスルはありません。

2012年12月2日日曜日

北投温泉 - 台湾紀行本編2

台北市街から車で30分程北上したところに「新北投温泉( シンベイトウ ウェンチュエン)」があります。北投温泉の歴史は古く、1896年に最初の温泉旅館「天狗庵」が開設され、日露戦争の際には日本軍傷病兵の療養所が設置されています。日本統治時代は隆盛を極め、芸者の置屋が軒を並べ、「台湾の熱海」と呼ばれていました。戦後も温泉街として人気が高く、最近では、日本の老舗有名旅館「加賀屋」も進出しています。町の中心に位置する親水公園の中に水着で入る露天風呂があり、また、高級温泉旅館の日帰り入浴を楽しむという手もありましたが、今回は、町の銭湯ともいうべき「瀧乃湯(ロンナイタン)」(写真上)に向かいました。
1907年に開業した瀧乃湯は、築105年。建物は殆ど増改築が行われておらず、日本統治時代の面影をそのまま留めています。番台のおじさんに90元(約300円)を払って、男湯の引き戸を開けると、なんとそこはいきない浴槽。洗い場の端に踏み板が2枚敷いてあり、そこで脱衣して、お風呂に入ります。踏み板の真ん中では、小太りのおじさんが子供用のスポンジマットの上で体をペチペチ叩いています。いかにも地元の常連さん達の視線を浴びながら、浴槽にそろそろと足から入ると、予想外の熱湯。硫黄臭の強酸性のお湯はそれだけでも肌を刺すのに、まさに痛みをともなう熱さ。思わず「あち~っ」と悲鳴をあげると、ゴマ塩頭のおじいさんが、相好をくずして「アツイ、アツイ」と日本語ではやしたてます。熱い温泉では湯船の中で体を動かしてはいけないというのが鉄則ですが、ついつい手で煽ぐような仕草をしてしまいます。その度に「ほぅ、ほぅ」とゴマ塩頭が隣で揺れます。
早々に浴槽から退散し、浴場の外のベンチで火照った体を冷ましていると、浴場の敷地の片隅にひっそりと石碑(写真下)が建っているのに気がつきました。石碑には「皇太子殿下御渡渉記念」の文字が。昭和天皇が皇太子時代にこの地を訪れたことを記念し、建立されたものです。何の手入れもされておらず、ほったらかしのままですが、碑が残っていること自体が貴重です。同じ日本の統治を経験している中国や韓国では考えられないことです。尖閣諸島の領土問題でギクシャクしているとはいえ、台湾の対日感情の良さを象徴している石碑といえるかもしれません。滞在中歓待してくれた菜心のママ、そして、ドライバー役を務めてくれたママの弟さんをはじめ、本当に台湾の皆さんは暖かく接してくれました。心も体も芯から温まった台湾旅行でした。

2012年11月13日火曜日

豚の角煮と白菜 - 台湾紀行本編1

中華料理での豚の角煮と白菜の取合せはいかにも美味しそうですが、台北の故宮博物院でも最も人気の高い展示物が正にこの2つです。この角煮と白菜は、3階のギャラリー302、巧彫玉石コーナーに、並べて展示されており、人だかりが絶えることはありません。このコーナーの名称は、「天人合唱」。自然素材の色合いや形状などの特質を活かしながら、人の巧みを加えて、工芸作品を創り上げるという「自然と人の均衡と調和」が理念となっています。素材の玉石から得たインスピレーションも、天からの啓示として、作品の重要な一要素をなしており、天然素材、インスピレーション、人の匠みの技の三位一体が、この巧彫玉石を生み出すと説明されていました。まず、豚の角煮「肉形石」(写真上)ですが、素材は幾層もの模様が重なった碧玉類の鉱物です。創作者は、まずその表面に無数の穴を穿つところから作品作りを始めました。表面にびっしりと毛穴が配されたことにより、無機質な鉱物に有機的な息づきが与えられました。更に最上層をわずかに赤褐色に染めることで、醤油が浸みこんだ皮を表現しています。そこまで出来上がれば、その下の層は誰がみても、肉汁したたる赤身肉に脂肪がとろけている肉片そのものです。一方、白菜「翠玉白菜」(写真下)ですが、素材は白色と緑色が半分ずつ混ざった翡翠です。ただ、ところどころに亀裂があり、また、色がまだら模様となっている為、装飾品に加工するには欠陥が多すぎます。ところが、インスピレーションがこの欠陥を特質に変えます。創作者は、この石を白菜に見立て、亀裂は葉脈の一部とし、斑点を霜にあたった跡としました。上部両側面の緑の濃い部分は、イナゴとキリギリスを彫って、天然の色を活かしています。この置物は、清の第11代皇帝光緒帝(西太后の傀儡皇帝)の后妃、瑾妃の嫁入り持参品であり、白菜は純潔を意味し、2匹の虫は多産を祈念したものであると言われています。寓意まで与えられ、この工芸作品は完璧なものに仕上がったわけです。写真の上部にキリギリスが彫られていますが、実は、羽が両方とも半分のところでちょん切れています。折れてしまったにしては、切り口があまりに滑らかなので、最初から羽が切られた状態で彫られているようです。観賞用に飼育する為に、逃げたり喧嘩したりしないように羽を切っていたのかもしれません。あるいは、白菜から飛び立たないようにとの創作者の思いがこめられているのかもしれません。
故宮博物院でもうひとつ時間をかけて観たのは、「院本清明上河図」でした。これは、「とても素晴らしいから、絶対に観なきゃいけない」と菜心のママに無理やり連れていかれたものですが、大感動でした。これは、北宋の都開封の場内外の賑わいの様子を描いたものです。約12mの絵巻に当時の風俗が衣食住全ての面にわたって、実に細かい筆使いで克明に描きこまれています。汴河を下流から上流に遡り、ようやく城内に辿り着いた頃には、僅か11mを移動するうちに、上質の歴史長編映画を観終わったような軽い疲労感を覚えました。素晴らしい芸術作品であり、優れた風俗史料です。
このブログを書きながら、調べて判ったのですが、実はこの「院本清明上河図」は北京の故宮博物院所蔵の「清明上河図」の模倣本ということです。(題材を模倣したとはいえ、作品そのものはオリジナルに劣るものではありません。)また、上記の「肉形石」、「翠玉白菜」に北京の「清明上河図」を加えて、故宮博物院の三大至宝と称するそうです。菜心のママのお陰で、またしても、大変な贅沢な美術鑑賞をさせて頂きました。本当に「天人合唱」を地でいくようなインスピレーションに満ちた不思議な方です。(台湾紀行、更に続きます。)

2012年11月7日水曜日

菜の心 - 台湾紀行プロローグ

2度目の台湾旅行です。今回も菜心のママにお世話になりました。「菜心」という名の台湾料理のお店が大久保駅から小滝橋通りに抜ける路地裏にかつてありました。台北出身のママ1人できりもりしている目立たないこじんまりとしたお店でしたが、とても人気があり、10数名入って、満員状態の時も度々ありました。そんな時も、ママ1人で調理と給仕をこなし、その手際のよさは驚異的でした。どこから手に入れたのか、台湾独特の食材を調理してくれたり、日本では手に入らない果物をデザートに出してくれたり。料理の味・量・サービス全て満点の個人的には5つ星のお店でした。3年ほどお店を出した後、思うところがあったのか、店を譲って、台北に帰ってしまいました。しかし、その後も時々来日され、その度に、常連仲間と一緒にお会いし、楽しいお酒を飲ませてもらっていました。
彼女は、台北市郊外の茶園農家の3男6女の次女として生まれました。祖先は100年以上前に福建省から台湾に渡り、南港包種茶を起こした由緒正しい家系の末裔であり、七代目にあたるそうです。名家とはいえ、当時の農家の暮らしは決して楽ではなく、彼女も靴を履かずに1時間程かけて山麓の学校に通っていました。途中、炭鉱があり、道に石炭ガラが転がっていて、足の裏が痛いのと、夏は焼けて熱いのには、往生したそうです。彼女は、走るのが得意で、4年生の時、学校の代表として台北市の大会に出場することになりました。晴れの舞台に裸足では可哀想ということで、お母さんが靴を買ってくれました。とても喜んだ彼女は、絶対に1位になろうと必死に駆けましたが、結果は2位。帰り道、泣きながら川で靴の汚れを洗い流し、来年こそ、この靴で1位になろうと心に誓ったそうです。そして、1年後、大切に大切にしまっていた靴をいざ履こうとしたら「足が大きくなっていて、入らなかったよ」破顔一笑、いつもの笑顔で語ってくれました。彼女の2足目の靴は、学校を出た後、家計を助ける為に町の工場で働き始めた際に買ったものでした。そこでの真面目且つ機転の効いた仕事振りが認められ、マレーシア工場に赴任。その後日本の会社に移り、そのまま、日本で暮らすようになりました。
お店を畳んで、ある程度の蓄えと共に故郷に戻った彼女ですが、農村独特の保守的な土地柄、周りは必ずしも温かく迎えてはくれませんでした。成功者へのやっかみもあって、口さがない噂を立てられたこともありました。そんな中で、彼女は、かつてお茶畑だった実家の周りを耕し、「菜心の菜園」と名付けた菜園(写真)を拓きました。食材(菜)の心を何よりも大事にした彼女が、今度は菜の心に耳を傾けながら、野菜を育てようというのです。(続く)

2012年10月29日月曜日

Nanami's Eye - ザックジャパン5つの課題

元日本代表10番、名波浩。いまやセルジオ越後とのダブル解説が定番となり、中継の中で「ナナミ、・・・・。名波さん」と判を押したように、セルジオ越後から呼捨てにされた後、取ってつけたような「さん」づけをされて呼ばれています。しかし、解説の的確さは、セルジオ越後をはるかに凌ぐレベルに達しています。Sportiva Web版「名波浩の視点」でも、欧州遠征2連戦で浮かび上がってきたザックジャパンの課題を「世界に勝つために必要な『5箇条』」として、的確に判り易くまとめています。多少乱暴に要約すると以下のようになります。
 1.「ここで取りに行こう」「ここは止まっておこう」というメリハリのある守備
 2.攻撃時のボランチの豊富な運動量と決断力
 3.カウンターの際のスピードと判断の速さ
 4.シュートの意識
 5.時間帯によって変化をつけたサッカー
名波が提起したザックジャパンの課題について、考えてみました。まず、4つ目の課題として挙げられたシュートの意識は、以前からの課題ですが、最近は随分改善されてきたのではないでしょうか。自己犠牲が称賛される日本では(それが日本の強みでもありますが)、ゴール前でシュートよりパスを選択するFWや、前線からの守備に疲れ果てて、いざシュートという時にパワーが残っていないFWも評価されますが、欧州リーグでは、とにかくゴールという結果が全て。そんな環境でもまれた本田や岡崎、そして、香川は、シュートへの意識が飛躍的に高まり、それが代表全体に浸透しつつあります。
その他の課題は、「勇気ある決断」「判断の速さ」「変化をつけたゲームコントロール」というキーワードに集約できると思いますが、いずれも次元の高いテーマであり、これらが課題に挙げられていること自体に、名波が、日本代表の急速な成長と現代表のポテンシャリティの高さを評価していることが、示されています。
悩ましいのは、第2の課題として挙げられているボランチの攻撃力です。名波は、遠藤・長谷部のダブル・ボランチをブラジルのボランチ、パウリーニョとラミレスと比較していますが、むしろ、自らの現役時代と重ねて、理想のボランチ像をイメージしているのかもしれません。欧州の一流リーグでは、もはや守備的MF=ボランチという言葉は死語になろうとしています。中央スペースを上下動して守備・攻撃両面での起点となるという、サイドバックの中央版ともいうべき、セントラルMFが主流となりつつあります。このポジションは、なでしこでいえば、澤穂希ですが、サムライ・ブルーの場合人材を欠きます。遠藤・長谷部に今以上の運動量と攻撃力を望むのは酷でしょう。唯一可能性があるのは、本田のボランチへのコンバート。本田がジェラードをイメージしたプレーをし、遠藤が守備面でカバーすれば、中央のスペースが埋まります。両翼の内田、長友をハーフに上げ、香川トップ下、岡崎、前田のツートップという3-4-1-2の変形3-4-3の布陣は、世界と戦う為に完成させなければならないザックジャパンのオプションではないでしょうか。

2012年10月23日火曜日

帰ってきたウルトラマン ‐ 拓郎復活

(注)本ブログの内容には、コンサートでの演奏曲及びMCの内容等ネタばれの情報が含まれています。これからコンサートに行かれる方は、この点、ご承知の上、お読みください。・・・拓郎が3年振りにステージに戻ってきました。3年前、コンサートツアーを途中で中止し、以来ライブから遠ざかっていた拓郎の満を持しての復活ライブです。その間に2枚のニューアルバム(除くライブアルバム)をリリースし、坂崎幸之助とのオールナイトニッポンGoldでの掛合いは絶好調。「完全復活」が問われる今回のコンサートツアー初日、東京国際フォーラムAホールでした。
アラカン世代にとって、ウルトラマンと並ぶ絶対的なヒーローである拓郎も66歳。心身ともに体調が懸念される中、本人のみならず、観客にとってもどこか落ち着かない開演の瞬間でした。緊張のオープニング曲は、何と「♪ドゥ~ビ ドゥビ ドゥビ エマニエ~ル」映画エマニエル夫人のテーマ曲でした。先日逝去したシルビア・クリステルへの追悼曲。これで会場の緊張を緩めた後、実質的なオープニング曲「ローリングストリートキャフェ」。そして、その後に掟破りの逆サソリ、何と「落陽」。会場、戸惑いながらも総立ち。普通であれば終盤近くまで温存しておくべきこの歌を出だしにもってきて、いきなりトップギアにシフトしたのを、拓郎はこんな風に語っていました。「エンディング曲を歌ってしまいましたので、後のステージはオマケみたいなものです。皆さん、ご自由にご歓談下さい。僕は、勝手にステージで歌っていますので・・・」拓郎らしいジョークですが、多少なりとも本心だったと思います。3年振りのステージ、しかも、前回は途中で体調を崩しての中止。声は本当に出るんだろうか?会場の雰囲気に馴染んで、のっていけるのだろうか?不安だらけの手探りのステージだったと思います。だからこそ、のっけから伝家の宝刀「落陽」で自らと会場のテンションをピークに持っていったのではないでしょうか。(ちなみに、拓郎は、ラジオの中で、「『落陽』は出だしを歌えば、後はファンが勝手に後を歌ってくれるからこれほど楽な曲はない」と語っていました。)コンサートの中盤で「いい曲なのに、どうしても気持ちがこもらない曲がある。気持ちが乗らないから、演奏もドタバタになる。聴いてみたい?時間つぶしで」と、歌い出したのが「ふゆがきた」。加藤紀子への提供曲です。かなりの拓郎マニアでなければ、知らないと思います。案の定、会場は、ちょっと白けた雰囲気に。これは拓郎もこたえたんじゃないかな。その後は更にペットボトルを口にする回数が増えました。しかし、拓郎はやっぱり拓郎。ギターを両手で鷲づかみにし、仁王立ちで声を絞り出すようにして歌ってくれた「流星」「外は白い冬の夜」には魂が揺さぶられました。66歳が歌う「リンゴ」に青春の甘酸っぱい香りを感じました。昔は、むしろ抑えて歌うことで逆に感情のほとばしりを増幅させて伝えていた拓郎が、今は、絞り出すような歌声そのものに自然に全てが込められているような純化・昇華を感じました。また、最初にグッと盛り上げておいて、最後はしっとりと余韻を残して終わるという構成は、平均年齢60歳前後の観客層には十分アリだったと思います。青春時代の恋人に30年振りに出会ってお話ししたような何かぎこちない雰囲気でしたが、ヒーローがヒーローだったことを再認識し、素晴らしい齢の重ね方をしていることを確認することが出来たコンサートでした。5,000分の1の拍手ではありましたが、僅かでも拓郎にエールが届いたかなと・・・。貴重なチケットを割いて、コンサートに誘って頂いたDr. Steveには大感謝。ラストの「外は白い雪の夜」は、内田篤人とY子さんに聴かせたあげたかった・・・。

