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2013年12月8日日曜日

The Golden Slumbers - M君に捧ぐ

以前にも書きましたが、Facebookを始めてからBlogの書込みがめっきり減ってしまいました。呟いてしまったことで、何となく心に貯めたものが吐き出され、Blogに想いが込められないということもあります。しかし、この1ヶ月はとても感慨深い出来事が多かったので、反芻しながら、書き残しておこうと思います。
11月18日Paulが東京ドームにやって来ました。さすがに声の伸びと艶には衰えが感じられたものの、アンコール曲の最後にシャウト系のHelter Skelterをもってくるなど、古希を超えているとはとても思えないエネルギッシュな3時間休みなしの圧巻のステージでした。もちろん、Paulの公演は、楽しみにしていたのですが、さらにもうひとつの想いがありました。実は、直前に会社の後輩のM君が突然あの世に旅立ってしまったのです。彼とは、ビートルズのコピーバンドのライブハウス「Abbey Road」仲間でもありました。彼は、「Golden Slumbers」が好きで、いつもリクエストするのですが、彼がいる時に限って演奏されないという残念な巡り合わせの曲でした。今回のPaulのステージで、M君への追悼歌として是非歌って欲しいと願っていたわけです。しかし、残念ながら最後まで演奏されませんでした。この曲は他の3曲とメドレーとなっている為、演奏に約6分を要し、アンコール曲には向きません。やはり、アンコール曲は福島の被災者に贈る「Yesterday」とまさかの「Helter Skelter」。やっぱりダメだったかと諦めていましたが、奇跡が起きました。開演後3時間近くにもなろうかというのに、2度目のアンコールに応じてPaulが再びステージに。キーボードの前に座ったPaulが歌い出したのです。「♫Once there was a way・・・」涙が滲んできました。Paul、奇跡をありがとう。
もう一つ、心に沁みた曲、「Blackbird」。長女が好きな曲でもあります。Paulのアコースティックギターでの弾き語り曲です(写真)。♫Blackbird fly, Blackbird fly. Into the light of the dark black night・・・.
傷ついた鳥に、暗闇の中のほのかな灯りに向かって飛びたてと呼びかけます。Blackbirdは黒歌鳥との和名通り、美しい歌声の小鳥です。Paulはステージでこの歌をこう紹介していました。「60年代の米国で、とても苦しんでいる人たちが立ち上がろうともがいていることをニュースで知ったんだ。公民権運動だった。僕は苦しんでいる人たちに少しでも希望や勇気を与えることが出来ればと思って、この曲を書いた。」

M君は、やんちゃな天使が地上に迷い込んでしまったような、純真で、真っ直ぐな性格の人物でした。こよなく、だんじり祭を愛し、故郷岸和田を愛していました。乾いた東京での暮らしは彼にとっては時にして辛いものだったのかもしれません。魂が解き放たれて、懐かしい故郷の上空であのはにかんだ笑顔を振りまいていることを祈るばかりです。)。♫Blackbird fly, Blackbird fly. Into the light of the dark black night・・・.

2013年9月8日日曜日

祝!東京五輪2020

2020年東京に五輪が戻ってきます。今から49年前の1964年、高度成長期の真っ只中とはいえ、まだまだ戦後を引きずり、みんなが等しく貧しい時代でした。カラーテレビが普及し始めていたとはいえ、多くの家庭ではちゃぶ台の前に白黒テレビが鎮座していた時代でした。ちゃぶ台の上では、アルミ鍋からおでんの湯気が立ち上り、親父は、一升瓶から二級酒を湯呑みに注いでは、茹で落花生をツマミに、舌鼓を打っていました。TVでは、東洋の魔女が回転レシーブを繰り返し、チャフラフスカが躍動していました。アベベの哲人のような風貌と円谷の精根尽き果てたゴールをテレビは見事に映し出していました。重量挙げの三宅、体操の小野、遠藤。そして、世界の凄さを思い知らされたジャボチンスキーとヘーシンク。あの時の映像は、今でも脳裏に鮮明に残っています。あのいつまでも色褪せない日々を、子供たちに味あわせてあげられると思うと、2020年五輪招致成功は本当に快挙だと思います。
ただ、喜んでばかりはいられません。これは、復興への道筋を掲げて支持を得た東京の世界へのコミットメントでもあります。世界への約束実現に向けたカウンターは既に動き始めているのです。7年後には、立派に復興を果たした東北を世界の人々に見てもらわなければなりません。また、7月~8月の開催スケジュールを考えると、現在悪化の一途を辿っているヒートアイランド現象にストップをかけることも急務です。そして、まずは、安倍総理が明確に約束した福島第一原発の放射線問題を早急に解決しなければなりません。五輪は、東京という都市のプロジェクトではありますが、日本が国家として明確な目標設定を行う絶好の機会となりました。前回の東京五輪は、世界に追い付き、世界に踏み出す象徴的なイベントでした。7年後の東京五輪は、世界に日本人の「絆」を示し、スポーツを通じての「絆」というオリンピックの本来の意義を思い起こさせる大会となればと思います。

