2010年12月31日金曜日

2010年大晦日- 復活、静岡サッカー

大晦日です。2010年の締括りは、やはり高校サッカー。等々力競技場までは自転車で30分。第一試合の途中にも拘わらず、メインスタンドは既に静学のサポーターで満員でした。ひとつだけ空いていた席に腰をおろし、飛び交う静岡訛りに身を浸していると、今年も大晦日を迎えたことを実感します。静岡代表は、個人技サッカーの静岡学園。対するは鳥取代表米子北高。米子北のエース谷尾は、フロンターレへの入団が決まっている長身のストライカーです。国見時代の平山を彷彿とさせます。米子北は、中盤を省略して、谷尾にロングボールを合わせる典型的なカウンターサッカー。伝統のドリブル突破と中盤のパス回しで仕掛ける静学にとっては、やりにくい相手です。攻めに攻めながら、ゴールを奪えず、ロングボール1発の逆襲に泣くというのが、かつての静学サッカーにありがちなパターンでした。ただ、今年の静学は、守備の意識が高く、ボールを奪われてもすぐに奪返しに行ったり、相手の攻撃を遅らせたりという動きは見事でした。終わってみれば、2-0の快勝。静学の監督が「技術力で上回り、個人技で圧倒する」と戦前話していましたが、その通りになりました。全国のレベルが上がり、個人技では勝てなくなった静岡サッカーはパスサッカーが主流になっていましたが、久々に「スペースがあったらドリブルで仕掛ける」個人技サッカーを見せてもらいました。静岡サッカー復活といったところでしょうか。帰り道に仰いだ鮮やかな夕焼けにも似た美しいサッカーを国立で見せて欲しいものです。
今年を振り返ると、ジェットコースターのような1年だったような気がします。まがりなりにも、ゆったりとした心持ちで大晦日を迎えられるのは、とても幸せなことだと思います。今年のキーワードは「復活」だったのかもしれません。
皆様、佳き初春をお迎え下さい。

2010年12月29日水曜日

遅れて届いたクリスマス・プレゼント

チョット遅そめのクリスマスプレゼントが、ふたつ届きました。
一つ目は、サッカー検定3級合格通知。自己採点で不合格を覚悟していただけに、喜びもひとしおです。前回の初めての3級検定では、異例の合格者無し。今回もかなりの難問揃いだっただけに、合格者を出す為に当初目安にしていた80点の合格ラインを多少下げざるを得なかったようです。今回の3級合格者は全国で32名。合格者の中で最高齢でした。
二つ目は清水エスパルスの天皇杯決勝進出。3連覇を目指すガンバ大阪を3-0で破る見事な勝利でした。小野が完全復活の活躍。運動量の少なさが難点といわれる小野ですが、この日は頻繁に上下動を繰返し、バランサーとしての役目を果たすとともに、前線では危険な存在としての輝きを放っていました。
決勝の相手は、かつての宿敵アントラーズ。いかにも静岡らしい真直ぐな天真爛漫サッカーのエスパルスにとっては、ちょっとした隙も見逃さないマリーシア・サッカーのアントラーズは、やりにくい相手です。しかし、今のエスパルスは、今季限りでチームを去る長谷川監督、伊東、市川の為にも、有終の美を飾りたいという強いモチベーションを持っての戦いとなります。「男・長谷川健太、最後の最後に、悲願のタイトル獲得」を見届けたいと思います。元日の国立、バックスタンドアウェー側応援席確保済みです。

