2013年3月31日日曜日

ヨルダン戦 - いくつかの疑問

前々回のブログで取り上げたVVVフェンローのカレン(写真)、フェンローとは今季限りとのこと。貴重なゲームを観ることが出来たのかもしれません。ところで、前回のブログのアムステルダムアリーナツアーで一緒だったデンマーク人の学生と駅への帰り道W杯予選について話をしました。「Danish Dynamiteはどんな具合?」「デンマークは、欧州予選で6チーム中5位で、とても厳しい状況。明日のチェコ戦で勝てなければもうノーチャンスだよ。しかも、アウェイの戦いだし、かなり難しいと思うよ。日本は?」「もしかしたら、来週、世界最速でW杯本戦出場権を獲得するかもしれない。」と多少得意気に答えたのは、今にして思えば、驕りがあったのだと思います。結果は、デンマークは敵地でチェコに3-0の快勝。他方、日本はヨルダンに1‐2のよもやの敗戦。サッカーに絶対とか、簡単な試合は無いということを思い知らされました。それにしても、納得のいかない敗戦でした。既に試合前に豪州vsオマーンが引き分けていただけに、引き分けでも予選突破が決まる試合。アウェイでの戦いでもあり、カウンター狙いの守備的布陣で臨んでも良かったのではないでしょうか。結果的にスコアレスドローで予選突破を決めれば、ミッション・コンプリートだし、逆に勝てる確率が高かったのではないかと思います。イタリア人の得意な戦い方だと思いますが、日本にすっかり同化しているザッケローニとしては、そのような戦い方を潔しとしなかったのでしょうか。攻撃的な布陣でした。トップ下に憲剛、サイドバックに駒野を入れていたら、随分守備は安定していたと思います。1失点目のCKでのマークのズレも問題ですが、ほとんどセンターラインからのドリブルからそのままゴールを許した2失点目はあり得ない失点でした。中央にヨルダンの選手は誰もおらず、1人の選手だけを止めればいいわけですから、ボールを失った酒井が内側に戻り、吉田が並走して、ハイエルを外側に追い出し、今野と内田がゴール前まで戻っていれば、何のことはない場面でした。ハイエルはメッシでもC.ロナウドでもないわけですから。代表にも心のスキがあったのでしょう。もう一つスルーできないのが、この場面、抜かれた吉田がそのままハイルの独走を許したのに対し、解説の松木さんが「ファウルで止めなきゃねぇ。失点するよりは、イエローカードをもらった方が、ずっといいわけですから」と堂々と述べていた。それを言っちゃオシマイですよ、松木さん。
色んな意味でかなり血圧の上がったヨルダン戦だったが、冷静になってみると、豪州・オマーンがそれぞれ勝ち点を分け合ったことで、得失点差を考えると、サッカーに絶対はないといいながら、日本の予選突破は、ほぼ間違いない状況。であれば、とにかく、自らのサッカーにこだわったザック采配もアリ?

