そして、ひとつひとつの旅館にもドラマがあります。温泉街の中程にお洒落な現代風の建物があります。看板は掲げていません。銀山温泉の中で最高級の旅館「藤屋」です。金髪の米国人女将の宿として人気を集めた旅館でしたが、現在、民事再生法の適用を受けて再建中です。2006年に著名な建築家の設計による大規模な建替えを行い、部屋数を3分の1の8部屋に減らし、宿泊代は逆に3倍に値上げし、高級化を図りました。しかし、客足は遠のき、折悪しくリーマン・ショックの直撃を受け、倒産を余儀無くされてしまいました。今では、なかなか予約が取れない旅館として有名ですから、再建は順調に進んでいるのかもしれません。各旅館とも老朽化が進み、その修繕に頭を悩ませているようです。中には修繕費の手当てがままならず、客室を閉鎖し、立寄り入浴のみの営業を行っているところもあります。今回お世話になった「能登屋」は、銀山温泉のシンボルともいえる景観を有する老舗旅館です。ご多分に漏れず、建物の老朽化が進み、最近、半年間休業し、外観は保ちつつ、補強工事、内装工事を行いました。人気旅館ではありますが、経営は決して楽ではないと思います。仲居さんも3名で頑張っておられ、宿泊当日は、お一人が急なお休みで、お二人で頑張っておられました。目の回るような忙しさの中笑顔を絶やさず対応する二十歳そこそこの若い仲居さん、、各部屋を挨拶して回る若女将の凛とした立ち居振る舞い、雪の中背筋を伸ばして客の出立を見送る大女将の姿には、日本の女性の美しさを見た想いでした。時代の要請に合わせて変わり続けることは大事なことですが、そのような時代への適応は、変えてはいけない大切なものを護る為の変化なのです。そして、そのかけがえのない大切なものを護っていくことは、とても大変なことなのです。老舗旅館、昔ながらの素朴な饅頭を作り続ける和菓子屋、目を見開いたこけしの工芸店。銀山温泉郷で、タイムスリップしたような大正浪漫の美しい街並みとともに、自然と時代の風雪に耐え、日本の大切なものを護り続けている人達の姿に触れることが出来ました。みんなに宣伝し、自らもまた訪れることで、護り続ける人達をわずかでも支えていけたらと思っています。(今回もM会長、N隊長、シャフパTの秘湯仲間で訪れました。この絆も護り続けていきたい大切なもののひとつです。)
2013年1月28日月曜日
銀山温泉 - 護り続ける人達
そして、ひとつひとつの旅館にもドラマがあります。温泉街の中程にお洒落な現代風の建物があります。看板は掲げていません。銀山温泉の中で最高級の旅館「藤屋」です。金髪の米国人女将の宿として人気を集めた旅館でしたが、現在、民事再生法の適用を受けて再建中です。2006年に著名な建築家の設計による大規模な建替えを行い、部屋数を3分の1の8部屋に減らし、宿泊代は逆に3倍に値上げし、高級化を図りました。しかし、客足は遠のき、折悪しくリーマン・ショックの直撃を受け、倒産を余儀無くされてしまいました。今では、なかなか予約が取れない旅館として有名ですから、再建は順調に進んでいるのかもしれません。各旅館とも老朽化が進み、その修繕に頭を悩ませているようです。中には修繕費の手当てがままならず、客室を閉鎖し、立寄り入浴のみの営業を行っているところもあります。今回お世話になった「能登屋」は、銀山温泉のシンボルともいえる景観を有する老舗旅館です。ご多分に漏れず、建物の老朽化が進み、最近、半年間休業し、外観は保ちつつ、補強工事、内装工事を行いました。人気旅館ではありますが、経営は決して楽ではないと思います。仲居さんも3名で頑張っておられ、宿泊当日は、お一人が急なお休みで、お二人で頑張っておられました。目の回るような忙しさの中笑顔を絶やさず対応する二十歳そこそこの若い仲居さん、、各部屋を挨拶して回る若女将の凛とした立ち居振る舞い、雪の中背筋を伸ばして客の出立を見送る大女将の姿には、日本の女性の美しさを見た想いでした。時代の要請に合わせて変わり続けることは大事なことですが、そのような時代への適応は、変えてはいけない大切なものを護る為の変化なのです。そして、そのかけがえのない大切なものを護っていくことは、とても大変なことなのです。老舗旅館、昔ながらの素朴な饅頭を作り続ける和菓子屋、目を見開いたこけしの工芸店。銀山温泉郷で、タイムスリップしたような大正浪漫の美しい街並みとともに、自然と時代の風雪に耐え、日本の大切なものを護り続けている人達の姿に触れることが出来ました。みんなに宣伝し、自らもまた訪れることで、護り続ける人達をわずかでも支えていけたらと思っています。(今回もM会長、N隊長、シャフパTの秘湯仲間で訪れました。この絆も護り続けていきたい大切なもののひとつです。)
