2013年1月21日月曜日

敗者なき戦い ‐ 高校サッカー決勝戦

大雪の為1週間延期された高校サッカー選手権決勝戦は、1月19日グラウンドやスタンドの一部に雪が残る国立競技場で開催されました。出生地の宮崎と大学時代を過ごした京都という両方所縁のある県代表の戦いとなりましたが、今回は準決勝で魅せられたブラバンと仙頭君に惹かれて、京都橘の応援団席で観戦させてもらいました。試合は大方の予想通り攻撃力に勝る京都橘が押し気味にゲームを進め、仙頭君と小屋松君の絶妙なコンビネーションで鵬翔の鉄壁の守備陣を切り裂き、先取点と勝越し点を決めます。しかし、鵬翔は高さを活かしたセットプレーからのヘディングでのゴールと強引なドリブルからのPKで追いつきます。延長戦はさすがに両者ともに足が止まり、攻めに決め手を欠いたままホイッスル。決着はPK戦へ。PK戦では往々にしてヒーローが外したりするものです。米国W杯でのバッジオ、シドニー五輪での中田英・・・。今大会の得点王で最も輝いていた仙頭君が京都橘の最初のキッカーとして蹴りましたが、スピードを抑えて右隅を狙いすましたシュートは、無情にもポストに跳ね返され、PK失敗。もう数センチ内側であったら、ゴール内に跳ね返っていたであろう際どいボールでした。結局この失敗が両チーム唯一のPK失敗となり、優勝の栄冠は鵬翔へ。PK戦が続いた今大会を象徴する幕切れでした。センターサークルから勢いよく飛び出す鵬翔イレブン、その脇で膝から崩れ落ちる京都橘イレブン。PK戦の間は両チームのフィールドプレーヤーはセンターサークル内に留まらなければならないというルール故に繰り広げられるセンターサークル内のドラマです(写真)。
CKをゾーンで守る京都橘の陣形を見て全員で飛び込む戦術でゴールをもぎ取った鵬翔の執念、強引過ぎるほどのドリブルでゴールマウスに突き進んだ迫力も見事でした。そして、6試合中4試合をPK戦でしぶとく勝利し、栄冠を勝ち得たのは精神的強さがあってこそであり、讃えられるべきであると思います。但し、サッカーに技術点、芸術点があったならば、京都橘の圧勝。京都橘の美しいサッカーは敗者という言葉にそぐわないものでした。決勝戦は、延長戦で決着がつかない場合は両校優勝でいいのではないか。心からそう思った敗者なき決勝戦でした。

2013年1月13日日曜日

「楽しもう!」 ‐ 高校サッカー準決勝

新春の陽光が眩しい国立競技場。絶好のサッカー観戦日和でした。第1試合の鵬翔(宮崎)vs星稜(石川)は星稜が先行しては鵬翔が追いつくという息詰まる展開。結局2-2の同点でPK戦へ。本大会準決勝までの46試合中そのほぼ3分の1にあたる15試合がPK戦での決着となっています。鵬翔自体も5試合中実に3試合PK戦での勝ち上がりで決勝に進出することになりました。大会の過密日程を考えると、1回戦からの延長戦導入は難しいかもしれませんが、せめて準々決勝からは延長戦を導入出来ないものでしょうか。(高校サッカー選手権は、準々決勝まで試合時間40分ハーフ、準決勝から45分ハーフとなり、延長戦は決勝のみ。)PK戦の間、両チームのフィールドプレーヤーは、キッカーを除き、センターサークル内に留まっていなければならないというルールがあります。このルールのおかげで、センターサークル内のドラマが繰り広げられることになります。PK戦決着の瞬間、センターライン上に膝から崩れ落ちたのは黄色いユニフォームの星稜の選手達。センターサークルから両手を挙げながら勢いよく飛び出していったのは鵬翔の選手達でした。
第2試合は、勢いに乗るダークホース京都橘が優勝候補桐光学園を圧倒した試合でした。体を張った粘り強い守備でゴールに鍵を掛け、高い位置からのプレスでボールを奪取して鋭いカウンターを仕掛け、3-0の快勝。司令塔仙頭君(写真右下のキッカー)のパスワークが冴えわたりました。サッカーセンス・技術ともに素晴らしい選手です。京都橘で仙頭君にも増して魅了されたのが、応援のブラスバンド(写真中央)。全日本マーチングコンテストで金賞を受賞したこともある吹奏楽部だけに、演奏は見事でした。スウィング・ジャズの定番「シング・シング・シング」は鳥肌ものでした。今大会の応援リーダー遠藤選手(G大阪)のメッセージは「楽しもう!」京都橘はピッチ上の選手も、スタンドの応援団も精一杯楽しんでいたように思えました。「サッカーを楽しんでやることが一番!それがすべてにつながる。」(遠藤保仁)

