思いつくままに書き綴っているうちに、あと1時間で2011年が幕を閉じようとしています。日本にとって、辛く悲しい1年でした。来年はみんながその悲しみを乗り越え、ともに手を携えて日本の未来を拓いていく年になって欲しいと願っています。良いお年をお迎え下さい。
2011年12月31日土曜日
大晦日 - 高校サッカー1回戦
2011年12月25日日曜日
Here Comes The Sun

Here Comes The Sunは、アルバムAbbey Roadの収録曲ですが、「It's been a long , cold, lonely winter」とか「I see the ice is slowly melting」といった早春の季節感が日本人の感性に合ったのか、日本だけでシン グルカット(写真)されています。
この頃のビートルズはよほど複雑な人間関係だったようで、もともと人づきあいのよいリンゴすら疲れ果てて「静かな海の底で暮らしたい」とOctopus' Garden(同じAbbey Roadに収録)の中で歌っています。もっとも、自らストローで水をブクブクさせて、海の中の効果音を演出するなど、あくまでリンゴらしい明るい曲に仕上がっていますが・・・。
♪ Here comes the sun, doo da doo doo
Here comes the sun, and I say it's alright
Here comes the sun, and I say it's alright
..............................
..............................
Sun, sun, sun, here it comes
Sun, sun, sun, here it comes
今年は、日本にとって悲しく、辛い年でした。でも、見上げるとそこには弱々しくはありますが、暖かさを湛えた陽の光が輝いています。
2011年12月18日日曜日
クラブW杯決勝 - バルサ劇場
2011年12月15日木曜日
FIFAクラブW杯準決勝 - 御礼10,000アクセス
クラブW杯準決勝柏vsサントス。柏が万が一勝つとしたら、むしろ早い時間に失点し、サントスに余裕を持たせて時間をつぶしながら、終了間際にセットプレーから追いつき、延長戦を守り切ってPK戦、と考えていましたが、サントスのスーパーゴール3連発がその淡い期待を見事に打ち砕きました。ボール支配率、シュート数で上回りながら、個人技、シュートの精度での大きな差。しかし、臆することなく、自らのサッカーで立ち向かうという絶対に勝つ見込みのない戦法で戦った柏はある意味で立派でした。これを隙を見せることなく、確実に突き放したサントスは、さすがに南米王者。ネイマールの1点目(写真)をはじめとし、サントスの3点はいずれも高い個人技からのスーパーゴール。足の裏を使ったフットサルのようなボールの扱いは新時代のサッカーを感じさせました。また、強く印象に残ったのは、攻撃・守備の両面での的確なポジショニング。味方のパスを正確に予感しての走り込み、相手のパスコースを予測しての守備の位置どり。ゲームを支配するのは、ボールの支配率ではなく、オフ・ザ・ボールの動きであることを思い知らされました。
ところで、ふと気がつくと、ブログのアクセスカウンターが5桁となっていました。10,000アクセス突破はおそらく13日(火)と想像されます。2008年9月15日にブログをオープンしてから3年3ヶ月。1日当たり8名強の方に閲覧頂いた計算になります。有難うございました。厚く御礼申し上げます。アクセス履歴をみると、マレーシア、ロシアから定期的にアクセスがあり、イギリス、ドイツ、ウクライナからも閲覧して頂いているようです。インターネットが如何に世界を小さくしたかを身をもって感じます。
第1回のブログ(クリックで閲覧)は、北京オリンピックでの男子サッカーの惨敗を嘆いて、世界との距離がまだまだ遠く、まずはJリーグから盛り上げてサッカー文化を高めていかなければならないと綴っています。その北京五輪惨敗組の主力だった本田、香川、長友、内田、岡崎、吉田、細貝、安田、森本は今や海外に活躍の場を移し、Jリーグ王者柏が南米王者相手に互角の勝負を挑むまでになっています。世界のトップは逃げ水の様になかなかその距離を縮めさせてくれませんが、この3年間日本のサッカーは着実にレベルアップしている様です。
ところで、ふと気がつくと、ブログのアクセスカウンターが5桁となっていました。10,000アクセス突破はおそらく13日(火)と想像されます。2008年9月15日にブログをオープンしてから3年3ヶ月。1日当たり8名強の方に閲覧頂いた計算になります。有難うございました。厚く御礼申し上げます。アクセス履歴をみると、マレーシア、ロシアから定期的にアクセスがあり、イギリス、ドイツ、ウクライナからも閲覧して頂いているようです。インターネットが如何に世界を小さくしたかを身をもって感じます。
第1回のブログ(クリックで閲覧)は、北京オリンピックでの男子サッカーの惨敗を嘆いて、世界との距離がまだまだ遠く、まずはJリーグから盛り上げてサッカー文化を高めていかなければならないと綴っています。その北京五輪惨敗組の主力だった本田、香川、長友、内田、岡崎、吉田、細貝、安田、森本は今や海外に活躍の場を移し、Jリーグ王者柏が南米王者相手に互角の勝負を挑むまでになっています。世界のトップは逃げ水の様になかなかその距離を縮めさせてくれませんが、この3年間日本のサッカーは着実にレベルアップしている様です。
2011年12月11日日曜日
FIFAクラブW杯準々決勝 - 攻め

かつて、世界水準の判断のスピードを有していたJリーグチームがありました。名全盛期のジュビロ磐田。名波を服部、福西、奥、藤田という4人のタレントが囲むいわゆるN-Boxに、前線のゴン、タカが絡む緩急自在な多彩な攻めは華麗そのものでした。2001年第2回クラブW杯。ジュビロ磐田はアジア王者として出場予定でしたが、運営を委託されていたISL社の倒産で中止に。世界がまだまだ遠い時代でしたが、出場していたら、きっとサプライズを惹き起していたのにと今でも悔しく思っています。
2011年12月7日水曜日
Good Morning, Hong Kong

2011年12月3日土曜日
宗谷物語


玉砕地への兵士輸送という辛い戦役を終えた宗谷は、 終戦後その罪を償うかのように引揚船として活躍し、2万人近い引 揚者の命を救いました。その後、日本各地の灯台に物資を運ぶ灯台 補給船の任務を与えられ、灯台守の子供達に本やオモチャも運んだ ことから、海のサンタクロースとも呼ばれました。そんな境遇の宗 谷に初代南極観測船の大命が下ったのは、もともと耐氷型輸送船として建 造されていたことに加え、2度の被爆を無事に切り抜けた強運が決 め手となったと言われています。
宗谷は、計6回の南極観測船としての任務を遂行した後、海上保安庁巡視艇としての通常任務に戻り、1978年、41年間に及ぶ 任務を終え、現在はお台場海の科学館前に係留されています。
2011年11月30日水曜日
やっぱり、沢 - INAC対アーセナル
清々しいチームというのがあります。例えば、Jリーグ加入時のジュビロ磐田、オシム時代のJEFユナイテッド千葉、・・・。
アーセナルと震災復興支援チャリティマッチを行ったINAC神戸(写真)は「清々しい」という言葉がピッタリのチームでした。7cm以上も平均身長で差がある相手に対して、臆することなく正面からぶつかり、持ち前のパスサッカーを貫く戦いぶりは男子サッカー以上にサムライの心意気を感じました。そして、後半ロスタイムまで走り抜く精神力とスタミナ。デコイラン(おとりの動き)でさえ全速力というひたむきさには、素直に心を動かされました。高校サッカーの無垢なひたむきさとはまた一味違う、極め抜いたひたむきさとも言うべきもので、精神美すら感じました。
お目当ての川澄ちゃんはなかなかボールに絡めませんでしたが、一瞬のスピードは群を抜いており、さすがでした。ザッと数えただけでも5度の決定機を決め切れなかった大野でしたが、それだけいいポジショニングだったということ。そして、結局は沢です。普段は気配を消して漂っているのですが、攻撃でも守備でも、ここぞという時には必ずボールに絡んできます。男子選手に例えるなら、遠藤と全盛期の藤田を足して2で割らない感じ。また、押し込まれた悪い流れの局面では、自らドリブルで攻め上がり、一瞬にして局面を逆転させてしまいます。ゲームコントロール力(りょく)とも称すべきこの能力は比較する選手を知りません。本当に偉大な選手です。
試合は1-1のドロー。11,005人の観客は、秋空のように爽やかな感動を胸にスコア以上の満足感を抱いて家路についたものと思います。本当にいい試合でした。
ところで、MVPにはDF4人をドリブル突破でかわして先制ゴールをあげたチ・ソヨンが選出され、副賞のトヨタヴィッツを獲得。沢や川澄は既にアウディを貰っていることだし、こちらもいい結末でした。(でも、チ・ソヨン免許持っていなさそう)
アーセナルと震災復興支援チャリティマッチを行ったINAC神戸(写真)は「清々しい」という言葉がピッタリのチームでした。7cm以上も平均身長で差がある相手に対して、臆することなく正面からぶつかり、持ち前のパスサッカーを貫く戦いぶりは男子サッカー以上にサムライの心意気を感じました。そして、後半ロスタイムまで走り抜く精神力とスタミナ。デコイラン(おとりの動き)でさえ全速力というひたむきさには、素直に心を動かされました。高校サッカーの無垢なひたむきさとはまた一味違う、極め抜いたひたむきさとも言うべきもので、精神美すら感じました。
お目当ての川澄ちゃんはなかなかボールに絡めませんでしたが、一瞬のスピードは群を抜いており、さすがでした。ザッと数えただけでも5度の決定機を決め切れなかった大野でしたが、それだけいいポジショニングだったということ。そして、結局は沢です。普段は気配を消して漂っているのですが、攻撃でも守備でも、ここぞという時には必ずボールに絡んできます。男子選手に例えるなら、遠藤と全盛期の藤田を足して2で割らない感じ。また、押し込まれた悪い流れの局面では、自らドリブルで攻め上がり、一瞬にして局面を逆転させてしまいます。ゲームコントロール力(りょく)とも称すべきこの能力は比較する選手を知りません。本当に偉大な選手です。
試合は1-1のドロー。11,005人の観客は、秋空のように爽やかな感動を胸にスコア以上の満足感を抱いて家路についたものと思います。本当にいい試合でした。
ところで、MVPにはDF4人をドリブル突破でかわして先制ゴールをあげたチ・ソヨンが選出され、副賞のトヨタヴィッツを獲得。沢や川澄は既にアウディを貰っていることだし、こちらもいい結末でした。(でも、チ・ソヨン免許持っていなさそう)
2011年11月27日日曜日
Missing Pieces - U-22シリア戦
2011年11月19日土曜日
Golden Slumbers - 浜名湖でのクラス会
写真は海外のリゾート地のように見えますが、浜名湖湖畔のホテルのベランダからのショットです。左下がプール、その先の2つの水面はゴルフ場の池、一番上の水面が浜名湖です。ここ数年恒例になった高校のクラス会を今回は首都圏と関西の中間、浜松で行いました。理数科という当時出来て間もないクラスで3年間を一緒に過ごしたクラスメイト達です。教室で雑巾を丸めて室内サッカーをやったり、トランプを何回没収されても性懲り無くナポレオンをやっていたりで、「史上最低の理数科」とか「天然記念物」とかいう有り難くない称号を頂いたクラスでした。しかし、大変な人材の宝庫だったということが、今になって判ります。卒業後30年を過ぎた頃から頻繁に再会を重ねるようになったのは、単に懐かしさ故だけではなく、出会いによってチカラをもらえるが故だと思います。
Golden Slumbersというビートルズ末期の曲があります。同名の邦画のテーマ曲にもなりました。11枚目のアルバムAbbey Roadに収録されています。このアルバムは「昔に戻って、またコンサートツアーをやろう。昔のようにオーバーダブをせずに曲を作ろう」というポールの呼びかけで「昔に戻る」ことをコンセプトに製作されたものです。しかし、既にメンバーの気持ち はバラバラ。実際、このGolden Slumbersのレコーディングにはジョンは参加していません。この曲の歌 詞は16世紀の子守唄がベースになっていますが、ポールはオリジ ナルの歌詞でこう始めています。「Once there was a way to get back homeward(かつては家に戻る道があった)」残念ながらポールの呼び掛けは功を奏さず、ま もなくビートルズは解散することになります。そういえば、最後のアルバムLet It Beの最後の曲もGet Backでした。時の流れに抗して昔に戻る(=Get Back)ということは不可能なのでしょう。時とともに全てが変化します。想い出以外は。人は美しい想い出に戻ろうとしますが、既に戻る場所は失われているのです。ただ出来ることは、想い出を重ねていくこと。そして、同じ想い出を作り、分かち合っていける仲間がいることは何よりも幸せです。「あの日」には帰れませんが、今日をその「あの日」に変えることは可能なのです。
写真の右上で輝いているのは生まれたての朝日です。ホテルの部屋の中では、齢を重ねてちょっと髪の毛が薄くなったオジサン達が、前日の夜更けまでの宴会疲れでGolden Slumbers(黄金のまどろみ)の真っ只中にいました。
写真の右上で輝いているのは生まれたての朝日です。ホテルの部屋の中では、齢を重ねてちょっと髪の毛が薄くなったオジサン達が、前日の夜更けまでの宴会疲れでGolden Slumbers(黄金のまどろみ)の真っ只中にいました。
2011年11月16日水曜日
いくつかの疑問符 - 北朝鮮戦
敗れたからというのではなく、何かしっくりとこない試合でした。疑問符の多い試合でした。まず、鄭大世の前半途中での交代。負傷したわけでもなく、不可解な交代です。日本選手とのやりとりが監督の琴線に触れたのかと勘ぐりたくなるエースの交代でした。ただ、これが結果的には大当たり。交代で入った7番が日本の守備を撹乱し、得点の起点にもなっていました。タジク戦から先発6人を入れ替えたザッケローニ采配は当然。消化試合である以上、控えの選手を試すとともにアウェーのプレッシャーを経験させたのは妥当な作戦だったと思います。序盤北朝鮮に押し込まれる展開に、憲剛の位置どりを下げて中盤でタメを作り試合を落ち着かせようとしたのも肯ける采配。憲剛に遠藤の役割を期待したわけですが、かえって前線との距離が間延びし、機能しませんでした。遠藤に代わる選手がいないという課題が浮彫りになった試合でした。 後半残り30分、その憲剛に替えて内田を投入し、3-4-3にシステムチェンジ。これまで結果がでていない3-4-3をこの場面で試すこだわりは、このゲームを文字通りテストマッチとして位置付けるザックの割切り故か、冷静さを欠いた采配か?試合後のインタビューでの表情を見ると、さすがのザックもスタジアムの異様な雰囲気に飲まれていたのではないかと思えました。ハーフナー、李の投入で得点への執念を見せたものの、清武を下げた段階で攻撃の起点を失った日本代表は、ゴールへ向かう道筋を自ら閉ざしてしまいました。
ザッケローニジャパンの不敗記録は途切れてしまいましたが、これで代表の先行きを不安視する必要はないと思います。早い段階で、伊野波の左サイドを手当し、20番を抑えたり、遠藤を投入して、タメを作るゲーム運びをしたりしていれば、いきり立つ北朝鮮をいなす試合運びが出来ていたと思います。タジキスタン戦で浮かれていたところに、控え選手の底上げとレギュラー陣とのコンビネーションの醸成、遠藤の代役の育成という課題を改めてつきつけられたのはむしろ幸いだったかもしれません。個人的にも、代表戦の日恒例の験担ぎだった豚カツの昼食を怠ってしまったのは、大きな反省材料です。それにしても、鄭大世の前半途中交替は大きな疑問符。
ザッケローニジャパンの不敗記録は途切れてしまいましたが、これで代表の先行きを不安視する必要はないと思います。早い段階で、伊野波の左サイドを手当し、20番を抑えたり、遠藤を投入して、タメを作るゲーム運びをしたりしていれば、いきり立つ北朝鮮をいなす試合運びが出来ていたと思います。タジキスタン戦で浮かれていたところに、控え選手の底上げとレギュラー陣とのコンビネーションの醸成、遠藤の代役の育成という課題を改めてつきつけられたのはむしろ幸いだったかもしれません。個人的にも、代表戦の日恒例の験担ぎだった豚カツの昼食を怠ってしまったのは、大きな反省材料です。それにしても、鄭大世の前半途中交替は大きな疑問符。
2011年11月12日土曜日
北の国から - タジキスタン戦