2013年6月9日日曜日

Oの悲劇

5月23日国立競技場。藤田俊哉送別試合。至福の時間でした。現役時代いつもTV画面のどこかに顔を見せていた俊哉が、現役さながらの運動量で走り回り、ウルトラマン並みに3分間限定でピッチに立ったゴンが、予告通り、俊哉にアシスト。(「俊哉にはいつもアシストしてもらっていたので、最後は俊哉のゴールをアシストしたい」試合前のインタビュー。)ハーフタイムのカズとのパス練習をはじめ、ゲーム中もカズにボールを集めるなど、妙にカズに気を使っていたヒデなど、見所満載の本当に楽しいゲームでした。その中でも、クライマックスは10数年ぶりのN-Box(名波を中心にMF5人がサイコロの5の目状に配置されたジュビロ磐田最盛期の布陣。週刊サッカーマガジンが名波のイニシャルから命名)。福西が名波を追い越し、俊哉が並走。福西の抜けたスペースを服部がカバー。名波を中心に幾何学模様を描くような見事な流動性は健在。もっとも、服部はかなり体が重そうでしたが。そして、寂しかったのは、N-Boxの一角の奥大介がいなかったこと。すね当てが出るほどソックスを下げて、チョコチョコ走り回っていた奥は、紳士の多いジュビロのプレーヤーの中で珍しいトラブルメーカーでした。レフリーに注意されてソックスを一旦は上げるものの、すぐにずり下がり、再度注意されては、レフリーに逆に食ってかかる。小柄で童顔の容貌も相まって、憎めないキャラクターでした。
その奥が今回の事件。残念です。サッカー選手のみならず、仕事と家庭を両立させなければならないのは、世の常。ただ、この2つは微妙な関係で、トレードオフの関係であったり、どちらかがうまくいかないと他方に連鎖したり。体調不良でサッカーの世界を離れざるをえなかった(FC横浜のテクニカルアドバイザーを辞任)奥の無念さは、推し量るだけでも胸が痛みます。だからこそ尚更家庭に安らぎを求めようとしたのでしょう。自らの存在価値を見つけようとしたのでしょう。その過剰な気持ちが悲劇につながったのかもしれません。
写真は、送別試合でスタンドに投げ入れられた紙吹雪替わりのサックスブルーのメタルテープです。新潟に反町姫から分けて頂きました。裏に俊哉の直筆で書かれていた文字は「サッカー楽しいです‼」あのドリームチームのメンバーには、いつまでも楽しさの連鎖を紡いでいて欲しかった。

2013年5月6日月曜日

沈まぬ太陽 ‐ 祝!長嶋茂雄国民栄誉賞受賞

「4番サード長嶋」30年振りのアナウンスに胸が熱くなりました。TVにかじりついて長嶋の一挙手一投足に心躍らせ、銭湯では3番の下足札を奪い合い、雨でナイターが中止になった日には、溜息ばかり出て、宿題も手につかなかったあの頃。高度成長期の日本は長嶋とともにあり、長嶋は昭和の人々の生活と完全に同期していました。長嶋は太陽そのものであり。そのまばゆいばかりの光に勇気づけられ、そのほとばしる熱に活力を得て、みんながひたむきに生きていたあの頃でした。国民栄誉賞受賞は当然といえば当然であり、遅きに失した感があります。そんなヒーローも2004年に脳梗塞で倒れた後は、右半身の麻痺と言語障害の後遺症が残り、表舞台からは遠ざかっていました。授賞式でも、右手は終始ズボンのポケットに収められたままでしたし、始球式ではバットに添えることも出来ませんでした。右足を引きずるようにして歩む姿にはさすがにかつての躍動感はありませんでしたが、すっと背筋が伸びた打席での立ち姿には紛れもなくスーパースター長嶋のオーラが漂っていました。そして、左手1本で空振りした後の悔しがる表情はやっぱりミスター。沈まぬ太陽がそこにありました。大観客の前でスピーチを行い、バットスイングを出来るまでに回復した裏には、文字通り血のにじむようなリハビリを通じての壮絶な後遺症との闘いがあったとのことです。(脳梗塞で倒れた直後は、もう立つことも話すことも出来ないと医師に診断されていたそうです。)我らがヒーロー長嶋は、汗をほとばしらせて、まだ戦っている。そして、我々を励まし続けている。

2013年3月18日月曜日

Destiny - フランクフルト空港での遭遇

理由(わけ)あってオランダに来ています。多少気の重い仕事です。ということで、オランダに向かう飛行機の中では、映画を楽しむことなく、英文資料を読むという羽目になってしまいました。乗継ぎのフランクフルト空港で、寝ぼけ眼(まなこ)で入国審査に並んでいると、隣の列に大きなマスクをつけた日本人男性がいました。顔半分がマスクで隠れていましたが、ちょっと薄茶色の瞳にはどこか見覚えが。まさかと思いつつ列を移って、マスクの男性に「失礼ですが、名波さんですか?」やや間があって、観念したように「はい、そうです。」そこで、「フランスW杯からのファンです。クロアチア戦に応援に行きました。もちろん、引退試合にも行きました。」と、畳み掛けて退路を防ぐことに成功。「今回はブンデスリーガ観戦ですか?」「いや、ミラノの長友に会いに」「怪我は大丈夫なんですかね?」「大丈夫みたいですよ」と、前振りが終わって、これからという時に、入国審査の係員が「Next!(っぽいドイツ語)」取り敢えず、名波さんを先に通して、入国審査が終わるのももどかしく、後を追って、何とかツーショットの写真を撮って頂くことができました。
ところが、モニターに写真を映し出してみると、名波の爽やかで精悍な顔の隣に、如何にも徹夜明けといった感じの、眼鏡がずり落ちて、怪しい笑顔のオジさんが・・・。憧れのレフティーに会えて、言葉を交わすことが出来ただけでも良しとしなければいけないのですが、折角ツーショットを撮らせてもらったのに、誰にも見せられないような写真とは、あまりに無念です。
松任谷由実の曲に「Destiny」という名曲があります。荒井由美ファンとしてはアルバム「14番目の月」までの感性あふれる曲に圧倒的に共感し、松任谷由実の曲には何か作られた人工的なものを感じてしまい、どうしても感情移入しにくいところがあります。しかし、この「Destiny」と「潮風にちぎれて」だけは、荒井由美本来の私小説的な香りを感じ、とても好きな曲です。2つとも失恋の曲で、歌詞に「サンダル」が出てくるのは、偶然の一致でしょうか。
ともあれ、乗継ぎまでの3時間、フランクフルト空港のコーヒーショップで、何度も写真を見直しながら、知らず知らずのうちに口ずさんでいました。「♪どうしてなの 今日に限って 安いサンダルをはいてた (今日わかった) むなしいこと 結ばれぬ 悲しいDestiny」