2013年3月25日月曜日

No Ajax No Life

世界各国のプロサッカーリーグは、2強か3強の名門チームが常に優勝争いを繰り広げ、その他のチームが優勝することは滅多に無いというのが常態化しています。毎年優勝チームが変わる群雄割拠状態のJリーグの様な例は極めて珍しいようです。オランダのエールディビジもアヤックス、フェーエノールト(かつて小野伸二が在籍)、PSV(かつて朴智星が在籍)が3強を形成し、その中でもアムステルダムを本拠地とするアヤックスは、圧倒的な人気を博しています。アヤックスは欧州チャンピオンズリーグを4度制し、世界クラブチャンピオンにも輝いた強豪クラブですが、日本でマスコミに取り上げられることは滅多にありません。最近では、「東日本大震災直後にアヤックスが清水エスパルスをオランダに招待して慈善試合を行い、その収益金が義援金として寄付された」というニュースが報道されたくらいでしょうか。
日本とは全くというほど接点のないアヤックスですが、ヨハン・クライフが育ったクラブとして私にとっては特別な意味合いを有するクラブです。ヨハン・クライフは、1974年のドイツW杯で、「トータル・フットボール」という当時としては画期的な流動的ポジショニングのサッカーを展開し、優勝した西ドイツを凌ぐ衝撃を残したオランダ代表チームの象徴的なプレイヤーでした。当時のアヤックスにおいても、欧州CL3連覇の偉業を達成し、当時の背番号14はアヤックスの永久欠番となっています。
帰国便までの数時間、躊躇なく、空港から数10分の距離にあるアヤックスの本拠地アムステルダムアリーナに向かい、スタジアムツアーに参加してきました。約1時間のツアーガイド、ヤンは根っからのアヤックスファン。アヤックスにつき、熱く語ります。スタジアム自体は、収容人数5万3千人とビッグクラブとしては決して大きくない規模ですが、整備の行き届いたピッチといい、18分で開閉する屋根といい、クッションの効いたシートといい、全てに素晴らしいスタジアムでした。信じられないほどの急こう配の観客席は、最後列でも臨場感があり、また、ロイヤルボックスの豪華さは、これが欧州サッカーの楽しみ方かと納得させられました。いつもはツアーのクライマックスとなるはずの更衣室は、当日ツアー直前にファン・ペルシー(!)他のオランダ代表が練習の為に使用していた為、見学不可となってしまいました。「ファン・ペルシーはまだいるのか」「スナイデルは来たのか」としつこく食い下がるサウジアラビアからのツアー客に、スタジアムガイドのヤンは、苛つきながら、こう吐き捨てました。「オランダ代表の試合は嫌いだ。明日は女子供がいっぱいここにやって来て、アヤックスのライバルチームの選手を応援するんだ。判るかい。このアヤックスの本拠地で・・・・。耐えられないよ。」これが、欧州クラブサッカーサポーターの心意気です。

2013年3月21日木曜日

VVVの憂鬱

フェンローは、オランダの中部、ドイツとの国境付近に位置する人口9万人の小さな町です。特に観光スポットがあるわけでもなく、日本では全く知られていなかった町でした。しかし、5年前に本田が地元のサッカークラブVVVフェンローに移籍して以来、吉田麻也、カレン・ロバート、大津と日本人プレーヤーの在籍が続き、日本でも名前だけは聞くようになり、観戦目当てに町を訪れる日本人も少なくないようです。たまたま、電車で1時間強のところにあるエルストという田舎町に缶詰めになることになり、週末を利用して観戦に行って来ました。Jリーグと同じように試合開始2時間程前にはスタジアムまでの道にサポーターの列が出来、その流れに乗っていけば、スタジアムに行けるだろうとタカをくくって駅前のレストランで軽食を取っていたところ、閑散とした道路には全く変化なし。已む無く、道を聞きながら、約20分の道のりをスタジアムに向かうものの、レプリカユニフォームなどのサポーターの姿は皆無。それどころか氷点下ギリギリ、風の影響で更に寒く感じる屋外には人影さえまばらです。しかも、スタジアムの周りにチケット売り場はなく、スタジアムショップも閉まったままでした。そのスタジアムショップが開いたのは試合開始1時間前。チケットはどこで買うのかと聞くと、「ここだ」と答えて、レジの下から座席の配置図を取り出します。どうも年間シートの会員がほとんどで、当日券を買う観客は極く少数のようです。無事チケットを購入し、とりあえず、スタジアム内に入ろうとすると、まだ開場はしていないとのこと。ようやく入場開始したのは試合開始30分ほど前でした。小さな町ですからみんなゲーム開始時間に合わせて来場するということもあるでしょうが、スタジアムに隣接して小さなダイニング・バーがあって、試合開始までここで軽食を取ったり、飲んでいたりするようです。コーヒーで暖まりたいと思いましたが、「ここは会員だけ」と断られてしまいました。スタジアムは収容人数7,500人のこじんまりしたサッカー場です。日本でいえば、大きさといいレイアウトといい、ちょうど西が丘競技場といった感じです。ピッチもかなり荒れていて、至る所で芝生がはげたり、めくれあがっており、ここではパスサッカーは難しいだろうとの印象でした。案の定、ヘラクレス(かつて平山が在籍)との試合が始まると、両チームとも取り敢えずトップにボールを当てて、こぼれ球を拾いあうという展開。技術レベル的には高校サッカー県予選レベルといったところでしょうか。しかし、ボールへの寄せの速さと当りの強さは、迫力がありました。まさに、肉弾戦の様相で、日本代表の海外組の体幹の強さはこういった戦いの中で鍛えられるんだと改めて実感しました。サポーターも実戦派の集まりという感じで、黄色と黒のマフラー(写真は大津をデザインした特別バージョンのマフラー)は目立ちましたが、日本のようなレプリカユニ集団は無く、個々人でゲームを楽しんでいる雰囲気でした。ゴール裏のヘラクレスのサポーターは30名程度。フェンローサポーターとの区切りもなく、フェンローサポーターに囲まれながらも、男性サポーター独特の低音の地鳴りのようなチャントを繰り返していました。お目当ての大津は体調不良でベンチ外。カレンは、ワントップのポジションで頑張っていましたが、再三の決定機をはずして、後半途中で交替。隣のオバちゃんが「Go!Bobby!Go!」とかなり気合を入れて応援していました。西欧人受けする風貌もあり、人気は高いようでした。試合は、ヘラクレスのカウンターの前に、あっけなく2失点。逆に最後までヘラクレスのゴールを割ることが出来ず、0‐2の完敗でした。
VVVは現在オランダ1部リーグにあたるエールディビジで18チーム中17位と低迷しています。本田がいた頃は2部優勝で1部に復帰、吉田時代は12位と健闘していたのですが、ここ2年は17位、16位とかろうじて降格を免れている状況です。本田、吉田が結構高値で売れたにも拘わらず、そのお金を有効な補強に使えなかったのが、低迷の原因となっています。22時過ぎに試合が終わって、真っ暗な住宅街を駅に急ぐ道すがら、メンバーズルームのウェイターの言葉を思い出しました。「試合が終わったら、メンバー以外にも開放しているから、また、来るといい。日本人も時々来て、一緒にお酒を飲んでいるよ。」VVVのサポーター達は「ひどいゲームだった」と愚痴をこぼしながら、夜半過ぎまでビールを飲んでいるのだろう。そう思うと、負け試合を毎週末見せられるというVVVの憂鬱もまんざら捨てたものではないのかもしれません。敗因を肴に、いつもの仲間と週末の夜酒が飲める。それが、オランダの片田舎の弱小クラブ・サポーターの実はとても幸せなサッカーの楽しみ方なのかもしれません。