2012年10月17日水曜日

ブラジル戦 ‐ 世界との距離

2006年ドイツW杯グループステージ最終戦、ブラジルとの対戦は、玉田の一撃で先制しながら、結果は1‐4。試合終了後、顔をおおってピッチに横たわったままの中田の姿が記憶に焼き付いています。まさしく、「惨敗」の二文字が相応しいゲームでした。6年の時を経て、今回のブラジル戦は同じ4ゴールを奪われ、更に完封負け。スコア的には前回を下回る結果でした。しかし、日本代表の選手達の表情に6年前のようにブラジルに蹂躙された無力感はありませんでした。むしろ、自らの実力を出し尽くした爽快感すら感じました。シュート数はブラジル15に対して日本9と、決して少なくありませんでした。逆にコーナーキック数は、ブラジル2に対して日本10と圧倒しており、少なくともゴール近くまで度々攻め込んでいたことを如実に表しています。ボールポゼションはほぼ互角だったと思いますし、ブラジル陣内であれだけパスを回せるチームはめったにいないと思います。6年前に比べて日本代表の大きな成長を感じました。親善試合だからこそ出来たことではありますが、強豪ブラジルとがっぷり四つに組んでわたり合おうとした日本代表は、少なくともメンタル面では、サッカー強豪国の仲間入りを果たそうとしています。
ただ、課題も見えてきました。ブンデスリーガで絶好調の清武と乾ですが、まだまだ世界レベルではないことは認めざるを得ません。アジアというモノサシではなく、世界というモノサシで測ることができたことが、今回の欧州遠征の大きな意義になりました。ハーフナー、清武、乾は残念ながら及第点に届かず。その意味で、佐藤寿人を試さなかったのが如何にも残念でなりません。課題として痛感したのは「ゴールに向かう姿勢」の差。ブラジルの先制点が象徴的でした。日本代表が細かいパス回しでブラジルDF陣を崩そうと四苦八苦していたところを、ブラジルは、日本DF陣を崩す手間など面倒とばかりにパウリーニョが25m近いトゥーキックでのミドルシュート。日本代表のレパートリーには入っていない攻撃パターンでした。日本代表の課題として、よく「決定力」という言葉が使われますが、そこに行きつく前の「崩し」に神経を集中する余り、肝心のシュートという「決定」的瞬間に集中力が散漫になってしまっている感があります。ゴール前のパスがひと手間多いという悪癖もこの「崩し」への過度のこだわりが原因だと思います。この「結果よりも過程」は日本人の特質ではありますが、この呪縛から抜け出すことが「決定力」を上げる重大な要因ではないかと思います。もうひとつ目立ったのが、同じパス回しでも、ブラジルのパスが7m前後での距離感なのに対して日本の場合には5m以内だという点。パススピード、精度という技術的な差によるものでしょうが、「守備はコンパクトに、攻撃はワイドに」がサッカーの基本。如何に攻撃の際のパス交換距離を広げ、相手守備陣の穴を広げていくかも、今後の課題でしょう。こうやって、課題を挙げていくと、本田(写真)は試合後「点差程のチーム力の差は無い」と語っていましたが、現段階では、結果的に妥当な点差だったのではないかと思っています。課題が見え、そして、日本代表は確実に成長を遂げていることが確認できました。ブラジル戦はザックの思惑通り、意義深い対戦となりました。世界はまだ遠いが、背中が見える距離にあります。


2012年10月14日日曜日

And Your Bird Can Sing

The Beatlesの中期の曲に「And Your Bird Can Sing」という楽曲があります。1966年にリリースされたアルバム「Revolver」に収録されている曲です。ツインリードギターでのリフレインの演奏が秀逸で、お洒落なメロディラインの名曲だと個人的には思っていますが、評価が分かれ、一般的にはそれ程人気のある曲ではありません。作者のジョンも、後に「つまらない曲で、ゴミ箱行きの曲だよ」と斬り捨てています。歌詞は、
♪ あなたは欲しいものはすべて手に入れたというけど
  私を手に入れてはいない  
  あなたは世界の七不思議を見尽くしたというけど
  私を見ることは出来ない
  あなたの宝物が重荷になってきたら
     私の方を向いて
  私はいつもあなたのそばにいるから
といった具合の一見安っぽいラブソングです。ただ、気になるのは、曲のタイトルにもなっている「And Your Bird Can Sing」のフレーズ。ヒントになるのが第2フレーズの「And your bird is green」。普通に訳せば「あなたの小鳥は緑色だね」なんですが、これでは意味をなしません。Greenには「世間知らず」とか「青ざめている」という意味もあります。「あなたの小鳥は世間知らずなんだよね」とか「あなたの小鳥は青ざめているよ」という風に訳して、「そして、あなたの小鳥は歌うことが出来る」の訳と重ねると、この「小鳥」とは、実はThe Beatlesなんじゃないかと解釈されます。だとすると、この「You」は小鳥の飼い主であるブライアン・エプスタインということになります。
当時、The Beatlesは、アイドルから世界的なミュージシャンへの過渡期にありました。前年リリースしたアルバム「Rubber Soul」に続いて、{Revolver」という音楽性の高い実験的なアルバムを発表し、独自の音楽世界を築きつつありました。もはや、その生み出す楽曲は、当時のステージでの再現は不可能であり、実際、ライブを中止し、スタジオでの音楽作りに専念するようになっていました。この曲「And Your Bird Can Sing」は、彼らのそんな思惑を無視して、世界ツアーを企画し、彼らを数々のステージに引き回してきたマネージャーのブライアン・エプスタインを揶揄した曲だったのではないでしょうか。歌詞は続きます。
♪ 小鳥が傷ついたら あなたは悲しむのかな
     むしろ目が覚めるかもしれないね
これは、ジョンのエプスタインに対する精一杯の皮肉だったのかもしれません。
そのエプスタインは、翌年の1967年8月にアスピリンの過剰摂取で突然の死を迎えます。検死の結果、事故として処理されましたが、同年9月末にはThe Beatlesとのマネジメント契約が期限切れとなることもあり、自殺ではないかとの説も根強くささやかれています。
改めて聴いてみても、この曲のメロディはやはり素晴らしいと思います。その曲に、つまらない詞をつけてしまったという悔恨の思いが冒頭のジョンの「ゴミ箱行き」発言に繋がっているのかもしれません。
ところで、ちょっと前のブログで内田篤人と拓郎の「外は白い雪の夜」の話題を取り上げましたが、朝日新聞の内田のインタビュー記事に「休日は家にこもって音楽を聴いている。対象は安室奈美恵から吉田拓郎まで幅広い」と紹介されていました。

2012年10月13日土曜日

フランス戦 ‐ 「青」の誤算

デシャンフランス代表監督は、試合後の会見で「格上の相手に負けたのなら落ち着いていられるが、今日はそうではない」と文字通り落着きを失ったコメントをしています。W杯欧州予選の大一番スペイン戦に向けて弾みをつける一戦にするつもりが、よもやの敗戦。フランス代表(Les Bleus‐青‐)にとっては、大きな誤算でしたが、ゲームの中でもいくつかの誤算が重なりました。まず、仮想スペインとして、日本のパスサッカーを予想していたのが、前半は完全に日本が委縮して、パスサッカーどころではなかったこと。その前半に14本のシュートを放ちながら、得点できなかったことが第二の誤算。フランスが圧倒的にゲームを支配していた前半のうちに先制点が入っていたら、ゲームは全く異なった展開となり、11年前のサンドニの悲劇(0‐5の惨敗)が再現された可能性もあったと思います。第三の誤算は、高さを活かせなかったこと。スペイン戦を考えても、高さはフランスの強力な武器になるはずです。ところが、コーナーキックという高さを活かす絶好のチャンスが15回もありながら、ゴールを割れず。これはかなりショックだったと思います。コンディションが良くなく、温存を予定していたリべリを投入せざるをえない展開になったのも誤算のひとつ。ただ、リべリが入って、中央突破から日本のDF陣が崩されるシーンが増えただけに、もう少し早く投入していたら、結果が違っていたかもしれません。また、吉田のペナルティエリア内でのジルーへのチャージをPKを取ってもらえなかったのも、ホームゲームでの誤算といえば、誤算でしょう(ただ、審判がスコットランド人ですから、英仏の関係を考えるとホームタウンデシジョンは期待出来なかったでしょうが)。もうひとつのブルー、Samurai Blueも誤算だらけでしたが、その誤算を何とかしのいだのが勝因でした。誤算の第一は、やはりフランスの名前に怯えてしまったこと。いつものように前線からの積極的守備が出来ませんでした。ただ、サイドに追込む守備を最後まで徹底し、フランスの攻めをサイドからのクロスという単調な攻めに限定させ、ゴールを守り抜きました。第二の誤算は、アジアで猛威を奮ったハーフナー・マイクの高さが、世界には通用しなかったこと。前線へのくさびのパスが全く収まらない状況では、厚みのある攻撃は困難です。ワントップは前田の一枚看板でいかざるを得ないのか、本田をFW起用するのか、あるいは、岡崎や佐藤寿人のような裏に抜けるタイプのFWに託すのか、ザッケローニは決断を迫られそうです。そして、最大の誤算は、自分達らしくないサッカーで勝ってしまったことでしょう。大方の予想は、日本らしいサッカーを展開しての惜敗。その逆になってしまったことをどう受け止めるかが、日本サッカー界につきつけられた難問といえるでしょう。私自身、アウェイでフランスに勝ったという歴史的勝利を目の当たりにしながら、日本代表のゲーム運びに満足できず、素直に喜べない自分に戸惑っています。
デシャン監督は、コメントの中で更にこう語っています。「我々が試合を優位に進めていたが、点を決められず、最後に罰を受けた。」プラン通りにならないのがサッカー。ただ、その誤算にどこかで折り合いをつけていかないと、最後に惨酷な結末が用意されているのもサッカーです。
ところで、日本のあの得点は見事でした。今野の60m近いドリブルでの攻め上がり。並行して左サイドをフリーで駆け上がる乾。右サイドから中央に切れ込む香川。その空いたスペースに駆け上がる長友。首を振って周りを確認していた今野ですが、長友までは見えていなかったそうです。ただ、香川の動きで察知し、左サイドでフリーになっていた乾にではなく、右サイドのそこにいるべき長友へのスルーパスを選択しました。長友のダイレクトクロスを香川が倒れ込みながらシュート。すべてがジクソーパズルのピースのようにピタッとはまって生まれた美しいゴールでした。

2012年10月9日火曜日

Project SM@SH II

連休中に伊豆に行ってきました。登山・秘湯仲間のN隊長とシェフパTと一緒に、会社の先輩Mさんの中伊豆の別荘にご招待頂き、バーベキュー・温泉・テニスを楽しんできました。毎回恒例のプロジェクト名は"SM@SH II"。「SM(イニシャル)さんの@SH(Second House)での優雅な生活にごご相伴させて頂いて、テニスコートでスマッシュを決めよう」の2回目(II)という安直なものになってしまいましたが、2年前の前回とは一味違った、想い出深いプロジェクトとなりました。別荘の近くに伊豆市公営の温泉施設「万天の湯」と付帯施設のテニスコートがあります。高原のテニスコートで爽やかな汗をかいて、富士山を眺望しながら(当日は雲で見えず)弱アルカリ性の温泉で汗を流すという最高の施設です。しかし、テニスコートは、オムニコート7面のうち4面は手入れされないまま放置され、サーフェースが至る所で剥げ、雑草が茂っているという有様。残りの3面もネットはボロボロで、ところどころコードワイヤーに紐で結びつけられていました。万天の湯の周りでヤギが3匹放し飼いになっており、植木の葉や下草を食んでいました。万天の湯の管理人のおばさんが飼っているヤギで、夜は家に連れて帰るということでした。連休中にも拘わらず、いかにも寂れた風情が漂っていましたが、案の定、現在、入札で売却先を探しているとのこと。売却最低予定価格は約60百万円です。来年の秋口までにどこかのリゾート運営会社が買い取って、再生してくれるといいのですが。
帰路立ち寄ったのが、写真の北川(ほっかわ)温泉のこれまた公営の黒根岩風呂。海抜0m、波の飛沫が舞い散る波打ち際に掘られた豪快な露天風呂です。水平線に伊豆大島が浮かび、その向こうに遥かアメリカを望むということで、キャッチコピーが「アメリカを見ながら入る野天風呂」。伊豆でのレジャーの帰りに最後の伊豆を堪能する絶好のスポットといえます。ただ、難点は、もう下界に戻りたくなくなること。体の隅々まで温泉の温もりと潮の香に満たされ、雄大な気持ちになれる別の意味でのパワースポットです。夕食は、早川港の定食屋「大原」で絶品のアジフライと金目鯛の煮付けを堪能して、Mission Complete!
何の気兼ねもない仲間と、Opus Oneと純米酒「戦勝正宗」でほろ酔い気分になり、UNOとテニスに興じ、2つの温泉を巡って、思いっきり、心も体も弛緩出来た伊豆の休日となりました。SMさん、N隊長、シェフパTに感謝。ふやけた脳みそでは、気の効いた纏めも出来ず、目一杯単なる日記のブログとなってしまいましたが、ご容赦を。
そうそう、伊豆で朝のジョギング中、JogBoyを起動していたiPhoneに嬉しいメッセージが。Dr.Steveから拓郎のライブへのお誘い。先行抽選予約で外れ続け、発売当日もネットが繋がらず、チケットが取れずに諦めていただけに、嬉しさもひとしお。Dr.Steveにひたすら感謝。

2012年9月30日日曜日

Project M 後篇

赤湯温泉山口館(写真右上)は、創業100年を超える温泉宿です。苗場山5合目の文字通り中腹に位置し、登山口の元橋バス停から4時間の山路を徒歩で登らなければたどり着けない秘湯中の秘湯です。電気は無く、もちろん、電話も通じない下界から隔離されたランプの宿です。河原を掘った露天風呂が3ヶ所あり、鉄分の多い赤色の湯の「玉子の湯」と「薬師湯」、そして、清流と同じ澄んだ青色の「青湯」の2つの湯質を、せせらぎの音を聴きながら楽しむことができます。
館主は、いかにも山小屋の主人といった風情の還暦前の武骨な山男でした。80代半ばの母親と東京の板前修行から戻って来たばかりの息子さんとの親子3代で、宿をきりもりしています。当日の宿泊客は、我々4人だけ。にもかかわらず、ご主人は、わざわざ、雨の山中に分け入って、食材の舞茸を採っておいてくれました。素朴ながらも気の効いた味付けの山菜料理を美味しく頂いた後、「実は・・・」と切り出してみました。ご主人は、1年前のMさんの捜索にも参加していたとのことで、当時の様子をポツリポツリと語ってくれました。最後は、「もっと早く発見してあげられなかったのが悔しい」と嗚咽ながらに。ランプの下での追悼の酒盛りにご主人も加わり、Mさんの人となりについて話しているうちに、何故か昭和歌謡の歌合戦に。Mさんは、仲間との酒盛りが大好きで、いつも陽気なお酒でした。盛上げ役のMさんが舞い降りてきてくれたんでしょう。改めて、合掌。