2013年1月24日木曜日
Come Together ‐ The Endへの哀歌
年末放映されたロンドン五輪総集編の録画を見直していて、開会式でThe Beatlesの「Come Together」が演奏されたのに気が付きました。この曲は、スタジオ前の横断歩道を4人が渡っているカバージャケットがあまりに有名なアルバム「Abbey Road」の1曲目に収録されています。このアルバムは、1969年9月にリリースされました。その後「Let it be」が1970年5月にリリースされ、この「Let it be」がThe Beatlesのラストアルバムとなりました。しかし、「Let it be」の最終録音となった伝説のループトップ・コンサートが行われたのは1969年1月であり、「Abbey Road」の録音が行われたのは1969年7月ですから、実際は「Abbey Road」がThe Beatlesの製作した最後のアルバムということになります。
アルバム「Let it be」で、The Beatlesの末期的な状況を悲しんでいたPaulは、もう一度昔のようにやり直したいとの思いをこめて「Get Back」を歌っています。夢に出てきた母Maryの「Let it be(あるがままに受け入れなさい)」との啓示にもかかわらず・・・。「Abbey Road」の中には、このPaulの「Get Back」の呼びかけへの各メンバーからの返歌が散りばめられています。メンバーの仲を取り持つことにすっり疲れ果てたRingoは「Octopus' Garden」で「海の底にもぐって静かに暮らしたい」と歌っています。録音中にスタジオを飛び出してしまい数日戻ってこなかったGeorgeは、その時の思いを「Here comes the sun」で「It's beeen a long, cold, lonley winter」だけど「It's alright」と自らを励ましています。The Beatlesの解散にはオノ・ヨーコが大きくかかわっていると言われていますが、Johnは「I want you」で「She's so heavy」と歌い、The Beatlesよりもヨーコを選択することを宣言しています。そして、「Come Together」。John特有のサイケデリックな歌詞です。日本で発売された当時のレコードの歌詞カードには「対訳不可能」と書かれていたそうです。歌詞は4節に分かれており、それぞれThe Beatlesのメンバーについて歌ったものだという説があります。第1節で「Hair down to his knee(髪を膝まで伸ばした)」George(写真:かなり長髪)を「He just do what he please(好き勝手にやっている)」と切り捨てています。2節目で「He wear no shoeshime(裸足の)」Paul(写真:確かに1人だけ裸足)には「He shoot Coca-Cola (コカインをやって)」「He say "I know you, you know me"(お互い知った仲じゃないかというけど)」「One thing I can tell you is you got to be free(ひとつだけ言えることは自由になっていいよということ)」と突き放しています。第3節はJohn自身について「He got Ono sideboard he one spinal cracker(オノという食器棚と一緒に(交通事故で)背骨を傷めた)」Johnは「Hold you in his armchair you can feel his disease(肘掛け椅子でヨーコを抱く。ヨーコには彼のみじめさが判るだろう) 」と嘆いています。最終節はRingoということになります。「He got early warning(早くからグループ内の亀裂に警告を発し)」「 He got muddy water he one mojo filter(泥水の中でフィルター役になっていた)」Ringoは「 Got to be good-looking 'cause he's so hard to see(目立たない存在ゆえにカッコいい奴になった)」と多少持ち上げています。