2013年1月5日土曜日

2013年 ‐ 現実に向い合う長い道のり

年末に続いて映画「レ・ミゼラブル」を観ました。前回は、とにかく音楽に圧倒され、ストーリー展開や映像の細部にこだわる余裕がなかったので、今回はじっくり観ようと、ポップコーンも控えて臨みました。前回観終わって胸に残ったのは、感動を超えた「切なさ」。今回、登場人物それぞれを追うことで、その「切なさ」の正体が判りました。主要な登場人物の殆どが、その夢や希望を叶えることなく、命を失っていく物語なのです。そして、その他の名もないキャスト達は夢とか希望を抱くことさえも許されない境遇にあります。まさに、小学生の時に読んだ原作の邦題「あゝ無情」。全編にわたって流れる「I Dreamed a Dream」は、スーザン・ボイルのカバー曲で有名です。「夢やぶれて」と意訳されていますが、「夢をみていただけ」と訳した方が、その絶望感がより正しく表現されるように思えます。この曲が象徴しているように、救いようがない物語なのですが、最後は、舞台ミュージカルのフィナーレに倣って、登場人物がみんな生き返って力強く「民衆の歌」を合唱します。「♪夢見た明日は必ず来る」と。そして、昂揚感にくるまれた切なさを胸に映画館を後にする訳です。
元旦にも、同じ切なさを感じながら国立競技場を後にしました。2013年は、J2でもがきながらも、ACLでアジアチャンピオンを目指すガンバ大阪を期待していました。それが、天皇杯決勝での余りにも惨めな敗戦。ACLという夢を失い、ガンバ大阪は、J2での昇格を義務付けられた厳しい戦いという現実を直視し、1年を過ごすことになります。ガンバ残留を表明している遠藤(写真:天皇杯決勝、CKに向かう遠藤)と今野は、J2でのJ1昇格争いに心身ともに消耗しながら、W杯代表メンバーへの生残りというもうひとつの戦いをも勝ち抜いていかねばなりません。2人の代表落ちは想像しにくいかもしれませんが、J2で戦いながら代表でのコンディションを維持していくのは決して簡単なことではないと思います。レ・ミゼラブルの冒頭の曲「Look Down」のように足下のみを見据え、現実と向かい合っていく切ない戦いが続くのです。
ガンバの戦いは、2013年の日本を象徴しているようにも思えます。明日を楽観していた間に山積した問題に、今こそ向かい合わざるを得ない状況を日本は迎えています。現実を直視し、日々の戦いに専念し、着実に勝ち点を重ねている地道な長い道のり。眼前に伸びるぬかるんだ泥の坂道を上っていけるのか。日本人の真価が問われます。


