2009年1月25日日曜日

穏やかな日の出 - 熱海にて

この週末、中学時代のクラスメイト達と熱海への温泉旅行を楽しみました。 それぞれ家庭持ちの6人が40年前の「××ちゃん、xxクン」に戻っての2日間でした。カラオケで南沙織、ジュリー、郷ひろみ、野口五郎、Tulipといったあの頃の歌を熱唱して、海の幸に舌鼓を打った後は、トランプで「大貧民」。梅園を散歩しながらのたわいない会話。これといった特別なイベントがあった訳ではありませんが、とても豊かな週末でした。原色に彩られたあの頃の日々とは一味違った、淡いパステルカラーの、それでも、くっきりと縁取りのされた感じの穏やかな幸せな時間でした。
揺れ動く年頃の想い出を共有している友達と時を経て出会って、語り合う時間は、不思議と穏やかな気持ちになります。気負うこともなく、構えることもなく、それでいてなんとなくどこか浮き立って。
語り合うにつれ、中学時代の日々はキラキラと輝きを増していきます。くすんでいたはずの日々も、焦燥感や劣等感に苛なまれていたはずの日々も、きらめきに包まれたかけがえのない日々に変わっていきます。よく、過去は美化されるっていいますが、きっと時を積み重ねていく中で浄化あるいは純化されていくんだと思います。年を降るにつれ、物事のコアの部分がだんだんと見えてくるということがあります。表面のささくれ立った部分をそぎ落として、思い込みや決め付けをひとつひとつはがしていくと、最後に水晶のような透明でそれでいて硬質な存在感を有する過去が残るものです。それは決して美化する作業ではなく、本来美しかった日々の本質部分を結晶させていく純化の過程だと思います。
「華麗なるギャツビー」の著者スコット・フィッツジェラルドの小説に「乗継ぎまでの3時間(Three Hours between Planes)」という短編があります。中年のセールスマンが、中学時代を過ごした街にたまたま立寄り、飛行機の乗継までの3時間に、昔憧れていた女の子に電話をかけて、既に結婚している彼女の家に押しかけます。初めは彼を歓待していた彼女でしたが、昔のアルバムを見ながら話しているうちに彼が自分が記憶していた(同名の)憧れの男の子と別人であることに気づき、急によそよそしくなって彼を追い出すという話です。小説は「人生の後半は、色々なものを失っていく長い過程である」という半ば諦めを込めた彼の言葉で締め括られています。思うに、喪失の過程は押し留めることは出来ないとしても、純化の過程を加えることで、人生は随分豊かなものになるのではなかと思います。 純化を手伝ってくれる友は大事にしなければいけませんし、そんな友との時間を少しでも多く持ちたいものです。
写真は、宿泊したホテルのベランダから見た相模湾の日の出です。美しくたなびく東雲(しののめ)に向かって鏡のように穏やかな海を出航していく小さな釣り船。まさに、そんな2日間でした。クラスメイトに感謝。毎日がこんな一日の積重ねになればと願っています。

0 件のコメント: