2012年4月21日土曜日

Johor Bahruにて - 15年の重み

1964年開場、1991年に観客席改修工事を行い、収容人数は15,000人から30,000人に。現在は、マレーシアサッカーリーグ2部ジョホールFAのホームスタジアム。傾いたコーナーフラッグ、止まったままの電光掲示板の時計、錆びついた観客席の椅子、青空を映す水たまり、荒れたピッチのあちこちに生える雑草・・・。唐突に芭蕉の句が浮かんできました。「夏草や 兵どもが 夢の跡」このLarkin Stadium(写真)で日本代表がW杯への扉を開いたのは、1997年11月16日のことでした。あれから15年。晴天の霹靂で代表監督に就任し、W杯初出場を成し遂げた岡田監督は、オシム監督のリリーフとして再登板し、南アで見事予選リーグ突破を果たしました。今は中国スーパーリーグで杭州を率いています。3アシストで勝利の立役者となった中田英寿は、本大会でも一人輝きを放ち、世界への階段を駆け上りました。引退後は世界中を旅しながら様々な慈善活動に携わり、東ハト執行役員、FIFA親善大使にも就任しています。2010年にはダボス会議のヤング・グローバル・リーダーズに選出されています。再三の決定機をふいにしながらも、最後は文字通り値千金のゴールデンゴールを決めた岡野雅行は、香港リーグを経て、今でもガイナーレ鳥取で髪をなびかせながらピッチを疾走しています。後半城彰二と共に投入された呂比須ワグナーは、ブラジルで指導者の道を歩み、昨年末ガンバ大阪の監督に就任する予定でブラジルから戻ったものの、ライセンス問題の為セホーン監督の下ヘッドコーチに就任。しかし、公式戦5連敗で解任。わずか3ヶ月の日本滞在後、傷心のブラジル帰国となりました。15年間に選手一人一人にそれぞれ様々な人生があり、様々な出来事があったことは、自らの15年間を振り返れば当然のことではあります。
スタンドを吹き抜ける湿っぽい風に乗って、FIFAのアンセムと山本浩アナの名調子が蘇ってきました。「スコールに洗われたジョホールバルのピッチの上に、フランスへの扉を開ける一本の鍵が隠されています。ラルキンスタジアムのこの芝の上で、日本代表はその鍵を、必ず見つけてくれるはずです。」(出張先で立ち寄ったスタジアム。外から写真を撮っていると、関係者らしき方が中に招き入れてくれました。「日本人にとってはW杯出場を決めたHistorical Placeだ」と説明しても、それがどうしたという感じでした。)

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