2013年1月1日火曜日

元旦はここから ‐ 天皇杯決勝

新年明けましておめでとうございます。今年も年始は、ここ、国立競技場からです。凛と澄み渡った冬空に穏やかな陽光が満ち、絶好のサッカー日和です。スタンドを埋める青と黄色のコントラストがやや色褪せた緑のピッチに映えます。柏サポーター席の一角には、約100人の上半身裸サポの肌色エリアが。クラブW杯の昂奮を知ってしまった両チームサポーターにとっては、天皇杯優勝という栄誉に加え、クラブW杯出場の前提条件となるACL出場権がかかっている大事な試合であり、応援は否が応でもヒートアップします。
前半は圧倒的なガンバペース。J2降格したリーグ戦の不振が嘘のように、ワンタッチでの細かいパス回しの連続でゴールに迫ります。しかし、それも柏の先制点が決まる前半35分まで。先制されたとたんに、緊張の糸がチームの絆の糸とともにプツリと切れてしまいました。不振は不信につながります。リーグ戦でのチームに逆戻りしたガンバ。味方からのパスを信じられない選手達の足は止まり、味方の動きを信じられない選手達は一人でつっかけては柏の守備陣にボールをからめとられます。選手交代も、機能していたサイドの倉田と二川を下げるなど、松波采配は意図不明。前半から水野をスパッと替えてチームに喝を入れたメッセージ性の高い選手交代采配のネルシーニョとは好対照でした。後半は、勝ちへの執着を思い出せず、ただ淡々と試合を進めるガンバと、勝ちを意識して早くから守りに入ったレイソルが、きっちり噛み合ってしまった盛上りを欠いた寂しいゲームでした。サッカーの素晴らしさと感動を伝える場が元旦の天皇杯決勝ならば、サッカーの怖さと残酷さをさらけ出すのも天皇杯。ガンバのACLでの劇的な復活の夢はあっけなく潰えてしまいました。最後の夢を砕かれ、負けることが許されないJ2での厳しい戦いのみが残されたガンバの1年が幕を開けます。様々な意味で厳しい現実に向き合わなければならない今年の日本に相応しい幕明けだったのかもしれません。

2012年12月16日日曜日

魂の伝道師、ゴン引退に寄せて

ゴンこと中山雅史が、現役引退を発表してから早や10日余り。新潟の反町姫はもうショックから立ち直ったかなと案じるこの頃です。この話題はもっと早く取り上げなければいけなかったのですが、さすが「中山隊長」です。正直、手に余りました。調べれば調べるほど凄いプレーヤーでした。2つの世界記録(ギネスブック記録)保持者です。4試合連続ハットトリック(1998年Jリーグ)。国際試合最短ハットトリック(2000年ブルネイ戦3分15秒)。Jリーグでは、シーズン最多得点、通算最多得点、J1最年長出場記録。そして、日本代表のW杯での初ゴール。その初ゴール直後に、骨折していたにも拘わらず、最後まで走り切ったエピソードが自ら語るように、記録にも記憶にも残る選手でした。むしろ、その数々の記録が霞んでしまうほどの強烈なインパクトを残しながら、走り続けたきたプレーヤーでした。Jリーグ発足時から一緒にサッカー界を牽引してきた三浦知良が「King Kazu」と呼ばれて孤高の存在なのに対して、中山雅史は「中山隊長」「ゴンちゃん」とサポーターから本当に愛されてきました。サポーターと一緒に踊るゴンダンスに象徴されるように、スタンドにまで魂を注入できる稀有な存在でした。写真は、2002年日韓W杯の時のものです。予選リーグ第2戦ロシア戦、1点リードの後半27分、満を持してゴンが投入されます。場内はナカヤマコールの合唱でボルテージが一気に上がり、最小得点リードでの重苦しいムードが吹き飛ばされます。ピッチ、スタンド一体となり、そのままロシアの猛攻をしのぎ切って、見事W杯初勝利を手にします。ゴンの魂注入が大きく寄与しました。
筑波大卒業後ヤマハ発動機に入社。ヤマハ発動機サッカー部(後のジュビロ磐田)が初年度Jリーグ加盟チームの選から漏れた際、エスパルスからの誘いを断ってヤマハに残留するなど男気の強い人物であり、以後、ジュビロ一筋のサッカー人生でした。しかし、2009年シーズン終了時にジュビロから戦力外通知とともにスタッフでの残留を要請された際には、現役続行を優先し、ジュビロ退団を決意します。しかし、移籍先のコンサドーレでは、膝の怪我もあり、満足な結果を残すことが出来ず、今回の現役引退に至りました。「いい時に引退した方がいいと考える人もいますが?」という質問に「僕の場合は、自分の『いい時』がいつだったのかわからない。いつも『もっと上に行けるはず』と思っていたわけで」と答えています。本人も認めている通り「下手くそ」で足元の技術は決して上手いものではありませんでした。(「利き足は?」の質問に「頭」と答えています。)ただ、ゴール前での消える動き、ボールを受ける体の角度など、あらゆる面で成長し続けたプレーヤーでもありました。フランスW杯時の盟友、山口素弘も「30歳過ぎて技術的にうまくなった選手は他にいない」と語っています。
日本サッカー史に大きな足跡を残した選手ですが、最も大きな功績は、性別年齢を問わず多くの人に愛され、サッカーファンの層を飛躍的に広げたということだと思います。反町姫もその中の一人です。「ゴンちゃんがいなければサッカーを好きになっていたかどうかわからない。キャプテン翼の読者で終わっていたはずでした。」というメールを頂きました。サッカーの伝道師であり、サッカーを通じて人々に勇気を与え続けたアスリートでした。「今後しばらくの肩書は?」との質問に「評論家というのがあるんだったら、情熱家でもいいんじゃないですか?サッカーに対する情熱と、そこにかける意気込みは一生変わりませんから。」
情熱家ゴンにはタイムアップのホイッスルはありません。