さて、もうひとつの北の国からの便り、タジキスタン戦。Hub吉祥寺店(写真)で観戦しました。サッカー検定認定証呈示で5%割引という数少ない(唯一の?)特典を受けられるお店です。もっとも、10%割引のクーポン券を配っていましたが・・・。ともあれ、タジク戦。前半は、凸凹のピッチに足を取られて、ラストパスの精度を欠いたり、シュート前のトラップがうまくいかなかったりで、シュートまで持ち込めない苦戦が続きました。それを打開したのが、今野。自陣でのタックルでボールを奪った今野がドリブルで攻め上がって、香川に預け、壁パスをもらう為にペナルティエリアに侵入するも、香川からのパスはマイナス方向で長谷部に。ゆっくりと自陣方向に引き上げる今野が何を思ったか、ペナルティエリアの外で立ち止まっていました。そして、憲剛のシュートシーンに猛然とこぼれ球を狙ってダッシュ。今野代表初ゴールは今野らしからぬリスクを負った攻め上がりからの得点でした。後半の3得点は、タジクの足が完全に止まり、プレスがルーズになったが故。パスやトラップの際の余裕が生まれ、ボールコントロールを修正する時間が出来た為です。最終予選の相手は、こんな余裕を与えてくれないでしょう。もっとも、ロスタイムでの4点目は文句なし。香川→清武→香川→清武→前田→清武→岡崎 Gooooal!!!。相手の選手も思わずみとれてしまうようなダイレクトパスで描かれた美しい幾何学模様。タジキスタンからの便りは抑揚のない多少退屈な文章で綴られていましたが、最後は魅惑的なキスマークXXXXで締めくくられていました。
2011年11月9日水曜日
When I'm Sixty-four
この曲はポールが作詞・作曲した曲で1967年にリリースされた「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band」のアルバムに収録されています。ちょうど64歳だったお父さんに捧げた曲と言われています。(「親孝行なビートルズ」というのはちょっと笑えます。)とは言え、曲自体はポールが10代後半に作って、デビュー前から歌っていたようです。その曲をお父さんの誕生日に引っ張り出してきたという訳です。「僕が64歳になって、髪の毛が薄くなっても、君は僕を必要としてくれるかい?僕の為に食事を作ってくれるかい?」と恋人に問いかけ、「君は暖炉の側でセーターを編み、僕は庭で土いじり。これ以上の幸せはないよ。夏にはワイト島に別荘を借りよう。あまり高くなければね。君は孫を膝に乗せて・・・。ベラとチャックとデーヴだ。」と続きます。何ともリアルなこんな詞を十代で書いてしまうとは、ポール恐るべしです。ただ、ここまでの妄想は男の子には無理ではないでしょうか。当時付き合っていた女友達の他愛ない冗談話が元ネタになっているのではと想像しています。小坂明子の「あなた」って感じで。
当のポールは64歳の時は2度目の奥さんとの離婚を宣言して離婚調停中でした。なかなか歌通りの幸せな人生という訳にはいかないものと思っていたら、古稀を前にした69歳の今年、3度目の結婚を果たしています。やはり、只者ではありません。
ところで、この曲は映画「ガープの世界」のテーマ曲となっているようです。原作は村上春樹が好きな(私も大好きな)米国の作家ジョン・アーヴィングです。世界は色んなところで繋がっています。彼の作品の中でも「ホテル・ニューハンプシャー」は特にオススメです。
それにしても、64歳。ポール(もしくはポールの元カノ)程のイマジネーションが無くとも、十分想像出来る歳になってしまいました。(村上春樹風に)やれやれ・・・。(写真は六本木Abbey Road店内に飾ってあるオブジェ)
2011年11月6日日曜日
長嶋茂雄伝説 - スランプ脱出法