2013年3月18日月曜日

Destiny - フランクフルト空港での遭遇

理由(わけ)あってオランダに来ています。多少気の重い仕事です。ということで、オランダに向かう飛行機の中では、映画を楽しむことなく、英文資料を読むという羽目になってしまいました。乗継ぎのフランクフルト空港で、寝ぼけ眼(まなこ)で入国審査に並んでいると、隣の列に大きなマスクをつけた日本人男性がいました。顔半分がマスクで隠れていましたが、ちょっと薄茶色の瞳にはどこか見覚えが。まさかと思いつつ列を移って、マスクの男性に「失礼ですが、名波さんですか?」やや間があって、観念したように「はい、そうです。」そこで、「フランスW杯からのファンです。クロアチア戦に応援に行きました。もちろん、引退試合にも行きました。」と、畳み掛けて退路を防ぐことに成功。「今回はブンデスリーガ観戦ですか?」「いや、ミラノの長友に会いに」「怪我は大丈夫なんですかね?」「大丈夫みたいですよ」と、前振りが終わって、これからという時に、入国審査の係員が「Next!(っぽいドイツ語)」取り敢えず、名波さんを先に通して、入国審査が終わるのももどかしく、後を追って、何とかツーショットの写真を撮って頂くことができました。
ところが、モニターに写真を映し出してみると、名波の爽やかで精悍な顔の隣に、如何にも徹夜明けといった感じの、眼鏡がずり落ちて、怪しい笑顔のオジさんが・・・。憧れのレフティーに会えて、言葉を交わすことが出来ただけでも良しとしなければいけないのですが、折角ツーショットを撮らせてもらったのに、誰にも見せられないような写真とは、あまりに無念です。
松任谷由実の曲に「Destiny」という名曲があります。荒井由美ファンとしてはアルバム「14番目の月」までの感性あふれる曲に圧倒的に共感し、松任谷由実の曲には何か作られた人工的なものを感じてしまい、どうしても感情移入しにくいところがあります。しかし、この「Destiny」と「潮風にちぎれて」だけは、荒井由美本来の私小説的な香りを感じ、とても好きな曲です。2つとも失恋の曲で、歌詞に「サンダル」が出てくるのは、偶然の一致でしょうか。
ともあれ、乗継ぎまでの3時間、フランクフルト空港のコーヒーショップで、何度も写真を見直しながら、知らず知らずのうちに口ずさんでいました。「♪どうしてなの 今日に限って 安いサンダルをはいてた (今日わかった) むなしいこと 結ばれぬ 悲しいDestiny」