2012年12月2日日曜日

北投温泉 - 台湾紀行本編2

台北市街から車で30分程北上したところに「新北投温泉( シンベイトウ ウェンチュエン)」があります。北投温泉の歴史は古く、1896年に最初の温泉旅館「天狗庵」が開設され、日露戦争の際には日本軍傷病兵の療養所が設置されています。日本統治時代は隆盛を極め、芸者の置屋が軒を並べ、「台湾の熱海」と呼ばれていました。戦後も温泉街として人気が高く、最近では、日本の老舗有名旅館「加賀屋」も進出しています。町の中心に位置する親水公園の中に水着で入る露天風呂があり、また、高級温泉旅館の日帰り入浴を楽しむという手もありましたが、今回は、町の銭湯ともいうべき「瀧乃湯(ロンナイタン)」(写真上)に向かいました。
1907年に開業した瀧乃湯は、築105年。建物は殆ど増改築が行われておらず、日本統治時代の面影をそのまま留めています。番台のおじさんに90元(約300円)を払って、男湯の引き戸を開けると、なんとそこはいきない浴槽。洗い場の端に踏み板が2枚敷いてあり、そこで脱衣して、お風呂に入ります。踏み板の真ん中では、小太りのおじさんが子供用のスポンジマットの上で体をペチペチ叩いています。いかにも地元の常連さん達の視線を浴びながら、浴槽にそろそろと足から入ると、予想外の熱湯。硫黄臭の強酸性のお湯はそれだけでも肌を刺すのに、まさに痛みをともなう熱さ。思わず「あち~っ」と悲鳴をあげると、ゴマ塩頭のおじいさんが、相好をくずして「アツイ、アツイ」と日本語ではやしたてます。熱い温泉では湯船の中で体を動かしてはいけないというのが鉄則ですが、ついつい手で煽ぐような仕草をしてしまいます。その度に「ほぅ、ほぅ」とゴマ塩頭が隣で揺れます。
早々に浴槽から退散し、浴場の外のベンチで火照った体を冷ましていると、浴場の敷地の片隅にひっそりと石碑(写真下)が建っているのに気がつきました。石碑には「皇太子殿下御渡渉記念」の文字が。昭和天皇が皇太子時代にこの地を訪れたことを記念し、建立されたものです。何の手入れもされておらず、ほったらかしのままですが、碑が残っていること自体が貴重です。同じ日本の統治を経験している中国や韓国では考えられないことです。尖閣諸島の領土問題でギクシャクしているとはいえ、台湾の対日感情の良さを象徴している石碑といえるかもしれません。滞在中歓待してくれた菜心のママ、そして、ドライバー役を務めてくれたママの弟さんをはじめ、本当に台湾の皆さんは暖かく接してくれました。心も体も芯から温まった台湾旅行でした。