2011年10月27日木曜日
ヒデの遺したもの
昨日のスポーツ紙Web版に、以下のような記事が掲載されていました。「J2湘南は26日ホーム京都戦(平塚)の試合前にエキシビションマッチを開催した。クラブOBの中田英寿氏(34)らから構成されたベルマーレレジェンドと、芸能人からなるSwervesが対戦。中田氏のキラーパスも出て、ベルマーレレジェンドが2-1で勝利した。(中略)中田氏は古巣の試合は観戦せず、さっそうと競技場を去った。」記者は「さっそうと」ではなく、「さっさと」と書きたかったんでしょうね。言わぬが花の最後の文章に記者の思いが込められているような気がします。「そりゃ、ないよ、ヒデ」というのが記事を読んでの感想でした(湘南も中田のサポートを失って、京都に0-1の敗戦でした)が、湘南のHP(写真)で確認してみると、予告メンバーにはヒデの名が無く、サプライズゲストだったようです。きっとスケジュールの合間を縫っての友情出場なのでしょうが、とかく誤解を招きがちな中田らしいエピソードです。思い出されるのはアトランタ五輪のグループリーグ第2戦ナイジェリア戦。マイアミの奇跡ブラジル戦勝利の後、決勝トーナメント進出に向け鍵となるゲームでした。前半を0-0で折り返したロッカールームで、勝利を目指す中田は攻撃の為にDF陣の押上げを要求します。その発言に、守備的な戦い方で引分け、勝ち点1を狙う西野監督が激昂し、チームに亀裂が生じます。ワールドユースでナイジェリアと戦い、勝てる相手と肌で感じていた中田に対し、ブラジル戦での疲労が残るDF陣を眺め、引分け狙いという現実的な戦法を選択した西野監督。故松田選手も「中田の意見に賛成したかったが、監督に逆らうのはどうかと思った」と回顧していました。結局、チームとして崩壊した日本は、後半2失点を喫し、0-2の敗戦。第3戦のハンガリー戦は、中田をはずした布陣で臨み、3-2で勝利したものの、得失点差でブラジル、ナイジェリアに及ばず、決勝T進出を逃しています。二十歳前のこの頃から中田は孤高のプレーヤーでした。
その後の中田の世界的プレーヤーへの軌跡は周知の通りです。奥寺という先達はいますが、日本のサッカープレーヤーに海外リーグへの道を拓いたのは間違いなく彼です。ジョホールバルの歓喜での3アシストに象徴されるように、日本が世界への扉をこじ開ける為には彼の力が必須でした。ウェブという媒体を通じてピッチ上の戦いを選手の視点で世界中に直接発信し、マスコミに挑戦状を叩きつけたのも彼でした。チャリティー事業を企画したり、菓子メーカー東ハトの執行役員を務めるなど、サッカー選手の活動の枠をスポーツ以外の領域にまで広げた彼の功績は、今後の歴史が更に評価していくことでしょう。彼の遺した偉大な足跡を顧み、未だ自分探しの旅の途上にあることを考えると、後輩達の試合を観なかったことを咎めるのは、正当な批判とは言えないかもしれません。
その後の中田の世界的プレーヤーへの軌跡は周知の通りです。奥寺という先達はいますが、日本のサッカープレーヤーに海外リーグへの道を拓いたのは間違いなく彼です。ジョホールバルの歓喜での3アシストに象徴されるように、日本が世界への扉をこじ開ける為には彼の力が必須でした。ウェブという媒体を通じてピッチ上の戦いを選手の視点で世界中に直接発信し、マスコミに挑戦状を叩きつけたのも彼でした。チャリティー事業を企画したり、菓子メーカー東ハトの執行役員を務めるなど、サッカー選手の活動の枠をスポーツ以外の領域にまで広げた彼の功績は、今後の歴史が更に評価していくことでしょう。彼の遺した偉大な足跡を顧み、未だ自分探しの旅の途上にあることを考えると、後輩達の試合を観なかったことを咎めるのは、正当な批判とは言えないかもしれません。
2011年10月26日水曜日
ビートルズが教えてくれた
先週末いつものAbbey Road Lonely Hearts Club(勝手につけた名前です)のメンバーとThe Parrotsのライヴを満喫して参りました。今回は、Oさんの還暦祝いも兼ねていたので、参加者9名の大所帯。お店自体も初回ステージから満席状態。女性客が多かったせいか、ステージは一段と盛り上がり、A Day in the Lifeのエンディングのうねりは、琴奨菊にがぶり寄りをされているような錯覚を覚える大迫力の演奏でした。
さて、36年前の今日、外貨獲得に貢献したとして、ビートルズに大英帝国勲章(Order of the British Empire:写真)が授与されました。Orderは「勲章」と日本語訳されていますが、「騎士団」を意味し、5等級の上位2等級叙勲者にはナイトの称号が与えられ、サーの敬称で呼ばれることになります。(マンUのファーガソン監督が叙勲しています。また、のちにポールも叙勲しています。)ビートルズに授与されたのは、最下等級5等級のMBE(団員)。それでも、ビートルズへの叙勲に「リバプール出身のオカッパ頭のいかれた連中に叙勲するのは、勲章の権威を汚すものだ」と武功で叙勲した元軍人などから批判が相次ぎ、ビートルズの叙勲に抗議して863個もの勲章が返却されたということです。
この批判に対して、ジョンは「僕らの叙勲に不満をもらした人たちは、戦争で人を殺して、それで勲章をもらったんだろう。でも、僕らの叙勲は、多くの人を楽しませたことの結果だから、僕たちの方がもらう資格はあると思う」と語っています。そして、ジョンは、4年後、英国のビアフラ内戦への関与、ベトナム戦争での米国支援に抗議して、勲章を返還しています。
ビートルズの叙勲に関しては、保守的な人々からの反対以上に、反体制派の当時の若者ファンからも相当な批判があったはずです。それでも、あえて叙勲を辞退しなかったのは、ジョンが語っているようにビートルズなりの社会へのメッセージだったと思います。
吉田拓郎は「ビートルズが教えてくれた」の中でこう歌っています。
♪ 勲章を与えてくれるなら
女王陛下からもらってしまおう
女王陛下はいい女だから
つきあってみたいと思う
それも自由だとビートルズは教えてくれた
その当時「本当の自由とは何なのか」ということをビートルズは伝えていたのだと思います。
時代の変わり目には、その時流の霊降者のような人物が時として現れることがあります。時代がその人を生みだし、時代の福音をその人の口を通じて語らせる。坂本龍馬であり、ビートルズであり、スティーブ・ジョブズであり・・・。たかだか20代の若者4人が残した余りにも大きな影響力は、そのように解釈しなければ、説明できないのではないでしょうか。
さて、36年前の今日、外貨獲得に貢献したとして、ビートルズに大英帝国勲章(Order of the British Empire:写真)が授与されました。Orderは「勲章」と日本語訳されていますが、「騎士団」を意味し、5等級の上位2等級叙勲者にはナイトの称号が与えられ、サーの敬称で呼ばれることになります。(マンUのファーガソン監督が叙勲しています。また、のちにポールも叙勲しています。)ビートルズに授与されたのは、最下等級5等級のMBE(団員)。それでも、ビートルズへの叙勲に「リバプール出身のオカッパ頭のいかれた連中に叙勲するのは、勲章の権威を汚すものだ」と武功で叙勲した元軍人などから批判が相次ぎ、ビートルズの叙勲に抗議して863個もの勲章が返却されたということです。
この批判に対して、ジョンは「僕らの叙勲に不満をもらした人たちは、戦争で人を殺して、それで勲章をもらったんだろう。でも、僕らの叙勲は、多くの人を楽しませたことの結果だから、僕たちの方がもらう資格はあると思う」と語っています。そして、ジョンは、4年後、英国のビアフラ内戦への関与、ベトナム戦争での米国支援に抗議して、勲章を返還しています。
ビートルズの叙勲に関しては、保守的な人々からの反対以上に、反体制派の当時の若者ファンからも相当な批判があったはずです。それでも、あえて叙勲を辞退しなかったのは、ジョンが語っているようにビートルズなりの社会へのメッセージだったと思います。
吉田拓郎は「ビートルズが教えてくれた」の中でこう歌っています。
♪ 勲章を与えてくれるなら
女王陛下からもらってしまおう
女王陛下はいい女だから
つきあってみたいと思う
それも自由だとビートルズは教えてくれた
その当時「本当の自由とは何なのか」ということをビートルズは伝えていたのだと思います。
時代の変わり目には、その時流の霊降者のような人物が時として現れることがあります。時代がその人を生みだし、時代の福音をその人の口を通じて語らせる。坂本龍馬であり、ビートルズであり、スティーブ・ジョブズであり・・・。たかだか20代の若者4人が残した余りにも大きな影響力は、そのように解釈しなければ、説明できないのではないでしょうか。
2011年10月18日火曜日
上海、Shanghai、シャンハイ

写真は黄浦江越しの摩天楼群で、現在の金融街です。メタリックな外壁が夕陽の照り返しを水面に映していました。ファインダーから眼を放して振り返ると、そこにはかつて「東洋のウォール街」とよばれた外灘(ワイタン)の旧銀行ビル群が、1920年代の重厚な街並みを留めています。東洋と西洋が出逢い、近代と近未来が接する都市がShanghaiなのです。圧倒的にエネルギッシュなパワーをみなぎらせながら、上海はどこに向かっているのでしょうか。
ホテルに戻ってホテルのLAN経由インターネットに接続してみると、BlogもFacebookもTwitterも接続不可。やれやれ。シャンハイは何処に向かっているのやら。
2011年10月13日木曜日
タジキスタン戦余話 - ラフィコフ監督
タジキスタンのラフィコフ監督(写真)は、弱気というか、謙虚というか、試合前から何度も日本の強さを強調し「勉強に来た」と発言していました。「勝負の世界だから勝つのを目指さないチームはいない。ただチャンスは100分の1、200分の1、1,000分の1かもしれない」
そして、0-8という大敗を喫した後の記者会見でも、日本を「ビッグなチーム」と表現し、「ほぼベストメンバーで戦ってくれたことに感謝している。何よりも日本に感心したのは、無駄な動きが一切なかったことだ。最後の3分間も全力で走っていた。これには感銘を受けた」と日本代表の姿勢を絶賛していました。ここまでは、よくあるGood Loserの発言。
その後に、クリーンな戦いぶりについて聞かれ、こう答えています。「ラフプレーには走らない、クリーンなプレーを心がけるというのを選手たちは理解している。私たちは日本の選手を怪我させるために来たわけではない。日本はもっと高い目標を置いているチームなので、こんなところで怪我をさせては申し訳ない」
「日本相手に攻撃の選手を入れるのは無駄」とエースFWを来日メンバーから外し、8点取られてもひたすら守備に徹するというように、ラフィコフ監督の戦術は徹底していました。選手にラフプレーを禁じていたというのも十分ありうることです。だとしたら、これは感謝しなければなりません。タジキスタン戦後半2桁得点を期待するTV実況中継を観ながら、試合が早く終わるのをひたすら祈っていました。小野伸二が相手DFの悪質なファウルで左膝靱帯断裂の重傷を負い、シドニー五輪本戦欠場を余儀なくされたばかりか、その後も慢性的な怪我と痛みに悩まされることになったのは、2000年のアジア予選フィリピン戦11対0の試合でした。
クリーンな守備でどこまで日本に通用するのか試すとともに、改善すべき点を見出していく。シリア失格に伴い、期せずして第三次予選の機会を得たラフィコフ監督の考え抜いた戦い方だったのかもしれません。次のホームでのタジキスタン代表の戦いぶりに期待したいと思います。その為にも、ラフィコフ監督の解任がないことを祈らずにはいられません。
そして、0-8という大敗を喫した後の記者会見でも、日本を「ビッグなチーム」と表現し、「ほぼベストメンバーで戦ってくれたことに感謝している。何よりも日本に感心したのは、無駄な動きが一切なかったことだ。最後の3分間も全力で走っていた。これには感銘を受けた」と日本代表の姿勢を絶賛していました。ここまでは、よくあるGood Loserの発言。
その後に、クリーンな戦いぶりについて聞かれ、こう答えています。「ラフプレーには走らない、クリーンなプレーを心がけるというのを選手たちは理解している。私たちは日本の選手を怪我させるために来たわけではない。日本はもっと高い目標を置いているチームなので、こんなところで怪我をさせては申し訳ない」
「日本相手に攻撃の選手を入れるのは無駄」とエースFWを来日メンバーから外し、8点取られてもひたすら守備に徹するというように、ラフィコフ監督の戦術は徹底していました。選手にラフプレーを禁じていたというのも十分ありうることです。だとしたら、これは感謝しなければなりません。タジキスタン戦後半2桁得点を期待するTV実況中継を観ながら、試合が早く終わるのをひたすら祈っていました。小野伸二が相手DFの悪質なファウルで左膝靱帯断裂の重傷を負い、シドニー五輪本戦欠場を余儀なくされたばかりか、その後も慢性的な怪我と痛みに悩まされることになったのは、2000年のアジア予選フィリピン戦11対0の試合でした。
クリーンな守備でどこまで日本に通用するのか試すとともに、改善すべき点を見出していく。シリア失格に伴い、期せずして第三次予選の機会を得たラフィコフ監督の考え抜いた戦い方だったのかもしれません。次のホームでのタジキスタン代表の戦いぶりに期待したいと思います。その為にも、ラフィコフ監督の解任がないことを祈らずにはいられません。
2011年10月12日水曜日
タジキスタン戦 - 昴の輝き

とはいえ、代表の出来は出色でした。天空の昴の如く美しい陣形で青い光を発していました。その中でもひときわ輝いていたのが、中村憲剛でした。ベトナム戦でも後半投入されてからチームに心地よいリズムをもたらしていましたが、今回も見事にタクトを振り、チームの攻撃を組み立てていました。駒野への気の利いた落としで、先制点のお膳立てをした後は、自らのゴールも含めて8ゴール中7ゴールに絡む大活躍です。遠藤、長谷部のボランチ陣との連携は慣れたものですが、香川との連携に一層の磨きがかかっていました。香川の右足アウトの1点目は間違いなくザックジャパンのベストゴール。香川のスルスルッという飛出し、超難度のシュートは勿論称賛に値しますが、それを引き出した憲剛のラストパスは鳥肌ものでした。また、後半11分の自身のゴールに人差し指を突き出しながらも控え目に喜ぶ姿には男の色気を感じさせました。憲剛、格好いい。トップ下のポジションにベテランが名乗りをあげてきて、ザックジャパン、ますます面白くなってきました。(写真は吉祥寺スポーツバー麦犬)
2011年10月10日月曜日
ベトナム戦 - テストマッチの意味合い