難解なのは「Come together right now over me」のリフレイン。「みんな、また、俺と一緒にやろうぜ」という単純な訳では歌詞の流れと矛盾してしまいます。「Over me」がカギなのでしょうか。「俺を超えて」なのか「The Beatlesを超えて」なのか。そういえば、Johnの発する「シューッ」というガイドボーカルは、The Beatles Anthology 3のバージョンでははっきりと「Shoot me!」と聞こえるそうです。この言葉にJohnがどう様な思いを込めていたのか、今は知る由もありません。
アルバム「Let it be」で、The Beatlesの末期的な状況を悲しんでいたPaulは、もう一度昔のようにやり直したいとの思いをこめて「Get Back」を歌っています。夢に出てきた母Maryの「Let it be(あるがままに受け入れなさい)」との啓示にもかかわらず・・・。「Abbey Road」の中には、このPaulの「Get Back」の呼びかけへの各メンバーからの返歌が散りばめられています。メンバーの仲を取り持つことにすっり疲れ果てたRingoは「Octopus' Garden」で「海の底にもぐって静かに暮らしたい」と歌っています。録音中にスタジオを飛び出してしまい数日戻ってこなかったGeorgeは、その時の思いを「Here comes the sun」で「It's beeen a long, cold, lonley winter」だけど「It's alright」と自らを励ましています。The Beatlesの解散にはオノ・ヨーコが大きくかかわっていると言われていますが、Johnは「I want you」で「She's so heavy」と歌い、The Beatlesよりもヨーコを選択することを宣言しています。そして、「Come Together」。John特有のサイケデリックな歌詞です。日本で発売された当時のレコードの歌詞カードには「対訳不可能」と書かれていたそうです。歌詞は4節に分かれており、それぞれThe Beatlesのメンバーについて歌ったものだという説があります。第1節で「Hair down to his knee(髪を膝まで伸ばした)」George(写真:かなり長髪)を「He just do what he please(好き勝手にやっている)」と切り捨てています。2節目で「He wear no shoeshime(裸足の)」Paul(写真:確かに1人だけ裸足)には「He shoot Coca-Cola (コカインをやって)」「He say "I know you, you know me"(お互い知った仲じゃないかというけど)」「One thing I can tell you is you got to be free(ひとつだけ言えることは自由になっていいよということ)」と突き放しています。第3節はJohn自身について「He got Ono sideboard he one spinal cracker(オノという食器棚と一緒に(交通事故で)背骨を傷めた)」Johnは「Hold you in his armchair you can feel his disease(肘掛け椅子でヨーコを抱く。ヨーコには彼のみじめさが判るだろう) 」と嘆いています。最終節はRingoということになります。「He got early warning(早くからグループ内の亀裂に警告を発し)」「 He got muddy water he one mojo filter(泥水の中でフィルター役になっていた)」Ringoは「 Got to be good-looking 'cause he's so hard to see(目立たない存在ゆえにカッコいい奴になった)」と多少持ち上げています。