2013年2月11日月曜日

Made in Japan - 小樽にて

NHKのTVドラマ「メイド・イン・ジャパン」は見ごたえのあるドラマでした。欲をいうならば、3話完結にせず、せめて1シーズン12回の連続ドラマとし、もう少し時間をかけてじっくりと見せる展開にして欲しかったということでしょうか。日本のモノづくりとは何だったのか、メイド・イン・ジャパンの凋落は何故起こったのか、今や日本の市場から脅威へ変貌した中国とどのように向き合っていくべきなのか。色々考えさせられたドラマでした。場面場面に散りばめられた昭和の香りも郷愁を誘ってくれました。太田裕美の歌う「タクミ電機社歌」。舌足らずの歌声、懐かしく耳に残りました。
ところで、この週末、小樽に行って来ました。小樽運河の南に広がる石造りの倉庫群は、おしゃれなガラス細工やオルゴール工芸のお店に生まれ変わり、女性に人気の高い観光スポットとなっています。写真は、その街並みの中心に位置するメルヘン交差点に立つ高さ5.5mの蒸気時計です。15分おきに汽笛で時を告げます。後ろの煉瓦造りの建物は小樽オルゴール堂。店内には無数のオルゴールが並び、繊細な音色を奏でていました。メルヘン交差点の北側には北一硝子直営のガラス細工店、地酒店、カフェなどが軒を並べています。北一硝子は1901年創業の老舗で、もともとは石油ランプのメーカーです。今でもランプの製造は続けており、電気の通じていない秘湯の宿や山小屋ではお馴染みのブランドです。現在では、高級グラスからアクセサリー、ステンドグラスなどのインテリアまで様々なガラス製品を製造・販売しています。北一硝子のグラスはすべて職人の手作りで、一つ一つが微妙に色合いが異なり、その匠の技は感嘆のため息を誘います。オルゴールにせよ、ガラス細工にせよ、メイド・イン・ジャパンの根底にある職人の「美と品質へのこだわり」を感じさせます。また、この小樽という観光スポットそのものが、100年以上前の歴史と伝統の建造物の中に最先端の技術やセンスを綺麗に収めたメイド・イン・ジャパンの神髄を感じさせます。小樽では、欧米やアジア諸国からの多くの旅行客を見かけました。彼らにとって小樽はとても居心地の良い「日本らしい日本」なのでしょう。今回訪れた札幌、定山渓、小樽。どの土地の人達も、とても親切でした。「Hospitality=おもてなし、一期一会」の心もメイド・イン・ジャパンです。
実は、小樽オルゴール堂は、親会社のブルーハウスがバブル崩壊後の経済不況の中で1997年自己破産した際、連鎖倒産をしましたが、存続を望む多くのファンの後押しを受けて、会社更生法の下再建を果たしたという歴史があります。失われた20年間、日本はコスト競争に身を擦り減らせてきましたが、日本の職人の美や品質へのこだわり、そして、日本人のHospitalityこそ、世界に通用し、世界で求められているものなのではないでしょうか。メイド・イン・ジャパン復活のヒントを小樽で垣間見たような気がします。

2013年1月5日土曜日

2013年 ‐ 現実に向い合う長い道のり

年末に続いて映画「レ・ミゼラブル」を観ました。前回は、とにかく音楽に圧倒され、ストーリー展開や映像の細部にこだわる余裕がなかったので、今回はじっくり観ようと、ポップコーンも控えて臨みました。前回観終わって胸に残ったのは、感動を超えた「切なさ」。今回、登場人物それぞれを追うことで、その「切なさ」の正体が判りました。主要な登場人物の殆どが、その夢や希望を叶えることなく、命を失っていく物語なのです。そして、その他の名もないキャスト達は夢とか希望を抱くことさえも許されない境遇にあります。まさに、小学生の時に読んだ原作の邦題「あゝ無情」。全編にわたって流れる「I Dreamed a Dream」は、スーザン・ボイルのカバー曲で有名です。「夢やぶれて」と意訳されていますが、「夢をみていただけ」と訳した方が、その絶望感がより正しく表現されるように思えます。この曲が象徴しているように、救いようがない物語なのですが、最後は、舞台ミュージカルのフィナーレに倣って、登場人物がみんな生き返って力強く「民衆の歌」を合唱します。「♪夢見た明日は必ず来る」と。そして、昂揚感にくるまれた切なさを胸に映画館を後にする訳です。
元旦にも、同じ切なさを感じながら国立競技場を後にしました。2013年は、J2でもがきながらも、ACLでアジアチャンピオンを目指すガンバ大阪を期待していました。それが、天皇杯決勝での余りにも惨めな敗戦。ACLという夢を失い、ガンバ大阪は、J2での昇格を義務付けられた厳しい戦いという現実を直視し、1年を過ごすことになります。ガンバ残留を表明している遠藤(写真:天皇杯決勝、CKに向かう遠藤)と今野は、J2でのJ1昇格争いに心身ともに消耗しながら、W杯代表メンバーへの生残りというもうひとつの戦いをも勝ち抜いていかねばなりません。2人の代表落ちは想像しにくいかもしれませんが、J2で戦いながら代表でのコンディションを維持していくのは決して簡単なことではないと思います。レ・ミゼラブルの冒頭の曲「Look Down」のように足下のみを見据え、現実と向かい合っていく切ない戦いが続くのです。
ガンバの戦いは、2013年の日本を象徴しているようにも思えます。明日を楽観していた間に山積した問題に、今こそ向かい合わざるを得ない状況を日本は迎えています。現実を直視し、日々の戦いに専念し、着実に勝ち点を重ねている地道な長い道のり。眼前に伸びるぬかるんだ泥の坂道を上っていけるのか。日本人の真価が問われます。