ベトナム戦は、テストマッチという言葉に相応しい内容でした。課題の3-4-3の布陣のテスト。藤本・細貝・原口・西川らサブ組のテスト。サブ組に関しては、藤本(写真右)も含め、それなりのアピールはしたものの、先発組への昇格を決定つけるパフォーマンスを見せることは出来ませんでした。むしろ、ピンボールのようなせわしないサッカーに終始し、チェンジオブペースやタメをもたらすことの出来る遠藤や本田の存在の大きさを逆に際立たせた感があります。
3-4-3は機能しませんでした。前線を厚くしながら、その分お互いにスペースを消しあって、攻撃の連動性が失われていました。ポジションがかぶっていたシーンも再三見られました。前線に張った香川は引いたポジションからバイタルエリアに飛びこんでいく持ち味を封印されていましたし、駒野は自らの居場所を見つけられずにいました。3-4-3は、両翼の厚みを増して、サイド突破から攻撃を仕掛けようというシステムですが、あまりにもその基本に忠実すぎて、サイドでノッキングを起こしていたり、肝心の中央が手薄になっていました。課題だらけでしたが、そのような課題を炙り出せるのがテストマッチ。十分意義があったと思います。さすが名将ザッケローニ、しっかりとしたチーム作りをしています。ただ、3-4-3については、選手達がそれぞれの所属チームに戻ると3バックシステムをほとんど経験できないという不安材料があるとともに、阿部・今野といったユーティリティプレーヤーが重用されがちになるという副作用があります。
さて、テストマッチという言葉ですが、ラグビーではフル代表同士の国際試合そのものの呼称であり、現在開催されているW杯もテストマッチということになります。もともと、英国が豪州・ニュージーランドなどの自治領と国際試合をする際に、力量を計るという意味で使ったことに由来しています。したがって、ラグビーファンに言わせると、サッカーで五輪代表の強化試合をU-22テストマッチなどというのは、明らかな誤用ということになる訳ですが、サッカーがラグビーと袂を分かってから既に150年近くになるのですから、言葉遣いが異なってきても当然であり、目くじらをたてる程では無いのでは?
2011年10月6日木曜日
巨星逝く

Walkman愛好家であった私としては、Walkmanが後発のiPodに取って替わられるのを苦々しく思っていました。しかし、今にして思うと、Walkmanが根本的にはラジカセの手のひらサイズへの小型化に過ぎなかった(勿論、おかげで私達の日常は飛躍的に音楽に満たされることになりましたが)のに対し、iPodはインターネットに更に命を吹き込み、ライフスタイルやエンターテインメント産業の在り方そのものを変革するものでした。Steve Jobsの見据える射程は、我々よりもずっと彼方の水平線に向けられていました。PC時代に自らピリオドを打ったSteve Jobsの瞳には、どのような未来が広がっていたのでしょうか。そして、そのビジョンを誰が引き継ぐことになるのでしょうか。逝去する前日にリリースされたiPhoneの新モデルはiPhone 5ではなく、iPhone 4Sでした。Silicon Valleyでは、4SはFor Steveと読むと言われているそうです。Silicon Valleyは健在です。写真はAppleのホームページのものです。Steve Jobs 1955 -2011のキャプションのみがつけられています。彼を語るには言葉はいらないということでしょう。
2011年10月4日火曜日
Size Does Matter - Boeing Factory
シアトル出張初日。日曜日朝方に到着し、ホテルにもチェックイン出来ないので、空港からレンタカーでボーイングのエバレット工場に直行。Size Does Matter!(サイズが問題だ)を実感してきました。
同工場は、一般公開されており、予約制で約1時間半の工場見学をすることが出来ます。床面積39万8千m²、容積は1,330万m³。世界最大の建築物としてギネスブックにも登録されています。東京ドームの約8倍の建坪に東京ドームが約11個入っているという建物を想像して下さい。
受付棟から工場にバスで移動し、地下への階段を降りると、そこには電線・配管を天井や壁面に這わせた全長500mのトンネルがあります。トンネルを200mほど行ったところで巨大なエレベータに乗り、工場中央の見学用テラスに。見下ろすと、組立途中の機体が10台ほど。なかにはつい先週第1号機がANAに引き渡された最新鋭機787も。機体が特殊カーボンファイバーで出来ており、大幅な軽量化が実現できた為、燃費効率は20%アップとか。時代はエコです。眺めはとにかく壮観そのもの。尾翼だけの機体の横に、中央部分まで組み上がった機体が並び、工場の出口付近になると完成形の機体にエンジンが取り付けられる作業が行われています。機体は素材を保護するために薄緑色の特殊塗料が塗られており、さながら、蝶になる前のサナギを思わせます。
タイトルのSize Does Matterは、ハリウッド版ゴジラのキャッチコピーでした。日本の匠と発想力が見事に凝縮されたゴジラという憎めない怪獣を、ハリウッド版では、CGを駆使して、文字通りモンスターに仕上げていました。米国の資金力とスケールの象徴が、ハリウッドであり、航空機産業なのです。日本は、そのサイズに、知恵と匠の技で対抗してきたのですが、最近はなでしこジャパンを除き、どうも押されっ放しで、世界では影が薄くなりつつあります。と思っていたら、最新鋭機787は、コンセプトをANAがボーイング社に提案し、共同開発を進めてきたものとか。また、機体のカーボンファイバーは東レが提供し、この新素材を一体成型して機体主要部を製造しているのが三菱重工他日本メーカーということです。見えないところで、まだまだ、頑張っているようです。
ちょっと気分を良くしてホテルにチェックインすると、部屋の壁かけTVは韓国LG社製。やれやれ・・・。(工場内は携帯の持込みさえ禁止された完全撮影禁区画なので、写真は受付棟のギャラリーで撮影した尾翼とエンジンです。)
同工場は、一般公開されており、予約制で約1時間半の工場見学をすることが出来ます。床面積39万8千m²、容積は1,330万m³。世界最大の建築物としてギネスブックにも登録されています。東京ドームの約8倍の建坪に東京ドームが約11個入っているという建物を想像して下さい。
受付棟から工場にバスで移動し、地下への階段を降りると、そこには電線・配管を天井や壁面に這わせた全長500mのトンネルがあります。トンネルを200mほど行ったところで巨大なエレベータに乗り、工場中央の見学用テラスに。見下ろすと、組立途中の機体が10台ほど。なかにはつい先週第1号機がANAに引き渡された最新鋭機787も。機体が特殊カーボンファイバーで出来ており、大幅な軽量化が実現できた為、燃費効率は20%アップとか。時代はエコです。眺めはとにかく壮観そのもの。尾翼だけの機体の横に、中央部分まで組み上がった機体が並び、工場の出口付近になると完成形の機体にエンジンが取り付けられる作業が行われています。機体は素材を保護するために薄緑色の特殊塗料が塗られており、さながら、蝶になる前のサナギを思わせます。
タイトルのSize Does Matterは、ハリウッド版ゴジラのキャッチコピーでした。日本の匠と発想力が見事に凝縮されたゴジラという憎めない怪獣を、ハリウッド版では、CGを駆使して、文字通りモンスターに仕上げていました。米国の資金力とスケールの象徴が、ハリウッドであり、航空機産業なのです。日本は、そのサイズに、知恵と匠の技で対抗してきたのですが、最近はなでしこジャパンを除き、どうも押されっ放しで、世界では影が薄くなりつつあります。と思っていたら、最新鋭機787は、コンセプトをANAがボーイング社に提案し、共同開発を進めてきたものとか。また、機体のカーボンファイバーは東レが提供し、この新素材を一体成型して機体主要部を製造しているのが三菱重工他日本メーカーということです。見えないところで、まだまだ、頑張っているようです。
ちょっと気分を良くしてホテルにチェックインすると、部屋の壁かけTVは韓国LG社製。やれやれ・・・。(工場内は携帯の持込みさえ禁止された完全撮影禁区画なので、写真は受付棟のギャラリーで撮影した尾翼とエンジンです。)
2011年10月3日月曜日
Project Nadeshiko - 結局は太田裕美