2013年3月2日土曜日

WBCブラジル戦

WBC3連覇を目指す侍ジャパンが初出場のブラジル相手にまさかの苦戦。サッカーとは全く逆の立場の日本代表vsブラジル代表のゲームは、別の意味で趣きのある戦いでもあります。サッカーに比べ、ピッチャー対バッターという個人対個人の要素の強い野球だけに、本来であれば、プロ野球オールスターの日本代表が、アマチュア中心のブラジルに負けるはずはありません。しかも、会場は日本のホーム。むしろ、日本が圧勝して然るべきなのですが、そうならないところが、国際試合の怖さ。ブラジルは、ギリギリまで侍ジャパンを追い込んだのですが、残り2回を守りきることが出来ませんでした。そこが実力の差であり、歴史の差でもあります。サッカーにあてはめると、ブラジルW杯本戦で、開幕戦、ブラジル代表相手にサムライ・ブルーが残り10分まで2-1でリードしていた展開といったところでしょうか。奇跡が起こるかもと期待した瞬間に、同点シュートを決められ、更には、逆転ゴール、ダメ押しゴール・・・。2年後のザック・ジャパンを裏返しに重ね合わせて、ブラジルの善戦にドキドキしながらTV観戦していただけに、何やら複雑な思いで、日本の逆転勝ちを見届けました。予選リーグ序盤で苦戦するというのは、チャンピオンチームの常。侍ジャパンにとっては吉兆かもしれません。

2013年2月24日日曜日

日本サッカーの明日

御茶ノ水のサッカーミュージアムで、サッカー検定特別表彰式と記念トークショーが開催されました。1級から4級までの成績優秀者が表彰されたのですが、その中でひと際目をひいたのが4級最年少合格者、9歳のA少年。半ズボン・詰襟の学生服姿はどこかの名門小学校なのでしょうか。インタビューの受答えも堂々たるものでした。表彰式の後で開催されたトークショーのパネラーは、日韓戦伝説のFKの木村和司氏に理論派スポーツライター金子達仁氏。2人の対照的なトークを裁くのはサッカージャーナリスト中西哲生氏。最初のテーマは、お決まりの日本代表の評価。木村氏が広島弁で「今の日本代表はすごいのう。ちゃんとポゼションが出来とる。見てて楽しいもんのう」金子氏がオリンピックでの光景を引合いに出して、こう続けます。「スタジアムで、日本人ではないアジア系の人が日の丸のフェイスペイントをして、日本を応援していた。これまで、アジアでは憎まれ役だった日本チームでは考えられなかったこと。今の日本のサッカーは他の国の人達も応援したくなるような面白いサッカーをしている」また、なでしこの世界での活躍が今後の日本サッカーにはとても大きな力になっているとのことです。「僕らの時代にはW杯に出ることすら夢のまた夢だと思っていた。ところが、1998年、2002年と連続してW杯を経験したことで、W杯は出て当たり前の雰囲気が出てきた。意識の変化は、日本サッカーが成長する上でとても大きい。なでしこのW杯優勝、五輪銀メダルは、女子サッカーの世界のことであり、男子サッカーは別と考えがちだが、小学生くらいでは男女の区別は意識しないはず。彼らにとっては男子サッカーのW杯優勝はたやすく想像できることであり、彼らが主力となる10数年後は、日本代表が世界の強豪の仲間入りしていることは十分ありえることである」(金子氏談)。それにしても、3人が口をそろえたのが、ストライカー不足。世界に通用するストライカーは釜本氏以降出ていないし、今の若い世代にも可能性を感じる選手がいないとのこと。見本となる一流ストライカーをJリーグに集めることがその打開策になるというのは面白い意見でした。最後に金子氏から9歳のA少年にメッセージ。「このままサッカーを好きでいて欲しい。プロサッカー選手になれなくとも、サッカージャーナリストという職業もあるし、サッカーチームの経営という人材も益々必要になってくる。将来、何らかの形でサッカーに関わっていって欲しい」日本サッカーの成長の為には、プレーヤーの技術向上とともに、サッカー界を支える基盤の強化、サッカー文化の向上が必須なのです。写真は、イベントの後に観覧したサッカーミュージアムの展示のひとつ、なでしこジャパンのエース川澄選手の代表ユニフォームです。彼女たちがドイツの地で開かせた大輪の花は、その後、無数の綿毛になってその種子を日本全国に運んでくれたのです。それらを大事に育んでいくことが、サッカーサポーターの使命でもあります。その使命を担ったサッカーの魅力の伝道師達。何故か会場にマドラスチェックのネルシャツ、大きめリュック姿のアキバ系ファッションが目立ったのが、若干不安ではありました。

