2011年5月29日日曜日

明神智和と伊東輝悦 - イカと玉子

落ち込んでいます。早朝放映の欧州CL決勝戦見逃しました。時差ボケで爆睡してました。最近は、かなりの時差で、時差ボケが出てきます。
雑誌Numberネタの続きです。「自分を寿司ネタにたとえると」という質問にベテランサッカー選手達はこう答えています。
中村俊輔「ガリ。どんな選手(ネタ)にも合わせることができる」
小野伸二「醤油。自分の味付けで周りを変えられるから」
川口能活「マグロの赤身。熱血的なイメージ」
楢崎正剛「アナゴ。トロやアワビみたいな1番手じゃない。2番手、3番手だけど、味は1番」
藤田俊哉「白身魚。あっさりしているから」
伊東輝悦「玉子。地味だけど外せない」
明神智和(写真)「イカ。サッパリしたくなったときに必ず間に入れる」
松田直樹「ウニかイクラ。高級なネタなのに、好きな人は大好き、ダメな人は大嫌いって分かれる」
岡野雅行「エビ。気になるし、ないとイヤ」
服部年宏「シメサバ!派手さはないけど、仕事がしてある。玄人好みのネタ」
みんないい答えをしています。自らを玉子に例えた伊東は、18年間プレーした清水を離れて、甲府に活躍の舞台を移しています。富士山を逆側から眺めながら、新たな刺激を楽しんでいると語っています。ただ「富士山は静岡側から見た方が綺麗かな」自らをイカに見立てた明神は、あのトルシエをして「8人の明神と3人のクレージーがいれば勝つことができる」と言わしめた選手です。攻守のどちらにも顔を出し、90分間動き続ける選手ですが、縁の下の力持ち的な地味な選手。「性格云々は別として、ピッチ上で地味だなんて、全く思っていないですよ。このチームには自分がいなければいけない、という思いは物凄く強いですし」職人としてのプライドもベテランの重要な要素。

2011年5月27日金曜日

Veteran's Bible - カズに学べ

雑誌Number5月26日号に「明るく生き抜くベテランの思考法 ‐ Veteran's Bible」というタイトルで、ベテランサッカー選手のインタビュー特集が組まれていました。ピークを越えたサラリーマンにとって、人生訓ともいえる内容で、興味深く読みました。ベテランとはいえ、30代か40歳前半のメンバー。スポーツ選手の加速され、凝集された生き様にも、ある種の感動を覚えずにはいられませんでした。
まずは、チャリティマッチで感動のゴールを決めたカズ。「自己プロデュース」がキーワード。独特のファッションに象徴されるように、日常生活の細部にわたるまでこだわり、自己プロデュースをすることで、人生の「谷」も楽しんできたと語っています。だから、常にモチベーションを保つことが出来る。今でもW杯出場が夢と語るカズ。そのカズが「神様に『W杯に出してやる。でも、その代わり一生アルシンドヘッドだ』と言われたらどうしますか?」との読者からの質問に「断わります」とキッパリ。なるほど、これもこだわり。
代表引退を表明した俊輔。「あなたにとってサッカーとは」との質問に「趣味・特技」。自分の最も好きなもの、得意なものが職業であり、人生そのものである幸福。一方で、「だから、オレ、辞めたとき、抜けガラになるんだろうなって思う」という悩み。それでも、この根っからのサッカー小僧は、「海外クラブの監督」という第2の人生をイメージし始めているようです。
日本サッカー史上最高の天才、小野伸二。99年のシドニー五輪予選フィリピン戦で負った左膝靭帯断絶の大怪我以来、自らのイメージと現実とのほんのわずかなズレに悩まされていました。そして、あのドイツW杯豪州戦。日本代表は小野の交替出場後立て続けに失点し、逆転負けを喫してしまいます。小野は「正直、攻めるのか、守るのか、役割がわからず、チームのバランスを崩してしまった。自分が日本にとっての大会を壊してしまったという責任を今でも感じています」と語っています。ドイツからの帰国直後、小野は引退すら考えたそうです。あれから5年。地元清水に戻った小野は、高校時代のあの太陽のような笑顔を取り戻しています。「楽しむ」という彼のサッカーの原点を取り戻して。
岡野・服部という2人の元日本代表選手を獲得してJ2 昇格を果たしたガイナーレ鳥取の塚野社長がこう言っています。「私はベテランって、個性だと思うんです。ベテランを必要としているというよりは、キャラクター、個性を必要としているんです」個性は決して若者の特質ではなく、個性を磨き抜いた人のみがベテランと呼ばれるのかもしれません。