2012年5月28日月曜日

バラの恋人

サントリー烏龍茶のCM。宮崎あおい扮する綺麗なお姉さんにほのかな恋心を抱く少年。毎朝出会う坂の上の横断歩道で、少年は思い切ってバラの花束を渡そうとしますが、お姉さんにすっとかわされてしまいます(フェイント篇)。翌日少年はすれ違いざまに花束をお姉さんに放り投げます。思わず受け取めて「困った子だな」とつぶやくお姉さん(パス篇)。BGMで流れているのがザ・ワイルドワンズの「バラの恋人」。1968年のヒット曲です。実力派ながら華やかさに欠けていたザ・ワイルドワンズがジュリー、ショーケンに対抗するアイドルとしてチャッピーこと渡辺茂樹を加入させ、そのヴォーカルデビューがこの曲でした。「♪いつでも逢うたびに 君の返事を 待ってるのに また今日も いつでも逢うたびに 君のひとみを 見つめるのに わからないの」もどかしく、切ない歌詞ですが、それでいて恋の成就を予感させるところに、昭和の香りが漂います。写真は、ホームパーティにご招待頂いたNさんのお庭のバラです。毎年バラが盛りを迎えるこの時期にお招き頂いていますが、今年は特に色鮮やかな大輪の花をつけているように感じました。肥料に改良を加えて、今年はなかなかの出来栄えとのことでした。手間をかけないと綺麗な花が咲かないのがバラで、綺麗なバラほど大事に育てないと花をつけてくれません。写真の中央に薄紫のバラが一輪俯きがちに咲いていますが、とても弱くて難しい花だということでした。如何にも繊細で気品漂う青みがかった薄紫の可憐な花でした。「♪髪がゆれて バラのくちびる すねてるようなとこも 好きなのさ」

2012年5月6日日曜日

カーネーション

「母の日を 待たず召されし 空は眩く」
母が逝去しました。享年84歳と天寿を全うした生涯でした。しかし、半生は病気との闘いで、天寿を全うできたのは、本人の愚直なまでの生きることへの努力と多くの方々の支えの賜物だったと思っています。最期も、危篤状態に陥ってから、半日頑張り続けました。心臓は、リズムを失いながらも早鐘のような鼓動を繰返し、人工呼吸マスクの中で、喘ぐように必死に酸素を吸い込もうとしている様は痛々しいものがありました。見るに見かねて、父は耳元で「よう頑張った。もう無理せんでいいよ」と繰り返していました。
母は、日本統治下の台湾で生まれ、海軍関係の技術者の娘として、比較的恵まれた少女時代を送っていましたが、敗戦により、全てを失い、着の身着のままで日本に引き揚げてきます。引揚げ直後に一家の大黒柱である父をも失い、家族7人のそれ以降の苦労は想像に難くありません。結婚後もいくつかの病や怪我に悩まされ、決して、平坦な人生ではありませんでした。しかし、そんな苦労が顔に表れない人でした。いつも穏やかな笑顔をたたえ、寡黙ではありましたが、何故か人から慕われる人でした。実直そのもので、最後までやり遂げなければ気が済まない性格でした。最後の最後まで頑張り抜いて、自らの生き方を貫き通した生涯でした。立派な一生であり、親孝行出来なかったことを悔いつつも、母はきっと幸せな生涯だったと振り返りながら、旅立っていったと信じています。
最近、「幸せは『なる』ものではなく、『気づく』もの」という言葉に出会いました。母を偲びつつ、改めてこの言葉を噛みしめています。

2012年3月26日月曜日

田中達也ストーリー

「達也引退」と言っても、我が家の愛車達也号(写真)の引退です。浦和の田中達也選手が代表デビューした当時に購入し、「達也号」と名付けました。本人同様小さな体で切れ味鋭く動きまわり、よく頑張ってくれましたが、終始、怪我(擦り傷、へこみ)に悩まされたのも本人譲り(?)でした。7年間の酷使で、さすがにガタがきたようなので、かなり気にいっていたのですが、買い替えることにしました。最初に乗った赤いシティ以来ホンダ製の車一筋でした。その中でも、このジャパン・ブルーのシビックは一番思い入れのある車でした。週末の富士へのラストランも良く走ってくれました。ホンダの国際戦略車だったシビックも、国内向け生産は既に2年前に終了し、38年間の歴史に幕を閉じています。我が家の愛車の引退も時代の流れと言えます。後継は、2012年代表ユニフォームカラー、ディープブルー(赤線は入っていません)の「(香川)真司号」となり、今週末納車の予定です。
さて、田中達也。大好きなプレーヤーです。山口県から名門帝京高校にサッカー留学し、入学当初は、周りの選手と自分の能力の差に絶望感を味わったと語っています。全国から集まったエリート集団の中で、小柄な体故に劣等感に苛まれたことは、想像に難くありません。しかし、彼は、得意なドリブルに活路を見出そうと日々ドリブルの練習に励み、2年時にレギュラーを獲得し、エースとして、チームを高校サッカー選手権準優勝に導いています。2001年浦和レッズ入団。2003年ナビスコ杯MVP、ニューヒーロー賞ダブル受賞。2004年アテネ五輪代表を経て2005年からA代表に召集、と順調すぎるステップアップでしたが、小柄なドリブラーの宿命で、ファウルを受けて負傷することも多く、2006年以降は怪我の治療などでシーズンの半分以上を欠場しています。期待されてのA代表デビューを考えると、国際Aマッチ16試合出場、3得点の記録は残念でなりません。メキシコ五輪当時の杉山隆一以来、好きなプレーヤーは、小柄でスピード豊かなウィンガータイプでした。吉原宏太、坂田大輔、石川直宏、佐藤寿人、田中達也・・・。消えていった日本代表スピードスターの系譜でもあります。そして、ダイナミックな攻撃が身上の浦和レッズでさえパスサッカーを志向し、コンパクトな守備が全盛の時代、ドリブラーが輝きにくい状況にあることも確かです。その中で、FC東京の石川が復活しつつあります。一人ワンツーのような球足の長いドリブルでピッチを切り裂く様は、デビュー当時からのファンとして爽快そのものです。田中達也にも輝きを取り戻して、代表に復帰し、石川とともに、後半25分のジョーカーとして活躍して欲しいと願っています。