アイドルから自立する女性、そしてカリスマミセスへ。「九月の雨」でつらい失恋を味わう地方出身の「そばかすお嬢さん」を、彼女の人生に重ねてしまうのは、かなり乱暴な話なのですが、架空の彼女が今は太田裕美のように充実した幸せな人生を送っていて欲しいななどとつい思ってしまいます。
今回のProject Nedeshikoは、尾瀬の自然を満喫するとともに、東北最高峰燧ケ岳(ひうちがたけ)に挑み、Dr.Kの誕生日を祝いつつ、東北の復興を祈念するということでした。太田裕美ネタで盛り上がったことで、Dr.Kには良いバースデープレゼントになったのではないかと思います。また、プロジェクト名のNadeshikoの由来のなでしこジャパンも力強くロンドン五輪への道を切り拓いてくれました。私の周りでも、女性陣が活発に東北支援活動を推進しています。自立する女性が、東北再生のエンジンとなるような気がします。ということで、今回もMission Completed!!
2011年9月29日木曜日
Project Nadeshiko - 何故か、太田裕美
という訳で、何故か、太田裕美です。75年の暮れにリリースされた「木綿のハンカチーフ」は永遠の名曲として今でも世代を超えて歌い継がれています。地方から都会に出て来て都会色に染まっていく「僕」は、もう故郷での生活には戻れないと恋人への手紙に綴ります。故郷で僕の帰りを待つ彼女は、僕との別れを察して、最後の贈り物に木綿のハンカチーフをねだります。涙を拭う為に。時代は、オイルショックの影響で高度経済成長期が終焉を迎え、「モーレツからビューティフルへ」の転換期の真っ只中にありました。高度成長の残照と安定成長の薄暮の中で、社会も人の心も揺れ動いていた時代でした。そういう意味では、この曲は、松本隆・筒美京平の黄金コンビというよりは時代そのものが生み出した名曲といえるかもしれません。そういえば、「木綿のハンカチーフ」のオリコン1位を阻み続けた「およげ!たいやきくん」も企業戦士への癒しソングでした。従来の応援ソングからの転換も時代を象徴していました。そして、問題の「赤いハイヒール」(写真)です。「木綿のハンカチーフ」の大ヒットにつながるプチブレイク序曲だと記憶しておりましたが、日本レコード大賞をはじめとする歌謡史に絶大なる知識を有するN隊長の断言通り、順序が逆で「木綿のハンカチーフ」の半年後にリリースされていました。しかも、「木綿のハンカチーフ」と対をなす男女を入れ替えたストーリーでした。地方から出てきたおさげ髪のそばかすお嬢さんは、東京に着いてすぐに赤いハイヒールを買います。仕事はタイピスト。タイプを打つたびに夢を失っていくと呟きます。そして、一度履いたら死ぬまで踊り続けなくてはいけない「赤い靴」に悲鳴をあげ、救いを求めます。そんな彼女に、「僕」は、一緒に故郷に帰って緑の草原で裸足になろうと誘います。彼女は、僕のプロポーズに応じてくれるのでしょうか?含みを残したまま曲は終わっています。この結末は、1年後にリリースされた太田裕美の最後のヒット曲「九月の雨」で明らかにされています。東京に留まった彼女は、ある男性と恋に落ちます。彼は木綿のハンカチーフの「僕」なのかもしれません。しかし、恋は破局を迎えることになります。彼への電話の最中、彼の肩越しに微かに聴こえた女性の笑い声。彼女は思わず外に飛び出し、タクシーを停めます。そして、彼の住所をポツリと告げます。彼との思い出の公園通りで、彼女は、9月の冷たい雨に打たれて立ち尽くします。「季節に褪せない心があれば、人ってどんなに倖福(しあわせ)かしら」9月の雨が彼女の涙を優しく洗い流します。木綿のハンカチーフではひたすら伸びやかで温かみに溢れていた太田裕美の高音に、9月の雨では胸をえぐる様な哀愁を帯びた鋭さも加わっており、彼女自身の大人への成長を感じさせます。太田裕美22歳。歌手としての円熟期を迎えながら、その後は目立ったヒット曲に恵まれない時期が続き、5年後彼女は大きな決断を下すことになります。長くなってしまいましたので、彼女自身のストーリーについては、次の機会に。
2011年9月26日月曜日
Project Nadeshiko - 尾瀬と東電、そして、太田裕美
さて、本題です。燧ケ岳は東北最高峰(写真は燧ケ岳山頂から望む尾瀬沼。遥か彼方に富士山が一瞬顔を覗かせました)。尾瀬小屋からの高低差は1,000m、全行程9時間。山頂アタック時にはスタミナ切れ、下山途中から足の踏ん張りが効かずという悲惨な状況でした。疲労の為にややもすると集中力が途切れがちになってしまうのを防ぐのが、「声」です。もともとは、単調な樹林帯のトレッキング時の気分転換を目的に、クマ除けと称して始めた「しりとり歌合戦」ですが、今では、我々の登山には欠かせない要素となり、疲労低減、集中力の維持にも役立っています(多分)。毎回、曲のレパートリーも広がり、今回は太田裕美の「赤いハイヒール」が登場しました。ここで、どうでもいい細部にこだわる我が登山チーム内での論争。赤いハイヒールと木綿のハンカチーフとでは、どちらが先にリリースされたか。赤いハイヒールのプチブレイクが木綿のハンカチーフの大ヒットに繋がったという説を、歌謡史には絶対的な自信を持つN隊長が真っ向から否定。という訳で、調べてみました。次回は太田裕美ファンのDr. Kに誕生日プレゼント替わりに捧げる「太田裕美物語」。
2011年9月22日木曜日
生酒とひやおろし - U-22マレーシア戦
台風が首都圏を直撃し、暴風雨の最中、馬喰町「岡永倶楽部」の「ひやおろし試飲会」(写真)に参加しておりました。台風の影響で参加者が半分以下となってしまいましたが、その分酒飲み同士の親密感が高まったとても良い会でした。
冬に仕込まれた日本酒は、春に低温加熱(火入れ)が行われ、発酵が止められるとともに殺菌処理がされます。1度目の火入れをされたお酒は蔵で寝かされながら、熟成が進みます。一夏を越して蔵出しされ、2度目の火入れ(殺菌処理)をされたお酒が瓶詰めされて店頭に並ぶ訳ですが、この2度目の火入れを行わずに瓶詰めされたものが「ひやおろし」です。熟成樽の大樽から小分けの木樽にひやのまま卸していたところからひやおろしと呼ばれるようになりました。2度目の火入れによって損なわれてしまう日本酒本来の香りや微妙な風味・旨味が残っており、「お酒を味わうならひやおろし」と言われています。そうであれば、最初の火入れも行っていない生酒がもっと美味いのではないかと素人考えで思ってしまいます。そこで、同じ銘柄の生酒とひやおろしを飲み比べてみました。甘味、辛味、旨味、果実味、香りなど日本酒の様々な味わいがストレートに伝わってくるのが、生酒。力強い味わいですが、どうしてもそれぞれの味や香りが暴れてしまうきらいがあります。一方、熟成されたひやおろしは、味がバランス良く落着き、かどが取れてまろやかな風味になっています。日本酒の深さを再認識させられた至福の飲み比べでした。
さて、U-22マレーシア戦。乱れに乱れたダイヤの交通機関を乗り継ぎ、零時過ぎに家に戻ってからの録画観戦となりました。ホームとはいえ、初戦の硬さの中で2‐0の勝利はまずまずだったと思います。2点とも、このチームの良さが出た美しいゴールでした。起点はいずれも清武。特に1点目のノールックパスは彼のサッカーセンスの高さが見事に現れていました。清武の他にも、スピードの永井、突破力の原口、ゴール感覚抜群の大迫、高速クロスの酒井、バランサー山村と、この世代は個性豊かで且つJリーグでもレギュラーに定着している経験豊かな選手が多数います。ここに海外組の香川や宮市が加わるかと思うとワクワクする布陣となります。ただ、まだ、生酒。それぞれの個性が弾けて、まだチームとして熟成するに至っていません。五輪予選を通じて、火入れされ、しっかりと熟成し、個人の個性をチームの個性に昇華させ、来年のロンドン五輪では香り高く、まろやか、且つ、芳醇な日本酒「ひやおろし」の美味を世界に知らしめてくれるものと期待しています。
ところで、難病バセドウ病と闘っていたジュビロの山崎が代表に戻って来ました。復帰後いきなりのゴール。夏の間じっくりと熟成していたのでしょう。
冬に仕込まれた日本酒は、春に低温加熱(火入れ)が行われ、発酵が止められるとともに殺菌処理がされます。1度目の火入れをされたお酒は蔵で寝かされながら、熟成が進みます。一夏を越して蔵出しされ、2度目の火入れ(殺菌処理)をされたお酒が瓶詰めされて店頭に並ぶ訳ですが、この2度目の火入れを行わずに瓶詰めされたものが「ひやおろし」です。熟成樽の大樽から小分けの木樽にひやのまま卸していたところからひやおろしと呼ばれるようになりました。2度目の火入れによって損なわれてしまう日本酒本来の香りや微妙な風味・旨味が残っており、「お酒を味わうならひやおろし」と言われています。そうであれば、最初の火入れも行っていない生酒がもっと美味いのではないかと素人考えで思ってしまいます。そこで、同じ銘柄の生酒とひやおろしを飲み比べてみました。甘味、辛味、旨味、果実味、香りなど日本酒の様々な味わいがストレートに伝わってくるのが、生酒。力強い味わいですが、どうしてもそれぞれの味や香りが暴れてしまうきらいがあります。一方、熟成されたひやおろしは、味がバランス良く落着き、かどが取れてまろやかな風味になっています。日本酒の深さを再認識させられた至福の飲み比べでした。
さて、U-22マレーシア戦。乱れに乱れたダイヤの交通機関を乗り継ぎ、零時過ぎに家に戻ってからの録画観戦となりました。ホームとはいえ、初戦の硬さの中で2‐0の勝利はまずまずだったと思います。2点とも、このチームの良さが出た美しいゴールでした。起点はいずれも清武。特に1点目のノールックパスは彼のサッカーセンスの高さが見事に現れていました。清武の他にも、スピードの永井、突破力の原口、ゴール感覚抜群の大迫、高速クロスの酒井、バランサー山村と、この世代は個性豊かで且つJリーグでもレギュラーに定着している経験豊かな選手が多数います。ここに海外組の香川や宮市が加わるかと思うとワクワクする布陣となります。ただ、まだ、生酒。それぞれの個性が弾けて、まだチームとして熟成するに至っていません。五輪予選を通じて、火入れされ、しっかりと熟成し、個人の個性をチームの個性に昇華させ、来年のロンドン五輪では香り高く、まろやか、且つ、芳醇な日本酒「ひやおろし」の美味を世界に知らしめてくれるものと期待しています。
ところで、難病バセドウ病と闘っていたジュビロの山崎が代表に戻って来ました。復帰後いきなりのゴール。夏の間じっくりと熟成していたのでしょう。
2011年9月19日月曜日
がんばってる?日本

至るところで展開されている「がんばろう!日本」「がんばろう!東北」キャンペーンですが、一方で、京都の五山送り火で陸前高田の松材の薪の使用が中止されたり、愛知県日進市の花火大会で東北復興支援と銘打ちながら福島で製造された花火の打上げが中止されたりと、ある種のクレーマーとそれに押し切られてしまうことなかれ主義は、図らずも、「がんばろう」の掛け声が掛け声のみで終わってしまう危うさを露呈してしまいました。鉢呂前経産大臣の「死の町」発言は、悪気はなく、単にボキャブラリーと思慮の不足によるものですが、その両者とも政治家には必須の資質です。「放射能つけちゃうぞ」に至っては、オフレコ状況でのおふざけとはいえ、緊張感の無さはそれだけでこの非常時の大臣としての資格無しです。首相の所信表明演説での野次も同様です。非常時の緊張感の無さは目を覆うばかり。政治家を育ててこなかったツケががここにきて回ってきています。
周りで復興の為に頑張っている方はたくさんいます。ただ、「がんばろう!日本」の掛け声の下に日本は本当に頑張っているんだろうか。「団結力」や「献身」の精神は、なでしこやサッカー日本代表だけの専売特許ではないはずなんですが・・・。
2011年9月15日木曜日
なでしこは何故強い?

①選手の高い志。「五輪での目標は? 」の質問に、監督は「メダル」、選手は「頂点」。W杯でもメダルを目標にしていた監督に、北京五輪でベスト4を目指してベスト4どまり、銅メダルを逃した反省から、あくまで優勝を目指し、優勝を公言していたのは選手達でした。監督より選手の 目線の高いチームは強い。
②チームコンセプトの徹底。タイ戦、中国戦は、控え主体の チームで臨みましたが、いずれも勝利。控え選手主体でも個々をアピールするプレーに走ることなく、しっかりと同じサッカーをして勝利する。控え選手にまでチームコンセプトが浸透しているチームはブレません。
③澤のキャプテンシー。「苦 しい時は私を見て」という澤の言葉は有名です。本当に苦しい終盤に、最終ラインまで下がって体を張る一方で、ドリブル突破で敵陣に切り込みラストパスを通す頑張りは、正にその言葉を実践するものです。また、W杯決勝のPK戦で最後のキックを若手の熊谷に任せたり、今回も2試合ベンチで過ごすという若手への厚い信頼は、そのキャプテンシーの進化を感じさせました。
④サッカーへの強い想い。東電のチームメイト の後押しでサッカーを続けることを決意し、福島への強い思いを胸に頑張る鮫島。年収200万円そこそこで、アルバイトをしながらサッカーに情熱を注ぐなでしこ達。彼女達の団結力の根源は、そんなサッカーへの熱い思いの共有にあります。
⑤絶対的な自信。W杯優勝で、彼女達は「夢は見るものではなく、実現するもの」ということを実感しました。この経験は彼女達にとって、大きな自信となったのみならず、人生観も変える程の出来事だったと思います。追われる立場の苦しみもあるでしょうが、なでしこ達が、自信を確信に変えながら、更に進化していくものと信じています。
2011年9月11日日曜日
中国戦 - 鮫島の特別な想い

彼女は福島第一原発の技術部門に勤務しながら、東電マリーゼでプレーしていました。そして、あの大震災。マリーゼの活動休止とともにサッカーを諦めるつもりでいた彼女に米国移籍を決意させたのは、「自分達の分までサッカーで頑張って欲しい。なでしこで活躍して福島のサポーター達を勇気づけて欲しい」というチームメイトからの後押しでした。W杯での活躍は、その言葉通り、福島のみならず、日本全体に元気をもたらしました。鮫島がW杯で着用したユニフォームは、福島第一原発の免震重要棟に飾られています。野田首相が訪れた際、吉田所長は、このユニフォームを「守り神」と紹介していました。9月11日は震災からちょうど半年。鮫島には、なんとしてもゲームに出なければならない特別な理由があったわけです。その鮫島。再三左サイドを駆け上がってはドリブルをしかける、気持ちの入ったいいプレーをしていました。何よりも5試合フル出場450分間を戦い抜いた熱い想いは、確実に被災地に届いたことでしょう。
2011年9月9日金曜日
なでしこ、五輪出場決定!!