2012年11月13日火曜日

豚の角煮と白菜 - 台湾紀行本編1

中華料理での豚の角煮と白菜の取合せはいかにも美味しそうですが、台北の故宮博物院でも最も人気の高い展示物が正にこの2つです。この角煮と白菜は、3階のギャラリー302、巧彫玉石コーナーに、並べて展示されており、人だかりが絶えることはありません。このコーナーの名称は、「天人合唱」。自然素材の色合いや形状などの特質を活かしながら、人の巧みを加えて、工芸作品を創り上げるという「自然と人の均衡と調和」が理念となっています。素材の玉石から得たインスピレーションも、天からの啓示として、作品の重要な一要素をなしており、天然素材、インスピレーション、人の匠みの技の三位一体が、この巧彫玉石を生み出すと説明されていました。まず、豚の角煮「肉形石」(写真上)ですが、素材は幾層もの模様が重なった碧玉類の鉱物です。創作者は、まずその表面に無数の穴を穿つところから作品作りを始めました。表面にびっしりと毛穴が配されたことにより、無機質な鉱物に有機的な息づきが与えられました。更に最上層をわずかに赤褐色に染めることで、醤油が浸みこんだ皮を表現しています。そこまで出来上がれば、その下の層は誰がみても、肉汁したたる赤身肉に脂肪がとろけている肉片そのものです。一方、白菜「翠玉白菜」(写真下)ですが、素材は白色と緑色が半分ずつ混ざった翡翠です。ただ、ところどころに亀裂があり、また、色がまだら模様となっている為、装飾品に加工するには欠陥が多すぎます。ところが、インスピレーションがこの欠陥を特質に変えます。創作者は、この石を白菜に見立て、亀裂は葉脈の一部とし、斑点を霜にあたった跡としました。上部両側面の緑の濃い部分は、イナゴとキリギリスを彫って、天然の色を活かしています。この置物は、清の第11代皇帝光緒帝(西太后の傀儡皇帝)の后妃、瑾妃の嫁入り持参品であり、白菜は純潔を意味し、2匹の虫は多産を祈念したものであると言われています。寓意まで与えられ、この工芸作品は完璧なものに仕上がったわけです。写真の上部にキリギリスが彫られていますが、実は、羽が両方とも半分のところでちょん切れています。折れてしまったにしては、切り口があまりに滑らかなので、最初から羽が切られた状態で彫られているようです。観賞用に飼育する為に、逃げたり喧嘩したりしないように羽を切っていたのかもしれません。あるいは、白菜から飛び立たないようにとの創作者の思いがこめられているのかもしれません。
故宮博物院でもうひとつ時間をかけて観たのは、「院本清明上河図」でした。これは、「とても素晴らしいから、絶対に観なきゃいけない」と菜心のママに無理やり連れていかれたものですが、大感動でした。これは、北宋の都開封の場内外の賑わいの様子を描いたものです。約12mの絵巻に当時の風俗が衣食住全ての面にわたって、実に細かい筆使いで克明に描きこまれています。汴河を下流から上流に遡り、ようやく城内に辿り着いた頃には、僅か11mを移動するうちに、上質の歴史長編映画を観終わったような軽い疲労感を覚えました。素晴らしい芸術作品であり、優れた風俗史料です。
このブログを書きながら、調べて判ったのですが、実はこの「院本清明上河図」は北京の故宮博物院所蔵の「清明上河図」の模倣本ということです。(題材を模倣したとはいえ、作品そのものはオリジナルに劣るものではありません。)また、上記の「肉形石」、「翠玉白菜」に北京の「清明上河図」を加えて、故宮博物院の三大至宝と称するそうです。菜心のママのお陰で、またしても、大変な贅沢な美術鑑賞をさせて頂きました。本当に「天人合唱」を地でいくようなインスピレーションに満ちた不思議な方です。(台湾紀行、更に続きます。)