2013年2月17日日曜日

拓郎 「雪」

鹿児島生まれ、広島育ちの吉田拓郎だけに、雪の歌は多くはありません。ただ、以前ブログで取り上げた「外は白い雪の夜」(クリックでリンク)は、拓郎ファンの中で1、2の人気を争う名曲ですし、フォークグループ「猫」に書き下ろした「雪」も如何にも拓郎らしい余韻が残る名曲です。この曲に関しては、オールナイトニッポンGoldの中で拓郎自身「これこそがラブソングだ」と自画自賛しておりました。恋心とは胸が切なく痛むものであり、そのどうしようもない切なさを歌うのがラブソングだと。最近のラブソングは、「いつも君の傍にいてあげるから」とか「君を支えてあげるよ」といった妙に冷静に愛を歌い上げるものばかりだと嘆いていました。そして、そんな「愛」の歌は、どんなに頑張っても、Simon & Garfunkleの「明日に架ける橋」を絶対に超えられないんだと。
「♫雪でした あなたのあとを なんとなく ついて行きたかった 振り向いた あなたの瞳は 早くお帰り 坊やって言ってた」
この歌にはモデルがいたそうです。デビューしたての拓郎が、地方ラジオ局の番組にゲストとして出演した際、番組終了後居酒屋で女性ディレクターと二人で酒を酌み交わしながら、将来の夢を熱く語ったそうです。お店を出ると外は一面の雪。そのほのかな雪明りの中を彼女は歩いて遠ざかっていきます。その背中を見ながら、急にこみあげてくる切ない思い。拓郎は、追いかけていって背中から抱きすくめたい衝動を必死で抑えます。「♫雪国の 小さな街に そんなわたしの 思い出がある」
写真は、先日訪れた北海道定山渓温泉の神社で行われていた雪灯路です。神社の境内に2,000の雪灯が燈され、幻想的な世界を創り出していました。すべてのものを白く包み込んでしまう雪は、まるで過去の日々を覆いつくし、消し去ってしまおうとする残酷な時の流れのようです。雪灯はかすかな記憶の中に切なく灯る思い出。「♫夢でしょうか あの日のことは 雪を見るたびに 思い出す」

2013年2月11日月曜日

Made in Japan - 小樽にて

NHKのTVドラマ「メイド・イン・ジャパン」は見ごたえのあるドラマでした。欲をいうならば、3話完結にせず、せめて1シーズン12回の連続ドラマとし、もう少し時間をかけてじっくりと見せる展開にして欲しかったということでしょうか。日本のモノづくりとは何だったのか、メイド・イン・ジャパンの凋落は何故起こったのか、今や日本の市場から脅威へ変貌した中国とどのように向き合っていくべきなのか。色々考えさせられたドラマでした。場面場面に散りばめられた昭和の香りも郷愁を誘ってくれました。太田裕美の歌う「タクミ電機社歌」。舌足らずの歌声、懐かしく耳に残りました。
ところで、この週末、小樽に行って来ました。小樽運河の南に広がる石造りの倉庫群は、おしゃれなガラス細工やオルゴール工芸のお店に生まれ変わり、女性に人気の高い観光スポットとなっています。写真は、その街並みの中心に位置するメルヘン交差点に立つ高さ5.5mの蒸気時計です。15分おきに汽笛で時を告げます。後ろの煉瓦造りの建物は小樽オルゴール堂。店内には無数のオルゴールが並び、繊細な音色を奏でていました。メルヘン交差点の北側には北一硝子直営のガラス細工店、地酒店、カフェなどが軒を並べています。北一硝子は1901年創業の老舗で、もともとは石油ランプのメーカーです。今でもランプの製造は続けており、電気の通じていない秘湯の宿や山小屋ではお馴染みのブランドです。現在では、高級グラスからアクセサリー、ステンドグラスなどのインテリアまで様々なガラス製品を製造・販売しています。北一硝子のグラスはすべて職人の手作りで、一つ一つが微妙に色合いが異なり、その匠の技は感嘆のため息を誘います。オルゴールにせよ、ガラス細工にせよ、メイド・イン・ジャパンの根底にある職人の「美と品質へのこだわり」を感じさせます。また、この小樽という観光スポットそのものが、100年以上前の歴史と伝統の建造物の中に最先端の技術やセンスを綺麗に収めたメイド・イン・ジャパンの神髄を感じさせます。小樽では、欧米やアジア諸国からの多くの旅行客を見かけました。彼らにとって小樽はとても居心地の良い「日本らしい日本」なのでしょう。今回訪れた札幌、定山渓、小樽。どの土地の人達も、とても親切でした。「Hospitality=おもてなし、一期一会」の心もメイド・イン・ジャパンです。
実は、小樽オルゴール堂は、親会社のブルーハウスがバブル崩壊後の経済不況の中で1997年自己破産した際、連鎖倒産をしましたが、存続を望む多くのファンの後押しを受けて、会社更生法の下再建を果たしたという歴史があります。失われた20年間、日本はコスト競争に身を擦り減らせてきましたが、日本の職人の美や品質へのこだわり、そして、日本人のHospitalityこそ、世界に通用し、世界で求められているものなのではないでしょうか。メイド・イン・ジャパン復活のヒントを小樽で垣間見たような気がします。