難解なのは「Come together right now over me」のリフレイン。「みんな、また、俺と一緒にやろうぜ」という単純な訳では歌詞の流れと矛盾してしまいます。「Over me」がカギなのでしょうか。「俺を超えて」なのか「The Beatlesを超えて」なのか。そういえば、Johnの発する「シューッ」というガイドボーカルは、The Beatles Anthology 3のバージョンでははっきりと「Shoot me!」と聞こえるそうです。この言葉にJohnがどう様な思いを込めていたのか、今は知る由もありません。
2013年1月21日月曜日
敗者なき戦い ‐ 高校サッカー決勝戦
大雪の為1週間延期された高校サッカー選手権決勝戦は、1月19日グラウンドやスタンドの一部に雪が残る国立競技場で開催されました。出生地の宮崎と大学時代を過ごした京都という両方所縁のある県代表の戦いとなりましたが、今回は準決勝で魅せられたブラバンと仙頭君に惹かれて、京都橘の応援団席で観戦させてもらいました。試合は大方の予想通り攻撃力に勝る京都橘が押し気味にゲームを進め、仙頭君と小屋松君の絶妙なコンビネーションで鵬翔の鉄壁の守備陣を切り裂き、先取点と勝越し点を決めます。しかし、鵬翔は高さを活かしたセットプレーからのヘディングでのゴールと強引なドリブルからのPKで追いつきます。延長戦はさすがに両者ともに足が止まり、攻めに決め手を欠いたままホイッスル。決着はPK戦へ。PK戦では往々にしてヒーローが外したりするものです。米国W杯でのバッジオ、シドニー五輪での中田英・・・。今大会の得点王で最も輝いていた仙頭君が京都橘の最初のキッカーとして蹴りましたが、スピードを抑えて右隅を狙いすましたシュートは、無情にもポストに跳ね返され、PK失敗。もう数センチ内側であったら、ゴール内に跳ね返っていたであろう際どいボールでした。結局この失敗が両チーム唯一のPK失敗となり、優勝の栄冠は鵬翔へ。PK戦が続いた今大会を象徴する幕切れでした。センターサークルから勢いよく飛び出す鵬翔イレブン、その脇で膝から崩れ落ちる京都橘イレブン。PK戦の間は両チームのフィールドプレーヤーはセンターサークル内に留まらなければならないというルール故に繰り広げられるセンターサークル内のドラマです(写真)。
CKをゾーンで守る京都橘の陣形を見て全員で飛び込む戦術でゴールをもぎ取った鵬翔の執念、強引過ぎるほどのドリブルでゴールマウスに突き進んだ迫力も見事でした。そして、6試合中4試合をPK戦でしぶとく勝利し、栄冠を勝ち得たのは精神的強さがあってこそであり、讃えられるべきであると思います。但し、サッカーに技術点、芸術点があったならば、京都橘の圧勝。京都橘の美しいサッカーは敗者という言葉にそぐわないものでした。決勝戦は、延長戦で決着がつかない場合は両校優勝でいいのではないか。心からそう思った敗者なき決勝戦でした。
CKをゾーンで守る京都橘の陣形を見て全員で飛び込む戦術でゴールをもぎ取った鵬翔の執念、強引過ぎるほどのドリブルでゴールマウスに突き進んだ迫力も見事でした。そして、6試合中4試合をPK戦でしぶとく勝利し、栄冠を勝ち得たのは精神的強さがあってこそであり、讃えられるべきであると思います。但し、サッカーに技術点、芸術点があったならば、京都橘の圧勝。京都橘の美しいサッカーは敗者という言葉にそぐわないものでした。決勝戦は、延長戦で決着がつかない場合は両校優勝でいいのではないか。心からそう思った敗者なき決勝戦でした。
2013年1月13日日曜日
「楽しもう!」 ‐ 高校サッカー準決勝
新春の陽光が眩しい国立競技場。絶好のサッカー観戦日和でした。第1試合の鵬翔(宮崎)vs星稜(石川)は星稜が先行しては鵬翔が追いつくという息詰まる展開。結局2-2の同点でPK戦へ。本大会準決勝までの46試合中そのほぼ3分の1にあたる15試合がPK戦での決着となっています。鵬翔自体も5試合中実に3試合PK戦での勝ち上がりで決勝に進出することになりました。大会の過密日程を考えると、1回戦からの延長戦導入は難しいかもしれませんが、せめて準々決勝からは延長戦を導入出来ないものでしょうか。(高校サッカー選手権は、準々決勝まで試合時間40分ハーフ、準決勝から45分ハーフとなり、延長戦は決勝のみ。)PK戦の間、両チームのフィールドプレーヤーは、キッカーを除き、センターサークル内に留まっていなければならないというルールがあります。このルールのおかげで、センターサークル内のドラマが繰り広げられることになります。PK戦決着の瞬間、センターライン上に膝から崩れ落ちたのは黄色いユニフォームの星稜の選手達。センターサークルから両手を挙げながら勢いよく飛び出していったのは鵬翔の選手達でした。
