2012年11月7日水曜日

菜の心 - 台湾紀行プロローグ

2度目の台湾旅行です。今回も菜心のママにお世話になりました。「菜心」という名の台湾料理のお店が大久保駅から小滝橋通りに抜ける路地裏にかつてありました。台北出身のママ1人できりもりしている目立たないこじんまりとしたお店でしたが、とても人気があり、10数名入って、満員状態の時も度々ありました。そんな時も、ママ1人で調理と給仕をこなし、その手際のよさは驚異的でした。どこから手に入れたのか、台湾独特の食材を調理してくれたり、日本では手に入らない果物をデザートに出してくれたり。料理の味・量・サービス全て満点の個人的には5つ星のお店でした。3年ほどお店を出した後、思うところがあったのか、店を譲って、台北に帰ってしまいました。しかし、その後も時々来日され、その度に、常連仲間と一緒にお会いし、楽しいお酒を飲ませてもらっていました。
彼女は、台北市郊外の茶園農家の3男6女の次女として生まれました。祖先は100年以上前に福建省から台湾に渡り、南港包種茶を起こした由緒正しい家系の末裔であり、七代目にあたるそうです。名家とはいえ、当時の農家の暮らしは決して楽ではなく、彼女も靴を履かずに1時間程かけて山麓の学校に通っていました。途中、炭鉱があり、道に石炭ガラが転がっていて、足の裏が痛いのと、夏は焼けて熱いのには、往生したそうです。彼女は、走るのが得意で、4年生の時、学校の代表として台北市の大会に出場することになりました。晴れの舞台に裸足では可哀想ということで、お母さんが靴を買ってくれました。とても喜んだ彼女は、絶対に1位になろうと必死に駆けましたが、結果は2位。帰り道、泣きながら川で靴の汚れを洗い流し、来年こそ、この靴で1位になろうと心に誓ったそうです。そして、1年後、大切に大切にしまっていた靴をいざ履こうとしたら「足が大きくなっていて、入らなかったよ」破顔一笑、いつもの笑顔で語ってくれました。彼女の2足目の靴は、学校を出た後、家計を助ける為に町の工場で働き始めた際に買ったものでした。そこでの真面目且つ機転の効いた仕事振りが認められ、マレーシア工場に赴任。その後日本の会社に移り、そのまま、日本で暮らすようになりました。
お店を畳んで、ある程度の蓄えと共に故郷に戻った彼女ですが、農村独特の保守的な土地柄、周りは必ずしも温かく迎えてはくれませんでした。成功者へのやっかみもあって、口さがない噂を立てられたこともありました。そんな中で、彼女は、かつてお茶畑だった実家の周りを耕し、「菜心の菜園」と名付けた菜園(写真)を拓きました。食材(菜)の心を何よりも大事にした彼女が、今度は菜の心に耳を傾けながら、野菜を育てようというのです。(続く)

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