約束の五輪切符を手に凱旋帰国のなでしこ。団体競技での最初の五輪出場決定です。おめでとう、そして、ありがとう。
2011年9月4日日曜日
ノルウェーの森

2011年9月3日土曜日
北朝鮮戦 - 噛み合わない歯車
なでしこ、苦戦 - 韓国戦
阪口のヘッドで先制するまでの10分間はいいリズムでしたが、その後は、いいところ無し。
悪かった点・・・。足が動いていなかった。パスの精度が悪かった。守備陣のライン押上げがなかった。中盤が間延びしていた。こぼれ球への寄せが遅い。ゴール前でのマークがルーズ。選手間の距離感が悪かった。などなど・・・・・・。
唯一良かった点・・・。勝ったこと。
こういうチームを強いチームという。
新ユニフォーム(写真)の胸のひとつ星とW杯王者のエンブレムは伊達じゃない。
悪かった点・・・。足が動いていなかった。パスの精度が悪かった。守備陣のライン押上げがなかった。中盤が間延びしていた。こぼれ球への寄せが遅い。ゴール前でのマークがルーズ。選手間の距離感が悪かった。などなど・・・・・・。
唯一良かった点・・・。勝ったこと。
こういうチームを強いチームという。
新ユニフォーム(写真)の胸のひとつ星とW杯王者のエンブレムは伊達じゃない。
2011年9月2日金曜日
なでしこ発進
「ノルウェーの森」の続きを書かなければならないのですが、男女五輪予選、W杯予選が開始されましたので、閑話休題。
なでしこがロンドンに向けて発進しました。ロンドン五輪最終予選初戦、タイ戦。佐々木監督は11日間で5戦という強行日程を勘案して、中盤4人を総入替えし、ターンオーバー制を採用してきました。ひとつの取りこぼしも出来ない状況下、なかなか勇気のいる戦術です。なでしこ達は開始3分で実力の差を実感したと思います。しかし、相手陣内の高い位置でボールを奪い、ほとんどタイ陣内でゲームを進められる展開ながら、無得点のまま前半終了。焦ってもおかしくない展開ですが、主力投入の選手交替は宮間のみにとどめ、ターンオーバー制を堅持した采配は見事でした。選手もよく期待に応えて、3対0の勝利。多少物足りなさは残りますが、堂々たる横綱相撲で、王者なでしこ、上々の滑り出しです。前半の苦戦は、宮間も言っている通り「苦しい試合だったからこそ、スイッチが入った」とむしろいい刺激になったと思います。なでしこフィーバーによる疲労蓄積の影響は杞憂に終わりそうです。そして、貴重な先取点を決めたのは、またしても川澄。好調を持続している川澄がラッキーガールになりそうな予感。
なでしこがロンドンに向けて発進しました。ロンドン五輪最終予選初戦、タイ戦。佐々木監督は11日間で5戦という強行日程を勘案して、中盤4人を総入替えし、ターンオーバー制を採用してきました。ひとつの取りこぼしも出来ない状況下、なかなか勇気のいる戦術です。なでしこ達は開始3分で実力の差を実感したと思います。しかし、相手陣内の高い位置でボールを奪い、ほとんどタイ陣内でゲームを進められる展開ながら、無得点のまま前半終了。焦ってもおかしくない展開ですが、主力投入の選手交替は宮間のみにとどめ、ターンオーバー制を堅持した采配は見事でした。選手もよく期待に応えて、3対0の勝利。多少物足りなさは残りますが、堂々たる横綱相撲で、王者なでしこ、上々の滑り出しです。前半の苦戦は、宮間も言っている通り「苦しい試合だったからこそ、スイッチが入った」とむしろいい刺激になったと思います。なでしこフィーバーによる疲労蓄積の影響は杞憂に終わりそうです。そして、貴重な先取点を決めたのは、またしても川澄。好調を持続している川澄がラッキーガールになりそうな予感。
2011年9月1日木曜日
新米 - 尻切れ蜻蛉 - ノルウェーの森
スマートフォンを持つようになってから、電車の中での読書量がめっきり減りました。また、そのスピードもすっかり遅くなってしまいました。言葉の意味や語源が気になると、ついついネットで検索してしまい、その度にスジを追い直す連続で、ちっとも読書に身が入りません。
今朝も、小説に「新前」の文字。新米の誤植だろうと思いながら調べてみると、「江戸時代、新しい奉公人は新しい前掛けをしているので、新前と呼ばれていたが、これが訛って『しんまい』となり、やがて新米の文字があてられることとなった。」なるほど。少し読み進むうちに、今度は「尻切れ蜻蛉」。普段からよく使っておりますが、語源は?再び読書中断。「鼻緒の先を蜻蛉の羽のように結んだ草履があり、とんぼ草履と呼ばれていた。その中でも踵の部分の無い足半(あしなか)という草履(写真)は尻切れ蜻蛉と呼ばれ、中途半端な様を尻切れ蜻蛉と呼ぶようになった」とても尤もらしいのですが、鼻緒の先を蜻蛉の羽のように結ぶというのがどうにもイメージ出来ませんし、草履を「物事が完結しない様」の例えに使うのはかなり無理があるのでは?ただ、文字通り「尻の切れた蜻蛉は飛べなくなってしまうので」というのも、残酷過ぎますね。などと考えていると、読書はそっちのけですっかり深みに。
昔から気になっていた「ビートルズの『ノルウェーの森』というタイトルは誤訳?」との問題。村上春樹の「ノルウェイの森」は、この音楽が飛行機のスピーカーから流れて、主人公が回想するシーンから始まります。小説全体がこの楽曲の旋律のようなどこかほの暗くウェットなトーンに包まれていて、秀逸なタイトルだと思っていましたが、作家自身は必ずしも気に入っていなかったようです。また、小説自体、ギリシャとイタリアという陽光溢れる南欧で、同じビートルズでも、「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のテープを120回も聴きながら執筆したということで、イメージ的には対極です(「ノルウェーの森」はアルバム「ラバー・ソウル」に収録)。村上春樹の音楽に関する造詣の深さは、その作品の中でしばしば披露されていますが、「ノルウェーの森」についても、「このタイトルは誤訳であるという議論があるが、そのことについて書くと長くなってしまうので」と語っています。実際長くなってしまうので、この話題については次回に持ち越しということにします。
今朝も、小説に「新前」の文字。新米の誤植だろうと思いながら調べてみると、「江戸時代、新しい奉公人は新しい前掛けをしているので、新前と呼ばれていたが、これが訛って『しんまい』となり、やがて新米の文字があてられることとなった。」なるほど。少し読み進むうちに、今度は「尻切れ蜻蛉」。普段からよく使っておりますが、語源は?再び読書中断。「鼻緒の先を蜻蛉の羽のように結んだ草履があり、とんぼ草履と呼ばれていた。その中でも踵の部分の無い足半(あしなか)という草履(写真)は尻切れ蜻蛉と呼ばれ、中途半端な様を尻切れ蜻蛉と呼ぶようになった」とても尤もらしいのですが、鼻緒の先を蜻蛉の羽のように結ぶというのがどうにもイメージ出来ませんし、草履を「物事が完結しない様」の例えに使うのはかなり無理があるのでは?ただ、文字通り「尻の切れた蜻蛉は飛べなくなってしまうので」というのも、残酷過ぎますね。などと考えていると、読書はそっちのけですっかり深みに。
昔から気になっていた「ビートルズの『ノルウェーの森』というタイトルは誤訳?」との問題。村上春樹の「ノルウェイの森」は、この音楽が飛行機のスピーカーから流れて、主人公が回想するシーンから始まります。小説全体がこの楽曲の旋律のようなどこかほの暗くウェットなトーンに包まれていて、秀逸なタイトルだと思っていましたが、作家自身は必ずしも気に入っていなかったようです。また、小説自体、ギリシャとイタリアという陽光溢れる南欧で、同じビートルズでも、「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のテープを120回も聴きながら執筆したということで、イメージ的には対極です(「ノルウェーの森」はアルバム「ラバー・ソウル」に収録)。村上春樹の音楽に関する造詣の深さは、その作品の中でしばしば披露されていますが、「ノルウェーの森」についても、「このタイトルは誤訳であるという議論があるが、そのことについて書くと長くなってしまうので」と語っています。実際長くなってしまうので、この話題については次回に持ち越しということにします。
2011年8月28日日曜日
なでしこブラシ - 日本のチカラ
さて、そのなでしこは、W杯から帰国後の嵐のような日々の疲労をひきずったまま、試練の五輪予選に臨むため、中国に旅立ちました。
2011年8月27日土曜日
出会い - グラスとIn My Life
Sさんからお礼のメールを頂きました。「頂いたグラスは大事に使います。グラスを使う度に、なでしこがW杯で優勝した2011年に退職したことを思い出します。」
♪ In my life, I'll love you more.
2011年8月21日日曜日
Giant Killer
前線にハーフナーとパウリーニョという決定力の高いFWを並べ、しっかり守備を固めてカウンターでゴールを狙うというシンプルな戦い方が、ツボにはまると格上を倒すことになるわけです。また、この戦い方は、攻撃的なチームこそその術中にはまり易く、浦和もまんまとその網に絡め取られてしまいました。
守備に集中を欠いた浦和は前半に3失点。いずれも、パウリーニョのスピードとハーフナーの高さに余りにも淡泊に振り切られての失点でした。最後は、次々と攻撃的選手を投入し、ほとんど2バックで、2-1-7の超攻撃的布陣で攻め立てた浦和ですが、攻撃陣を厚くすれば点を取れるほどサッカーは簡単なスポーツではありません。結局、甲府が逃げ切り、見事なGiant Killing。こんなチームがJリーグを盛り上げます。一方の浦和は、経営赤字転落とともに、リーグ戦も負け数先行の借金生活に。ピンチです。(写真は、ちょっと小さめの甲府ビッグフラッグの下からのショット)
2011年8月19日金曜日
人生の意義 - タイ生保のCMから
前回ご紹介したタイ生命保険のCMは珠玉の名作揃いなのですが、その中でも、このMae Toi (トーイお母さん)が私の一番のお気に入りです。彼女は癌の為に余命2年の宣告を受けます。「私は幸せ。2年もあれば色々な事が出来る」彼女は、体や心に障害を負い、物乞いや盗みを行っていたストリートチルドレン達を引取り、一緒に生活を始めます。「人生の価値は、富や名誉ではない。長生きでもない。自分がどれだけ他の人にとって価値のある人間かということ、そして、誰かを価値のある人にしてあげたかということ」と子供たちに教えます。
定かではありませんが、実在のモデルがいるようです。彼女は100人以上の孤児を育て、寄付を募るために重度の癌患者でありながら、100㎞マラソンを完走したという話もあります。
人生は3分のドラマに圧縮できるものでは決してないし、人生のディテールの大切さを軽視するつもりは毛頭ありませんが、3分のドラマで表現できる人生は、とても幸せな人生なんだろうなと思います。
定かではありませんが、実在のモデルがいるようです。彼女は100人以上の孤児を育て、寄付を募るために重度の癌患者でありながら、100㎞マラソンを完走したという話もあります。
人生は3分のドラマに圧縮できるものでは決してないし、人生のディテールの大切さを軽視するつもりは毛頭ありませんが、3分のドラマで表現できる人生は、とても幸せな人生なんだろうなと思います。
2011年8月14日日曜日
人を愛するということ - 話題のタイのCM
明治安田生命のCMは小田和正の歌が流れるだけでウルっときてしまいますが、それを超えるCMをタイの生命保険会社が製作していました。この生保会社は、毎年感動的なCMを製作しており、数多くの賞を受賞しています。今回のCMは特にドラマ性が強く、わずか3分の映像ですが、長編映画を観終わった後のような深い感動と心のざわつきを覚えます。(YouTubeのアイコンをクリックして再生して下さい。タイ語の音声が流れますので、音量にはご注意下さい。初めての映像の貼付けです。)