第2試合は、勢いに乗るダークホース京都橘が優勝候補桐光学園を圧倒した試合でした。体を張った粘り強い守備でゴールに鍵を掛け、高い位置からのプレスでボールを奪取して鋭いカウンターを仕掛け、3-0の快勝。司令塔仙頭君(写真右下のキッカー)のパスワークが冴えわたりました。サッカーセンス・技術ともに素晴らしい選手です。京都橘で仙頭君にも増して魅了されたのが、応援のブラスバンド(写真中央)。全日本マーチングコンテストで金賞を受賞したこともある吹奏楽部だけに、演奏は見事でした。スウィング・ジャズの定番「シング・シング・シング」は鳥肌ものでした。今大会の応援リーダー遠藤選手(G大阪)のメッセージは「楽しもう!」京都橘はピッチ上の選手も、スタンドの応援団も精一杯楽しんでいたように思えました。「サッカーを楽しんでやることが一番!それがすべてにつながる。」(遠藤保仁)
第2試合は、勢いに乗るダークホース京都橘が優勝候補桐光学園を圧倒した試合でした。体を張った粘り強い守備でゴールに鍵を掛け、高い位置からのプレスでボールを奪取して鋭いカウンターを仕掛け、3-0の快勝。司令塔仙頭君(写真右下のキッカー)のパスワークが冴えわたりました。サッカーセンス・技術ともに素晴らしい選手です。京都橘で仙頭君にも増して魅了されたのが、応援のブラスバンド(写真中央)。全日本マーチングコンテストで金賞を受賞したこともある吹奏楽部だけに、演奏は見事でした。スウィング・ジャズの定番「シング・シング・シング」は鳥肌ものでした。今大会の応援リーダー遠藤選手(G大阪)のメッセージは「楽しもう!」京都橘はピッチ上の選手も、スタンドの応援団も精一杯楽しんでいたように思えました。「サッカーを楽しんでやることが一番!それがすべてにつながる。」(遠藤保仁)
2013年1月5日土曜日
2013年 ‐ 現実に向い合う長い道のり
年末に続いて映画「レ・ミゼラブル」を観ました。前回は、とにかく音楽に圧倒され、ストーリー展開や映像の細部にこだわる余裕がなかったので、今回はじっくり観ようと、ポップコーンも控えて臨みました。前回観終わって胸に残ったのは、感動を超えた「切なさ」。今回、登場人物それぞれを追うことで、その「切なさ」の正体が判りました。主要な登場人物の殆どが、その夢や希望を叶えることなく、命を失っていく物語なのです。そして、その他の名もないキャスト達は夢とか希望を抱くことさえも許されない境遇にあります。まさに、小学生の時に読んだ原作の邦題「あゝ無情」。全編にわたって流れる「I Dreamed a Dream」は、スーザン・ボイルのカバー曲で有名です。「夢やぶれて」と意訳されていますが、「夢をみていただけ」と訳した方が、その絶望感がより正しく表現されるように思えます。この曲が象徴しているように、救いようがない物語なのですが、最後は、舞台ミュージカルのフィナーレに倣って、登場人物がみんな生き返って力強く「民衆の歌」を合唱します。「♪夢見た明日は必ず来る」と。そして、昂揚感にくるまれた切なさを胸に映画館を後にする訳です。
元旦にも、同じ切なさを感じながら国立競技場を後にしました。2013年は、J2でもがきながらも、ACLでアジアチャンピオンを目指すガンバ大阪を期待していました。それが、天皇杯決勝での余りにも惨めな敗戦。ACLという夢を失い、ガンバ大阪は、J2での昇格を義務付けられた厳しい戦いという現実を直視し、1年を過ごすことになります。ガンバ残留を表明している遠藤(写真:天皇杯決勝、CKに向かう遠藤)と今野は、J2でのJ1昇格争いに心身ともに消耗しながら、W杯代表メンバーへの生残りというもうひとつの戦いをも勝ち抜いていかねばなりません。2人の代表落ちは想像しにくいかもしれませんが、J2で戦いながら代表でのコンディションを維持していくのは決して簡単なことではないと思います。レ・ミゼラブルの冒頭の曲「Look Down」のように足下のみを見据え、現実と向かい合っていく切ない戦いが続くのです。