2010年12月24日金曜日

Merry X'mas - サッカー・サンタの贈り物

サッカー好きなサンタが、素敵なクリスマスプレゼントを運んできてくれました。韓国・水原三星所属の高原直泰のJリーグ復帰。しかも、清水エスパルスへの移籍です。年俸の大幅ダウンにも拘わらず、清水への移籍を決断した裏側には、親友小野伸二の存在があります。
2人は三島と沼津という静岡県東部出身の同学年。小学校時代から地区大会で凌ぎを削る良きライバルでした。高校も、清水東と清水市商というライバル校に進学します。2人がともに主将を務めた3年次にも両高とも高校サッカー全国大会への出場は果たせませんでしたが、2人に静岡学園のGK南雄太(元柏レイソル)が加わった静岡県選抜は、96年・97年と国体連覇を達成しています。特に97年いさはや国体では、決勝で熊本県選抜を5-0の大差で破るなど、圧倒的な強さで優勝を飾っています。この3人は、2年後のワールドユース準優勝チームのセンターラインを形成することになります。
その後10年にわたって日本代表の攻撃の核となるべき2人でしたが、小野は2000年シドニー五輪予選での負傷で本戦出場を果たせず、高原も2002年日韓W杯直前にエコノミークラス症候群を発症して代表落ち。代表での黄金コンビ復活はなりませんでした。
14年の時を経て、清水という原点の地に戻ってきた2人が、長い間待ち続け、もはや叶わぬものと諦めかけていた夢を、現実のものにしてくれると信じています。伸二のベルベット・パスに走り込む高原のスシボンバー・シュート。こんなシーンをみたいと思っているのは、決して清水のサポーターのみではないと思います。

2010年12月21日火曜日

Project Final 2○1● - 沼津アルプスから

今年最後のイベントは、Project Final 2○1●と称して沼津アルプスに行って来ました。今回は、森林インストラクターN隊長とシェフパT(シェフ兼シェルパ)といういつものメンバーに、流浪の冒険家Dr.Kが救護係として加わり、一層賑やかなと山歩きとなりました。
F(富士山)とI(伊豆)の絶景をN(沼津)AL(アルプス)から眺めることで2010年のフィナーレを飾ろうという命名です。2○1●には、W杯での日本代表のグループステージ戦績2勝1敗という意味も込めました。山頂に立って、W杯も含めて、今年1年を総括しようということです。
沼津アルプスは、最高峰の鷲頭山でも標高392mという低山が6山連なる山脈です。標高は低いものの、ロープづたいの急斜面や両側ともすぐ谷底という痩せた尾根が続き、アルプスの名に相応しいなかなかの難コースです。全ルートを縦走すると6時間半を要しますが、今回は、昼食時間をたっぷり取る為に、大平山から志下坂峠まで北上する全体のほぼ半分の行程に留めました。
山道の途中に出現する駿河湾の眺めは格別でした。海を眺望しながらの山歩きコース自体希少で、得難いものですが、冬の柔らかな陽光をたたえて、銀青色に輝く駿河湾と緑の中に冬色漂う伊豆の山並みのコントラストは、癒され、それでいて心揺さぶられるものがありました。昼食は、贅沢な和牛のすき焼き。たっぷり1時間半をかけて、山頂での忘年会を満喫致しました。
2010年サッカー界は、代表の東アジア選手権惨敗に始まり、暗雲漂う中で迎えたW杯でのBest16という好成績に沸き、アジア大会での男女アベック優勝の快挙へと登りつめ、しかしながら、最後は2022年W杯招致合戦に敗れるという、アップダウンの激しい1年でした。私自身、ジュビロの6年ぶりのタイトル(ナビスコ杯優勝)の歓喜に浸ったり、国立のトラックを走ったり、母親の台湾の母校を尋ねたりと数多いピークを味わうことが出来ましたが、一方で、深い谷間に入りこんだりと、やはり、乱高下の繰返しの1年でした。その意味で東アルプス登山は、Finalの名に恥じない象徴的なイベントでした。
「穏やかな1年」という響きにも惹かれますが、こんなアップダウンのキツイ1年もそれなりに悪くないなと思います。ありきたりではありますが、谷があってこそ峰があり、渓があってこそ尾根があるということなのでしょう。
今回も「Mission Complete!」と高らかに宣言したいところですが、残念ながら肝心の富士山は雲に隠れたままでした。しかしながら、鷲頭山の頂きから富士市を眺めることができました(写真)。駿河湾にやや靄って浮かぶ煙突の群れは、紛れも無く想い出の地であり、煙突からたなびく煙さえ愛おしく、胸にこみ上げてくるものがありました。という訳で、小声で「Mission Complete!」