2012年11月7日水曜日

菜の心 - 台湾紀行プロローグ

2度目の台湾旅行です。今回も菜心のママにお世話になりました。「菜心」という名の台湾料理のお店が大久保駅から小滝橋通りに抜ける路地裏にかつてありました。台北出身のママ1人できりもりしている目立たないこじんまりとしたお店でしたが、とても人気があり、10数名入って、満員状態の時も度々ありました。そんな時も、ママ1人で調理と給仕をこなし、その手際のよさは驚異的でした。どこから手に入れたのか、台湾独特の食材を調理してくれたり、日本では手に入らない果物をデザートに出してくれたり。料理の味・量・サービス全て満点の個人的には5つ星のお店でした。3年ほどお店を出した後、思うところがあったのか、店を譲って、台北に帰ってしまいました。しかし、その後も時々来日され、その度に、常連仲間と一緒にお会いし、楽しいお酒を飲ませてもらっていました。
彼女は、台北市郊外の茶園農家の3男6女の次女として生まれました。祖先は100年以上前に福建省から台湾に渡り、南港包種茶を起こした由緒正しい家系の末裔であり、七代目にあたるそうです。名家とはいえ、当時の農家の暮らしは決して楽ではなく、彼女も靴を履かずに1時間程かけて山麓の学校に通っていました。途中、炭鉱があり、道に石炭ガラが転がっていて、足の裏が痛いのと、夏は焼けて熱いのには、往生したそうです。彼女は、走るのが得意で、4年生の時、学校の代表として台北市の大会に出場することになりました。晴れの舞台に裸足では可哀想ということで、お母さんが靴を買ってくれました。とても喜んだ彼女は、絶対に1位になろうと必死に駆けましたが、結果は2位。帰り道、泣きながら川で靴の汚れを洗い流し、来年こそ、この靴で1位になろうと心に誓ったそうです。そして、1年後、大切に大切にしまっていた靴をいざ履こうとしたら「足が大きくなっていて、入らなかったよ」破顔一笑、いつもの笑顔で語ってくれました。彼女の2足目の靴は、学校を出た後、家計を助ける為に町の工場で働き始めた際に買ったものでした。そこでの真面目且つ機転の効いた仕事振りが認められ、マレーシア工場に赴任。その後日本の会社に移り、そのまま、日本で暮らすようになりました。
お店を畳んで、ある程度の蓄えと共に故郷に戻った彼女ですが、農村独特の保守的な土地柄、周りは必ずしも温かく迎えてはくれませんでした。成功者へのやっかみもあって、口さがない噂を立てられたこともありました。そんな中で、彼女は、かつてお茶畑だった実家の周りを耕し、「菜心の菜園」と名付けた菜園(写真)を拓きました。食材(菜)の心を何よりも大事にした彼女が、今度は菜の心に耳を傾けながら、野菜を育てようというのです。(続く)

2012年10月29日月曜日

Nanami's Eye - ザックジャパン5つの課題

元日本代表10番、名波浩。いまやセルジオ越後とのダブル解説が定番となり、中継の中で「ナナミ、・・・・。名波さん」と判を押したように、セルジオ越後から呼捨てにされた後、取ってつけたような「さん」づけをされて呼ばれています。しかし、解説の的確さは、セルジオ越後をはるかに凌ぐレベルに達しています。Sportiva Web版「名波浩の視点」でも、欧州遠征2連戦で浮かび上がってきたザックジャパンの課題を「世界に勝つために必要な『5箇条』」として、的確に判り易くまとめています。多少乱暴に要約すると以下のようになります。
 1.「ここで取りに行こう」「ここは止まっておこう」というメリハリのある守備
 2.攻撃時のボランチの豊富な運動量と決断力
 3.カウンターの際のスピードと判断の速さ
 4.シュートの意識
 5.時間帯によって変化をつけたサッカー
名波が提起したザックジャパンの課題について、考えてみました。まず、4つ目の課題として挙げられたシュートの意識は、以前からの課題ですが、最近は随分改善されてきたのではないでしょうか。自己犠牲が称賛される日本では(それが日本の強みでもありますが)、ゴール前でシュートよりパスを選択するFWや、前線からの守備に疲れ果てて、いざシュートという時にパワーが残っていないFWも評価されますが、欧州リーグでは、とにかくゴールという結果が全て。そんな環境でもまれた本田や岡崎、そして、香川は、シュートへの意識が飛躍的に高まり、それが代表全体に浸透しつつあります。
その他の課題は、「勇気ある決断」「判断の速さ」「変化をつけたゲームコントロール」というキーワードに集約できると思いますが、いずれも次元の高いテーマであり、これらが課題に挙げられていること自体に、名波が、日本代表の急速な成長と現代表のポテンシャリティの高さを評価していることが、示されています。
悩ましいのは、第2の課題として挙げられているボランチの攻撃力です。名波は、遠藤・長谷部のダブル・ボランチをブラジルのボランチ、パウリーニョとラミレスと比較していますが、むしろ、自らの現役時代と重ねて、理想のボランチ像をイメージしているのかもしれません。欧州の一流リーグでは、もはや守備的MF=ボランチという言葉は死語になろうとしています。中央スペースを上下動して守備・攻撃両面での起点となるという、サイドバックの中央版ともいうべき、セントラルMFが主流となりつつあります。このポジションは、なでしこでいえば、澤穂希ですが、サムライ・ブルーの場合人材を欠きます。遠藤・長谷部に今以上の運動量と攻撃力を望むのは酷でしょう。唯一可能性があるのは、本田のボランチへのコンバート。本田がジェラードをイメージしたプレーをし、遠藤が守備面でカバーすれば、中央のスペースが埋まります。両翼の内田、長友をハーフに上げ、香川トップ下、岡崎、前田のツートップという3-4-1-2の変形3-4-3の布陣は、世界と戦う為に完成させなければならないザックジャパンのオプションではないでしょうか。