ガンバの戦いは、2013年の日本を象徴しているようにも思えます。明日を楽観していた間に山積した問題に、今こそ向かい合わざるを得ない状況を日本は迎えています。現実を直視し、日々の戦いに専念し、着実に勝ち点を重ねている地道な長い道のり。眼前に伸びるぬかるんだ泥の坂道を上っていけるのか。日本人の真価が問われます。
2013年1月1日火曜日
元旦はここから ‐ 天皇杯決勝
新年明けましておめでとうございます。今年も年始は、ここ、国立競技場からです。凛と澄み渡った冬空に穏やかな陽光が満ち、絶好のサッカー日和です。スタンドを埋める青と黄色のコントラストがやや色褪せた緑のピッチに映えます。柏サポーター席の一角には、約100人の上半身裸サポの肌色エリアが。クラブW杯の昂奮を知ってしまった両チームサポーターにとっては、天皇杯優勝という栄誉に加え、クラブW杯出場の前提条件となるACL出場権がかかっている大事な試合であり、応援は否が応でもヒートアップします。
前半は圧倒的なガンバペース。J2降格したリーグ戦の不振が嘘のように、ワンタッチでの細かいパス回しの連続でゴールに迫ります。しかし、それも柏の先制点が決まる前半35分まで。先制されたとたんに、緊張の糸がチームの絆の糸とともにプツリと切れてしまいました。不振は不信につながります。リーグ戦でのチームに逆戻りしたガンバ。味方からのパスを信じられない選手達の足は止まり、味方の動きを信じられない選手達は一人でつっかけては柏の守備陣にボールをからめとられます。選手交代も、機能していたサイドの倉田と二川を下げるなど、松波采配は意図不明。前半から水野をスパッと替えてチームに喝を入れたメッセージ性の高い選手交代采配のネルシーニョとは好対照でした。後半は、勝ちへの執着を思い出せず、ただ淡々と試合を進めるガンバと、勝ちを意識して早くから守りに入ったレイソルが、きっちり噛み合ってしまった盛上りを欠いた寂しいゲームでした。サッカーの素晴らしさと感動を伝える場が元旦の天皇杯決勝ならば、サッカーの怖さと残酷さをさらけ出すのも天皇杯。ガンバのACLでの劇的な復活の夢はあっけなく潰えてしまいました。最後の夢を砕かれ、負けることが許されないJ2での厳しい戦いのみが残されたガンバの1年が幕を開けます。様々な意味で厳しい現実に向き合わなければならない今年の日本に相応しい幕明けだったのかもしれません。
前半は圧倒的なガンバペース。J2降格したリーグ戦の不振が嘘のように、ワンタッチでの細かいパス回しの連続でゴールに迫ります。しかし、それも柏の先制点が決まる前半35分まで。先制されたとたんに、緊張の糸がチームの絆の糸とともにプツリと切れてしまいました。不振は不信につながります。リーグ戦でのチームに逆戻りしたガンバ。味方からのパスを信じられない選手達の足は止まり、味方の動きを信じられない選手達は一人でつっかけては柏の守備陣にボールをからめとられます。選手交代も、機能していたサイドの倉田と二川を下げるなど、松波采配は意図不明。前半から水野をスパッと替えてチームに喝を入れたメッセージ性の高い選手交代采配のネルシーニョとは好対照でした。後半は、勝ちへの執着を思い出せず、ただ淡々と試合を進めるガンバと、勝ちを意識して早くから守りに入ったレイソルが、きっちり噛み合ってしまった盛上りを欠いた寂しいゲームでした。サッカーの素晴らしさと感動を伝える場が元旦の天皇杯決勝ならば、サッカーの怖さと残酷さをさらけ出すのも天皇杯。ガンバのACLでの劇的な復活の夢はあっけなく潰えてしまいました。最後の夢を砕かれ、負けることが許されないJ2での厳しい戦いのみが残されたガンバの1年が幕を開けます。様々な意味で厳しい現実に向き合わなければならない今年の日本に相応しい幕明けだったのかもしれません。
2012年12月16日日曜日
魂の伝道師、ゴン引退に寄せて
筑波大卒業後ヤマハ発動機に入社。ヤマハ発動機サッカー部(後のジュビロ磐田)が初年度Jリーグ加盟チームの選から漏れた際、エスパルスからの誘いを断ってヤマハに残留するなど男気の強い人物であり、以後、ジュビロ一筋のサッカー人生でした。しかし、2009年シーズン終了時にジュビロから戦力外通知とともにスタッフでの残留を要請された際には、現役続行を優先し、ジュビロ退団を決意します。しかし、移籍先のコンサドーレでは、膝の怪我もあり、満足な結果を残すことが出来ず、今回の現役引退に至りました。「いい時に引退した方がいいと考える人もいますが?」という質問に「僕の場合は、自分の『いい時』がいつだったのかわからない。いつも『もっと上に行けるはず』と思っていたわけで」と答えています。本人も認めている通り「下手くそ」で足元の技術は決して上手いものではありませんでした。(「利き足は?」の質問に「頭」と答えています。)ただ、ゴール前での消える動き、ボールを受ける体の角度など、あらゆる面で成長し続けたプレーヤーでもありました。フランスW杯時の盟友、山口素弘も「30歳過ぎて技術的にうまくなった選手は他にいない」と語っています。