2012年3月2日金曜日

Kopi Luwak - サッカー代表戦

インドネシアのコーヒーといえば、トアルコ・トラジャコーヒーが有名です。トラジャコーヒーは、第二次大戦前はオランダ王室御用達に指定されるほど評価の高いコーヒーでしたが、戦後のインドネシアの独立に伴い、オランダ人が去った為、衰退。それを再興させたのが、日本企業キーコーヒーでした。キーコーヒーは「幻のコーヒー、トアルコ・トラジャ」とのキャッチコピーで販売しています。そのトラジャ以上に希少価値が高いのが、コピ・ルアク。ジャコウ猫の糞から採れる未消化のコーヒー豆を焙煎したものです。バリ島のコーヒー農場で試飲する機会に恵まれました。雌のジャコウ猫から採れる豆は平べったくてカフェインが高く、雄のは豆が丸くて味が濃い。左が雌、右が雄から採れたコーヒー。でも、真ん中奥のシャーベット状のアイスコーヒーが一番美味しかったように思います。ちなみに豆のお値段は100g約1万円也!! ジャコウ猫腸内の消化酵素によりコーヒーに独特の香味が加わるといわれており、コーヒー豆の香りはかなり魅惑的でしたが、味の方は多少クエッションでした。
さて、男女日本代表2連戦の29日は、出張先の米国フェニックスにおりました。「日本代表ウズベキスタン戦ライブ中継」と銘打たれたユーストリームをネットで視聴する為に夜中に起きましたが、パブリックビューイングのライブ中継で、ピッチの映像は一切無し。お笑い芸人が画面を眺めながらひたすら「イケー」「惜しい」「危ねえ」と絶叫。さすがにあほらしくて、途中で寝ました。でも、他のゲストが大量点での勝ちを予想する中で、次長課長の河本は、0-1での日本の負けもあり得ると予想しており、ちょっと見直しました。後でYouTubeのハイライトだけみると、日本も決定機を再三作ったものの、ウズベキスタンの絵に描いたようなカウンターに沈んだゲームのようです。香りはそこそこだが、味はイマイチといった試合でした。ただ、これで北朝鮮戦に続き、2連敗。さすがに問題です。一方、なでしこは、先行されながらも、泥臭く逆転勝ち。これが、W杯Best16のチームと世界を制したチームとの違いでしょう。

2012年2月6日月曜日

雪の世界から - U-23シリア戦

毎年冬にはYMO(Yuki-Mi-Onsen)と称して、雪の秘湯を訪れる旅をしています。今年は福島復興支援がテーマで、Project名はFunky Sky。喜多方ラーメンを味わい、会津日中温泉でのYMOを満喫し、智恵子の「ほんとの空」を福島が一日も早く取り戻すことを祈念しようという趣旨です。今回は、更に会津若松で冠雪の鶴ヶ城を眺めることが出来ました。土曜日午後から夜半まで降り続いた雪は、景色をすっかり変え、一夜明けて晴天となった日曜日はまさに「雪の世界」が一面広がっていました。雪の壁の間を車が雪を撥ね上げながらノロノロと走ります。人が通るべき側道は雪に埋もれ、車のみが移動の手段となっています。民家の屋根には雪が1m近く積り、至る所で雪下ろしが行われていました。スコップやスノーダンプなどで少しずつ雪を下に落としていく地道な作業を延々と続けなければなりません。若い働き手がいない過疎地では、お年寄りにとって辛く、また、危険な作業でもあります。舞う雪に包まれての日中温泉ゆもと屋での露天風呂は正に極楽でしたが、帰りの送迎バスの中から眺めた雪景色の美しさの下での生活の過酷さには言葉を失いました。喜多方駅に着いてみると、会津若松までの列車は午前中運休。夕方からの出張の為に何としても11時の新幹線に乗らなければならず、タクシーで会津若松まで。運転手さんの機転で会津若松より郡山に近い無人駅の東長原駅に。線路とホーム前方は除雪されていたものの、駅標は写真の通り雪に埋れておりました。
当日夜のU-23シリア戦の結果は、出張先の香港でインターネットで知りました。試合のハイライトはYouTubeで観ました。ホテルのTVでは同グループのバーレーンvsマレーシアのゲームが流れていました。日本の試合のリメーク版の様にマレーシアも折角追いつき、押し気味に試合を進めながら、終了間際にDFが足を滑らせて失点し、2-1の敗戦。権田のミスともいえる2失点といい、気の重くなるシーンでした。引分けでいいところを守り切れなかったシリア戦には、あのドーハの悲劇が重なりますが、決定的に異なるのは、これが最終戦では無いということです。「五輪出場権自力獲得消滅」との新聞見出しもありましたが、これは誤りで、たとえシリアに及ばなくとも、2位同士の闘いを勝ち抜き、セネガルとの大陸間プレーオフに勝てば、ロンドンへの切符を自力で手にすることが出来るのです。雪の壁に怯むことなく、確実に除雪しながら前に進んで行くことが、若きサムライブルーには必要です。そうすることで、このチームに一番欠けている精神的な足腰の強さが確実に鍛えられるはずです。