2011年5月25日水曜日

2つのJapanese Footbridge

もうひとつだけフィラデルフィア美術館ネタにお付合い下さい。
フィラデルフィア美術館にも印象派の展示区画があり、人気のスポットとなっています。その中でも私のお気に入りはモネの2つのJapanese Footbridgeです。睡蓮の池と日本の太鼓橋風の緑色の橋を描いたもので、何作品も描いているので、御存じの方も多いかと思います。印象派の展示区間の一番端の円形ホールの一角にモネが59歳の時に描いたJapanese Footbridgeが展示されており、対角線の壁の裏側にあたる奥まった部分に86歳の晩年に描かれたJapanese Footbridge(写真)が展示されています。位置的に、両方を一度に視野にいれることが出来ませんので、何度も往復して見比べるのが、フィラデルフィア美術館を訪れた際の私の習慣となっています。
59歳の時に描かれた作品は、微妙な色調に溢れ、柳の葉や睡蓮の花びらなど丹念に描き込まれた如何にも脂ののりきった時期に描かれた作品です。このJapanese Footbridgeの連作を経て、岸・柳の木・橋といったモチーフを一切削り取り、水面のみで、空と岸の風景と水中の様子までをも渾然一体として描ききるあの「睡蓮」の画風に到達します。モネは白内障の為に晩年その視力のほとんどを失ってしまいます。その中で描かれたのが写真の抽象画のような風景画です。私は、10数年前の昔よくこの美術館に通っていた頃、この絵が苦手でした。ほとばしるような執念に圧倒されるような猛々しさを感じて、この絵を直視できませんでした。しかし、知命の歳を経て、今改めて眺めてみると、むしろひとつの至高の境地といった静けささえ感じるようになりました。あのルノアールも晩年は重度のリウマチに苦しみ、車椅子に乗り、絵筆を指にくくりつけて描いたといわれています。ルノアールの晩年の滑るようなタッチで暖色を塗り重ねた作品群も味わい深いものがあります。今から黄昏の日々を想像すべくもありませんが、あるいはそこには捉われることのない安らぎの世界があるのかもしれません。ちょうど雑誌「Number」で、カズをはじめとしたサッカー界のベテラン達のインタビュー特集が組まれていました。次回は、彼らが辿りついたあまりに近似した心境について触れてみたいと思います。

2011年5月22日日曜日

USA

米国で羨ましいと思うのが写真の光景。フィラデルフィア美術館での一コマです。きっと幼稚園の遠足兼社会見学(Field Trip)なのでしょう。保母さんが手にしているのは、赤やピンクの造花。絵の花瓶の中に活けるとしたらどのお花がいいかしらという訳です。壁のゴッホの「ひまわり」は勿論本物です。以前、東京でゴッホ展が開催された際、さすがに今日は空いているだろうと台風の日に出かけて行ったにも拘らず、長蛇の列だったのを思い出しました。
米国の教育には学ぶべき点が多々あります。米国駐在当初、長女はアルファベットも知らない小学1年生のまま現地校へ。学校でどうやって英語を教えるのかと思ったら、まずは「I like 〜」で絵本を見ながら自分の好きなものの単語を覚えていきます。次に「I want to 〜」で自分のしたいことの動詞を覚えていきます。そして、この2つの表現さえ出来れば、自然に友達が出来、友達との会話を通じて英語力が身につくという仕組みです。日本でも一部の小学校で英語の授業が始まっています。さすがに"This is a pen."ではなく、挨拶の言葉から始まるようですが、小学1年生がお互いに"How are you?"と言い合っているのもどんなものかと。英語の授業が増えた分、国語の授業が減ってしまったそうです。学問に優劣はありませんが、国語が犠牲になっているというのはちょっと残念です。因みに長女が最初に覚えた単語は"dog"。当時保育園に通っていた次女の場合は"my turn"。保育園のブランコの順番待ちでなかなか乗れなかった娘が、みんなが言っている言葉を真似したらブランコに乗ることが出来たということで、彼女にとっては魔法の呪文だったのです。

