2010年7月9日金曜日

正義が勝たなければならない理由

シリコンバレーのGNさんからのメールの続きです。サッカーにおいて、何故、正義が勝たなければならないのか。(写真は、正義の女神テーミス)
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正義が勝たねばならないと言うには、理由があります。ずばり、「機械判定やビデオ判定の導入を阻止する」為です。では、何故、機械判定やビデオ判定に反対かと言うと、次の4つの理由によります。
① サッカーが全世界にこれだけ広まった理由は、様々な格差(貧富の差、民度の差、学力の差など)とは無関係に、ボールさえあれば、どんな国の人でも、手軽に、誰でも楽しめることにあると思います。機械判定やビデオ判定が導入されると、そうした機器を導入することが出来ない国や地域との間で「サッカー格差」が生じてしまいます。サッカーが「世界の共通言語」であり続けて欲しいなら、サッカー格差に繋がりかねない機械判定やビデオ判定はいかがなものかと思います。
② 最近の少年サッカーでは、プロのように審判の判定に不満をぶつける子供が増えています。「サッカーは少年を男にし、男を紳士にする」と言います。それは、自己犠牲のチームプレーや最後まで全力を尽くすといったことだけではなく、時には不条理をも飲み込んで審判の判定に従い、悔しければどこからもケチのつけようのないプレーをするという「美学」にあると思います。機械判定やビデオ判定が導入された時に、少年サッカーレベルでのモラル低下を懸念します。(モンスターペアレントがホームビデオを片手に審判に詰め寄るなんてことになったら、恐ろしいです。)
③ サッカーは、90分の途切れることのないドラマです。ベンチは試合前とハーフタイムしか選手と話が出来ません。フィールド上に散っている選手同士だって試合中に作戦会議なんて出来ません。選手たちは、その局面、局面でプレーしながら、一人で考え、判断し、行動するしかありません。それでも、アイコンタクトとか、意思統一とかされて、チーム全体がひとつの生き物のように動き出すところにチームスポーツとしてのサッカーの醍醐味があるわけです。機械判定やビデオ判定の導入によって、アメフトや野球みたいに、試合がぶつ切りの細切れになって、サッカーの醍醐味が損なわれてしまうことを危惧します。
④ ランパードのシュートがノーゴールとなった時に「44年前の出来事」が取り沙汰されました。「マラドーナの神の手」も然りで、実は、誤審や疑惑の判定というものが、長い年月の中で様々な伝説を生み出しているのではないかと思います。だから、サッカーは面白いのでしょう。誤審や疑惑の判定は「記録に残る試合ではなく、記憶に残る試合」を演出するスパイスみたいなものでしょう。
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今回のW杯で、後世に語り継がれること間違いないのが、GNさんも取り上げているランパードのノーゴールシュートとスアレス(ウルグアイ)のバレーボールブロックのゴール阻止でしょう。FIFAブラッター会長は、明らかな得点機が反則によって阻まれた場合、得点を認めるよう規則改定を検討することを表明しました。当該規則改定を討議する際、併せて、ゴール判定に新技術を導入するかどうかを検討するそうです。GNさんの声はFIFAに届くでしょうか。
さて、閑話休題。いよいよ、W杯決勝戦です。クライフのDNAを受継ぐオランダサッカーにクライフの作り上げた芸術品スペインサッカーが挑みます。当のヨハン・クライフはどのような想いで、この決勝戦を観戦するのでしょうか。

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