2010年12月19日日曜日

The Dock of the Bay

大和証券のTV CMでCharがThe Dock of the Bayを歌っています。心に浸みるいい歌です。
この曲は、1960年代に活躍した黒人ソウル歌手Otis Reddingの代表曲でもあり、遺作でもあります。彼は、The Dock of the Bayを録音した3日後に、公演先に移動中の飛行機事故で、26歳のあまりにも短い生涯を閉じています。
♪ 故郷のジョージアを離れ 
  サンフランシスコ湾を目指した
  何の生き甲斐もなかったから
  何も起こりそうになかったから
と、ジョージア出身の自らの生涯を歌った曲でもありました。
♪ ただ港のドックに座って
  潮の満ち引きを見ながら
  ただ港のドックに座って
  時間をつぶしているだけ
憧れのサンフランシスコでも夢をつかむことが出来ませんでした。一日中港に佇んだまま、故郷を思い出しているのでしょうか。Otis Reddingの独特の歌唱と相俟って、とてもやるせない曲となっています。人生は、故郷を離れ、住み慣れた町を離れ、新天地を探し続ける旅立ちの連続なのかもしれません。決断と後悔の繰返しが人生なのでしょう。港に座ったまま、朝日を浴び、潮の満ち引きを見つめ、夕日の沈むのを見届け、ひとつ溜息をついて、歩き始める。The Dock of the Bayは終着の歌ではなく、新たな旅立ちの歌だと信じています。
私も大きな決断をして、新たな道を歩み始めることとしました。

2010年12月12日日曜日

サッカー検定 - 玉砕

第3回サッカー検定3級を受験してきました。3級検定は前回第2回から開始されましたが、前回は合格者無しで、今回合格者が出れば、第1号認定者となります。
今年開催されたW杯からの出題を見越して、かなり綿密な予想問題を作成して勉強しましたが、見事にヤマがはずれ、玉砕しました。「初出場はスロベニアのみ」「決勝で使用されたボールの名称はジョブラニ(他の試合のボールは色が異なり、名称もジャブラニと微妙に異なる)」「日本対カメルーンの会場はフリー・ステート・スタジアム」「無敗で大会を終えたのはニュージーランド(3分けでグループリーグ敗退。優勝したスペインはグループリーグ初戦でスイスに敗戦)」「スペインの8得点での優勝は、W杯史上最低得点」「W杯で初めて使用された天然芝と人工芝の混合ピッチの人工芝割合は3%」「得点王はトーマス・ミュラー(他の3選手が5得点で並んだが、アシスト数を考慮して、ミュラーが受賞)」いずれも出題されませんでした。
「1936年ベルリン五輪スウェーデン戦での1点目のアシストは誰か?(正解:加茂正五)」エッ、アシスト!?「1979~1980年シーズンのUEFAチャンピオンズカップ優勝チームは?(正解:ノッティンガム・フォレスト)」「1972年AFCアジアカップの優勝国は?(正解:イラン)」「2008年に引退した大谷未央の所属クラブは?(正解:TASAKIペルーレFC)」は全くノーマークでした。「ホームゲーム観戦者の平均年齢が最も低いクラブは?(正解:ガンバ大阪)」という設問にはさすがに天を仰ぎました。「マダガスカルリーグでのプロサッカー1部リーグ史上最多スコアは?(正解:149-0)」は知ってはいましたが、ここまでマニアックな問題を検定に使用するのは如何なものかと。
玉砕とはいいながらも、自己採点では僅かに合格ラインに届かなかったレベルなので、悔いは残ります。「更なる高みへ」が今年後半のテーマでしたが、課題を残して、年を越すことになりました。