2011年5月19日木曜日

Andrew Wyeth - 大地の骨格

出張でフィラデルフィアに来ています。フィラデルフィアの郊外にBrandywine River Museumという小さな美術館があります。地域の環境史跡保全団体により設立・運営されており、古い製粉所の建物が改装されて(史跡保全の一環)利用されています。また、運営も地域のボランティアによりなされています。この美術館では、20世紀を代表する米国画家Andrew Wyethの絵を鑑賞することが出来ます。近隣に住んでいたWyeth夫妻の好意で、同夫妻が所蔵しているWyethの絵が季節ごとに貸し出され、様々な作品を楽しむことが出来るという世界でも稀な美術館です。
今回は時間が取れなかったので、到着当日にレンタカーで空港から直行しました。閉館間近でしたが、日本から来たのでと無理を言って、入れてもらいました。写真の絵は「Snow Hill」という題名の作品です。Andrew Wyethの展示館の入り口に掛けられており、私の好きな作品のひとつです。子供達が雪の上で踊っているのを写実的に描いた作品のように見えますが、ヘルガやクールナー夫妻などWyethの作品のモデルとなった人物が描かれた実は幻想的な作品です。Wyethは、モデルの日常の一瞬の表情を捉える為に、自らが透明になって描けたらと語っていますが、この作品では、Wieth自身が左奥に透明になってダンスの輪に加わっていると言われています。
WyethをFacebookで紹介させて頂いたら、「寂しげな絵が多いとの印象がある」とのコメントを頂きましたが、彼が好んで秋と冬の風景を描いていることが一因かもしれません。彼は「私は秋と冬が好きだ。大地の骨格とその孤独が判る。その下で何かが待っているのを感じる」と語っています。彼の春の絵「May Day」にすら冬の名残りの残雪が描かれています。雪の手前に白い可憐な雑草の花を描きながら「私は腹ばいになって花を観察するのが好きだ。春の息吹が感じられる。私はその一部になりたい」と述べています。自然と常に向き合って、自然への同化を図りながら、描き続けたからこそ、精緻で写実的ながら、高い精神性を感じさせる作品を生み出したのだと思います。

2011年5月18日水曜日

南米選手権出場叶わず

久々のサッカーネタです。写真は、17日にドイツ・デュイスブルクで行われた東日本大震災復興支援の為のチャリティマッチです。ブンデスリーガー優勝のドルトムントと香川を主将とする欧州でプレーする日本人選手らの選抜チームが対戦しました。観客数は約1万人とちょっと物足りないものの、スポンサーが寄付した100万ユーロ(約1億1600万円)に加え、入場料、放送権収入など計約120万ユーロ(約1億3900万円)が義援金となったとのことです。いまだに世界各国に広がる支援の輪には深く感謝したいと思います。
一方で残念な話題。懸案の日本代表の南米選手権への出場は、結局、招待辞退との結論に至りました。原JFA技術委員長が自ら欧州各クラブを訪問して説得を試みましたが、欧州クラブの大半から選手召集容認の協力を得られなかったということです。日本復興には支援するが、日本代表強化の支援は別問題との割切りでしょう。JFAも「日本を元気づける為に協力して欲しい」と要請したものの、欧州各クラブは、結局は日本代表強化であり、更には南米サッカー連盟の日本からの放映権収入狙いには協力出来ないと判断したのでしょう。已むを得ない結論ですし、それほど日本人選手が各クラブにとって重要なポジションを占めていることの証でもあります。世論を盛り上げつつ、どこか大所の欧州クラブをまずおとして、交渉を有利に進めるといったようなテクニックをJFAに望むのも酷でしょう。南米選手権でのアルゼンチンとの真剣勝負が見られなくなったのはサポーターとして残念ですし、日本代表にとって、またとない強化のチャンスが失われてしまったのは大変は損失ですが、諦めましょう。とはいえ、9月からはW杯アジア予選が始まってしまいます。早急な強化スケジュールの見直しが必要とされています。

2011年5月17日火曜日

「Little Devil」と「がんばっぺ石巻」

最近は、Twitterの呟きをFacebookに自動転送して、Facebookの近況をふくらまして、Blogを書くという使い回しが多くなってしまいました。Facebookで既に読んで頂いた方は「またか」ということになってしまいますが、ご容赦下さい。実は、歌津でのボランティア作業中に土に埋もれたシングルレコード盤を見つけました。暫く忘れていて、ふと思い出して、題名からネット検索してみました。ニール・セダカのリトル・デビルという曲です。1961年のヒット曲。文字通り小悪魔の様な彼女を歌った曲で「君は僕の心を引き裂こうとしているけれど、僕はその前に君を天使に変えてみせるよ・・・」といった歌詞です。Youtubeで聴いてみると「Woh, woh, woh, woh, yeah, yeah, yeah」で始まるOldiesの典型のような曲でした。 50年間もレコード盤が大事に仕舞われていたこの曲にまつわる小さな港町での50年前の出来事に想いを馳せています。
とても感激した出来事がありました。従業員が被災を受けた石巻市の取引先に、震災直後にささやかながら家電の差入れをさせて頂いたところ、社長自らご挨拶にお越し頂き、こんなものしかお返し出来ませんがと特製のメモパッドを頂きました。表紙には「がんばっぺ石巻」と書かれた横断幕を掲げて従業員の皆さんが勢揃いした写真が。そして、「ご支援ほんとうにありがとうございました」の言葉が。逆に元気を頂きました。(出張先のフィラデルフィアにて)