2013年1月28日月曜日

銀山温泉 - 護り続ける人達

銀山温泉は、山形新幹線大石田駅からバスで山道を40分ほど分け入った秘湯です。銀山川に面して、木造漆喰壁の洋風多層建築が軒を並べ、夕刻ともなると橋の袂のガス燈が街並みを照らし、大正浪漫の情緒溢れる素晴らしい佇まいの温泉街です。名前は、江戸初期に栄えた銀の鉱山、延沢銀山に由来しています。延沢銀山自体は江戸中期には閉山となってしまうのですが、能登出身の坑夫によって発見された温泉は、その後も湯治場として残り、大正に至ります。しかし、大正元年、銀山川の大洪水によりほとんどの温泉宿が流されてしまうという壊滅的打撃を受けてしまいます。その後、水力発電所の建設で活気を取り戻し、地元資産家の援助の下、昭和初期に温泉宿が一斉に洋風多層建築に改築し、現在の街並みとなりました。歴史の荒浪を乗り越えてきた由緒ある温泉街です。
そして、ひとつひとつの旅館にもドラマがあります。温泉街の中程にお洒落な現代風の建物があります。看板は掲げていません。銀山温泉の中で最高級の旅館「藤屋」です。金髪の米国人女将の宿として人気を集めた旅館でしたが、現在、民事再生法の適用を受けて再建中です。2006年に著名な建築家の設計による大規模な建替えを行い、部屋数を3分の1の8部屋に減らし、宿泊代は逆に3倍に値上げし、高級化を図りました。しかし、客足は遠のき、折悪しくリーマン・ショックの直撃を受け、倒産を余儀無くされてしまいました。今では、なかなか予約が取れない旅館として有名ですから、再建は順調に進んでいるのかもしれません。各旅館とも老朽化が進み、その修繕に頭を悩ませているようです。中には修繕費の手当てがままならず、客室を閉鎖し、立寄り入浴のみの営業を行っているところもあります。今回お世話になった「能登屋」は、銀山温泉のシンボルともいえる景観を有する老舗旅館です。ご多分に漏れず、建物の老朽化が進み、最近、半年間休業し、外観は保ちつつ、補強工事、内装工事を行いました。人気旅館ではありますが、経営は決して楽ではないと思います。仲居さんも3名で頑張っておられ、宿泊当日は、お一人が急なお休みで、お二人で頑張っておられました。目の回るような忙しさの中笑顔を絶やさず対応する二十歳そこそこの若い仲居さん、、各部屋を挨拶して回る若女将の凛とした立ち居振る舞い、雪の中背筋を伸ばして客の出立を見送る大女将の姿には、日本の女性の美しさを見た想いでした。時代の要請に合わせて変わり続けることは大事なことですが、そのような時代への適応は、変えてはいけない大切なものを護る為の変化なのです。そして、そのかけがえのない大切なものを護っていくことは、とても大変なことなのです。老舗旅館、昔ながらの素朴な饅頭を作り続ける和菓子屋、目を見開いたこけしの工芸店。銀山温泉郷で、タイムスリップしたような大正浪漫の美しい街並みとともに、自然と時代の風雪に耐え、日本の大切なものを護り続けている人達の姿に触れることが出来ました。みんなに宣伝し、自らもまた訪れることで、護り続ける人達をわずかでも支えていけたらと思っています。(今回もM会長、N隊長、シャフパTの秘湯仲間で訪れました。この絆も護り続けていきたい大切なもののひとつです。)

