2010年7月2日金曜日

PK戦 - 残酷なドラマ

PK戦の後、ゲスト解説の中田氏が、自分もシドニー五輪でPKをはずして敗れてしまったが、PK戦で勝敗を決めるのは厳しすぎると語っていました。米国W杯決勝でのPK戦でPKをはずしたバッジオが「PKを決めたことは誰も覚えていないが、PKを外したことは皆が覚えている」という名言を残していますが、駒野も「PKをはずした駒野」としてサッカーファンの記憶に留められることでしょう。駒野に対するマスコミ、サポーターの反応は、随分暖かいものでした。翌日、にわかサッカーファンの女の子までが「駒野がかわいそう。PKなんて運だから」とのたまっていたのには驚かされました。日本のサッカー文化は着実に成熟しています。
シリコンバレーのGNさんから、「120分間走り回って足がガクガクのサイドバックにPKを蹴らしたのは、岡田監督のミスではないか」との鋭い指摘がありました。ただ、「公式戦では外したことがなかった」と駒野自身が語っているように、PKには絶対の自信を持っていたのでしょう。岡田監督は、気持ちの強い選手、練習でPKの確度が高い選手を順番に並べたのだと思います。ただ、PK戦の前の選手の状況を見て、選手を選び直すというオプションもあったのかもしれません。岡田監督が敗戦後のインタビューで答えていた「自分の執着心・執念が足りなかった」という意味深長な言葉が気になります。
PK戦といえば、オシム前監督はPK戦を見ずにロッカールームに籠ってしまうことで有名ですが、その理由は、90年のW杯イタリア大会まで遡ります。当時のユーゴスラビアは民族紛争に揺れていました。オシム監督率いるユーゴスラビア代表は、深刻な民族対立の影響を受け、メンバー選考にも様々な困難に直面しましたが、初出場のストイコビッチを中心に勝ち進み、ベスト8でマラドーナを擁するアルゼンチンと対戦します。試合は、延長を含めスコアレスドローに終わり、PK戦にもつれこみます。その時、ユーゴスラビアでPKのキッカーを志願したのはわずかに2人。他のメンバーはスパイクを脱いで、PKを蹴ることを拒否したそうです。もし、PKを蹴って失敗したら、民族対立の標的となり、生命の危険に晒されることを危惧したわけです。結局、志願した2名のみがPKを決め、勇気を奮い起こしてキッカーを務めた3人は全員が外し、ユーゴスラビアは敗れ去ります。オシム監督は、生命の危険という重圧を背負いながらペナルティエリアに向かうプレーヤーの姿を直視出来なかったというわけです。PK戦では、様々な、そして、多くは残酷なドラマが演じられてきました。
ところで、件(くだん)のにわかサッカーファンの女の子が抱いた素朴な疑問です。「何故、日本のFWの選手はPKを蹴らないで、DFの選手が蹴るの?」なるほど、確かに。

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