2011年5月10日火曜日

被災地を訪れて その4 - 「結」

写真は、ガラス拾いを行った小学校のグラウンドです。同じ敷地内で仮設住宅の建設が始まっていました。復興に向けての最初の一歩となる槌音が響き始めていました。この南三陸町歌津地区には元禄時代から400年続く「結(ゆい)」という相互扶助の制度があります。もともとは田植え、屋根葺きなど人手を有する作業を共同して行うという制度です。
日本古来の共同体組織であり、行政組織も壊滅してしまっている状況下、震災からの復興に大きな役割を果たしていました。RQのボランティアもこの結の組織と連携を取りながら活動を進め、作業内容もその要請に沿って決定していました。現地に行ってみると、やらなければならない作業は山ほどあり、その優先順位付けが重要であり、且つ、困難なプロセスとなっています。その意味で、結という地元の組織によりそれらの決定がなされていたのは、RQの活動にとって幸いだったと思います。現にRQ本部には潮に浸かった鍋釜を洗って欲しい(洗おうにも真水が無い)、親戚の家から荷物を運んで欲しいとの要請が日々寄せられています。お願いされて「何とかします」と個人的に請け負ってしまったボランティアの女性が、結局は対応出来ずにオロオロしていたケースもありました。ボランティアというのはあくまで個人の心情に基づくものですが、個人の活動を最適化させる為には組織化が必要となります。個人の心情と組織の合理性の折合いがボランティアの難しさのひとつです。ボランティアの概念は欧米にルーツを発するものですが、我国古来の結という概念も見直してみる価値があるのではないでしょうか。
今回の震災は、原発事故も惹き起し、図らずも日本人の生活様式を見直すきっかけともなりつつあります。地域社会のコミュニティというものも改めて見直されるべきもののひとつかもしれません。

2011年5月6日金曜日

被災地を訪れて その3

RQの歌津VC(ボランティアセンター)は避難所の中学校から徒歩で10分程山側に入った空き地に張られたWFP(国連世界食糧計画)の巨大テントに設置されています。何故WFPなのかは不明ですが、テント内の一角に韓国のインスタント麺の段ボールが山積みになっていることからすると、もともとは各国からの支援食料の保管倉庫としての利用を想定していたのかもしれません。ここは、まだライフラインが復旧しておらず、電気は時間限定で自家発電。水は雨水をろ過したものを使用していました。
この基地は、まだ設置後日が浅く、朝夕の会議を繰り返して、日々、環境整備、ルール作りを進めている段階でした。ガチガチのルールで身動きが取れない行政に比べて、かなりアバウトなルールで活動を続けながらも、それなりにそのルールを精緻化していこうとするのもボランティア組織の良さかもしれません。
今回出会った歌津の皆さんの明るい笑顔が印象的でした。現地で心に染みた言葉を幾つか。
如何にも漁師といった風情の男性「東京から来てくれたんですか。有難てぇこっです。今度、東京で何かあったら、真っ先に駆けつけますから」
女子高生、「高校生?」との質問に「高校生だけど、高校はなくなっちゃった」
道で挨拶を交わしたお婆ちゃん「今までボランティアの人に話さ聞いてもらってたんだ。ここんとこ、みんなすっかり無口になっちまって、おしゃべりも出来ねえ」
バーベキューを振舞ってくれた青年「俺、一度でいいから名古屋のキャバクラさ、行きてぇ」
折れそうな心を笑顔で支えているのかもしれません。むしろ、その笑顔にこちらが泣きそうになってしまいました。精一杯の笑顔が明日の希望に導いてくれることをひたすら祈るばかりです。