聾唖の父親と思春期の娘の話です。母親は死別してしまったのか、父一人娘一人の家庭です。娘は学校で「聾唖者の娘」とからかわれ、いじめを受けます。手話で明るく話しかけようとする父親に娘は心を閉ざします。「普通の父親が欲しかった。私の話すことを聞いてくれる父親が欲しかった。」娘の誕生日の夜、バースデーケーキを前に娘へのメッセージを一生懸命練習する父親。部屋から出てこない娘を不審に思って部屋の扉を開けると、そこには自殺を図った娘の姿が・・・。手首を血で染めた娘を抱えて、街頭で言葉にならない叫びをあげている父親の姿は、余りに残酷で正視出来ません。彼は、電話で救急車を呼ぶことも出来ませんし、手話を解する人がいなければ、娘を助けて欲しいという必死の思いを伝えることも出来ません。CMの中では、娘は無事病院に運び込まれ、最後はハッピーエンドで終わるのですが、もし、手遅れになってしまっていたらと考えさせられました。それはAnother Storyですが、娘は父親の深い愛情を理解しないまま、この世を去ってしまうことになります。その時、父親は何を思い、何を恨むのでしょうか。人を愛することができるという人間の美性がはらむ余りの惨酷さ。しかし、結局はAnother Storyは起こらないのだと決めつけるのはナイーヴ過ぎるでしょうか。報われない愛はあっても、理解されない愛はないと信じたいのですが・・・。
2011年8月11日木曜日
日韓戦 - KKホットラインと不等辺三角形
さて、日韓戦。アジア杯優勝に加え、なでしこのW杯制覇の好影響か、日本代表は自信に溢れる堂々とした戦いぶりでした。
まずは、ザッケローニ。選手起用がピタリとあたるアジア杯以来のザック・マジックは健在でした。負傷の岡崎の交替要員であれば、森本か松井が順当なところですが、U-22から引き揚げたばかりの清武を投入。その清武が見事にはまりました。2点目の本田への柔らかな落としも鮮やかでしたが、何といっても3点目の香川へのピンポイントクロスは香川の要求通り。香川は、代表では本田や松井とポジショニングが度々重なり、持ち味を出せない時期がありましたが、今は完全に香川ゾーンを作って、気持ちのいいくらいミドルシュートやペナルティエリア内への切込みを繰り返すようになりました。本田、松井、岡崎といった選手が、香川とはどちらかというと磁石のN極同士のように反発しあう関係(決して悪い意味ではなく)にあるのに対して、香川と清武の関係はN極とS極のように惹きあう関係のように思えます。セレッソ大阪で築かれた関係のなせる技でしょうか。かつて日本代表には西澤・森島というセレッソコンビの名ユニットがありました。その再来を思わせる香川・清武のKKホットラインユニットです。日本代表に大きな武器が加わりました。
なでしこジャパンは、高ぶりを抑えながら(じっと耐えながら)も艶やかに舞う日本の様式美を世界にアピールしてくれましたが、ザックジャパンは、遠近透視法(ロングパス・ロングシュート)も立体感(高さ・フィジカル)も無いが、不等辺三角形が複雑に組み合わされた日本画の構図美を表現してくれていました。美しい距離感、美しい位置どりでした。
ところで、韓国に3点差以上の勝利は、1974年9月28日国立競技場での4対1の勝利以来です。釜本が2ゴールをあげ、ブラジルから帰化したネルソン吉村も得点しています。37年の時を経ての文字通りの歴史的勝利と言えます。
2011年8月9日火曜日
森下愛子、スポーツ界を語る
森下愛子(写真)という女優をご存知でしょうか。スレンダーな肢体に憂いを帯びた大きな瞳。小悪魔的な役と清純な役を両方こなせる女優でした。代表作は1978年に永島敏行と共演した「サード」。本名吉田佳代、拓郎の奥さんです。月曜10時からの吉田拓郎・坂崎幸之助のオールナイトニッポンゴールドでは、しばしば、拓郎から奥さんネタが披露されます。昨日の話は、森下愛子がスポーツ界を語るようになったという話。
もともとスポーツ音痴で、拓郎が野球やゴルフのTV中継を観ていても全くのってこず、唯一テニス中継で拓郎がお気に入りのウォズニアッキが出て来ると多少のジェラシーの表情を見せる程度だったそうです。ところが、昨年の南アW杯デンマーク戦の遠藤のFKに魅せられ、以来、熱烈なヤットフリークになってしまいました。1点目の本田のFKには反応せずに、遠藤のFKに感動したというのが面白いところです。1年前はオフサイドルールすら知らなかった森下さんが、遠藤の追っかけをするうちにすっかりサッカーに詳しくなり、今では拓郎に解説しながら試合を観ているそうです。得点シーンでは、その前のプレーに遡って、あのディフェンダーがルーズだったなどと解説しているとのこと。たいしたものです。その森下さんが最近はサッカー界を語り、スポーツ界を語り始めました。「なでしこの活躍で女子サッカーの試合に観客が入るようになったのは、今後のサッカー界全体にとって非常にいいこと」「なでしこの国民栄誉賞受賞で選手以外のスタッフまで対象になったのは、スポーツ界としてとても喜ばしい」などなど。1年前はスポーツの話題には全く興味を示さなかった女性が、今はスポーツ界について熱く語っているという変貌ぶりに、「それを惹き起こした遠藤選手は凄い」と拓郎は語っています。「ただし、嫉妬は感じてはいない」とも。
「ウチの奥さんは怖いんだよ」と照れつつも、本当に嬉しそうに奥さんの自慢話をする拓郎。病魔を2人で乗り越えてきた夫婦愛を感じます。
もともとスポーツ音痴で、拓郎が野球やゴルフのTV中継を観ていても全くのってこず、唯一テニス中継で拓郎がお気に入りのウォズニアッキが出て来ると多少のジェラシーの表情を見せる程度だったそうです。ところが、昨年の南アW杯デンマーク戦の遠藤のFKに魅せられ、以来、熱烈なヤットフリークになってしまいました。1点目の本田のFKには反応せずに、遠藤のFKに感動したというのが面白いところです。1年前はオフサイドルールすら知らなかった森下さんが、遠藤の追っかけをするうちにすっかりサッカーに詳しくなり、今では拓郎に解説しながら試合を観ているそうです。得点シーンでは、その前のプレーに遡って、あのディフェンダーがルーズだったなどと解説しているとのこと。たいしたものです。その森下さんが最近はサッカー界を語り、スポーツ界を語り始めました。「なでしこの活躍で女子サッカーの試合に観客が入るようになったのは、今後のサッカー界全体にとって非常にいいこと」「なでしこの国民栄誉賞受賞で選手以外のスタッフまで対象になったのは、スポーツ界としてとても喜ばしい」などなど。1年前はスポーツの話題には全く興味を示さなかった女性が、今はスポーツ界について熱く語っているという変貌ぶりに、「それを惹き起こした遠藤選手は凄い」と拓郎は語っています。「ただし、嫉妬は感じてはいない」とも。
「ウチの奥さんは怖いんだよ」と照れつつも、本当に嬉しそうに奥さんの自慢話をする拓郎。病魔を2人で乗り越えてきた夫婦愛を感じます。
2011年8月7日日曜日
第4回サッカー検定
サッカー検定というマイナーな検定制度があります。サッカーに関する知識を検定するもので、TBS系列会社内のサッカー検定委員会が主催し、Jリーグ、日本サッカーミュージアムが協力しています。2009年に4級・5級の資格認定が開始されて以来、2010年に3級が追加され、この7月10日に新設された2級の検定試験が行われました(写真:東京会場の立正大学キャンパス)。現時点での最高位である2級合格者は全国で34名。私もその中に名を連ねることが出来、また、3級に続き最年長合格者の称号を頂きました。(検定資格保有者の呼称も「アドバンスド・エキスパート」から「マスター」に格上げになります。)
サッカー検定のホームページで過去問題の一部を体験することが出来ます(http://www.soccer-kentei.jp/blog/fan/)が、ここで引用されている問題は、かなり基礎的なもので、実際の試験問題はかなりマニアックなもの、ほとんど解答不可能なものが相当数含まれています。「サー・ボビー・ロブソンの後にバルセロナの監督を引継いだのは?」(正解:ルイス・ファン・ハール)というのはいい問題だと思いますが、「フース・ヒディングが現役時代にエールディビジ昇格に貢献したチームは?」(正解:デ・フラーフスハップ)というのは、マニアック過ぎて如何なものかと。また、「マダガスカルリーグでのプロサッカー1部リーグ史上最多スコアは?」(正解:149-0)とか、「初代W杯優勝杯の作者は?」(正解:アベル・ラフレール)というのはうんちくネタでグッド。但し、「1999年女子サッカー世界選手権米国代表のGKは?」(正解:ブライアナ・スカリー)とか「1994年度高円宮杯優勝チームは?」(正解:清水商)というのは正解者がいたとしたら驚き。また、「ヨルダンの女子サッカー選手が着用した民族衣装は?」(正解:ヒジャブ)や「ニューヨーク・コスモスのスポンサーは?」(正解:ワーナーブラザーズ)というのはサッカーの問題?
100問という問題数から、どうしても奇問・珍問を含めざるを得ないという背景は判りますが、サッカー文化の普及を目指しているのであれば、受験すること自体を躊躇してしまうような問題は避けるべきでしょう。また、W杯の開催地・優勝国・MVP・得点王の暗記は已むを得ませんが、この暗記の範囲を高校サッカー・JSL/Jリーグにまで広げるのにも反対です。
今回2級の最年少合格者はさすがに20歳ですが、3級は14歳、4級は12歳。きっと彼らは学校ではサッカー博士と呼ばれているのでしょうね。いいことです。サッカーオタクに市民権を与え、サッカー文化の底辺を広げる為にも、サッカー検定には頑張ってメジャーになって欲しいと願っている次第です。
サッカー検定のホームページで過去問題の一部を体験することが出来ます(http://www.soccer-kentei.jp/blog/fan/)が、ここで引用されている問題は、かなり基礎的なもので、実際の試験問題はかなりマニアックなもの、ほとんど解答不可能なものが相当数含まれています。「サー・ボビー・ロブソンの後にバルセロナの監督を引継いだのは?」(正解:ルイス・ファン・ハール)というのはいい問題だと思いますが、「フース・ヒディングが現役時代にエールディビジ昇格に貢献したチームは?」(正解:デ・フラーフスハップ)というのは、マニアック過ぎて如何なものかと。また、「マダガスカルリーグでのプロサッカー1部リーグ史上最多スコアは?」(正解:149-0)とか、「初代W杯優勝杯の作者は?」(正解:アベル・ラフレール)というのはうんちくネタでグッド。但し、「1999年女子サッカー世界選手権米国代表のGKは?」(正解:ブライアナ・スカリー)とか「1994年度高円宮杯優勝チームは?」(正解:清水商)というのは正解者がいたとしたら驚き。また、「ヨルダンの女子サッカー選手が着用した民族衣装は?」(正解:ヒジャブ)や「ニューヨーク・コスモスのスポンサーは?」(正解:ワーナーブラザーズ)というのはサッカーの問題?
100問という問題数から、どうしても奇問・珍問を含めざるを得ないという背景は判りますが、サッカー文化の普及を目指しているのであれば、受験すること自体を躊躇してしまうような問題は避けるべきでしょう。また、W杯の開催地・優勝国・MVP・得点王の暗記は已むを得ませんが、この暗記の範囲を高校サッカー・JSL/Jリーグにまで広げるのにも反対です。
今回2級の最年少合格者はさすがに20歳ですが、3級は14歳、4級は12歳。きっと彼らは学校ではサッカー博士と呼ばれているのでしょうね。いいことです。サッカーオタクに市民権を与え、サッカー文化の底辺を広げる為にも、サッカー検定には頑張ってメジャーになって欲しいと願っている次第です。
2011年8月4日木曜日
リベロ、駆け抜ける