2012年1月21日土曜日

O君のクロール

正月休みからジョギングを始めました。そのせいか、体が若干軽くなったような気がします。一方で、このところ何かと気が重い出来事が続き、ブログの筆が進まず、すっかり間が空いてしまいました。そこで、2週間ほど前にフェイスブックに書き込んだ昔の思い出話を再掲させて頂きます。小学校時代の思い出です。小学校の級友にO君という寡黙で内気な少年がいました。どちらかというと、いじめられっ子でした。彼も僕同様泳ぎが苦手で、平泳ぎもままならず、犬かきで泳いでいました。そんな彼も夏休みの特訓の成果で、犬かきで25mを泳げるようになりました。担任の先生が彼の努力をホームルームで褒め、みんなも拍手で彼を讃えました。ここまでならば、ちょっとイイ話。ところが、同じホームルームでクラス対抗水泳大会の選手を選ぶことになり、自由形の泳ぎは何でもいいとの話から彼が自由形のクラス代表に選出されてしまいました。子供の無邪気な惨酷さです。O君は、それ以来、顔を時々水につけながら犬かきをし始めました。その方が少しは速く泳げると考えたのでしょう。でも、息継ぎの苦手なO君は、水から顔を上げる度にとても苦しそうに顔をゆがめていました。
水泳大会当日。きれいに晴上がった夏の終わりの日でした。泳ぎ自慢の他のクラスの選手達が、体をへの字に折って綺麗に飛び込む中、O君は、倒れこむ様にお腹を水面に打ちつけて、スタートを切りました。浮かび上がったO君の泳ぎに僕達クラスメイトは息を飲みました。彼は、いつもの犬かきではなく、何とクロールで泳ぎ始めたのでした。他のクラスからは爆笑が起こりました。それは、クロールというには、余りにもぶざまな泳ぎでした。右手が大きく湾曲して、歪んだ顔とともに高く持ち上がり、最後は力尽きた様に大きな音をたてて、水面に沈んでいきました。そして、左手は申し訳程度に肘と手首だけが水面に顔を出しました。バタ足はてんでバラバラで、不揃いな間隔で大きな飛沫をはね上げていました。他の選手達が泳ぎ切った後も、彼はまだプールの真ん中にいました。ほとんど溺れかけていながらも、少しずつ前には進んでいました。そのうちに「O、頑張れ」という先生の声援をきっかけに女の子達が「Oクン、頑張って」と口々に応援し始めました。ただ、僕達男子は何かとてつもなく大きなものを感じて、言葉が出ませんでした。それは、揺さぶられるような想いでした。ただ、感動というには不純過ぎ、悔しさや恥ずかしさがないまぜになった想いでした。何とかゴールに辿り着いたO君は、拍手の中でニコリともせず、ふくれっ面のまま、じっと秋色が漂い始めた真っ青な空を見上げていました。僕の記憶はそこで途切れています。あの時の僕が、プールから上がって来たO君に何と声を掛けたのか、どうしても思い出せません。

2011年11月19日土曜日

Golden Slumbers - 浜名湖でのクラス会

写真は海外のリゾート地のように見えますが、浜名湖湖畔のホテルのベランダからのショットです。左下がプール、その先の2つの水面はゴルフ場の池、一番上の水面が浜名湖です。ここ数年恒例になった高校のクラス会を今回は首都圏と関西の中間、浜松で行いました。理数科という当時出来て間もないクラスで3年間を一緒に過ごしたクラスメイト達です。教室で雑巾を丸めて室内サッカーをやったり、トランプを何回没収されても性懲り無くナポレオンをやっていたりで、「史上最低の理数科」とか「天然記念物」とかいう有り難くない称号を頂いたクラスでした。しかし、大変な人材の宝庫だったということが、今になって判ります。卒業後30年を過ぎた頃から頻繁に再会を重ねるようになったのは、単に懐かしさ故だけではなく、出会いによってチカラをもらえるが故だと思います。
Golden Slumbersというビートルズ末期の曲があります。同名の邦画のテーマ曲にもなりました。11枚目のアルバムAbbey Roadに収録されています。このアルバムは「昔に戻って、またコンサートツアーをやろう。昔のようにオーバーダブをせずに曲を作ろう」というポールの呼びかけで「昔に戻る」ことをコンセプトに製作されたものです。しかし、既にメンバーの気持ちはバラバラ。実際、このGolden Slumbersのレコーディングにはジョンは参加していません。この曲の歌詞は16世紀の子守唄がベースになっていますが、ポールはオリジナルの歌詞でこう始めています。「Once there was a way to get back homeward(かつては家に戻る道があった)」残念ながらポールの呼び掛けは功を奏さず、まもなくビートルズは解散することになります。そういえば、最後のアルバムLet It Beの最後の曲もGet Backでした。時の流れに抗して昔に戻る(=Get Back)ということは不可能なのでしょう。時とともに全てが変化します。想い出以外は。人は美しい想い出に戻ろうとしますが、既に戻る場所は失われているのです。ただ出来ることは、想い出を重ねていくこと。そして、同じ想い出を作り、分かち合っていける仲間がいることは何よりも幸せです。「あの日」には帰れませんが、今日をその「あの日」に変えることは可能なのです。
写真の右上で輝いているのは生まれたての朝日です。ホテルの部屋の中では、齢を重ねてちょっと髪の毛が薄くなったオジサン達が、前日の夜更けまでの宴会疲れでGolden Slumbers(黄金のまどろみ)の真っ只中にいました。