2012年9月27日木曜日

Project M 前篇

Mさんとは不思議なご縁でした。会社の同僚ではありましたが、仕事上の繋がりはさほど深くなく、むしろ、アフター・ファイブでナイターテニスをしたり、B級グルメのお店巡りをしたり。日本酒を愛し、ワインにも詳しく、テニス、龍馬、拓郎など趣向が重なる部分が多い人でした。今にして思うと、本当に引出しの多い人で、趣味や話題を合わせてくれていたんだなと思います。いつも笑顔で、場を盛り上げるのが上手な人でした。友達を大事にし、そして、何よりも家族を愛した人でした。そんなMさんが不慮の事故で苗場山で他界したのが昨年の6月のことでした。
1年余を経て、ようやく追悼登山を実現することが出来ました。苗場山頂の山小屋で一泊し、降りしきる雨の中、細い九十九折れの山道を這うようにして下り、中腹の秘湯赤湯温泉へ。赤湯温泉の手前にサゴイ沢に架かる鉄橋があります。沢の上流がMさんが遭難した場所と推測され、その下流で追悼の祈りを奉げさせて頂きました(写真)。Mさんの愛した「亀泉CEL-24」は残念ながら手に入らず、代わりに同じ土佐のお酒「司牡丹 船中八策」を供えました。司牡丹もMさんが好んだお酒でしたし、龍馬ゆかりの船中八策ということで許してくれたんではないかと思います。どの酒蔵からも「ひやおろし」の出てくる季節ですが、亀泉は「CEL-24は冬まで熟成させないと本当の味にはならない」とのこだわりの下、12月まで寝かせてから出荷する為、この時期には手に入らないとのことでした。そんな言い訳に、Mさんの「おぉ~っ、それは仕方がない。冬まで待ちましょう」との声が聞こえてきそうでした。
いつしか雨はあがり、雲の切れ間から秋の高い空がのぞきます。ほどなく山道を下り、河原づたいの岩場を5分ほど行った所にMさんが目指し、辿り着くことの出来なかった赤湯温泉山口館がありました。(後篇に続く)

2012年9月13日木曜日

ゴールはどこ? ‐ イラク戦

イラク監督、ジーコ。元日本代表監督。本名アルトゥール・アントゥネス・コインブラ。「ジーコ」は「やせっぽっち」の意味で子供の頃のあだ名。現役時代は「白いペレ」と称された中盤の名手。ちなみに、ペレの本名は、エドソン・アランテス・ド・ナシメント。以上は、9月9日に行われたサッカー検定の為の詰め込み勉強の成果です。9月11日ブラジルW杯アジア最終予選イラク戦。埼玉スタジアム2002は6万人を超える観客で埋まりました。試合前の両チーム選手紹介アナウンスでジーコ監督への歓声・拍手が最も多かったのは印象的でした。ジーコの采配は、的確でした。ザック・ジャパンのペースメーカーであり、パスの経由点である遠藤と本田にマンマークをつけ、両選手へのパスコースを遮断。日本代表のパスサッカーの分断を図ります。一方で、ボールを奪うや、ダイレクトプレーで日本ゴールを脅かします。格上のチームに対するアウェーの戦い方に徹していました。選手起用も、「レギュラー陣と控えを総取替えしたジーコの奇襲」とマスコミでは紹介されていますが、システムに選手を合わせた結果、そして、日本のスピードに対応出来る選手をピックアップした結果の選手起用だったのでしょう。選手にシステムを合わせた日本代表監督時代とは様変わりでした。そんな練りに練った作戦も実らず、スローインからの一瞬の隙をつかれて失点。日本戦での勝ち点奪取はなりませんでした。ジーコが、試合後「今の日本は強豪と言ってもいいぐらい成長している。W杯で上位に進出する可能性は十分にある」と語っています。一方、左サイドで躍動し、存在感を十分みせつけた長友は「チームとしての成長は感じるが、まだまだ成長度合いが遅すぎる。このままでは、W杯での優勝は目指せない」と語り、ジーコの「上位」どころか「優勝」をハッキリと口にしています。ビッグマウス本田も常々「W杯優勝」を唱えていますが、夢を確実に現実に変えてきた長友の言葉には重みがあります。
イラク戦を終えて、2つの意味で「ゴールはどこ?」の疑問が湧いてきました。一つは文字通り決定力不足の解消策。ザックに「決めろ」と喝を入れられた本田が、日本代表全シュート数13本の3分の1以上にあたる5本のシュートを放つもゴールに繋がらず、本人も「決定力を上げないと世界の強豪には勝てない」と語っています。「ゴールはどこ?」ゴールの穴を瞬時に察知する能力を研ぎ澄ますことが日本代表の課題です。後は、ジーコが言っていたようにその穴にパスをすればいいのです。もう一つの疑問は、サポーターとしてのゴールをどこに定めるべきなのかという点です。ドーハの悲劇、ジョホールバルの歓喜を同時代性をもって知っている世代にとって、未だ「W杯は出て当り前」の感覚がしっくりきませんし、W杯本戦での目標は、やはり、グループステージ突破なのです。選手の口にするゴールとのギャップを感じつつ、選手に追いつかれ、逆に置き去りにされた喪失感を味わっています。「サポーターのゴールはどこ?」(写真は、いつもの青みがかったシャツ姿で選手に指示を与えるジーコ監督。甲高い声が聞こえてきそうです。)

2012年9月5日水曜日

バンビ、ぬりかべに跳ね返される

試合前は、ヤングなでしこが、ドイツの高い壁をどう攻略していくかと思いを巡らせていました。平均身長差10cm。ドイツの平均身長170cmをヤングなでしこのスターティングメンバーで超えていたのは、サイドバックの浜田のみ。写真は試合前の整列時の写真ですが、遠近が完全に無視されて、ドイツ、審判、ヤングなでしこの順に階段状に低くなっているのが判ると思います。しかし、高さ以上にヤングなでしこがてこずったのが、ドイツのコンパスの長さと身体の厚み・重さ。重厚長大対策は、日本代表に共通する課題のようです。かくして、ヤングなでしこ、バンビ軍団の快進撃はドイツの重戦車・ぬり壁軍団に文字通り押し潰されてしまいました。得点的には3-0の完敗ではありますが、なす術なく蹂躙された前半の戦い方を後半は良く修正し、後半だけ見れば、互角以上の戦いでした。サッカーは試合を通じて必ず波があります。ドイツのようなタイプのチームはとにかく前後半の初めは力で押してくるので、バイタルエリアを固めて慎重にゲームに入ることが大事です。ところが、乗りに乗っているヤングなでしこは、キックオフ後いつも通り、高い位置でのプレスでボールを奪いにいくイケイケのサッカー。ただ、複数で囲んで奪いにいくだけに、そこを抜け出されると一気にピンチとなってしまいます。1点目、2点目はまさにその失点。完全に入り方を誤ってしまいました。一方、攻めも右サイドからの単調な攻めに終始し、せっかくサイドを突破しても、中央に受け手がいない繰り返しで、前半はわずかシュート2本に抑え込まれてしまいました。
後半は、3点リードでドイツが守備的になったこともあり、立ち上りから日本ペース。ヤングなでしこ達もドイツの選手との間合いをつかみ、1対1でかわせるようになり、パスがつながるようになりました。しかし、再三のチャンスもゴールに繋げることができず、波はひいていきます。
ただ、試合後のインタビューを聴くと、ヤングなでしこ、しっかりと反省を口にしています。一回りたくましくなったヤングなでしこの3位決定戦に期待しましょう。

2012年9月2日日曜日

熱帯夜に・・・「外は白い雪の夜」

このブログに時々登場して頂いている「反町姫」とは、4年前北京五輪でお会いし、それ以来、国立やヤマハスタジアムで何回か再会を果たしていました。今回のロンドン五輪は、旅程が別の為、まさかお会いすることはないだろうと諦めていましたが、なんと、カーディフのミレニアム・スタジアムでバッタリ。しかも、すぐ前後の席。信じられない因縁です。その反町姫から、五輪の写真とともに面白いサッカーネタが届きました。サッカー日本代表、五輪でも活躍した吉田麻也のブログに、ウッチーこと内田篤人が吉田拓郎の名曲「外は白い雪の夜」にハマっていると自ら投稿。ウッチーに何があったのかと、ウッチーファンの間に波紋を投じているそうです。この曲は松本隆の作詞で、男女の切ない別れが男女の掛合いという形で歌われています。「♫傷つけあって生きるより 慰めあって別れよう」「♫今夜で別れと知っていながら シャワーを浴びたの 哀しいでしょう」確かにこの曲を聴いたら、ファンはウッチーに何があったのかと心配になることでしょう。一説には、麻也のプレミア移籍が関係しているのではとの憶測も。これまでは、ドイツ、オランダという陸続きの両国の間を往き来し、週5回は会っていたというマヤ、ウッチーでしたから・・・。
「外は白い雪の夜」は、拓郎ファンの間でも人気の高い曲です。そして、拓郎にとっても特別な曲のようです。「落陽」と同様、ライブでは必ずという位歌われる曲で、また、唯一出場した1994年の紅白歌合戦でも、この曲を歌っています。五木ひろし、森進一、前川清がバックコーラスを務め、日野皓正がトランペットを演奏するという超豪華な一曲でした。ちなみに対戦相手は松田聖子。この年、実は中島みゆきにも出演依頼がなされていましたが、中島みゆきはこれを辞退しています。(他にも松任谷由実、ZARD、竹内まりや、Mr. Childrenなども辞退しています。)中島みゆきが出演していたら、この曲か、あるいは「永遠の嘘をついてくれ」のデュエットが聴けたかもしれません。ほぼ20年前の話です・・・。「♫Bye Bye Love 外は白い雪の夜・・・」

2012年8月31日金曜日

ヤングなでしこ - 日韓戦

どの世代の対戦でも、日韓戦は否が応でも燃えてしまいます。ましてや、竹島領土問題のかまびすしい中、また、五輪男子サッカーの敗戦の直後でもあり、なおさらです。この世代は、2年前のU-17W杯で優勝を争い、日本がPK戦で敗れています。その雪辱戦という意味合いもあります。そんな因縁の対決ではありますが、ヤングなでしこ(写真)は、固くなっている様子もなく、その持っている力を存分に発揮しての見事な勝利でした。個々の技術、運動量、フィジカル、戦術理解度、チームとしての組織力、どれを取っても日本の方が上で、負ける要素はありませんでした。日本の3点目、田中美南が3人に囲まれながら高木に球をつなぎ、高木がゴールラインまで切れ込んでのマイナスの折り返し、西川がDFを引きよせてつぶれ役となり、フリーの田中陽子がゴールマウスに流し込んだシーンに、ヤングなでしこの強さが凝縮されていました。
24,000人対100人は、国立競技場での日本サポーターと韓国サポーターとの人数比でした。サポーターの後押しがヤングなでしこの大きな力になったことは確かです。また、25,000人対1400人という数字もあります。これは、日本と韓国の女子サッカーの登録選手数です。日本の場合、なでしこリーグ加入チームとその下部組織が大きな受け皿となっていますが、韓国の場合、年齢があがるに従って受け皿がなくなるという悩みをかかえており、U-17からU-20への道のりで大きな差が開いてしまった原因はこの辺りにあるのでしょう。日本は、過去の陽のあたらない時代を支えてきた無数のなでしこ達の遺産を大事に育てていかねばなりません。
ところで、スタジアムの席のちょうど前の一角がナイジェリア選手団用の特別シートでした。メキシコとの延長戦をかろうじて制したナイジェリアの選手達がリンゴをかじりながら偵察の為に観戦していました。試合開始当初は、配られた日韓戦のメンバー表にメモを書き込みながら熱心に観戦していましたが、20分過ぎ位から飽きてきたのか、ペンを置いておしゃべり。そのうち、ご褒美のiPadが父兄(?)から差し入れられると試合そっちのけで騒ぎ出し、後半はジグソーパズルを始める年配のコーチ(?)も。決勝の相手がナイジェリアなら、勝てそうな気がします。
冒頭で、「因縁の日韓戦」の旨書きましたが、クリーンで気持ちのいいゲームでした。試合後は、涙を拭いながら退場していく韓国の選手達にスタンドから大きな拍手が。両国間にどのような問題があろうとも、サッカーでの対戦は代理戦争ではありませんし、ましてや、純粋な10代の少女達に余計な思惑を背負わせるべきではありません。そんな意味で、韓国の選手達に向けられた大きな拍手、そして、韓国の選手達のやや控えめではありましたが、手を振って応える仕草は、とても爽やかな印象を残してくれました。

2012年8月27日月曜日

バンビの躍動 - ヤングなでしこスイス戦

U-20女子サッカーW杯日本開催。もともとウズべキスタンで開催される予定だったのが、施設が国際基準を満たしていないとの理由でウズベキスタンが失格となり、昨年末、急遽、日本開催が決定しました。そのせいもあって、事前告知が十分に行われず、また、五輪の影にも隠れて、いまひとつ盛上りに欠けています。グループステージの会場は、軒並みガラガラ。グループステージ突破が決まる今日の第3戦も、国立競技場での第1試合ブラジル対韓国戦は、第2試合目当ての日本人サポーターを含めて5,000人足らず。両国のサポーターはそれぞれ10名程度。優勝候補同士の戦いにも拘わらず、寂しい光景でした。試合は、圧倒的にブラジルペース。しかし、猛攻を繰り返したブラジルですが、韓国の赤い壁を最後まで破ることが出来ず、逆にカウンター2発に沈み、よもやのグループステージ敗退。
ヤングなでしこがスイスと対戦する第2試合は、さすがに観客が増え、約17,000人。それでも、国立の収容人数54,000人からすると3分の1以下。空席が目立ちます。せめて、決勝の舞台は、満員になって欲しいと願っています。
ヤングなでしこは、スイスは論外としても、韓国、ブラジルと比べても、テクニック・敏捷性・判断のスピード・運動量で図抜けています。ボランチ楢本光のテクニックとパスセンスは抜群。澤は安心して引退できます。ボンバー荒川以来の横山・道上・西川の力強いFW陣。高速ウインガー田中美奈。そして、何といっても、ポスト宮間のミラクルキッカー田中陽子。左右の脚でのFKからの直接ゴールというのはギネスブックものではないでしょうか。本当にタレントだらけの楽しいチームです。クリクリとした眼を輝かせ、躍動する姿は若鹿バンビ。準々決勝の相手は、相性の悪い難敵韓国です。同じ年代では2年前のU-17女子W杯決勝でPK戦の末苦杯を飲まされています。その雪辱戦ともなる1戦。今回は、成長したバンビ達が、赤い壁を軽々と跳躍してくれることでしょう。
冒頭に観客が少ないと書きましたが、さすがにそんなコアなゲームに集まる観客だけに、みんなサッカーを良く知っていました。ツボを押さえた拍手と歓声は、明らかにA代表戦以上。心地良い観戦となりました。更には、ブラジル・韓国戦の前に旭日旗を振っていた観客が退席を命じられたり、日本・スイス戦の終了間際に酔っ払いの小競り合いがあったり、かなりディープなサッカー観戦シーンがありました。日本のサッカー文化も成熟しつつあります。写真は、国歌演奏に胸に手をあてて眼を閉じるヤングなでしこ達。よく見ると、エスコートキッズの男の子まで眼を閉じているという微笑ましい光景です。)