ジュニアユースまではFWだったこともあり、攻撃の好きな選手でした。闘莉王に代表されるように、今でこそ、DFの攻め上がりは常識ですが、3バック全盛期において、そのプレースタイルは特異でした。日本では数少ないリべロタイプのDFでした。長髪をなびかせて「なんだテメー」と叫びながら前線に駆け上がっていく松田選手のプレーにサッカーファンは魅了されました。2010年マリノスから戦力外通告を受けた際には、2万人を超えるサポーターが通告撤回を求めて署名を行いました。ファンから愛される以上にサッカーとチームを愛した選手でした。マリノス解雇後に移籍先として選んだのはJリーグのチームではなく、その下部のJFLのチーム(松本山雅FC)でした。「最も早く声をかけ、熱心に誘ってくれたから」と本人はその理由を語っていますが、愛するマリノスと対戦するチームには行きたくなかったからとも言われています。そして、松本山雅FCでは、マリノスとは雲泥の差の環境の中で、練習から先頭に立って若手を引っ張り、サッカーについて熱く語っていたということです。
リべロは、イタリア語で「自由」を意味します。愛すべきやんちゃなリべロは、文字通り自由奔放にピッチと人生を高速で駆け抜けていってしまいました。「なんだテメー」と叫びながら。謹んで合掌。
2011年8月2日火曜日
なでしこ現象考 - その2

スポーツは文化です。特にサッカーには国民性やその国の社会情勢が色濃く反映されます。それがサッカーの面白さです。なでしこ達が偉業を達成し、女子サッカーがようやくメジャースポーツになろうとしている絶好のチャンスに、それを後押しすべきマスコミが、未だに時代錯誤の「女子供」感覚でしか扱っていないというのが、残念でなりません。これが日本のスポーツ文化の現状であり、女性のおかれた社会状況の現実なのかもしれません。米国のニュース番組では、GKのホープ・ソロが「かつてのチームメイトだった宮間がゲーム終了後真っ先に慰めにきてくれた。彼女は我々の気持ちを察して喜んでいる表情を見せなかった」と語り、なでしこ達の敗者を思いやる態度を讃えていました。FWのワンバックも「私は2度米国の勝利を確信した。でも、驚いたことに彼女たちは決して諦めなかった」となでしこ達の精神力に脱帽しています。これらの発言は日本の報道でも引用されていましたが、果たして、なでしこ達に米国代表の強さ、潔さについて質問したマスコミがあったでしょうか?かつて、オシムは「マスコミは父親である。暖かく見守りつつも厳しく叱責することで、子供は育つ。」と語っていました。スポーツ文化の成熟の為にはスポーツジャーナリズムの成熟が不可欠です。
ところで、女子サッカーW杯と同時期に米国オクラホマシティで女子ソフトボールW杯が開催されていたことを知る人は少ないと思います。日本は惜しくも準優勝でした(写真)。もしかしたら、3年前の北京五輪で金メダルを獲得して大フィーバーを惹き起したということを覚えている人も少なくなっているかもしれません。なでしこに同じ運命を辿らせてはいけません。
2011年7月30日土曜日
なでしこ現象考 - その1

2011年7月28日木曜日
Mさんに捧ぐ
The Sound of Silence
♪ Hello,darkness my old friend.
I've come to talk with you
again.
Because a vision softly
creeping.
Left its seeds while I was
sleeping.
And the vision that was planted
in my brain
Still remains.
With in The Sound Of Silence.
♪ 僕の心に植え付けられた映像は
今でもしっかりと息づいている
静寂の音と共に
サイモン&ガーファンクルの歌声が届きますように。
♪ Hello,darkness my old friend.
I've come to talk with you
again.
Because a vision softly
creeping.
Left its seeds while I was
sleeping.
And the vision that was planted
in my brain
Still remains.
With in The Sound Of Silence.
♪ 僕の心に植え付けられた映像は
今でもしっかりと息づいている
静寂の音と共に
サイモン&ガーファンクルの歌声が届きますように。
2011年7月27日水曜日
Mさんを悼む
友人のMさんが帰らぬ人となってしまいました。今、日常の風景の一部が欠落してしまっているような底なしの喪失感を覚えています。彼は6月24日苗場山に単独登山をし、以来音信が途絶えておりましたが、昨日ご遺体が確認されたとのことです。行方不明の状態だったことも知らなかった私は、昨日夕刻久々に彼の携帯に電話をしたばかりでした。その直後の訃報でした。
Mさんとは偶然に職場が2度一緒になり、その関係もあり、テニスやグルメを一緒に楽しむ仲間でした。一緒にオジサン達のテニスサークルをひとつ立上げ、グルメの会を2つ立ち上げました。世話好きとちょっと寂しがり屋の性格が惹き合ったのかもしれません。野球を愛し、音楽を愛し、お酒を愛し、何よりもご家族を深く深く愛していらっしゃいました。少年の笑顔のままの方でした。お互いに中学時代はスヌーピーとサイモン&ガーファンクルで育ったことを知ったのは、つい最近のことでした。Mさんから頂いたサイモン&ガーファンクルの1967年NYコンサートのライヴ映像が形見の品となってしまいました。ただただご冥福を祈るばかりです。
Mさんとは偶然に職場が2度一緒になり、その関係もあり、テニスやグルメを一緒に楽しむ仲間でした。一緒にオジサン達のテニスサークルをひとつ立上げ、グルメの会を2つ立ち上げました。世話好きとちょっと寂しがり屋の性格が惹き合ったのかもしれません。野球を愛し、音楽を愛し、お酒を愛し、何よりもご家族を深く深く愛していらっしゃいました。少年の笑顔のままの方でした。お互いに中学時代はスヌーピーとサイモン&ガーファンクルで育ったことを知ったのは、つい最近のことでした。Mさんから頂いたサイモン&ガーファンクルの1967年NYコンサートのライヴ映像が形見の品となってしまいました。ただただご冥福を祈るばかりです。
2011年7月22日金曜日
なでしこ秘話
決勝のPK戦の際のエピソードです。PKの苦手な沢は、蹴りたくないので最後のキッカーにしてくれとお願い。佐々木監督が「せめてGK海堀の前に蹴れ」と切り返して笑いが起きたというのは報道されていますが、監督は勝負のかかったキッカーは沢に決めていたとのことです。そこで、熊谷の順番の際に「先、行け!」と沢に叫んだところ、「紗季、行け!」 と聞き間違えた熊谷がボールに向かってしまった。話が出来すぎていて、真偽の程は不明です。
その一躍ヒロインとなった熊谷選手(写真)。帰国直後の学生との合コンの一部始終が男子学生のツイッターで実況中継され、大変な騒ぎに。監督批判したとか、男子学生に金メダルをかじらせたとか・・・。サッカー協会から厳重注意を受けた上、自身のツイッターも炎上し、精神的に大変な打撃をうけているものと思います。フランクフルト所属のプロ選手とはいえ、まだ二十歳の女の子。慣れない酒の席での仲間とのヨタ話にこれ程大騒ぎするのは如何なものかと。小倉日本サッカー協会会長の「よくそんな時間あったよね。僕なんかすぐ寝ちゃったのに元気だな。大したもんだよね」と笑い飛ばす態度が正しい対応だと思います。
それにしても、九州電力の原発やらせ投稿依頼同報メールといい、この男子学生のツイッターといい、大人も子供も情報発信の重さの自覚の欠如が甚だしい。また、インターネットの危うさに関する認識が余りに低過ぎます。インターネットの世界は常に見えない敵に囲まれ、見えない観客から注視されています。仲間とのパス交換(コミュニケーション)にも細心の注意が必要なのは、なでしこのピッチ上での戦いと同様です。自戒も込めて。
その一躍ヒロインとなった熊谷選手(写真)。帰国直後の学生との合コンの一部始終が男子学生のツイッターで実況中継され、大変な騒ぎに。監督批判したとか、男子学生に金メダルをかじらせたとか・・・。サッカー協会から厳重注意を受けた上、自身のツイッターも炎上し、精神的に大変な打撃をうけているものと思います。フランクフルト所属のプロ選手とはいえ、まだ二十歳の女の子。慣れない酒の席での仲間とのヨタ話にこれ程大騒ぎするのは如何なものかと。小倉日本サッカー協会会長の「よくそんな時間あったよね。僕なんかすぐ寝ちゃったのに元気だな。大したもんだよね」と笑い飛ばす態度が正しい対応だと思います。
それにしても、九州電力の原発やらせ投稿依頼同報メールといい、この男子学生のツイッターといい、大人も子供も情報発信の重さの自覚の欠如が甚だしい。また、インターネットの危うさに関する認識が余りに低過ぎます。インターネットの世界は常に見えない敵に囲まれ、見えない観客から注視されています。仲間とのパス交換(コミュニケーション)にも細心の注意が必要なのは、なでしこのピッチ上での戦いと同様です。自戒も込めて。
2011年7月20日水曜日
なでしこ快挙の秘密 - サッカー愛

2つ目は精神力。ゴール前での冷静さ、PK戦前にも笑顔を見せるタフさ、格上の米国に2度もリードされながら、追いついた気持ちの強さ。そして、120分間走り続けるのもスタミナ以上に強い精神力があってこそです。この精神力は体力と異なり、練習のみで鍛えられるものではありません。日常生活を含めた人格形成の中で結晶化していくものなのです。プロサッカー選手はサッカー少年にとって憧れの職業であり、日本代表クラスともなれば、それなりの収入を得、サッカー以外にも多くのものを手に入れることが出来ます。一方で、なでしこ達は、エースの澤でさえ、所属クラブからの年俸は360万円といわれています。他の選手達は月10万円の報酬と言われ、殆どがアルバイトをして生計をたてているのが実態です。経済的にも環境的にも恵まれない中で、彼女たちは、それでも、サッカーを選択し、多くのものを諦めながら、サッカーに打ち込んでいるのです。それだけ、サッカーを愛しているからこそ、大舞台でも臆することなく自分たちのサッカーを楽しみ、最後まで走り抜き、PK戦の前でも笑顔でいられたのです。なでしこ21人を固い絆で結び付け、あの団結力を作り出していたのは、佐々木監督の統率力、澤選手のリーダーシップの前に、サッカー愛という強烈な磁力だったのだと思います。澤選手は、北京五輪の際「苦しくなったら私の背中を見て」と言って、チームメイトを鼓舞しました。今回はその必要はなかったと思います。なでしこ達は、それぞれのサッカー愛をのびのびと表現する術を身につけていました。自ら優勝というゴールを定め、しっかりとそれを見据えて、疾走していました。サッカーの神様もその愛に応えてくれました。(写真は、日の丸を羽織って駆ける澤選手)
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