日本サッカー史に大きな足跡を残した選手ですが、最も大きな功績は、性別年齢を問わず多くの人に愛され、サッカーファンの層を飛躍的に広げたということだと思います。反町姫もその中の一人です。「ゴンちゃんがいなければサッカーを好きになっていたかどうかわからない。キャプテン翼の読者で終わっていたはずでした。」というメールを頂きました。サッカーの伝道師であり、サッカーを通じて人々に勇気を与え続けたアスリートでした。「今後しばらくの肩書は?」との質問に「評論家というのがあるんだったら、情熱家でもいいんじゃないですか?サッカーに対する情熱と、そこにかける意気込みは一生変わりませんから。」
情熱家ゴンにはタイムアップのホイッスルはありません。
2012年12月2日日曜日
北投温泉 - 台湾紀行本編2
早々に浴槽から退散し、浴場の外のベンチで火照った体を冷ましていると、浴場の敷地の片隅にひっそりと石碑(写真下)が建っているのに気がつきました。石碑には「皇太子殿下御渡渉記念」の文字が。昭和天皇が皇太子時代にこの地を訪れたことを記念し、建立されたものです。何の手入れもされておらず、ほったらかしのままですが、碑が残っていること自体が貴重です。同じ日本の統治を経験している中国や韓国では考えられないことです。尖閣諸島の領土問題でギクシャクしているとはいえ、台湾の対日感情の良さを象徴している石碑といえるかもしれません。滞在中歓待してくれた菜心のママ、そして、ドライバー役を務めてくれたママの弟さんをはじめ、本当に台湾の皆さんは暖かく接してくれました。心も体も芯から温まった台湾旅行でした。
2012年11月13日火曜日
豚の角煮と白菜 - 台湾紀行本編1

中華料理での豚の角煮と白菜の取合せはいかにも美味しそうですが、台北の故宮博物院でも最も人気の高い展示物が正にこの2つです。この角煮と白菜は、3階のギャラリー302、巧彫玉石コーナーに、並べて展示されており、人だかりが絶えることはありません。このコーナーの名称は、「天人合唱」。自然素材の色合いや形状などの特質を活かしながら、人の巧みを加えて、工芸作品を創り上げるという「自然と人の均衡と調和」が理念となっています。素材の玉石から得たインスピレーションも、天からの啓示として、作品の重要な一要素をなしており、天然素材、インスピレーション、人の匠みの技の三位一体が、この巧彫玉石を生み出すと説明されていました。まず、豚の角煮「肉形石」(写真上)ですが、素材は幾層もの模様が重なった碧玉類の鉱物です。創作者は、まずその表面に無数の穴を穿つところから作品作りを始めました。表面にびっしりと毛穴が配されたことにより、無機質な鉱物に有機的な息づきが与えられました。更に最上層をわずかに赤褐色に染めることで、醤油が浸みこんだ皮を表現しています。そこまで出来上がれば、その下の層は誰がみても、肉汁したたる赤身肉に脂肪がとろけている肉片そのものです。一方、白菜「翠玉白菜」(写真下)ですが、素材は白色と緑色が半分ずつ混ざった翡翠です。ただ、ところどころに亀裂があり、また、色がまだら模様となっている為、装飾品に加工するには欠陥が多すぎます。ところが、インスピレーションがこの欠陥を特質に変えます。創作者は、この石を白菜に見立て、亀裂は葉脈の一部とし、斑点を霜にあたった跡としました。上部両側面の緑の濃い部分は、イナゴとキリギリスを彫って、天然の色を活かしています。この置物は、清の第11代皇帝光緒帝(西太后の傀儡皇帝)の后妃、瑾妃の嫁入り持参品であり、白菜は純潔を意味し、2匹の虫は多産を祈念したものであると言われています。寓意まで与えられ、この工芸作品は完璧なものに仕上がったわけです。写真の上部にキリギリスが彫られていますが、実は、羽が両方とも半分のところでちょん切れています。折れてしまったにしては、切り口があまりに滑らかなので、最初から羽が切られた状態で彫られているようです。観賞用に飼育する為に、逃げたり喧嘩したりしないように羽を切っていたのかもしれません。あるいは、白菜から飛び立たないようにとの創作者の思いがこめられているのかもしれません。