2012年8月19日日曜日

旅の終り - その2 U-23篇

若きSamurai Blue、U-23はメダルに届きませんでした。もともと、U-20 W杯への出場を2回連続で逃した「谷底の世代」(2009年権田・村松・永井、2011年酒井(高)・宇佐美)で、しかも、本来、絶対的エースとなるべき香川を欠き、OAも最強の補強といえないメンバーでは、ベスト4は望みうる最高の結果だったと思います。非常によくやったと評価すべきでしょう。しかし、3位決定戦で敗れた相手が、U-20 W杯への出場をアジア予選で2度とも阻まれた韓国だったのは、残念でなりません。3位決定戦の戦い方にも、苦手意識が随所に見受けられました。そして、韓国は、日本を飲んでかかっていました。この大舞台での敗戦が、この世代のライバル韓国への苦手意識を助長しないことを願うばかりです。
グループステージから準々決勝エジプト戦までは、日本の飛び道具、永井、齋藤、大津がその威力を如何なく発揮しました。世界を驚愕させたといっていいかもしれません。また、その飛び道具の射手となっていた清武は、英国の目の肥えた観客からも大きな称賛を浴びていました。エジプト戦で永井が負傷したのは、メダルを狙う上で大きな痛手でしたが、むしろ、それ以上に、日本の速攻を封じられたのが、準決勝・3位決定戦の敗因でした。メキシコ・韓国ともに試合巧者。日本の良さを消してきました。世界での経験の差が出ました。終盤は、ゲームの流れを変えられないまま、なす術なく、敗れてしまいました。2試合ともに、流れを引き寄せるべく投入された宇佐美・杉本は、見せ場を作ることも出来ませんでした。世界の壁を実感したのではないでしょうか。特に宇佐美は「ガンバ大阪の最高傑作」と称され、名門バイエルンミュンヘンに入団した逸材ですが、ベンチにも入れず試合から遠ざかっているせいか、試合勘以上に、チームでのコンビネーションを欠いていました。悔しさは判りますが、暗い表情が気になります。女子W杯の時の永里(現姓・大儀見)が重なります。彼には、技術的向上よりも人間的成長が必要ではないでしょうか。
「今、一番何がしたいですか?」五輪から帰国した選手達へのお決まりの質問ですが、多くの選手が「焼肉を食べたい」「お寿司を食べたい」と答える中で、なでしこの岩渕だけが「練習!」と一言。決勝で、GKと1対1になりながら決めきれなかったシュートが余程悔しかったのでしょう。U-23 もベスト4という十分称賛に値する結果ではありますが、選手達には最後の2連敗で世界に撥ね返された悔しさのみが残った五輪だと思います。U-23の選手全員が、岩渕と同じ気持ちを抱いたとしたら、今後の日本サッカーにとって、銅メダル以上に価値ある敗戦になるかもしれません。(写真はグループステージ第3戦ホンジュラス戦)

2012年8月17日金曜日

旅の終り その1 なでしこ篇

なでしことU-23のウェンブリーへの旅が終わりました。なでしこは、決勝での惜敗に悔しさをにじませながらも、最後は弾けるような笑顔で銀メダルを掲げてくれました(写真)。一方、U-23は、スペインに歴史的勝利をあげながら、最後は2連敗でメダルを逃すという残念なフィナーレとなり、敗北感が残ってしまいました。しかしながら、両チームともに、よくやったと思います。正直、客観的に求めうる最良の結果を達成したと言ってよいのではないでしょうか。
なでしこは、W杯優勝チームとして大会に臨みましたが、普通でさえ大きな体格差がある上に、中2日で6試合という強硬日程(W杯は中3日)では、準決勝、決勝ともなると、どうしても生命線の運動量が落ちざるをえません。決勝での米国の2得点は、普段の状態のなでしこであれば、いずれも体を寄せて防げたゴールでした。オリンピックの夏開催、サッカー競技の中2日スケジュールが変更されない限り、運動量に頼る現在の日本サッカーでは、五輪で頂点に立つのは難しいと思います。厳しい日程に加え、各チームとも世界チャンピオンの日本をよく研究していました。各国が日本のサッカーをまねて、五輪でパスサッカーを標榜してくれれば、一日の長があるなでしこに金メダルの可能性ありと期待していましたが、各国が取った戦術は、そのパスサッカー封じでした。パスの出どころである宮間、澤を徹底的に潰し、一方で、早めに守備ブロックを固めて、バイタルエリアでのパススペースを消すというものでした。攻めは、なでしこの弱点である左サイドを崩しにかかってきました。鮫島のミスを狙い、そのカバーに川澄や宮間が追われ、本来、攻撃の軸となるべき左サイドが機能しませんでした。それでも、なでしこは、したたかでした。パスサッカーに拘ることなく、佐々木監督に「闘志の守備」と言わしめた泥臭い守備で相手のシュートを間一髪阻み、そこからの速攻での堅守速攻に徹しました。W杯でみせた華麗なサッカーではありませんでしたが、メダル獲得への執念をこめた別の意味で「なでしこらしい」美しいサッカーでした。準々決勝で敗れたブラジルの監督が「今日の試合のような守備的なサッカーを続けるならば、日本は優勝チームにふさわしくない」と批判していましたが、サッカーは技を競う競技ではなく、ましてや、五輪は勝利を目指す大会であるという言葉を返したいと思います。また、美しいサッカーには様々な形があると。
議論を呼んだ南ア戦での引分け狙いは、メダルへの執念の表れでした。グループステージ2位通過であれば、同じ会場で準々決勝を戦うことが出来、準決勝の会場ウェンブリーへの移動距離も少ないという1位通過よりも圧倒的に有利な条件を考えれば、2位狙いは当然のこと。しかも、引分け狙いというのは、一歩間違えれば、敗北のリスクを負うものであり、決して簡単なことではありません。引分け狙いという戦略は、決して非難されるべきものではありません。非難されるべきは、2位通過が1位通過よりも有利な条件となるという大会運営の不合理性でしょう。ただ、佐々木監督が試合後のインタビューで引分け狙いを明言し、途中投入した川澄にシュート封印を指示したと明かしたことには違和感を感じました。指揮官として口にすべきことではないのではないかと。その後、宮間が「南ア戦で全てを背負ってくれたノリさん(佐々木監督)の思いをムダにしたくなかった」と語っています。佐々木監督は、批判の矛先を自分に向け、選手を守る為に、あえて引分け狙いを自ら明言した訳です。マネジメントのあり方を考えさせられたエピソードでした。
決勝戦敗戦直後、宮間の泣きじゃくる姿は感動的でした。あれだけ力強く、また、冷静にチームを纏めてきていたキャプテンが、涙を止めることができずに泣き崩れている姿に、如何に金メダルへの執念が強かったか、また、キャプテンとしてのプレッシャーに耐えていたのかを感じました。そして、その宮間を抱きかかえるように寄り添っていたのは、佐々木監督でも、澤でも、川澄でもなく、大儀見でした。ドイツW杯で大儀見(当時永里)はチームの戦術に馴染めず、活躍出来ませんでした。W杯準々決勝ドイツ戦では、途中交替させられ、試合後はチームが勝利し、他のメンバーが喜び合う中、ひとり不甲斐ない出来に泣きじゃくっていました。その大儀見に寄り添っていたのが宮間でした。それから1年。一匹狼だった大儀見は、チームへの献身を覚え、前線からの守備を欠かさず、おとりになる動きを繰り出すなど、サッカーの幅を広げるとともに、人間的な成長を遂げました。だからこそ、真っ先に泣き崩れる宮間を抱き起こし、宮間も泣きじゃくったまま、大儀見に身を委ねたのです。それぞれの人間的成長とお互いへの信頼感が、この1年でなでしこが身につけた最大の強みだったのではないでしょうか。それが、全員で猛攻に耐えに耐え、最後は勝利を手にし、銀メダルを獲得した今回の戦いを支えたのです。
こんなエピソードがありました。W杯の後、チームに馴染めず悩んでいた永里に、メンタルアドバイザーの大儀見氏がかけた一言「口角を上げなさい」。この言葉で永里は変わりました(姓も大儀見に)。表彰台でのなでしこ達の笑顔は格別でしたが、中でも大儀見の笑顔(写真上段右端)は一段と輝いていました。

2012年8月5日日曜日

いざ、Wembley

サッカー日本代表、男女共に準決勝進出を決めました。いよいよサッカーの聖地ウェンブリー・スタジアムです。特に男子は、準々決勝の会場がオールド・トラフォード(マンチェスター・ユナイテッドのホーム)ですから、メダルに向けた夢のような滑走路です。2ゴール目を決めた吉田麻也の「(香川)真司より先ににここでゴールを決めたかった」というコメントは気が利いていました。ウェンブリー・スタジアムは1923年開場。従来、ツインタワーがシンボルでしたが、2007年に新スタジアムに改修され、現在は、スタジアム上部のアーチがシンボルとなっています。収容人数9万人はバルサのカンプ・ノウについでヨーロッパ第2位の大きさですが、屋根のついたスタジアムとしては世界最大です。サッカーの代表戦やFA杯決勝など主要なゲームにのみ使用される文字通りサッカーの聖地です。ちなみに、五輪バドミントンの会場となったアリーナは、サッカー・スタジアムに隣接しています。写真は、スタジアムの正面ゲート。手前の銅像はボビー・ムーアです。1966年イングランドW杯優勝時にキャプテンを務めた伝説的ディフェンダーです。同W杯ではMVPにも輝いています。
準々決勝、なでしこは、闘志の守備という和製カテナチオでブラジルの猛攻に耐え、一瞬の隙をついての必殺技で仕留めるという全盛期のアントニオ猪木を彷彿とさせる美しい勝利をおさめました。試合後、ブラジル代表監督は「今日のような(守備的な)プレーを続けるならば、日本は優勝候補にふさわしくない」との負け惜しみそのもののコメントを残していますが、ブラジル地元紙の「沢は機能したが、マルタは五輪で輝けなかった」との分析が正当な評価だと思います。
一方、男子のゲームは、オールド・トラフォードの目の肥えたファンを再三うならせた文句なしの快勝でした。男子チームの快進撃を支えているのが、4試合無失点の固い守備。前線からの組織だったプレスがその根幹となっていますが、吉田麻也が守備に安定感をもたらしているのは間違いありません。このまま無失点が続けば、自ずからメダルに手が届くことになりますし、その時は、ボビー・ムーアにあやかって、吉田がディフェンダーとしてMVPということでしょう(五輪では公式のMVPの選出はありません)。

2012年8月2日木曜日

ゴダィヴァ伝説 - コベントリーのブーイング

コベントリーです。ジャガーが本社を構える地方の工業都市。ベルギーの高級チョコレートのゴディバ(英語読みではゴダィヴァ)の名前とシンボルマークの由来となったゴダィヴァ夫人伝説発祥の地です。ゴダィヴァ夫人は11世紀に実在した伯爵夫人です。夫人は重税に苦しむ領民を憐れみ、重税の緩和を領主である夫に嘆願します。夫は、夫人が裸で馬に乗って町の端から端まで練り歩くことを減税の条件とします。領民達は夫人の慈悲に報いる為に、夫人が裸で馬乗りする日には家にこもって戸も窓も締め切り、夫人の裸を見ないように申し合わせます。しかし、仕立て屋のTomだけが禁を破って、夫人の一糸まとわぬ姿を覗き見してしまいます。これが、英語のPeeping Tomの語源となったということです。
ゴダィヴァ夫人の慈悲深さの伝統をひくコベントリー市民達のはずですが、日本対ホンジュラスの一戦については、かなり厳しい反応でした。試合会場は、市街地の北のはずれに位置するリコー・アリーナ。オリンピック期間中は、企業名を冠することが禁じられている為、シティ・オブ・コヴェントリー・スタジアムと呼ばれています。収容人数32,609人。平日夕刻にも拘わらず2万人を超える観客が詰めかけました。共にスペインを破った両チームの対戦。好ゲームを予想して駆けつけた地元サッカーファンの期待は、開始早々打ち砕かれました。互いに中盤でミスを繰り返し、攻め手を欠く退屈な試合展開。20分過ぎには試合に飽きてウェーブが起こる始末。清武・永井が投入され、リズムが一変した後半途中からは、日本のプレーに何度か歓声があがりましたが、終了間際の守備陣でのパス回しよる時間稼ぎには、手厳しいブーイングの嵐。技術の高いプレーへの拍手、審判の判定へのブーイングなど、さすがにサッカーを知っている観客が多くいました。
主力を休ませ、且つ、しっかりと1位通過を果たしてブラジルとの対戦は避けられるなど、関塚監督のゲームプランはぴたりと当りました。残念ながら控え組がフィットしないことが判ったのも怪我の功名。いよいよメダルに向けての今度こそ絶対に負けられない戦いが始まります。次はマンUの本拠地オールドトラフォード。再び関塚ジャパンがきらめきを取り戻し、目の肥えた観客に衝撃を与えてくれるものと信じています。

2012年8月1日水曜日

カーディフの苦悩 - なでしこ南ア戦

カーディフはロンドンから電車で約2時間、ウエールズの首都、人口30万人の地方都市です。街の中央にカーディフ城がそびえ、石造りの古い街並みが、さながら日本の城下町の落ち着いた佇まいを思い起こさせます。なでしこの試合会場は、駅から徒歩10分足らずのミレニアムスタジアム。収容人員74,500人。開閉式屋根の全天候型。ラグビーとサッカーの代表戦に使用されますが、メインはラグビーで、ラグビーの聖地として、サッカーの聖地ウェンブリーと並び称されています。素晴らしいスタジアムで、今やカーディフ城に代わる街のシンボルとなっています。
さて、なでしこ。極めて不甲斐ないゲームになってしまいました。チャンスをもらいながら、何も出来なかった丸山、岩渕、矢野などの控え組は、それ以上に悔しい思いをしていると思います。試合後の岩渕の悔しさを隠すかのようなほとんどふてくされている態度が象徴的でした。決勝までの6試合の中でこんな試合が出てきてしまうのは、やむを得ませんが、問題は、試合後の会見時の佐々木監督の発言です。インタビューの中で、佐々木監督は「ドローを狙える展開であれば、そういうことでいいと伝えた」とコメントしています。また、川澄投入時に「申し訳ないけどカットインの素晴らしいシュートはやめてくれ」と言ったと認めています。メダル獲得を考えると、2位通過は、対戦相手として米国、フランスを避けることに加え、移動せずに準々決勝に臨めるという大きなアドバンテージがあります。佐々木監督のみならずとも、2位通過狙いそのものは、指揮官として当然な選択肢です。ただ、問題はそれを公の場で口にしてしまったことです。「勝たない」という戦い方はFIFAのフェアプレーの精神に明らかに反しており、FIFAが問題視して何らかのペナルティが課される可能性があります。それ以上に、純粋にサッカーに全てを捧げているなでしこ達を、非難に晒すことになってしまいます。
佐々木監督のオープンで正直な性格には好感が持てますが、余りに不用意な発言でした。なでしこ達は、一旦は失望させてしまったカーディフの観客を、ブラジル戦、世界王者のパスサッカーで魅了することでしか、非難に答える術はありません。

2012年7月31日火曜日

ロンドン五輪異聞

ロンドンは快晴かと思ったら、シャワーの様な雨がザーッと降ったり、不順な天候です。オリンピックも不順。サッカーの優勝候補だったスペインがよもやの予選敗退をしてしまったり、団体体操で抗議の末の順位変動があったり。
スペインとの予選リーグ第一戦を観戦した人の話によると、スペインのサポーター達は、代表チームの余りの不甲斐なさに、日本戦の途中で席を立って帰ってしまったそうです。1-0で試合がどう動くか判らないのに、未練を残さずに席を立てるメンタリティは、さすがに世界王者のサポーター。サッカー文化という点では、まだまだ手が届きそうもありません。体操は、大変な話題となっています。銅メダルでも快挙なのに、一度は銀メダルとアナウンスされてしまったので、日本への恨みは拭い去れないようです。翌日のTVのインタビューで、選手達は「判定が変わったのは仕方が無い、メダルを取っただけでも凄いことで、満足している」と潔いのに、本来紳士的な大人の対応をすべきBBCのアナウンサーが、銀メダルを日本に奪われたと言わんばかりに「日本の抗議をどう思うか」「採点が覆るというのは信じられなかったのではないか」と執拗に食い下がっていました。日本サッカー代表の飛行機が、男子はビジネスクラスだったのに女子はエコノミークラスで、女性蔑視ではないかというのも、物議を醸しています。この問題でインタビューされたなでしこの沢選手が「私達はエコノミーが当り前だと思っているので、問題は全く無い。帰りは金メダルを取って、堂々とビジネスクラスで帰りたい」と答え、益々株を上げています。
写真は、ロンドンの欧州サッカーグッズ専門店Soccer SceneのマンUコーナーです。他の選手のレプリカユニが一緒くたに縦に吊り下げられているのに、香川のユニフォームだけが背番号が判る様に横に掛けられています。しかも、ホーム用とアウェイ用と2列に。この異常な期待は、想像を絶するプレッシャーとなって香川に襲いかかってくると思います。しかし、香川がプレッシャーをはね除け、オールドトラフォードのピッチで躍動する姿が五輪で芽生えかけた反日感情を一掃してくれるものと信じています。