2012年10月23日火曜日

帰ってきたウルトラマン ‐ 拓郎復活

(注)本ブログの内容には、コンサートでの演奏曲及びMCの内容等ネタばれの情報が含まれています。これからコンサートに行かれる方は、この点、ご承知の上、お読みください。・・・拓郎が3年振りにステージに戻ってきました。3年前、コンサートツアーを途中で中止し、以来ライブから遠ざかっていた拓郎の満を持しての復活ライブです。その間に2枚のニューアルバム(除くライブアルバム)をリリースし、坂崎幸之助とのオールナイトニッポンGoldでの掛合いは絶好調。「完全復活」が問われる今回のコンサートツアー初日、東京国際フォーラムAホールでした。
アラカン世代にとって、ウルトラマンと並ぶ絶対的なヒーローである拓郎も66歳。心身ともに体調が懸念される中、本人のみならず、観客にとってもどこか落ち着かない開演の瞬間でした。緊張のオープニング曲は、何と「♪ドゥ~ビ ドゥビ ドゥビ エマニエ~ル」映画エマニエル夫人のテーマ曲でした。先日逝去したシルビア・クリステルへの追悼曲。これで会場の緊張を緩めた後、実質的なオープニング曲「ローリングストリートキャフェ」。そして、その後に掟破りの逆サソリ、何と「落陽」。会場、戸惑いながらも総立ち。普通であれば終盤近くまで温存しておくべきこの歌を出だしにもってきて、いきなりトップギアにシフトしたのを、拓郎はこんな風に語っていました。「エンディング曲を歌ってしまいましたので、後のステージはオマケみたいなものです。皆さん、ご自由にご歓談下さい。僕は、勝手にステージで歌っていますので・・・」拓郎らしいジョークですが、多少なりとも本心だったと思います。3年振りのステージ、しかも、前回は途中で体調を崩しての中止。声は本当に出るんだろうか?会場の雰囲気に馴染んで、のっていけるのだろうか?不安だらけの手探りのステージだったと思います。だからこそ、のっけから伝家の宝刀「落陽」で自らと会場のテンションをピークに持っていったのではないでしょうか。(ちなみに、拓郎は、ラジオの中で、「『落陽』は出だしを歌えば、後はファンが勝手に後を歌ってくれるからこれほど楽な曲はない」と語っていました。)コンサートの中盤で「いい曲なのに、どうしても気持ちがこもらない曲がある。気持ちが乗らないから、演奏もドタバタになる。聴いてみたい?時間つぶしで」と、歌い出したのが「ふゆがきた」。加藤紀子への提供曲です。かなりの拓郎マニアでなければ、知らないと思います。案の定、会場は、ちょっと白けた雰囲気に。これは拓郎もこたえたんじゃないかな。その後は更にペットボトルを口にする回数が増えました。しかし、拓郎はやっぱり拓郎。ギターを両手で鷲づかみにし、仁王立ちで声を絞り出すようにして歌ってくれた「流星」「外は白い冬の夜」には魂が揺さぶられました。66歳が歌う「リンゴ」に青春の甘酸っぱい香りを感じました。昔は、むしろ抑えて歌うことで逆に感情のほとばしりを増幅させて伝えていた拓郎が、今は、絞り出すような歌声そのものに自然に全てが込められているような純化・昇華を感じました。また、最初にグッと盛り上げておいて、最後はしっとりと余韻を残して終わるという構成は、平均年齢60歳前後の観客層には十分アリだったと思います。青春時代の恋人に30年振りに出会ってお話ししたような何かぎこちない雰囲気でしたが、ヒーローがヒーローだったことを再認識し、素晴らしい齢の重ね方をしていることを確認することが出来たコンサートでした。5,000分の1の拍手ではありましたが、僅かでも拓郎にエールが届いたかなと・・・。貴重なチケットを割いて、コンサートに誘って頂いたDr. Steveには大感謝。ラストの「外は白い雪の夜」は、内田篤人とY子さんに聴かせたあげたかった・・・。