2011年5月5日木曜日

被災地を訪れて その2

2日目はバスに乗って被災地の南三陸町歌津地区に向かいます。山あいの道を下って海沿いの地域に入ると風景が一変します。TVの映像では見ていましたが、目の前に広がる風景は直視出来るものではありませんでした。
歌津地区は、伊里前湾に面し、津波の為に海沿いの集落は全壊し、被災を免れた歌津中学校で約300名が避難生活を送っています。
ここでの最初の作業は、波をかぶった伊里前小学校のグラウンドのガラス拾いです。瓦礫は既に撤去されていましたが、子供達が安心して走り回れるように、砂に紛れたガラス片を除去しようというものです。トンボやヤツデで地表の土を掻いた後、ボランティアがはいつくばってガラス片をひとつひとつ拾います。正に人海戦術の単純作業。これがボランティアの本質かもしれません。3日がかり、延べ100人程度のボランティアによる作業で、グラウンド全体のガラス拾いが完了しました。10日には小学生達が学校に戻ってくるそうです。ただ、子供たちが高台の校庭から望むのは、いつも見慣れた伊里前湾の風光明美な絶景ではなく、写真のような残酷な風景。校庭の隅の石碑に刻まれた誓いの言葉はこう結ばれていました。「ここに生まれ育った喜びを伝えていこう」
歌津っ子、負けないでくれ!

2011年5月4日水曜日

被災地を訪れて その1

4月29日夜から5月3日未明まで被災地復興支援の現地ボランティアに行ってまいりました。現地で感じたことを何回かに分けて書いてみようと思います。まずは、ボランティアの現実から。
GW中はボランティア希望者の数が急増し、受入れ体制が取れないとの理由で、各被災地とも県外からのボランティアの募集を中止していました。その中で、RQ市民災害救援センターという団体が募集を継続していましたので、応募して現地に向かいました。RQは、エコツーリズム普及を目指すNPOが進める支援活動です。アウトドア派の集まりだけに、ライフラインの途絶えた中での自給の生活はお手のもので、ボランティアの募集も自給を前提としており、ボランティアの現地での生活支援は行わないこととなっています。RQは、被害の少ない内陸の登米市に本部を置き、そこから、宮城県北部沿岸部の気仙沼、南三陸、河北にボランティアを送って、支援活動を行っています。仙台から石巻までの地域は、復旧が着実に進んでいますが、石巻以北・岩手県は復旧活動が遅れており、ボランティアも仙台からのアクセスが不便な為、不足している状況です。RQは、活動開始以来1ヶ月で実に延べ4千人のボランティアをこの北部地域に送り出してきました。しかしながら、この人数は、仙台~石巻地域の1日分のボランティア数に過ぎません。
写真は、RQの登米市ボランティアセンターです。小学校の体育館を提供頂き、支援物資の仕分け作業を行うとともに、本部・宿泊場所として利用しています。寝泊まりは、体育館の床に張ったテントの中で寝袋で寝ます。テントの下に段ボールを敷きましたが、それでも床から冷気が伝わってきます。避難所で毛布1枚で寝ていらっしゃる方々の辛さは幾ばかりかと想いやられます。ここでの食事は、ご飯とみそ汁を食事担当者が作り、各自での火気を使った自炊は禁止されています。朝食時に各自おにぎりを作って作業時のお昼ごはんにします。
初日の作業は、支援物資の仕分け。雑多に詰められた物資をバラして、分類ごとに箱詰めし直します。衣類であれば、男性用・女性用・子供用に分け、更にサイズ別に詰め替えるというものです。この作業を行なわなければ、被災者の皆さんへの支給作業を行うことが出来ません。仕訳作業が追いつかず、支援物資がそのままになっているのが各自治体の実態のようです。日用品を仕分けして驚かされたのが、歯ブラシと固形石鹸・リンスの異常な多さ。歯ブラシはホテルのアメニティが大半を占めていました。固形石鹸はお歳暮の残りでしょうか。シャンプーに比べてリンスの数が倍以上多いのは何故・・・?考えさせられたのは、「支援物資の悪い例」と書かれ、「悪い」がバツ印で消され「良くない例」と訂正されていた箱。中身は折込み広告の紙で折られた蓮のような花の折り紙。被災者の方々にとって役立つものではありませんが、一生懸命折った方(恐らくお婆ちゃん)の気持ちを考えると「良くない例」という風に切り捨ててしまうのには、抵抗を覚えます。また、ちびた色鉛筆がいっぱい詰められた鉛筆ケース。使用後のものは、新品のものと仕訳せざるをえないのですが・・・。今、被災者の方々に必要なのは実利ですが、気持ちは伝わるのではないかと思うのは、あまりにナイーブ過ぎるでしょうか。