2012年7月30日月曜日

グラスゴーからの「軌跡」-スペイン撃破

U-23日本代表がスペインを破った翌日、マスコミ各紙には、「グラスゴーの奇跡」との活字が躍っていました。1936年ベルリン五輪で優勝候補スウェーデンを破った「ベルリンの奇跡」、1968年メキシコ五輪で地元メキシコを破り、銅メダルに輝いた「アステカの奇跡」、1996年アトランタ五輪でブラジルを破った「マイアミの奇跡」、再びという訳です。今回の勝利は、ブラジルの猛攻に耐えに耐え、相手の連係ミスによるワンチャンスでの得点で勝利したマイアミと異なり、落ち着いた試合運びでゲームを支配しており(ボールは支配されましたが)、アステカでの勝利に近いものでした。むしろ、勝つべくして勝った感が強く、「グラスゴーの奇跡」と呼ぶのは、関塚ジャパンのメンバーには失礼だと思います。彼等は、人が本当によく動くいいサッカーをしていました。勝利の最大の要因は、とにかく運動量で勝ったこと。本来は、退場で1人を欠いたスペインが運動量で上回って、数的不利をカバーしなければならないところ、日本はそれを更に上回る運動量で対抗しました。永井や清武が最後まで裏への飛出しを執拗に繰返し、前線でのチェーシングを続けたことにより、スペインは、中盤・DFのラインの押上げに迫力を欠き、FWとの間が間延びし、得意のコンパクトな陣形からのコレクティブな攻めが出来ませんでした。もちろん、2人が決定機をはずしまくっていなければ、大勝もありえたのですが、あれだけ走り回っていては、ゴール前での精度を欠いてしまったのも已むをえないと思います。
この勝利で、スペインと同じレベルになったと喜ぶのは早計でしょう。スペインは、決勝までの6試合を見据えた上で、この試合はあくまで6分の1の位置づけ。かたや日本は決勝トーナメント進出の鍵を握る正に「この一戦」との位置づけ。必死さが違います。運動量に違いが出てきて当然でしょう。
かつて、アルマダの戦いでスペイン無敵艦隊を撃破した英国がその後スペインに代わって海洋覇権国家となりました。このグラスゴーの勝利が、日本サッカーの歴史的分水嶺となり、男子サッカーの世界での躍進のスタート地点になってくれればと思います。その時、「グラスゴーの奇跡」は「グラスゴーからの軌跡」となる訳です。

2012年7月15日日曜日

いよいよ五輪 ‐ 不揃いの日の丸

男女揃っての国内壮行試合を終え、いよいよロンドン五輪です。サッカーの試合は、日程の関係上、開会式前にグループリーグが開始されます。また、試合は英国各地で開催され、ロンドンの選手村に入る為には、準決勝まで勝ち上がらなければなりません。その意味で、サッカー日本代表はこれまで男女延べで11回オリンピックに出場していますが、選手村で五輪の気分を味わえたのは、わずかに銅メダルを獲得したメキシコ五輪と女子の北京五輪(4位)の2回だけということになります。
さて、7月11日の壮行試合。スタンドには、日の丸の人文字が。これがいまひとつ呼吸が合わず、写真のようにちょっと不揃いに。壮行試合の内容も、同じように不揃いの結果に終わってしまいました。
なでしこは、ほとんどU-20の豪州代表相手に、結果だけみると3‐0の快勝。しかし、1年前、世界を驚かせたあのW杯でのパスサッカーからすると、8割以下の出来でした。男子との練習試合を多く組んで、ダイレクトパスの精度を高め、パススピードを上げようとしている途上なのでしょう。パスミスが多く、コンビネーションにも難がありました。それでも、しっかりと圧勝してしまうのが、世界チャンピオンなでしこの強さなのでしょう。なでしこは、今、更なる高みを目指し、産みの苦しみの真っ只中にいます。なでしこのレベルアップへの挑戦がグループリーグでの戦いを通じて実を結んでいくのか、大きな見所です。澤が復活のゴールを決めたのは、吉兆です。澤を支えるボランチ阪口、そして、シンデレラガールの川澄は絶好調です。GK福元も安定感抜群。この4つの穂(穂希、夢穂、奈穂美、美穂)がなでしこに黄金の実りをもたらしてくれることを祈りたいと思います。
一方、U-23日本代表。ニュージーランド五輪代表に対して、恐らくこれまでで最高の出来のパフォーマンスを繰り広げてくれました。しかし、結果は1‐1の引分け。これがこのチームの現在の限界でもあります。香川か本田がいれば、決定力はかなり改善出来たことでしょう。遠藤か中村憲剛がいれば、一本調子に攻め急ぐ欠点もなくなっていたことでしょう。しかし、既にオーバーエイジも含めて選手選考が終了してしまった今や、詮無い話です。もはやこのメンバーで戦うしかありません。五輪での戦いは極めて厳しいものになるでしょうが、日本らしいサッカーを展開し、あわよくば、サプライズを起こしてもらいたいと願っています。不揃いの日の丸達に悔いなき戦いを。

2012年7月8日日曜日

Project千中(田酒)八策その2 ‐ 棟方志功の世界

八甲田山、酸ヶ湯温泉、青森の旅のレポート第2弾が随分遅くなってしまいました。雨の為、八甲田山登頂を断念して、青森市内に繰り出したものの、正味半日の日程。慌ただしく、青森駅近くのワ・ラッセ館で「ねぶた」の山車(写真)を見て、タクシーで棟方志功記念館に向かいました。棟方志功は、青森市の刀鍛冶職人の三男として生まれ、少年時代にゴッホの絵に出会い、画家を志します。20歳で上京し、帝展などに油絵を出品しますが、落選が続き、その失意の中から、版画に新境地を開きます。彼は、木の声を聴き、木の魂を生み出していくという意味で、自らの芸術を「板画」と称しています。版木に覆いかぶさり、自らの魂を刻みこむように彫刻刀を打ちこんでいる姿は、鬼気迫るものがあります。もともと幼少の頃から囲炉裏の煤で目を傷め、極度の近視だったのが、長じてから眼病を病み、晩年は、片目の視力をほぼ失った状態でした。緑内障で視力を失いながら、まるで抽象画のような睡蓮の絵を描いたモネに通じるものがあります。両方の作品に共通しているのは、理屈抜きに魂に語りかけてくるというところです。
棟方志功記念館では、広重の東海道五十三次に着想を得た東海道各地の板画の連作を見ることができました。故郷の富士(吉原宿)の板画の構図は、富士山を背景に五月晴れにたなびくコイノボリ。富士山には、月見草以上にコイノボリがよく似合います。
志功の絵の原点は、少年の頃の凧の絵付けにあります。原色のまま二度筆を使わずに描きます。油絵から版画に向かったのは、必然だったのかもしれません。そして、ねぶたも彼の作品の重要な要素となっています。彼自身「ねぶたの色こそ絶対まじりけのないわたくしの色彩であります」と言っています。
祭りのある町は、独特な彩りを湛えています。青森市もいい色をしています。吉田拓郎は、鹿児島生まれ・広島育ちで、青森には縁がありませんが、「旅の宿」のモデルが青森の蔦温泉(※)のせいもあり、「祭りのあと」の祭りも「ねぶた祭り」ではないかと言われています。いつかは、ねぶた祭りを観て、「祭りのあと」をくちずさんでみたいと思っております。(※「旅の宿」は作詞者の岡本おさみが新婚旅行に行った蔦温泉で曲想を得たとされています。)

2012年6月24日日曜日

Project千中(田酒)八策 その1

今年の夏の登山プロジェクトは、八甲田山に行って来ました。登山とセットになっている恒例の温泉巡りは、ヒバ千人風呂で有名な酸ヶ湯(すかゆ)温泉。総ヒバ造りの巨大浴槽に酸性度の高い青白色のお湯を湛えた風情溢れる温泉です。今回は、千人風呂と八甲田山散策がテーマということで、龍馬の船中八策をもじって命名しました。シェフパTが準備した昼食の食材は、龍馬にちなんで土佐の郷土料理、鰹飯。鰹の佃煮と刻み生姜をまぶしたご飯です。四万十川の川岩海苔も美味でした。お酒は、プロジェクト名にもある通り、青森の銘酒「田酒」の予定でしたが、高知の逸品、亀泉酒造のCEL-24(写真左。写真右は司牡丹酒造の「船中八策」)を持参しました。フルーティーでふくよかながら、キレのある「美しい」という言葉が相応しいお酒です。丁度1年前に不慮の事故で他界したM君の愛したお酒でもあります。
生憎の雨の為、八甲田山登頂は果たせませんでしたが、その分、温泉には湯当たりする程浸かることが出来、わずjかな時間でしたが、青森市内観光をすることも出来ました。最後、帰りの汽車を待つ間に訪れた「青い海公園」。京都から来たという初老のご夫婦が、アンプ付きのギターを掻き鳴らし、いわゆる路上ライブを行っていました。奥様が青森出身の方で、津軽海峡に向かって拓郎を歌ってみたかったとのことでした。「流星」をリクエストさせて頂き、暫し拓郎談議の後「イメージの詩」のフルコーラスを聴き終えてから、駅へと急ぎました。背中から僕らを送る様に「落陽」の演奏が。振り返る度に、大きく手を振ってくれて、その都度、音楽が途切れます。人生のディテールには、それ程多くは無いけれども、とてもおシャレで美しい一コマが用意されていたりします。

2012年6月13日水曜日

豪州戦 - 大荒れの因縁の対決?

両チーム合わせて7枚のイエローカード、2名の退場者。データだけみると殺伐とした「大荒れの因縁の対決」が想像されますが、汚いファウルはなく、極めてクリーンなゲームでした。この好ゲームに水を差したのが、サウジアラビアのカリル・アルガムディ主審(写真)。厳しくファウルを取ることで有名なレフェリーで、南アフリカW杯のチリ対スイス戦では、9枚のイエローカードを出し、1人の一発レッド退場者を出しています。また、今年3月23日に等々力で行われた川崎F対メルボルンのAFCチャンピオンズリーグでも、同様にイエローカード9枚、レッドカード2枚という大荒れのゲームを作り出しています。カードが続くと、どうしても「お返し」のカードを出しがちであり(内田のPKファウル)、選手も観客も過剰にカードを要求しがちになります(栗原退場のファウル)。レフェリーが大荒れの試合を自己演出してしまう結果となってしまう訳です。
そもそも、サッカーの競技規則はわずか17条。200近い項目が規定されている野球に比べ、いかにも大雑把です。ルールは選手のフェアプレー精神とレフェリーの主観に大きく委ねられています。だからこそ、毎試合黄色のフェアプレーフラッグを掲げ、試合前には選手達がフラッグにサインしてフェアプレーを誓約するわけです。問題は、レフェリーの主観部分。往々にして厳格すぎるレフェリーはゲームを壊しがちです。アルガムディ主審はその典型例で、ロスタイムに本田にFKを蹴らせなかったのは、本人にすれば、時計通り笛を吹いた勇気あるジャッジだったのでしょうが、ゲームのクライマックスに幕を引いてしまい、ドラマチックなゲームを台無しにしてしまったのは明らかです。W杯で笛を吹いた位ですから、一流審判であることは間違いないのでしょうが、今後の再犯(?)防止の為にも、日本サッカー協会としては、今回のジャッジ(特に内田のファウル)への異議をFIFAに提訴すべきだと思います。(オジェック豪州代表監督も「内田のプレーはファウルには見えなかった」と試合後のインタビューで語っています。)
主審の問題はさておき、序盤押されっ放しだった流れを引き戻して、最終的にシュート数で15
(豪州)vs13(日本)のほぼ五分に持込み、ボールポゼションも56%に引き上げた日本代表の復元力は評価すべきだと思います。ただ、豪州クラスのフィジカルの強いチームにプレスを掛けられると、パスの精度が落ち、ミスも出てくるということが確認されました。また、自陣ペナルティエリア内の高さ対策も課題として残りました。印象的だったのは、試合後、ザッケローニ監督も選手達も審判の判定には一切言及していなかったこと。アジア杯での中東の笛からわずかの期間で随分大人の対応に成長していました。このチームは、まだまだ成長しそうな予感がします。9月の最終予選再開時にどのように進化しているか楽しみです。

2012年6月10日日曜日

ヨルダン戦 ‐ 強さの秘密と一抹の不安

W杯アジア最終予選、初戦快勝の後の大事な一戦。相手は相性の悪いヨルダン。固くなり、慎重になってもおかしくないゲームですが、サムライブルーは、あたかも親善試合のようにリラックスしてゲームを支配し、得点を重ねました。6対0は掛け値無しの快勝であり、現在の日本代表の強さを実証した試合でした。日本代表史上最強チームとの称号に相応しい戦いぶりでした。不思議なチームです。主力は、北京五輪3連敗と惨敗した反町ジャパンのメンバー。エース本田は、まだまだ中田英寿の域には達していないと思いますし、岡崎も尊敬するゴン中山を超えるには至っていません。守備陣は、ドイツW杯のメンバーの方が安定していました。中盤も、名波・稲本・小野・俊輔の黄金のカルテットの方がタレント的には上。そんなフツーの男の子達のチームの強さはどこからくるのでしょうか。圧倒的なボールポゼションとパス回しを可能にしているのは、このチームの誰もが口にする「団結力」です。そして、それを支えているのが、個々のメンバーの様々なリーダーシップではないかと分析しています。まずは、キャプテン長谷部の正統派キャプテンシー。彼の存在が、チームに規律と信頼感をもたらしています。そして、本田の力づくの牽引力。長谷部とは違った意味でのリーダーシップです。彼の存在が、チームに力と勇気を与えています。影のコンダクター、遠藤の存在がチームに落着きをもたらし、香川・長友の海外での実績がチームの自信となっています。岡崎のひたむきさ、ムードメーカー今野、槙野の存在もチームのアクセントとなっており、一種のリーダーシップを発揮していると言えます。これらのリーダーシップがうまく噛み合い、個々のメンバーの力を増幅し、チームの強さの源泉となっているのです。ただ、不安が無い訳ではありません。複数のリーダーの存在は、チームが上り調子の際には大きな推進力となりますが、一度歯車が狂い始めると、チームを分裂させる原因となりかねません。それは、ドイツW杯本戦で日本代表に起こったことでもあります。もっとも、このチームの場合、北京五輪での挫折体験、南アW杯での成功体験を共有しており、チームとしての団結力が簡単には崩壊しない強みがあります。一抹の不安はヨルダン戦の5点目のPK。FW前田が得たPKですので、本来であれば、本人の前田がPKを蹴るところです。ハットトリックが掛かる本田に前田が譲った形でしたが、本田は前田に気遣うこともなく、最初からボールを離しませんでした。しかも、PKのシュートはゴール中央へのフワッとしたシュート。キーパーが足でクリア出来るボールでした。もし、クリアされていたら、日本代表に小さな火種が生じていたかもしれません。
ヨルダン戦でのもうひとつの発見は、ザッケローニの手堅さ。大量リードの後半。サポーターが宮市の投入を待ち望んでいることは、ザックも判っていたはずです。にも拘わらず、2枚目のカードは憲剛、3枚目は伊野波でした。吉田の負傷退場で、DFのバックアップを試す狙いと、レギュラーCB今野の温存を図ったものでした。豪州との戦いを見据えた冷静な采配でした。ジーコだったら、間違いなく宮市、ハーフナー投入だったと思います。

