2013年5月25日土曜日

色彩を持たない「つくる」

「1Q84 Book3」から丸3年。村上春樹作品は、読後、時が経つにつれ、徐々に結晶が生成され、ある日突然、思いもよらぬ造形に驚かされたりする楽しさがあります。ただ、「1Q84」だけは、教団「さきがけ」の教祖への嫌悪感が思考や感性にぴったりと蓋をして、どこにも行けないもどかしさを感じていました。そんな想いの中でのこの新作「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」。今回はぴったりとはまってしまいました。「喪失」「孤独」「デタッチメント」「コミットメント」「啓示」「預言」「救済」「回復」「巡礼」。村上ワールドのキーワードが幾何学模様のように整然と並べられたこの作品は、ハルキストにとって、とても心地良く、身を委ね易いものでした。「シロ」はノルウェイの森の「直子」であり、「沙羅」は「レイコ」そのものではないか。それは、デジャヴというより、失われた恋人たちとの邂逅でした。新作は、「ノルウェイの森」の輪廻した姿であり、純化された結晶なのかもしれません。
それにしても、「何故、舞台が名古屋なのか?」素朴な疑問です。村上春樹は「名古屋は日本のガラパゴス」と称していたはずです。その特異な文化を必ずしも好意的には捉えていなかったと思います。舞台は、ストーリー展開からして地方の都市でなければなりません。神戸ではいけなかったのか、仙台ではいけなかったのか、長崎ではいけなかったのか。5人の高校生グループのうち「つくる」だけが東京に出ていきます。4人が地元に残り、地元でそれぞれの人生を歩みます。そして、ある日突然「つくる」はグループからの追放を宣告されます。それは、まさに楽園追放です。しかし、その楽園は、土地ではなく、仲間を意味します。この文脈から、舞台は、大学や産業において様々な選択肢を内包する自己完結的な都市で、特異性を持ちながらも、それ自体「楽園」ではあってはいけない一種無機質性を有する都市でなければならないわけです。なるほど、名古屋です。
村上春樹の作品のタイトルは、いずれも極めて暗示的且つ象徴的に作品を凝縮しているのですが、この作品の長いタイトルは、この作品のあらすじそのものでもあります。色彩(=自我、ポジショニング)を持たないことへの不安と苛立ち。青春時代の極彩色の彩りが否応もなくくすんでいかざるをえない生きるということ。逆に生を蝕んでいく色彩。それゆえの「つくる」という営み。「損なわれた」ものを辿り、再建していく為の巡礼の旅。
「失われたもの」「損なわれたもの」を取り戻すことは出来ません。「つくる」ことでしか先には進めません。

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