2013年1月24日木曜日

Come Together ‐ The Endへの哀歌

年末放映されたロンドン五輪総集編の録画を見直していて、開会式でThe Beatlesの「Come Together」が演奏されたのに気が付きました。この曲は、スタジオ前の横断歩道を4人が渡っているカバージャケットがあまりに有名なアルバム「Abbey Road」の1曲目に収録されています。このアルバムは、1969年9月にリリースされました。その後「Let it be」が1970年5月にリリースされ、この「Let it be」がThe Beatlesのラストアルバムとなりました。しかし、「Let it be」の最終録音となった伝説のループトップ・コンサートが行われたのは1969年1月であり、「Abbey Road」の録音が行われたのは1969年7月ですから、実際は「Abbey Road」がThe Beatlesの製作した最後のアルバムということになります。
アルバム「Let it be」で、The Beatlesの末期的な状況を悲しんでいたPaulは、もう一度昔のようにやり直したいとの思いをこめて「Get Back」を歌っています。夢に出てきた母Maryの「Let it be(あるがままに受け入れなさい)」との啓示にもかかわらず・・・。「Abbey Road」の中には、このPaulの「Get Back」の呼びかけへの各メンバーからの返歌が散りばめられています。メンバーの仲を取り持つことにすっり疲れ果てたRingoは「Octopus' Garden」で「海の底にもぐって静かに暮らしたい」と歌っています。録音中にスタジオを飛び出してしまい数日戻ってこなかったGeorgeは、その時の思いを「Here comes the sun」で「It's beeen a long, cold, lonley winter」だけど「It's alright」と自らを励ましています。The Beatlesの解散にはオノ・ヨーコが大きくかかわっていると言われていますが、Johnは「I want you」で「She's so heavy」と歌い、The Beatlesよりもヨーコを選択することを宣言しています。そして、「Come Together」。John特有のサイケデリックな歌詞です。日本で発売された当時のレコードの歌詞カードには「対訳不可能」と書かれていたそうです。歌詞は4節に分かれており、それぞれThe Beatlesのメンバーについて歌ったものだという説があります。第1節で「Hair down to his knee(髪を膝まで伸ばした)」George(写真:かなり長髪)を「He just do what he please(好き勝手にやっている)」と切り捨てています。2節目で「He wear no shoeshime(裸足の)」Paul(写真:確かに1人だけ裸足)には「He shoot Coca-Cola (コカインをやって)」「He say "I know you, you know me"(お互い知った仲じゃないかというけど)」「One thing I can tell you is you got to be free(ひとつだけ言えることは自由になっていいよということ)」と突き放しています。第3節はJohn自身について「He got Ono sideboard he one spinal cracker(オノという食器棚と一緒に(交通事故で)背骨を傷めた)」Johnは「Hold you in his armchair you can feel his disease(肘掛け椅子でヨーコを抱く。ヨーコには彼のみじめさが判るだろう) 」と嘆いています。最終節はRingoということになります。「He got early warning(早くからグループ内の亀裂に警告を発し)」「 He got muddy water he one mojo filter(泥水の中でフィルター役になっていた)」Ringoは「 Got to be good-looking 'cause he's so hard to see(目立たない存在ゆえにカッコいい奴になった)」と多少持ち上げています。
難解なのは「Come together right now over me」のリフレイン。「みんな、また、俺と一緒にやろうぜ」という単純な訳では歌詞の流れと矛盾してしまいます。「Over me」がカギなのでしょうか。「俺を超えて」なのか「The Beatlesを超えて」なのか。そういえば、Johnの発する「シューッ」というガイドボーカルは、The Beatles Anthology 3のバージョンでははっきりと「Shoot me!」と聞こえるそうです。この言葉にJohnがどう様な思いを込めていたのか、今は知る由もありません。