2012年6月4日月曜日

14番目の月 - オマーン戦

ブラジルW杯アジア最終予選オマーン戦、色々な不安は昨日書いた通り。しかし、それが全て杞憂に終わった快勝でした。
先発11人のうち国内組は今野、遠藤、前田の3人のみ。海外組の成長、経験値のアップを痛烈に印象づけられた一戦でした。まず驚いたのはシュートの正確性。シュート14本のうち枠内シュートが9本。3ゴールは決定率20%以上。しかも、先制点、本田のゴールは日本のファーストシュートによるもの。明らかにペナルティエリア内での落着き、精度が上がっていました。前半は、オマーンのゴール前で、パス回しのミニゲームの練習のような試合展開。目立っていたのは本田。ボランチからトップまで、まさにセントラルミッドフィルダーの動きでした。遠藤が気配を殺しつつ、本田の上下動の要所要所で壁になっていたのが印象的でした。
3点取った後は4-4-2のブロックを低めに形成して日本版カテナチオ。守備的システムも試し、落ち着いて試合を終わらせ、いかにもアジア王者の戦い方でした。結局、オマーンのシュートはクロス気味の1本のみ。ポゼションサッカーの完璧な勝利でした。
ひ弱だった反町ジャパンの北京世代は、海外での経験を糧に、この4年間で大きく成長しました。国内組サポーターも一層の精進が必要です。オマーン戦での課題を挙げるとしたら、ゴール前でファウルを取れなかったこと。レフリーに取ってもらえなかったのは、倒される際の一踏ん張りの粘りが足りなかったのが原因。これ位の課題があった方が、サポーターとしても応援のし甲斐があるというものです。折りしも、スタジアム上空には満月1日前の月(写真)が。ユーミンの歌が思い浮かびました。
♪次の夜から欠ける満月より 14番目の月が一番好き

2012年6月3日日曜日

ブラジルW杯アジア最終予選 ‐ 予兆

いよいよブラジルW杯アジア最終予選が開始されます。エース香川が絶好調、精神的支柱の本田が復帰し、李以外故障者もなく、チーム状態は万全といえます。日本代表史上最強チームとも称され、W杯出場は既定路線との空気も漂っています。楽観していいのでしょうか。
予兆という言葉があります。慶事の予兆は吉兆と呼ばれており、白鷺、彩雲などの前ぶれ、縁起物的で、因果関係に欠ける感があります。一方、凶兆はちょっとした悪い兆候が結果的に凶事に繋がる場合が多々あります。日本代表凶兆その1。ACL惨敗。かつて浦和、G大阪でACLを連覇した時の勢いが日本のクラブチームにはありません。アジア勢の日本チーム対策は急速に進んでいます。凶兆その2。G大阪の不振。ゲームのペースを変えることが出来る遠藤の存在は代表にとって不可欠ですが、彼のもう一つの魅力は卓越した危機察知能力です。これはザックジャパン不動のCB今野にも言えることです。不安材料は、2人の属するG大阪が不振を極めているということ。しかも、守備が崩壊して、敗戦を重ねているのです。G大阪で起こっていることが日本代表では起こらないと言い切れるでしょうか。欧州CLでのチェルシーの優勝も不吉です。日本代表が男女とも目指すのはポゼションサッカー。しかし、欧州を制したのは、チェルシーの極めて守備的なカウンターサッカーでした。グアルディオラもバルサを去るし、ポゼションサッカーの潮流の潮目が変わりつつあるのでは?不安を挙げたらキリがありません。若きサムライブルーが、これらの不安を杞憂に終わらせてくれることを期待したいと思います。トルシエジャパンの海外組は6名でした。「海外で戦う選手が20名を超えたら日本代表はめちゃくちゃ強くなる」当時のトルシエ監督の予言です。現在、欧州主要リーグに所属する日本選手は22名。吉兆かもしれません。ザッケローニ監督は言っています。「簡単な試合はひとつもない」と。楽観も悲観もなく、一試合一試合に集中して選手と共に戦いましょう。

2012年5月28日月曜日

バラの恋人

サントリー烏龍茶のCM。宮崎あおい扮する綺麗なお姉さんにほのかな恋心を抱く少年。毎朝出会う坂の上の横断歩道で、少年は思い切ってバラの花束を渡そうとしますが、お姉さんにすっとかわされてしまいます(フェイント篇)。翌日少年はすれ違いざまに花束をお姉さんに放り投げます。思わず受け取めて「困った子だな」とつぶやくお姉さん(パス篇)。BGMで流れているのがザ・ワイルドワンズの「バラの恋人」。1968年のヒット曲です。実力派ながら華やかさに欠けていたザ・ワイルドワンズがジュリー、ショーケンに対抗するアイドルとしてチャッピーこと渡辺茂樹を加入させ、そのヴォーカルデビューがこの曲でした。「♪いつでも逢うたびに 君の返事を 待ってるのに また今日も いつでも逢うたびに 君のひとみを 見つめるのに わからないの」もどかしく、切ない歌詞ですが、それでいて恋の成就を予感させるところに、昭和の香りが漂います。写真は、ホームパーティにご招待頂いたNさんのお庭のバラです。毎年バラが盛りを迎えるこの時期にお招き頂いていますが、今年は特に色鮮やかな大輪の花をつけているように感じました。肥料に改良を加えて、今年はなかなかの出来栄えとのことでした。手間をかけないと綺麗な花が咲かないのがバラで、綺麗なバラほど大事に育てないと花をつけてくれません。写真の中央に薄紫のバラが一輪俯きがちに咲いていますが、とても弱くて難しい花だということでした。如何にも繊細で気品漂う青みがかった薄紫の可憐な花でした。「♪髪がゆれて バラのくちびる すねてるようなとこも 好きなのさ」

2012年5月24日木曜日

オレンジの残像 ‐ アゼルバイジャン戦

FIFAランキング109位のチームとの調整試合。先発は海外組9名の殆どぶっつけ本番状態。海外組はシーズン終了直後のリラックスモード期間。一昔前の代表だったら「サムライブルー空回り。格下相手にスコアレスドロー。W杯最終予選に暗雲」との翌日の新聞見出しを試合前から覚悟せざるを得ないシチュエーションでした。ただ、今回は明らかに違いました。選手の勝利にこだわり、ゴールへの高い執着心が明らかに感じられました。海外組の最大の成長は、この意識改革かもしれません。そして、戦術への高い共通理解と実践。昔は、練習を通じての醸成を目指した「オートマティズム」と呼ばれていたものです。これがごく自然に実現出来るというのは、日本代表というチームの暗黙知が確実に向上し、強さのステージが上がったことを実意味しています。2-0のスコアはややもの足りないものの、最終予選に向けてのいい調整になったと思います。
今回の試合の最大の驚きは、アゼルバイジャン代表監督のベルティ・フォクツ。TVでは元ドイツ代表監督との紹介でしたが、私にとってみると「1974年西ドイツW杯決勝でクライフを抑えきった西ドイツのディフェンダー」です。ベッケンバウアー率いる西ドイツ対クライフ率いるトータルフットボールのオランダとの決勝。オランダが開始2分で西ドイツにボールを触れさせることなくPKを獲得して先制しますが、その後、西ドイツはフォクツをクライフのマンマークにつけ、クライフの動きを完封。ミュラーの逆転弾でオランダを粉砕し、開催国優勝を飾ります。フォクツは、クライフがピッチの外で靴ひもを結び直す間もタッチライン上でマークを続けていました。
当時のオランダ代表は、ポジションが流動的に変化する画期的なシステムを実践し、「トータルフットーボール」「未来のサッカー」と呼ばれていました。その中核にいたのがスーパースター、ヨハン・クライフ。そして、彼が監督を務めて築き上げたのが、FCバルセロナのスペクタクルな攻撃サッカーです。オランダ代表でのクライフのポジションは4-3-3のセンターフォワードでしたが、多くは中盤に位置し、時にはディフェンスラインまで下がり、機を見て最前線に駆け上がるというポジション取りで、結果として、システム的にはゼロ・トップとなっていました。今回の試合の本田の復活で、トップ下は本田か香川かとの議論がマスコミを賑わしそうですが、ゼロ・トップというオプションもあるのではないでしょうか。つまり、岡崎・宮市をウィングに配し、真ん中は香川と本田を縦に並べ、その上下を流動的に入れ替えるというものです。本田と香川にクライフになれというわけです。奇しくも日本代表の練習着(写真)がオレンジ色になりました。クライフやニースケンスのオレンジの残像を、ついついダブらせたくなってしまいます。

2012年5月6日日曜日

カーネーション

「母の日を 待たず召されし 空は眩く」
母が逝去しました。享年84歳と天寿を全うした生涯でした。しかし、半生は病気との闘いで、天寿を全うできたのは、本人の愚直なまでの生きることへの努力と多くの方々の支えの賜物だったと思っています。最期も、危篤状態に陥ってから、半日頑張り続けました。心臓は、リズムを失いながらも早鐘のような鼓動を繰返し、人工呼吸マスクの中で、喘ぐように必死に酸素を吸い込もうとしている様は痛々しいものがありました。見るに見かねて、父は耳元で「よう頑張った。もう無理せんでいいよ」と繰り返していました。
母は、日本統治下の台湾で生まれ、海軍関係の技術者の娘として、比較的恵まれた少女時代を送っていましたが、敗戦により、全てを失い、着の身着のままで日本に引き揚げてきます。引揚げ直後に一家の大黒柱である父をも失い、家族7人のそれ以降の苦労は想像に難くありません。結婚後もいくつかの病や怪我に悩まされ、決して、平坦な人生ではありませんでした。しかし、そんな苦労が顔に表れない人でした。いつも穏やかな笑顔をたたえ、寡黙ではありましたが、何故か人から慕われる人でした。実直そのもので、最後までやり遂げなければ気が済まない性格でした。最後の最後まで頑張り抜いて、自らの生き方を貫き通した生涯でした。立派な一生であり、親孝行出来なかったことを悔いつつも、母はきっと幸せな生涯だったと振り返りながら、旅立っていったと信じています。
最近、「幸せは『なる』ものではなく、『気づく』もの」という言葉に出会いました。母を偲びつつ、改めてこの言葉を噛みしめています。

2012年4月21日土曜日

Johor Bahruにて - 15年の重み

1964年開場、1991年に観客席改修工事を行い、収容人数は15,000人から30,000人に。現在は、マレーシアサッカーリーグ2部ジョホールFAのホームスタジアム。傾いたコーナーフラッグ、止まったままの電光掲示板の時計、錆びついた観客席の椅子、青空を映す水たまり、荒れたピッチのあちこちに生える雑草・・・。唐突に芭蕉の句が浮かんできました。「夏草や 兵どもが 夢の跡」このLarkin Stadium(写真)で日本代表がW杯への扉を開いたのは、1997年11月16日のことでした。あれから15年。晴天の霹靂で代表監督に就任し、W杯初出場を成し遂げた岡田監督は、オシム監督のリリーフとして再登板し、南アで見事予選リーグ突破を果たしました。今は中国スーパーリーグで杭州を率いています。3アシストで勝利の立役者となった中田英寿は、本大会でも一人輝きを放ち、世界への階段を駆け上りました。引退後は世界中を旅しながら様々な慈善活動に携わり、東ハト執行役員、FIFA親善大使にも就任しています。2010年にはダボス会議のヤング・グローバル・リーダーズに選出されています。再三の決定機をふいにしながらも、最後は文字通り値千金のゴールデンゴールを決めた岡野雅行は、香港リーグを経て、今でもガイナーレ鳥取で髪をなびかせながらピッチを疾走しています。後半城彰二と共に投入された呂比須ワグナーは、ブラジルで指導者の道を歩み、昨年末ガンバ大阪の監督に就任する予定でブラジルから戻ったものの、ライセンス問題の為セホーン監督の下ヘッドコーチに就任。しかし、公式戦5連敗で解任。わずか3ヶ月の日本滞在後、傷心のブラジル帰国となりました。15年間に選手一人一人にそれぞれ様々な人生があり、様々な出来事があったことは、自らの15年間を振り返れば当然のことではあります。
スタンドを吹き抜ける湿っぽい風に乗って、FIFAのアンセムと山本浩アナの名調子が蘇ってきました。「スコールに洗われたジョホールバルのピッチの上に、フランスへの扉を開ける一本の鍵が隠されています。ラルキンスタジアムのこの芝の上で、日本代表はその鍵を、必ず見つけてくれるはずです。」(出張先で立ち寄ったスタジアム。外から写真を撮っていると、関係者らしき方が中に招き入れてくれました。「日本人にとってはW杯出場を決めたHistorical Placeだ」と説明しても、それがどうしたという感じでした。)

2012年4月16日月曜日

Project Whisky 2012

4月14日、韮崎は雨でした。2010年の雪の置賜(おきたま)桜街道をはじめ、ここ数年秘湯の会のお花見プロジェクトは天気に祟られます。今回のプロジェクト名Whiskyは「W(わにづか:王仁塚)の桜を愛で、H(ほうとう)を食しに、I(いろどりパノラマ号:お花見列車)で行く旅。併せて、S(しんでん:神田の大糸桜か、さねはら:眞原桜並木)からK(甲斐駒ケ岳)とY(八ヶ岳)を望む」という趣旨から命名しました。「熟成」した大人の旅を楽しむという想いもこめられています。「熟成」がキーワードです。還暦を越えたM会長を筆頭にN隊長、シェフパTも共に「知命」の年代に入り、文字通り、熟成の季節(とき)を過ごすメンバーです。
雨にも負けず、風にも負けないのが、大人の旅の基本。電車の窓を打つ雨をものともせず、朝からチーズ鱈をツマミにシーバースの水割りで、熟成の階段を登ります。ほろ酔い気分で雨傘越しに見上げる王仁塚の一本桜は、まだ八分咲き。小振りながらも濃いピンク色の花をぎっしりとつけていました。先週の春の嵐にも耐え、花散らしの雨にも負けず、濡れそぼりながらも、凛とそびえておりました(写真左下)。それにひきかえ軟弱な我々は、雨宿り先の神社の軒先で花見の宴を兼ねて昼食を取った後、花冷えを避けて早々に近くの白山温泉に退散。
弱アルカリ性美人の湯に身を浸し、体の隅々まで弛緩させ、まどろみながら、ふやけた脳で考えました。熟成は、自然の摂理に抗(あらが)い、耐えるところから始まります。この抗いがなければ、ただ朽ち果て、腐敗していくのみです。ただ、ある時から、それは、自然に身を任せ、一体化していくことで、熟成が進んでいくのではないかと。樹齢300年のエドヒガン桜が教えてくれます。辺り一面野原の中にこんもりと土盛りされた古代の墓標である王仁塚に、しっかりと根を張り、枝を広げた一本桜にとって、風雪は殊の外厳しいものです。しかし、その厳しさに耐えつつも、時には伸びすぎた枝を折り、早々と花を散らすことにより、年輪を重ねてきたのです。開花が多少遅れようが、花の色が多少褪せていようが、毎年、花をつけ、そして、散らしていく綿々とした営みが大事なのであり、風雪に抗い続けるのではなく、時にはそれを受入れ、それと一体化していくことが、熟成なのかなと・・・。我々、秘湯の会の面々は、今、「熟成」のどの辺りにいるのでしょうか。プロジェクト名後半のSKYは文字通り雨天の為、果たせなかったものの、それはそれ。「熟成」を考えさせられたことで、Mission Accomplished!!