2011年10月6日木曜日

巨星逝く

Apple信者ではありません。どちらかというとSony派でした。iMacよりもVAIOでしたし、iPodではなく、律儀にWalkmanを使い続けていました。映画Social Networkでは、ザッカーバーグがパソコンを使うシーンにはVAIOのロゴがしつこく映り、Macはちらっと映った後に無残に机に叩きつけられて壊されてしまいます。実際にザッカーバーグが使っていたのはMacであり、さすがに、Sony Picturesも大人げないなとは思いました。ただ、短い期間ではありますが、Silicon Valleyで暮らした人間にとっては、Appleは特別な会社でしたし、Steve Jobsは別格な存在でした。当時、東海岸でIBMマシーンへの服従を誓わされた人間にとって、西海岸で初めて触れたMacは扱いにくいペットのように感じました。確かに何かと可愛い気があって、気が利くのですが、ちょっと気分を害すると爆弾マークでフリーズしてしまう。そこには、東海岸のEstablishmentに対抗するSilicon Vallayの文化の香りが詰め込まれていました。そして、その象徴であり、光を発していたのがSteve Jobsでした。パーソナルコンピュータを生み出しながらも、自らその終焉を予言して、iPhone、iPad、iCloudを世に送り出すことで、それを実証しました。自ら生み出したものまで破壊し、変革を求め続けたその姿勢は壮絶でもありました。正に、スタンフォードでの伝説のスピーチ「Stay Hungry, Stay Foolish」を実践する生き様でした。
Walkman愛好家であった私としては、Walkmanが後発のiPodに取って替わられるのを苦々しく思っていました。しかし、今にして思うと、Walkmanが根本的にはラジカセの手のひらサイズへの小型化に過ぎなかった(勿論、おかげで私達の日常は飛躍的に音楽に満たされることになりましたが)のに対し、iPodはインターネットに更に命を吹き込み、ライフスタイルやエンターテインメント産業の在り方そのものを変革するものでした。Steve Jobsの見据える射程は、我々よりもずっと彼方の水平線に向けられていました。PC時代に自らピリオドを打ったSteve Jobsの瞳には、どのような未来が広がっていたのでしょうか。そして、そのビジョンを誰が引き継ぐことになるのでしょうか。逝去する前日にリリースされたiPhoneの新モデルはiPhone 5ではなく、iPhone 4Sでした。Silicon Valleyでは、4SはFor Steveと読むと言われているそうです。Silicon Valleyは健在です。写真はAppleのホームページのものです。Steve Jobs 1955 -2011のキャプションのみがつけられています。彼を語るには言葉はいらないということでしょう。

2011年9月19日月曜日

がんばってる?日本

先日、多摩川のグラウンドで試合をしていた少年野球チームのヘルメットに、写真のステッカーが貼ってありました。もともと日本野球機構が発案したもので、プロ野球12 球団のヘルメットに貼られているステッカーです。観光庁が作成した桜と日の丸をアレンジした「がんばろう、日本」は国内旅行振興キャンペーンで使用されています。
至るところで展開されている「がんばろう!日本」「がんばろう!東北」キャンペーンですが、一方で、京都の五山送り火で陸前高田の松材の薪の使用が中止されたり、愛知県日進市の花火大会で東北復興支援と銘打ちながら福島で製造された花火の打上げが中止されたりと、ある種のクレーマーとそれに押し切られてしまうことなかれ主義は、図らずも、「がんばろう」の掛け声が掛け声のみで終わってしまう危うさを露呈してしまいました。鉢呂前経産大臣の「死の町」発言は、悪気はなく、単にボキャブラリーと思慮の不足によるものですが、その両者とも政治家には必須の資質です。「放射能つけちゃうぞ」に至っては、オフレコ状況でのおふざけとはいえ、緊張感の無さはそれだけでこの非常時の大臣としての資格無しです。首相の所信表明演説での野次も同様です。非常時の緊張感の無さは目を覆うばかり。政治家を育ててこなかったツケががここにきて回ってきています。
周りで復興の為に頑張っている方はたくさんいます。ただ、「がんばろう!日本」の掛け声の下に日本は本当に頑張っているんだろうか。「団結力」や「献身」の精神は、なでしこやサッカー日本代表だけの専売特許ではないはずなんですが・・・。

2011年8月27日土曜日

出会い - グラスとIn My Life

退職されるSさんの送別会。お花をあげるつもりでしたが、日頃使って頂けるものがいいと思い直して、デパートの食器売り場に。マグカップを探している最中にこのグラスに出会いました。なでしこを彫刻したグラスで、オンザロック用のオールドグラスと飲み口の広がったカップグラス(写真)の2タイプがあり、その名も「なでしこカップ」。底がほんのり撫子色に染まり、一目で魅せられてしまいました。女性にプレゼントするのはどうかなとかなり躊躇しましたが、結局は、この出会いを大事にしようと、群青色の包装紙に包んで、ピンクのリボンをかけてもらいました。Sさんとは30年近くお付合いさせて頂きましたが、考えてみると職場でご一緒したのは数年間で、残りの20余年間は、その時のご縁で年に数回楽しく会食させて頂く間柄でした。ビートルズの中期の楽曲に「In My Life」という人気の高い曲があります。「今まで様々な場所に行った。たくさんの友達や恋人と出会った。僕は時々そんな場所や友達のことを思い出す。彼らに対する愛情を失うことはない。でも、今は、君だけだ。これからの僕の人生で君をもっと愛していきたい。」といった内容の歌詞です。この歌詞はジョンが十代の頃を回想しながら書いた詩が原型になっているというだけあって、出だしは重厚で哲学的なのですが、最後は「I'll love you more.」とラブソングになってしまっています。ただ、このYouを、恋人の「君」ではなく、これまでの友達に対する「君達」という呼びかけだと解釈すると、とても奥深い歌になります。人生の様々な出会い、そして、出会った人々をもっと愛していこうという・・・。
Sさんからお礼のメールを頂きました。「頂いたグラスは大事に使います。グラスを使う度に、なでしこがW杯で優勝した2011年に退職したことを思い出します。」
♪ In my life, I'll love you more.