故宮博物院でもうひとつ時間をかけて観たのは、「院本清明上河図」でした。これは、「とても素晴らしいから、絶対に観なきゃいけない」と菜心のママに無理やり連れていかれたものですが、大感動でした。これは、北宋の都開封の場内外の賑わいの様子を描いたものです。約12mの絵巻に当時の風俗が衣食住全ての面にわたって、実に細かい筆使いで克明に描きこまれています。汴河を下流から上流に遡り、ようやく城内に辿り着いた頃には、僅か11mを移動するうちに、上質の歴史長編映画を観終わったような軽い疲労感を覚えました。素晴らしい芸術作品であり、優れた風俗史料です。
このブログを書きながら、調べて判ったのですが、実はこの「院本清明上河図」は北京の故宮博物院所蔵の「清明上河図」の模倣本ということです。(題材を模倣したとはいえ、作品そのものはオリジナルに劣るものではありません。)また、上記の「肉形石」、「翠玉白菜」に北京の「清明上河図」を加えて、故宮博物院の三大至宝と称するそうです。菜心のママのお陰で、またしても、大変な贅沢な美術鑑賞をさせて頂きました。本当に「天人合唱」を地でいくようなインスピレーションに満ちた不思議な方です。(台湾紀行、更に続きます。)
2012年11月7日水曜日
菜の心 - 台湾紀行プロローグ
2度目の台湾旅行です。今回も菜心のママにお世話になりました。「菜心」という名の台湾料理のお店が大久保駅から小滝橋通りに抜ける路地裏にかつてありました。台北出身のママ1人できりもりしている目立たないこじんまりとしたお店でしたが、とても人気があり、10数名入って、満員状態の時も度々ありました。そんな時も、ママ1人で調理と給仕をこなし、その手際のよさは驚異的でした。どこから手に入れたのか、台湾独特の食材を調理してくれたり、日本では手に入らない果物をデザートに出してくれたり。料理の味・量・サービス全て満点の個人的には5つ星のお店でした。3年ほどお店を出した後、思うところがあったのか、店を譲って、台北に帰ってしまいました。しかし、その後も時々来日され、その度に、常連仲間と一緒にお会いし、楽しいお酒を飲ませてもらっていました。彼女は、台北市郊外の茶園農家の3男6女の次女として生まれました。祖先は100年以上前に福建省から台湾に渡り、南港包種茶を起こした由緒正しい家系の末裔であり、七代目にあたるそうです。名家とはいえ、当時の農家の暮らしは決して楽ではなく、彼女も靴を履かずに1時間程かけて山麓の学校に通っていました。途中、炭鉱があり、道に石炭ガラが転がっていて、足の裏が痛いのと、夏は焼けて熱いのには、往生したそうです。彼女は、走るのが得意で、4年生の時、学校の代表として台北市の大会に出場することになりました。晴れの舞台に裸足では可哀想ということで、お母さんが靴を買ってくれました。とても喜んだ彼女は、絶対に1位になろうと必死に駆けましたが、結果は2位。帰り道、泣きながら川で靴の汚れを洗い流し、来年こそ、この靴で1位になろうと心に誓ったそうです。そして、1年後、大切に大切にしまっていた靴をいざ履こうとしたら「足が大きくなっていて、入らなかったよ」破顔一笑、いつもの笑顔で語ってくれました。彼女の2足目の靴は、学校を出た後、家計を助ける為に町の工場で働き始めた際に買ったものでした。そこでの真面目且つ機転の効いた仕事振りが認められ、マレーシア工場に赴任。その後日本の会社に移り、そのまま、日本で暮らすようになりました。
お店を畳んで、ある程度の蓄えと共に故郷に戻った彼女ですが、農村独特の保守的な土地柄、周りは必ずしも温かく迎えてはくれませんでした。成功者へのやっかみもあって、口さがない噂を立てられたこともありました。そんな中で、彼女は、かつてお茶畑だった実家の周りを耕し、「菜心の菜園」と名付けた菜園(写真)を拓きました。食材(菜)の心を何よりも大事にした彼女が、今度は菜の心に耳を傾けながら、野菜を育てようというのです。(続く)
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