2012年4月4日水曜日

セルジオ越後の辛口比較文化論

セルジオ越後、元プロサッカー選手、現「辛口」サッカー評論家。日系二世のブラジル人。18歳で名門コリンチャンスにテスト入団するも、23歳で一時現役引退。その後、当時社会人リーグ(JSL)に所属していた藤和不動産(現・湘南ベルマーレ)の誘いで来日。2年間の在籍期間で40試合出場6ゴール。引退後は、少年サッカー教室を全国各地で開催し、延べ50万人以上の少年少女を指導しています。4月2日、そのセルジオ越後のトークライブに参加してきました。テーマは写真の通り。相変わらずの辛口で、それぞれの日本代表を切り刻みます。まず、なでしこ。前日の米国戦を両チームともコンディションが悪く、お互いミスだらけの凡戦とバッサリ。米国のワンバックに至っては「体のキレを失い、『普通のオバサン』だった。」「なでしこはやはり沢の不在が大きい。代役の宮間は良かったが、左サイドでしか機能していない。中央でタメを作り、守備と攻撃のスイッチ役になっていた沢とはそこが違う。それに宮間の場合背が低い為守備に不安が残る。」U-23については、当然オーバーエイジ枠を使うべきだと。一押しは闘莉王。彼が入れば、怖い兄貴が来てチームに緊張感が生まれるし、競争意識を煽ることになる。ちなみに注目の香川は、「五輪とW杯予選両方への召集につき所属クラブの了承を得ることは難しいので、日本サッカー協会はW杯予選を優先するだろうから、五輪メンバーには選出されないだろう。」(サッカーキング岩本氏)ということです。そして、A代表(セルジオ的には「全日本」)。「強い相手とやっておらず、いきなり最終予選というのはかなり心配。遠藤が良くないが、その後継者が育っていない。遠藤が復調しないと、かなり危ない。」
といった具合に、面白いサッカー分析が聞けたのですが、それ以上に興味深かったのが、彼が語る日本社会批判。彼の批判の中心は日本の学歴重視社会とアマチュアリズム。「尾崎が三菱重工を辞めてドイツに渡ったのは、三菱重工サッカー部にいる限り、給料は大卒の補欠選手の方が上だったから。」「カズがブラジルで成功したのは、日本に帰っても高校中退では就職先がないので、必死だったから。」「日本人のアスリートには自営業の子供が多い。将来の職場が確保されている子供しか安心してスポーツに打ち込めない。」「関塚監督は何のノルマも課せられていない期間契約。報酬も安い代わりに責任もない。そもそも雇い主の日本サッカー協会がプロ意識に欠け、甘過ぎる。」等々。彼自身東京五輪のブラジル代表候補に選出されながら、五輪出場の栄誉を捨てて、プロ契約を締結。しかし、プロ選手でも金を稼げるのはごく一握りで、引退後の生活の保障がないことを知り、23歳で引退。藤和不動産のオファーを受けたのも、仕事を覚えながらサッカーが出来ると考えたからです。プロの厳しさを知っており、自らプロとアマチュアの間を行き来した経験から、日本の現在のプロ意識の低さ、甘さがもどかしく、我慢ならないのでしょう。そんな背景を念頭に置いて、彼の辛口解説を聞いてみると、また、味わいが変ってくるのではないでしょうか。

2012年4月2日月曜日

なでしこ桜五分咲き

写真は再来週お花見に行く予定の韮崎・王仁塚の一本桜です。毎日の開花状況を伝えるサイトから転用させて頂きました。まだ、固い蕾の状況ですが、ここ1週間で開花し、再来週はもう葉桜になっているのではないかと心配です。一方で、仙台で咲き誇ったなでしこ桜。またもや、米国と名勝負を繰り広げてくれました。この両チームの戦いは、本当に噛み合って、サッカーを堪能させてくれます。川澄ちゃんのあの浮き球のアシスト、メッシが入っていました。いくつかあったチャンスの一つを決めていたら、文句なしのヒロインだったんですが、まだまだ本調子ではないということでしょう。米国は、パスサッカーを意識していました。パス回しにぎこちなさはありましたが、なでしこのお家芸だったトラップしたボールを相手の反対側に置く技術を身につけつつあります。各国がW杯で世界に衝撃を与えたなでしこのパスサッカーを模して、サッカースタイルを変えてくれれば、本家なでしこの五輪での優勝確率はむしろ高まると考えていましたが、米国の進化のスピードは予想以上でした。中盤のパス交換でなでしこを引きつけておいて縦のロングフィードを通すような戦い方をされるとやっかいです。しかし、なでしこはそれ以上に進化していました。前への意識がチームに浸透し、美しさに危険な香りが加わって、本当にセクシーなチームになってきました。それでいて、まだまだ伸び代を感じさせ、五分咲きといったところでしょうか。仙台のサポーターに白星はプレゼント出来ませんでしたが、被災地に大きな勇気を与える堂々たる戦いぶりでした。そして、何よりもナイスゲームでした。

2012年3月26日月曜日

田中達也ストーリー

「達也引退」と言っても、我が家の愛車達也号(写真)の引退です。浦和の田中達也選手が代表デビューした当時に購入し、「達也号」と名付けました。本人同様小さな体で切れ味鋭く動きまわり、よく頑張ってくれましたが、終始、怪我(擦り傷、へこみ)に悩まされたのも本人譲り(?)でした。7年間の酷使で、さすがにガタがきたようなので、かなり気にいっていたのですが、買い替えることにしました。最初に乗った赤いシティ以来ホンダ製の車一筋でした。その中でも、このジャパン・ブルーのシビックは一番思い入れのある車でした。週末の富士へのラストランも良く走ってくれました。ホンダの国際戦略車だったシビックも、国内向け生産は既に2年前に終了し、38年間の歴史に幕を閉じています。我が家の愛車の引退も時代の流れと言えます。後継は、2012年代表ユニフォームカラー、ディープブルー(赤線は入っていません)の「(香川)真司号」となり、今週末納車の予定です。
さて、田中達也。大好きなプレーヤーです。山口県から名門帝京高校にサッカー留学し、入学当初は、周りの選手と自分の能力の差に絶望感を味わったと語っています。全国から集まったエリート集団の中で、小柄な体故に劣等感に苛まれたことは、想像に難くありません。しかし、彼は、得意なドリブルに活路を見出そうと日々ドリブルの練習に励み、2年時にレギュラーを獲得し、エースとして、チームを高校サッカー選手権準優勝に導いています。2001年浦和レッズ入団。2003年ナビスコ杯MVP、ニューヒーロー賞ダブル受賞。2004年アテネ五輪代表を経て2005年からA代表に召集、と順調すぎるステップアップでしたが、小柄なドリブラーの宿命で、ファウルを受けて負傷することも多く、2006年以降は怪我の治療などでシーズンの半分以上を欠場しています。期待されてのA代表デビューを考えると、国際Aマッチ16試合出場、3得点の記録は残念でなりません。メキシコ五輪当時の杉山隆一以来、好きなプレーヤーは、小柄でスピード豊かなウィンガータイプでした。吉原宏太、坂田大輔、石川直宏、佐藤寿人、田中達也・・・。消えていった日本代表スピードスターの系譜でもあります。そして、ダイナミックな攻撃が身上の浦和レッズでさえパスサッカーを志向し、コンパクトな守備が全盛の時代、ドリブラーが輝きにくい状況にあることも確かです。その中で、FC東京の石川が復活しつつあります。一人ワンツーのような球足の長いドリブルでピッチを切り裂く様は、デビュー当時からのファンとして爽快そのものです。田中達也にも輝きを取り戻して、代表に復帰し、石川とともに、後半25分のジョーカーとして活躍して欲しいと願っています。

2012年3月21日水曜日

I am the Walrus - サイケデリック・ロックの金字塔

The Beatlesの"I am the Walrus" はTV映画Magical Mystery Tourの挿入曲です。写真のように4人がセイウチなどの着ぐるみをまとって、野外で歌っています。Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Bandなど中期のBeatlesのアルバムにはサイケデリック・ロックとよばれる曲が多数含まれていますが、その中でもこの曲は特にサイケデリック色の強いナンバーです。ちなみに、サイケデリックとは、「LSDなどの覚醒剤によってもたらされる様々な幻覚、極彩色のぐるぐる渦巻くイメージやペーズリー模様によって特徴づけられる視覚・聴覚の感覚」の形容表現とのことです。その独特の浮遊感と超現実的な音作りを基調としたのがサイケデリック・ロックです。このI am the walrusは、メロディーもさることながら、歌詞も強烈です。冒頭の「♫I am he as you are he as you are me and we are all together. 」から既に幻覚症状。歌詞に出てくる"Eggman"はルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』に出てくるハンプティ・ダンプティを連想させるので、タイトルのWalrus(セイウチ)も同作品に出てくる「セイウチと大工」からとられたものだとされています。また、「Goo Goo g' Joob」は「Good Job」とセイウチの鳴き声をかけたものと言われています。この辺りまでは、まだ、幻覚的とはいえ、作為性のある歌詞ではあります。2番の出だしの「Sitting on a cornflake, waiting for the van to come. 」は、面白い情景ですし、、3番の歌詞にある「Lucy in the Sky」はまさにご愛敬。まだ、正常な思考回路が残っている感があります。しかし、4番は、一転して書くもおぞましいグロテスクな歌詞となり、まさに幻覚・幻聴の世界。その意味ではサイケデリック・ロックの金字塔をなす作品かもしれません。ポールも、自伝『Many Years From Now』の中で、この曲をジョンの最高傑作の一つと称賛しています。5番は、「英国風の庭で太陽が昇ってくるのをまっている。太陽が昇ってこなければ、英国の雨に打たれて日焼けをすればいい。」ととても幻想的で情緒的な歌詞。個人的にはとても好きな情景描写です。エンディング付近は、イワシがエッフェル塔をよじ登ったり、ペンギンがヒンズー教の聖歌を歌ったり、エドガー・アラン・ポーが蹴飛ばされたりと、ナンセンス・フラッシュのオンパレード。確かにしらふでは書けない歌詞ではあります。
それにしても、終盤にグッとせり上がってくるような、押し寄せてくるようなリフレインは、この曲の真骨頂です。実は、この曲のレコーディングの数日前の1967年8月27日に、デビュー以来のマネージャーであったブライアン・エプスタインが死亡しています。この曲の圧倒的な迫力は、エプスタインに捧げる惜別の叫び故かもしれません。「♫ goo goo g'joob g'goo goo g'joob」

2012年3月15日木曜日

祝! ロンドン五輪出場決定

国立では日の丸の小旗が揺れていました。通常は入場の際に配布される青いボードを掲げて、スタンド全体を青く染めるのですが、今回の日の丸は、代表サポーターが用意し、配布したものでした(ちなみに、最近入場時に配布されるのは代表エンブレムの携帯クリーナー)。ゴール裏サポーター席で一斉に日の丸の小旗がうち振られる光景は、昭和の応援風景を彷彿とさせるものがありました。私がスタジアムでの代表応援デビューしたのは、36年前のことだったと思います。帰省先の富士から日の丸の旗を担いで、東海道線の鈍行で国立に向かいました。前々年に初めてライブ中継されたドイツW杯で聴いたチアホーンに模した自転車のクラクションホーンを片手に。モントリオール五輪予選でした。結果は、韓国に0-2の完敗。五輪への道を絶たれました。
さて、ロンドン五輪アジア予選最終戦。「もっと点が取れた」という不満の声もありましたが、五輪出場権獲得というゴールをしっかりと見据えた安定した戦いぶりだったと思います。前半は無理して最終ラインを押し上げず、ロングフィードを多用したセーフティな試合運び。危ない場面もありましたが、ボール保持率70%が示している様にゲームをしっかりと支配していました。後半の2ゴールは一気にトップギアにシフトしての得点。シュート自体もワールドクラスの素晴らしいものでしたが、じっくりと機をうかがっての計算ずくのゴールというところが評価されるべきでしょう。2点取った後は、
ギアを戻して、安全運転に。シリア戦の敗戦を経て、一回り成長した大人の戦いぶりでした。2000年のシドニー五輪以来、国立で五輪出場権獲得を見届けるのは4回目になりますが、この年代は、予選の戦いを通じて急速に逞しくなります。関塚監督が作り上げたこのチームの最大の強みは、その団結力にあります。個性が強く、個としてチームから浮いてもおかしくないキャラクターの原口や大津もしっかりと包み込むチームとしての包容力が強さの源泉となっています。五輪本戦では、この関塚ファミリーに、これまで召集していない海外組の香川、宇佐美、宮市らをどうフィットさせていくか、あるいは、長友、遠藤、本田らのオーバーエイジ枠を活用するのか、悩ましい問題ではあります。
試合終了間際に、アジア予選前半キャプテンとしてチームを牽引してきた山村をピッチに送り出したのは、関塚監督ならではの配慮でした。そして、試合終了後、権田が照れて逃げ回る山村をつかまえて、その左腕にキャプテンマークを巻くシーンが大型ビジョンに映し出されていました。昭和の学園ドラマのワンシーンのような光景に思わずホロリとしてしまいました。U-20 世界大会への出場を逃した「谷間の世代」ですが、更に強くなって、ロンドンで輝いて欲しい好感のもてるチームです。(写真は、試合前、大旗を振るサポーターをバックスタンドのトラック上に整列させ、代表にエールを送るという初めての試みのシーン)

2012年3月8日木曜日

アルガルベ杯決勝 ‐ 川澄ストーリー

アルガルべ杯決勝。準決勝米国戦は玄人好みの名勝負でしたが、決勝戦は、サッカーの面白さを満載した素晴らしいゲームでした。前半は、連戦の疲れからか、なでしこの動きが鈍く、間延びした布陣の間を突かれて、ドイツに押されっぱなし。大きく蹴り返しては、拾われ、波状攻撃を受けるという最も悪い流れで、2失点はやむを得ない展開でした。その流れを変えたのが、前半35分の川澄の冷静なゴール。この1点でなでしこは完全に落着きを取り戻しました。後半はなでしこペース。守備の底からショートパスでしっかりとビルドアップして攻め上がってくるなでしこに、今度はドイツが蹴り返すだけの展開になってしまいました。こうなれば、同点・逆転は時間の問題と思って観ていましたが、さすがに相手は追い詰められれば追い詰められる程底力を発揮するゲルマン魂のドイツでした。最後はミラクルゴールで突き放され、優勝には手が届かなかったものの、なでしこの進化を実感させてくれた大会でした。さて、反撃の狼煙をあげた川澄ちゃん。157cm、??kg。ドイツのDF陣とは20cm近い身長差。その体格差をもろともせずに、ドイツの重厚な守備陣をスピードとテクニックで切り裂きます。そのプレースタイルは、爽やかな笑顔とともに、とても好感が持てます。この試合右サイドバックで先発したDF有吉は日体大の2つ下の後輩。大学4年時、川澄は右膝前十字靱帯断裂の苦難を克服していますが、その2年後、有吉もまた左足前十字靱帯を断裂しました。その時、有吉のもとには1つの大きな段ボールが送られてきました。中には川澄自身が使っていたサポーターなどリハビリ用品と1冊の詩集。川澄がリハビリ中に読み、共感した詩を手書きでつづったものでした。有吉は「自分にも他人にも厳しい先輩だったけど、ナホさんがいたから私もがんばれた。今日は同じピッチに立ててうれしかった」と語っています。また、2点目を決めた田中選手とルームシェアしながら、慎ましい生活を送っていることは、有名です。昨年末表紙を飾ったanan(写真)で、W杯優勝で一変した現在の環境に先ずは感謝し、感謝の気持ちがパワーの源泉になっていると語っています。そして、インタビューの最後は「10円安い野菜を見つけてもすごく幸せになれるんで、『安い女だな』とも思うけど、それだけ幸せの数が多いから、本当に幸せな人間だと思います」という言葉で結ばれています。昨年のアルガルベ杯で代表初ゴールを含む2ゴールをあげ、代表定着を果たしたシンデレラガールが、今大会では、代表のエースとして活躍していました。小学校時代に沢の膝の上に乗せてもらって写真を撮って以来、沢に憧れてサッカーに打ち込んできた少女が、感謝パワーで沢不在の穴をしっかりと埋め、明日のなでしこの姿を示してくれました。