2011年8月19日金曜日

人生の意義 - タイ生保のCMから

前回ご紹介したタイ生命保険のCMは珠玉の名作揃いなのですが、その中でも、このMae Toi (トーイお母さん)が私の一番のお気に入りです。彼女は癌の為に余命2年の宣告を受けます。「私は幸せ。2年もあれば色々な事が出来る」彼女は、体や心に障害を負い、物乞いや盗みを行っていたストリートチルドレン達を引取り、一緒に生活を始めます。「人生の価値は、富や名誉ではない。長生きでもない。自分がどれだけ他の人にとって価値のある人間かということ、そして、誰かを価値のある人にしてあげたかということ」と子供たちに教えます。
定かではありませんが、実在のモデルがいるようです。彼女は100人以上の孤児を育て、寄付を募るために重度の癌患者でありながら、100㎞マラソンを完走したという話もあります。
人生は3分のドラマに圧縮できるものでは決してないし、人生のディテールの大切さを軽視するつもりは毛頭ありませんが、3分のドラマで表現できる人生は、とても幸せな人生なんだろうなと思います。

2011年8月14日日曜日

人を愛するということ - 話題のタイのCM


明治安田生命のCMは小田和正の歌が流れるだけでウルっときてしまいますが、それを超えるCMをタイの生命保険会社が製作していました。この生保会社は、毎年感動的なCMを製作しており、数多くの賞を受賞しています。今回のCMは特にドラマ性が強く、わずか3分の映像ですが、長編映画を観終わった後のような深い感動と心のざわつきを覚えます。(YouTubeのアイコンをクリックして再生して下さい。タイ語の音声が流れますので、音量にはご注意下さい。初めての映像の貼付けです。)
聾唖の父親と思春期の娘の話です。母親は死別してしまったのか、父一人娘一人の家庭です。娘は学校で「聾唖者の娘」とからかわれ、いじめを受けます。手話で明るく話しかけようとする父親に娘は心を閉ざします。「普通の父親が欲しかった。私の話すことを聞いてくれる父親が欲しかった。」娘の誕生日の夜、バースデーケーキを前に娘へのメッセージを一生懸命練習する父親。部屋から出てこない娘を不審に思って部屋の扉を開けると、そこには自殺を図った娘の姿が・・・。手首を血で染めた娘を抱えて、街頭で言葉にならない叫びをあげている父親の姿は、余りに残酷で正視出来ません。彼は、電話で救急車を呼ぶことも出来ませんし、手話を解する人がいなければ、娘を助けて欲しいという必死の思いを伝えることも出来ません。CMの中では、娘は無事病院に運び込まれ、最後はハッピーエンドで終わるのですが、もし、手遅れになってしまっていたらと考えさせられました。それはAnother Storyですが、娘は父親の深い愛情を理解しないまま、この世を去ってしまうことになります。その時、父親は何を思い、何を恨むのでしょうか。人を愛することができるという人間の美性がはらむ余りの惨酷さ。しかし、結局はAnother Storyは起こらないのだと決めつけるのはナイーヴ過ぎるでしょうか。報われない愛はあっても、理解されない愛はないと信じたいのですが・・・。

2011年8月9日火曜日

森下愛子、スポーツ界を語る

森下愛子(写真)という女優をご存知でしょうか。スレンダーな肢体に憂いを帯びた大きな瞳。小悪魔的な役と清純な役を両方こなせる女優でした。代表作は1978年に永島敏行と共演した「サード」。本名吉田佳代、拓郎の奥さんです。月曜10時からの吉田拓郎・坂崎幸之助のオールナイトニッポンゴールドでは、しばしば、拓郎から奥さんネタが披露されます。昨日の話は、森下愛子がスポーツ界を語るようになったという話。
もともとスポーツ音痴で、拓郎が野球やゴルフのTV中継を観ていても全くのってこず、唯一テニス中継で拓郎がお気に入りのウォズニアッキが出て来ると多少のジェラシーの表情を見せる程度だったそうです。ところが、昨年の南アW杯デンマーク戦の遠藤のFKに魅せられ、以来、熱烈なヤットフリークになってしまいました。1点目の本田のFKには反応せずに、遠藤のFKに感動したというのが面白いところです。1年前はオフサイドルールすら知らなかった森下さんが、遠藤の追っかけをするうちにすっかりサッカーに詳しくなり、今では拓郎に解説しながら試合を観ているそうです。得点シーンでは、その前のプレーに遡って、あのディフェンダーがルーズだったなどと解説しているとのこと。たいしたものです。その森下さんが最近はサッカー界を語り、スポーツ界を語り始めました。「なでしこの活躍で女子サッカーの試合に観客が入るようになったのは、今後のサッカー界全体にとって非常にいいこと」「なでしこの国民栄誉賞受賞で選手以外のスタッフまで対象になったのは、スポーツ界としてとても喜ばしい」などなど。1年前はスポーツの話題には全く興味を示さなかった女性が、今はスポーツ界について熱く語っているという変貌ぶりに、「それを惹き起こした遠藤選手は凄い」と拓郎は語っています。「ただし、嫉妬は感じてはいない」とも。
「ウチの奥さんは怖いんだよ」と照れつつも、本当に嬉しそうに奥さんの自慢話をする拓郎。病魔を2人で乗り越えてきた夫婦愛を感じます。