2010年12月8日水曜日

The Long and Winding Road

The Long and Winding Roadはビートルズの日本でのラスト・シングルとして発表された楽曲です。ビートルズの曲の中でも特に好きな曲のひとつです。メロディラインの美しい幻想的な曲ですが、「君の所へ続いているはずなのにいつもこの道に戻ってきてしまう、君に辿りつけない曲がりくねった道」というとても切ない悲しい歌詞でもあります。
前回のブログで車椅子の心象風景を綴ったのは、車椅子の母親と久し振りに会ったせいもありますが、生きていくということが曲がりくねった道を車椅子で行く光景とダブって見えたということもあります。人は多かれ少なかれ、何かを背負い、痛みや不随意と折り合いをつけながら、生きています。どうしても乗り越えられないものに直面したり、人の助けを借りなければどうしようもない局面もあります。表現が不適切かもしれませんが、それは重荷を背負って歩いていくというよりは、車椅子での歩みに似ているのではないかと思うのです。その車椅子を代わるがわる押してくれる人たちを有している人は本当に幸せです。ただ、その押してくれるペースとの折り合いはとても微妙ですし、かえってそれがストレスになる場合もあります。とても難しい問題です。自分のペースで車椅子を漕ぎながら、その前後をゆったりと歩んでくれる人たちがいる人も本当に幸せです。The Long and Winding Roadはどこにも辿りつけない道かもしれません。でも、その道を、時には誰かの車椅子とともに歩み、あるいは、自ら車椅子を精一杯漕ぎながら誰かの後を追い、時にはゆっくり漕ぎながらも、すぐそばを時々立ち止まっては一緒に歩んでくれる人の気配を感じながら進んでいくことが、人生なのだと思います。
今日は、ジョン・レノンの没後30年の命日です。彼は、多くの人々との「愛と平和の共有」を願った人でもありました。

2010年12月4日土曜日

銀杏の落ち葉を踏みしめて

銀杏の落ち葉の中を歩いていると、とても切ない気持ちになったりします。色々な幻想がとりとめもなく浮かんできたりします。そんな情景を書き留めてみました。あくまでフィクションです。
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君の車椅子が、微かに湿った銀杏の落ち葉の上を滑って行く。
僕は、わずかに上下動しながら揺れる君のポニーテールをじっと眺めている。
僕は、君について来てもらうのは厭だから、君の車椅子の轍の跡を踏みしめていく。1歩踏み出しては立ち止り、1歩踏み出しては立ち止り。
君は、押してもらう車椅子のスピードには馴染めないって言う。だから、君は、すっかり細くなった腕で車輪を漕いでいく。君のペースで。
僕はちゃんと君のすぐ後ろにいるよ。そう伝える為に、わざと枯れ葉を踏みしめて、乾いた音をたてたりする。

2010年12月3日金曜日

2022年W杯日本開催ならず・・・

2022年W杯開催地はカタールに決定。佐々木りおちゃんの「12年後20歳の私は、世界中の友達を日本に招いてサッカーを楽しみたい」という願いは通じませんでした。共同開催とはいえ、2002年にW杯を開催したばかりの日本は、2022年の開催は「Too Soon」というハンディを撥ね返すには至りませんでした。日本の技術力を前面に押し出して、「世界400ヶ所で3Dパブリックビューイングを実現する」というアピールも、比較的高齢者の多いFIFAの理事達にとっては、「サッカーは実際のスタジアムで観戦するもの」という想いを逆なでするだけで、賛同は得られなかったようです。
下馬評は決して高くなく、FIFA視察団の視察評価も決して高くなかったロシアが2018年、カタールが2022年の開催地に決定したのは、経済的影響力もさることながら、初の開催地を選んで、サッカーの浸透度を広めていきたいという思いが強かったのかもしれません。
それにしても、今回の招致活動は日本全体としての盛上りに欠けていました。国や地方自治体のバックアップを得ることが出来ず、マスコミの取上げ方もどこかしらけていたところがありました。2012年東京五輪の招致合戦に敗れた時と同様、国全体の熱気に欠けていたというのが最大の敗因だったと思います。
折りからの季節はずれの土砂降りで、開きかけていた双子の薔薇(写真)もすっかりうつむいてしまいました。もう一度2002年の感動が味わえるかもしれないというわずかな期待を抱いていただけに残念です。米国ならまだしも、同じアジア地域のカタールに決定しただけに、次回アジア地域での開催は随分先になってしまいそうです。
とはいえ、気持ちを切替えて、前向きに考えましょう。カタールといえば、「ドーハの悲劇」という日本サッカーにとって忘れることの出来ない因縁の地ですが、2022年は「ドーハの歓喜」に変える事を目指したらどうでしょうか。2014年ブラジルでBest8、2018年ロシアでBest4、そして、2022年カタールで悲願の優勝。夢はイメージしなければ、決して実現出来ません。日本サッカー協会は、2050年までにW杯を自国開催し、その大会で優勝することを「2005年宣言」でうたっていますが、優勝を前倒しで実現してしまいましょう。うつむいた薔薇の花の隣では、薄紅色の薔薇の蕾が芽吹いています。