2012年3月6日火曜日

なでしこ米国戦 ‐ 平成名勝負数え唄

アルガルベ杯は、ポルトガル南部アルガルべ地方で毎年開催される女子サッカーの国際大会です。FIFAの管轄外大会ですが、女子サッカーでは五輪・W杯に次ぐ権威ある大会とされています。日本は昨年初参加し、グループリーグで米国に敗れ、決勝進出を果たせませんでした(3位決定戦でスウェーデンを破り、3位)。今年も決勝進出を賭け、同じく米国との因縁対決。W杯決勝で米国を破ったとはいえ、PK戦での勝利ですので、公式記録上は引分け。これまでの対戦結果は日本の0勝4分21敗ということになります。記録的には圧倒的に不利な相手に、体調不良の沢を欠く陣容。当然、前半は押し込まれ、守備に追われる展開を予想していましたが、なでしこは期待を大きく上回る成長を遂げていました。DFからしっかりとワンタッチのショートパスを繋いでビルドアップし、圧倒的にボールを保持ながら、ゲームをコントロールします。これに対して米国はロングフィードの大きな展開からパワーとスピードで日本の守備陣を切り裂き、日本ゴールを脅かします。お互いの持ち味を十分出し合った手に汗を握る好ゲーム。前半45分はあっという間に過ぎ去りました。後半も一進一退のゲーム展開に佐々木監督が動きます。後半20分に3人同時の選手交替。その大胆采配に一瞬唖然としましたが、FIFA公式試合ではないので、6人まで交替可と聞いて、納得。更にボランチ阪口に変えてFW菅沢投入。高瀬をFWからボランチに下ろすポジションチェンジ。1点リードのロスタイム終了間際には選手交替でしっかりと時間を稼ぐ冷静さ。米国相手の大勝負ながら、しっかりと選手を試し、フォーメーションを試す心憎い采配に、佐々木監督の更なる進化を感じました。相手にボールを回され、ボールを追いかける展開は、ボディブローの様に米国の選手から体力を奪います。後半途中から米国は完全に足が止まってきました。2列目以降の押上げが出来ず、折角サイドを崩しても中央に厚みを欠き、シュートに結びつきません。そして、高瀬のゴール。圧倒的に高さに勝る米国相手に、バックステップでマークを外すという技ありで空中戦を制してのヘディングシュート。見事でした。GKソロの反応も鈍く、GKまで足に来ていたようでした。
かつてのプロレス黄金期に「俺は藤波の噛ませ犬じゃない」との発言に端を発した藤波辰巳対長州力の一連の因縁対決があり、古舘伊知郎により「平成の名勝負数え唄」と命名されていました。剛対柔、パワー対テクニック。ロングフィード対ショートパス。コントラストに溢れ、サッカーの魅力満喫の米国対なでしこの対戦は、W杯ドイツ大会以降まさに「名勝負数え唄」に相応しいゲーム内容です。米国も雪辱を期して、ロンドンに乗り込んでくるはずです。五輪女子サッカー決勝で、両チームがどんな数え唄を奏でてくれるのか、期待せずにはいられません。

2012年3月3日土曜日

The Monkees - RIP, Davy

ちょっと前のことになりますが、出張先のホテルのTVでCNNを映していたら、The MonkeesのDavy Jones(写真右下)が2月29日フロリダの自宅で心臓発作で亡くなったというニュースが流れてきました。Micky(写真中央上)がスタジオでDavyとの思い出を語っていました。享年66歳。突然の、そして早すぎる死でした。Monkeesは米国版Beatlesを目指して、メンバーを公募して結成されたグループです。1966年に「Last Train To Clarksville(恋の終列車)」でデビューすると同時にTVで「The Monkees Show」が放映され、メディアミックス戦略が功を奏して一躍スターダムにのし上がりました。グループのイメージとメンバーのキャラクターを徹底するなど、米国商業主義がプロデュースした「作られたアイドル・グループ」の傑作でした。TV番組のオープニング曲「モンキーズのテーマ」で「♪僕らは行きたいところに行く やりたいことをやる 休んでいる暇なんてないさ いつも新しいことはあるんだ」と歌っていますが、その歌詞の通り、どこまでものんきで、底抜けに明るく、悩みとは無縁のアイドル・バンドを演じたグループでした。米国では折しもベトナム戦争が泥沼化し、反戦運動が激化していました。ウッドストックで伝説のロック・フェスティバルが開催されたのもこの時期です。ヒッピーに支持されたカウンター・カルチャーが音楽界でも主流になっていく中で、モンキーズはその対極に位置し、あくまで古き良き米国を象徴する存在でした。中学生だった当時、モンキーズに魅了され、「ザ・モンキーズ・ショー」を欠かさず見ていたのは、楽曲の素晴らしさもさることながら、彼らの「作られた生き方」への憧れが大きかったと思います。(カミングアウトすると、当時はビートルズよりもモンキーズが好きでした)
写真は、代表曲「Daydream Believer」(日本では忌野清志郎がカバーし、カップ麺などのCMで流されていた)のレコードジャケットです。このジャケットでもメンバーのキャラクターが一目瞭然で、いかにもモンキーズです。この曲は、「♪6時の目覚ましが鳴らなければいいのに でも鳴ってる そして僕は起きる 楽しい時を過ごしていても それはいつか終わる 夢想家(Daydream Believer)の彼と学園祭の女王(Homecoming Queen)の彼女には それが判っているのかな」と歌っています。この歌詞が暗示していた通り、モンキーズのDaydreamは長くは続きませんでした。68年にはPeter Tark(写真左下)が、69年にはMike Nesmith(写真左から2番目)が脱退し、1970年、結成してから4年でモンキーズは解散しています。ザ・モンキーズ・ショーのエンディング曲は「自由になりたい」だったと思います。「♪自由になりたい 青い鳥のように 青い海の波のように 君の愛が僕を束縛するなら そんなことしないで さよならしよう」Davyがブランコに乗って歌っていたような記憶が。冥福を祈って、合掌。Rest In Peace, Davy.

2012年3月2日金曜日

Kopi Luwak - サッカー代表戦

インドネシアのコーヒーといえば、トアルコ・トラジャコーヒーが有名です。トラジャコーヒーは、第二次大戦前はオランダ王室御用達に指定されるほど評価の高いコーヒーでしたが、戦後のインドネシアの独立に伴い、オランダ人が去った為、衰退。それを再興させたのが、日本企業キーコーヒーでした。キーコーヒーは「幻のコーヒー、トアルコ・トラジャ」とのキャッチコピーで販売しています。そのトラジャ以上に希少価値が高いのが、コピ・ルアク。ジャコウ猫の糞から採れる未消化のコーヒー豆を焙煎したものです。バリ島のコーヒー農場で試飲する機会に恵まれました。雌のジャコウ猫から採れる豆は平べったくてカフェインが高く、雄のは豆が丸くて味が濃い。左が雌、右が雄から採れたコーヒー。でも、真ん中奥のシャーベット状のアイスコーヒーが一番美味しかったように思います。ちなみに豆のお値段は100g約1万円也!! ジャコウ猫腸内の消化酵素によりコーヒーに独特の香味が加わるといわれており、コーヒー豆の香りはかなり魅惑的でしたが、味の方は多少クエッションでした。
さて、男女日本代表2連戦の29日は、出張先の米国フェニックスにおりました。「日本代表ウズベキスタン戦ライブ中継」と銘打たれたユーストリームをネットで視聴する為に夜中に起きましたが、パブリックビューイングのライブ中継で、ピッチの映像は一切無し。お笑い芸人が画面を眺めながらひたすら「イケー」「惜しい」「危ねえ」と絶叫。さすがにあほらしくて、途中で寝ました。でも、他のゲストが大量点での勝ちを予想する中で、次長課長の河本は、0-1での日本の負けもあり得ると予想しており、ちょっと見直しました。後でYouTubeのハイライトだけみると、日本も決定機を再三作ったものの、ウズベキスタンの絵に描いたようなカウンターに沈んだゲームのようです。香りはそこそこだが、味はイマイチといった試合でした。ただ、これで北朝鮮戦に続き、2連敗。さすがに問題です。一方、なでしこは、先行されながらも、泥臭く逆転勝ち。これが、W杯Best16のチームと世界を制したチームとの違いでしょう。

2012年2月23日木曜日

U-23 マレーシア戦 - 赤いラインの意味は?

U-23五輪アジア最終予選マレーシア戦。原口の再起戦となるとともに、日本代表新ユニフォーム(写真)のデビュー戦となりました。従来よりも深みを増した濃紺地に、これまでのユニフォームの衿元のレッドカードが下に引き伸ばされた様な赤い一本線が縦に入った斬新なデザインです(宇宙戦艦ヤマトを思い起こしますが・・・)。また、素材の乾燥性が25%アップし、ロンドン五輪での暑さ対策が施されています。新ユニフォームの赤いラインは「結束」を象徴していますが、ロンドンへのレッドカーペットに繋がるのか、危険ゾーンを示すレッドラインとなってしまうのか注目の一戦でした。勝利のみならず、大量点を取ることが要求される試合でした。サッカーにおいて、これほどゲームプランが難しい状況はありません。ゴールをあせればあせるほど、ゴールが遠ざかってしまうのがサッカーです。その状況の中で、U-23日本代表は冷静にゲームをコントロールし、よく4点をもぎとりました。マレーシアのプレスが緩かったこともあり、悪いピッチ状態をものともせずに、パスを繋げる本来の日本のサッカーに徹することが出来たのが、勝因でした。酒井・比嘉の両翼が高く張り出し、幅広のブロックでの分厚い攻めが、4ゴールに繋がりました。陣形はシリア戦でのバランスの悪い瓢箪型から大幅に改善されていました。また、追い詰められた状況で、アウェイでの大量得点による勝利という極めて困難なミッションを達成した代表チームの自信と精神的成長が何よりの収穫でした。新たに投入されたメンバーが結果を出し、このチームの強みである「結束」力を改めて示してくれました。サッカーの神様も、評価してくれたのでしょう。ライバルのシリアがバーレーンに敗れるという波乱を演出し、ロンドンへのレッドカーペットを準備してくれました。しかし、この試合でみせた日本チーム本来のゲーム運びを、より寄せが速く、プレッシャーの強い相手に対しても同じ精度で出来るかが、本戦で勝ち進めるかの鍵となります。バーレーンとの予選最終戦@国立競技場が楽しみです。ともあれ、U-23代表チーム、「アッパレ!」

2012年2月15日水曜日

清水桜が丘 - 新たな伝統(U-23)

高校統合により、伝統の「清水商」の名前が消える静岡市立清水商業高校(旧清水市立商業)の新校名が「清水桜が丘高校」に決まりました。一般公募の結果、所在地の「清水区桜が丘」にちなんだ命名となりました。清商(きよしょう)というシンプルで且ついかにも古豪の風格を湛えたライバル校の名前に慣れ親しんだ清高(きよこう・清水東の地元での呼び名)OBとしては、複雑な心境ですが、TVドラマに出てきそうな校名の下、新たな歴史を刻んでくれるものと期待しています。
ところで、ロンドン五輪を目指すU-23日本代表がいよいよ厳しい状況になってきました。シリアとの得点差1は、さほど騒ぐことではないと思っていますが、山田・清武・山崎という中心選手の負傷離脱に加え、ムードメーカー大津の召集が難しいというのは、極めて痛いと言わざるを得ません。関口監督は、個人での打開力を期待して原口元気を招集しましたが、今のアジアのレベルは個人で何とかなるほど甘くはありません。かなり心配です。そもそもシリア戦は組織が機能しませんでした。シリアの速い寄せに対応しきれず、底の大きな瓢箪のような陣形になってしまい、山田がくびれの部分で上下動を繰り返す展開になってしまいました。なでしこの澤の上下動が有効に機能し、チームのスイッチ役になっているのは、女子サッカーは男子に比べて、ややスピードに劣るのと、精度の高いロングパスがほとんどない為。澤が先読みして走りこんだり、戻ったりする余裕があるわけです。山田が同じことをしても、単にボールを追いかける展開となり、チームの起点となりえませんでした。シリア戦敗戦の教訓を活かすとしたら、もっとしっかりとボールをつなぎ、組織的な展開で相手を圧倒するコレクティブな戦術に立ち戻る必要があります。キーマンは濱田と山村、そして、酒井のトライアングル。駒野・阿部・闘莉王・松井・今野らの初代「谷間の世代」は、最終的には南アW杯でBest16という輝かしい結果を残しました。2代目「谷間の世代」の現U-23代表チームがこれからどう立て直し、新たな伝統を築いていくか、期待しましょう。
写真は、出張先のバリの海岸の日の出風景です。U-23も、なでしこ、西織に続いてRising Sunになって欲しいものです。それだけの潜在力はあるのですが・・・。

2012年2月6日月曜日

雪の世界から - U-23シリア戦

毎年冬にはYMO(Yuki-Mi-Onsen)と称して、雪の秘湯を訪れる旅をしています。今年は福島復興支援がテーマで、Project名はFunky Sky。喜多方ラーメンを味わい、会津日中温泉でのYMOを満喫し、智恵子の「ほんとの空」を福島が一日も早く取り戻すことを祈念しようという趣旨です。今回は、更に会津若松で冠雪の鶴ヶ城を眺めることが出来ました。土曜日午後から夜半まで降り続いた雪は、景色をすっかり変え、一夜明けて晴天となった日曜日はまさに「雪の世界」が一面広がっていました。雪の壁の間を車が雪を撥ね上げながらノロノロと走ります。人が通るべき側道は雪に埋もれ、車のみが移動の手段となっています。民家の屋根には雪が1m近く積り、至る所で雪下ろしが行われていました。スコップやスノーダンプなどで少しずつ雪を下に落としていく地道な作業を延々と続けなければなりません。若い働き手がいない過疎地では、お年寄りにとって辛く、また、危険な作業でもあります。舞う雪に包まれての日中温泉ゆもと屋での露天風呂は正に極楽でしたが、帰りの送迎バスの中から眺めた雪景色の美しさの下での生活の過酷さには言葉を失いました。喜多方駅に着いてみると、会津若松までの列車は午前中運休。夕方からの出張の為に何としても11時の新幹線に乗らなければならず、タクシーで会津若松まで。運転手さんの機転で会津若松より郡山に近い無人駅の東長原駅に。線路とホーム前方は除雪されていたものの、駅標は写真の通り雪に埋れておりました。
当日夜のU-23シリア戦の結果は、出張先の香港でインターネットで知りました。試合のハイライトはYouTubeで観ました。ホテルのTVでは同グループのバーレーンvsマレーシアのゲームが流れていました。日本の試合のリメーク版の様にマレーシアも折角追いつき、押し気味に試合を進めながら、終了間際にDFが足を滑らせて失点し、2-1の敗戦。権田のミスともいえる2失点といい、気の重くなるシーンでした。引分けでいいところを守り切れなかったシリア戦には、あのドーハの悲劇が重なりますが、決定的に異なるのは、これが最終戦では無いということです。「五輪出場権自力獲得消滅」との新聞見出しもありましたが、これは誤りで、たとえシリアに及ばなくとも、2位同士の闘いを勝ち抜き、セネガルとの大陸間プレーオフに勝てば、ロンドンへの切符を自力で手にすることが出来るのです。雪の壁に怯むことなく、確実に除雪しながら前に進んで行くことが、若きサムライブルーには必要です。そうすることで、このチームに一番欠けている精神的な足腰の強さが確実に鍛えられるはずです。